朝と昼間の寒暖差が激しく今日も日中は夏日となる。
洗濯物は良く乾いていたが一枚だけ乾いていなかった。
恥を忍んで白状するが私の「失禁パンツ」である。
ネットで買物をするなと散々夫から言われているけれど
つい衝動買いをしてしまったのは10日程まえだったろうか。
最初はLサイズを二枚購入したのだが小さ過ぎて履けなかった。
その時点で諦めるべきところを思い切って4Lを注文してしまったのだ。
それは直ぐに届いたのだが巨大としか言いようのない代物である。
けれども履いてみたらお腹まですっぽりと収まり丁度であった。
まさか4Lのパンツを履くようになるとは思ってもいなかったが
それならばどうして注文などしたのだろうと可笑しくてならない。
失禁パンツなので直に尿を吸収するしくみになっているようだが
私の場合は水分ケアのナプキンをいつも使用していた。
それでも激しく咳き込んだ時はズボンまで濡らしてしまうことがあった。
そんな時のための失禁パンツに他ならない。もうこれで安心と思う。
ごわごわした感じもなく履き心地もけっこういい感じである。
一枚しか買わなかったのでもう一枚注文しようと思った矢先だった。
洗濯物を畳んでいたら全体がしっとりしていて乾いていない。
特にパットの部分は濡れたままで不可解でならなかった。
おそらく生地の素材が悪いのだろう。吸水性はあるが速乾ではない。
ナプキンをしていなかったらと思うとぞっとしたのだった。
最初の二枚と合わせて三枚のパンツが無駄になってしまったようだ。
合計で三千円である。安いようでいてけっこう痛いものがある。
同年代の人に訊いたことはないが私の場合は異常なのではないだろうか。
テレビで水分ケアナプキンのCMをよく見かけるが
出演している女性はどう見ても50代にしか見えない。
まだ若くて溌溂としているのだ。尿漏れなどあるようには思えなかった。
でも店頭では少量から多量まで様々なナプキンが売られているのだ。
私も最初は5ccだったが今は50ccになっている。
それ以上の多量になるとお値段は倍以上に高くなるのだった。
だからこその失禁パンツであったが結果はこの有り様である。
咳さえしなければ尿漏れは殆どなかった。
じゃあ咳をしなければ良いのだがその為には煙草を止めなければならない。
「やはりそうなるか」とまたまた追い詰められてしまうのだ。
自業自得は留まることを知らない。とことん苦しめられるだろう。
もう新たに他の失禁パンツを探す気にはなれない。
高価でも多量用のナプキンを購入するしかないように思う。
私もとうとう「しょんべん臭いばばあ」になったようだ。
夜明けが随分と早くなり4時半にはもう辺りが白み始めている。
そうして早起きの燕たちが声を揃えて一斉に鳴き始めるのだった。
今朝は少し肌寒かったが日中は28℃まで気温が上がり暑くなる。
春はもう遠い処に行ってしまったのだろう。
指切りもしないまま別れてしまった。
今朝も母の遺影に願い事をしてから出勤する。
きっと母が助けてくれるに違いないと信じていたのだった。
闘病中もずっと仕事の事ばかり気にかけてくれていた。
今もはらはらしながら見守ってくれていることだろう。
山里の職場に着くとしっかりと義父の姿があった。
思わず「お母さんありがとうね」と心の中で呟く。
いきなりであったが宿毛市の外注先に義父と出掛けることになった。
急ぎの仕事だったので義父が動いてくれてどれほど助かったことだろう。
段取りもすべてしてくれて私は大船に乗ったような気分である。
その後もお昼までに検査をしてくれて無事に納車を済ませた。
昨日とは打って変わって目まぐるしいほどの忙しさであったが
嬉しくてならない。どんどん順調に仕事が片付いて行く。
午後はまた取引先に用事があり私一人で宿毛市へと走る。
一日に二度も宿毛市へ行くのは初めてのことだった。
大切な書類を預かり速達で高知市の代書事務所に郵送する。
これでやっと今週の仕事が無事に終わったのだった。
遣り切った感が半端ない。なんと心地よい達成感だろうか。
3時過ぎに退社。FMラジオからは浜田省吾の歌声が流れていて
うっとりと聴きながらなんだか涙が出そうになった。
男だとか女だとか恋だとか私には無縁のはずなのだけれど
切ない気持ちは幾つになっても変わらないのかもしれない。
私には私の鍵があるけれど時々何処かに置き忘れる。

4時半に帰宅。小学校の保健室の先生が来てくれていた。
あやちゃんがにこにこしながら話していてとてもほっとした。
気分転換になったのかその後も上機嫌で「今夜は何?」である。
「ポークステーキ」「ジャーマンポテト」「ちく胡」などなど。
胡瓜が好きなので「ちく胡」が嬉しかったのか笑顔で頷いてくれた。
あやちゃんにも鍵があるのだ。合鍵は誰も持っていない。
無理やりこじ開けるなどもっての外である。
鍵を掛けることで自分を守ろうとしているのだろう。
それは私も同じだった。けれども大人なので来るものは拒めない。
でも踏み荒らされるのは嫌である。なんとしても阻止したい。
日々ネット空間を彷徨っていると思いがけないことがいっぱいある。
心の琴線に触れるような出会いもあれば
逃げ出してしまいたいような出会いもあるのだ。
どれも縁なのに違いないがそこには安らぎが必要に思えてならない。
安らいでこその「ふれあい」なのではないだろうか。
爽やかな青空だったが強風が吹き荒れ嵐のような一日だった。
栴檀の木が風に煽られ薄紫の花がまるで雪のように舞う。
夜明け前にはホトトギスが頻りに鳴いていた。
鳴くのは雄だと云うから求愛の合図かもしれない。
それにしてもまだ外は真っ暗闇である。
「眠らない鳥」なのだろうか。いったい何時眠るのだろう。
日本では「夏告鳥」と呼ばれている。確かな夏の訪れであった。
義父が高知市へ出張。早朝5時に出掛けたようだ。
田んぼに行って不在なのとは何となく違う。
工場の仕事も一段落しており同僚と二人のんびりと過ごす。
来客は一人だけ。電話も一切掛かって来ない。
夏告鳥どころか閑古鳥が鳴いているようだった。
お昼もゆっくりと休み午後からものんびりしていたら
突然義父が帰って来て慌てふためいてしまった。
用事が済み次第とんぼ返りをしたらしい。
おそらく昼食も食べてはいなかっただろう。
トラクターの部品が届いており目を輝かせていた。
直ぐに修理に取り掛かり明日はまた田んぼに行ってしまうだろう。
明日は車検の予約が入っておりまた頭を悩ますことになりそうだ。
じたばたしても始まらない。なるようにしかならないのだと思う。

リハビリの日だったので3時前に退社。
病院で息子の元お嫁さんのお母さんに会った。
元気そうに見えたが「変わりないかね?」と声を掛けたら
ふっと暗い表情になり言葉を濁らせたので気になってならない。
余計なことにも思えたが「一人で抱え込んだらいかんよ」と告げる。
決して縁が切れたのではないのだ。私の気持ちはずっと変わらない。
昨年の今頃はお嫁さんの入院で大変だったことを思い出す。
そうして息子が離婚を決意してから一年が経とうとしている。
リハビリはいつもの療法士さんだったが今日は施術が変わっていた。
左側の骨盤の辺りを重点的に揉み解してくれてなんとも心地よい。
痛いけれど気持ちが良いのだ。これは初めての経験だった。
普段は自覚症状が無いが骨盤もかなり弱っているのだろう。
歳を重ねるごとに身体のあちこちにガタが来るのは仕方あるまい。
リハビリに通っていなければと思うとなんだか怖ろしくなった。
来週も楽しみである。完治の見込みはないが確実に良くなっているようだ。
4時半に帰宅。珍しくあやちゃんが出迎えてくれて嬉しかった。
開口一番に「今夜は何?」である。「オクラの肉巻き」と応えると
「やったあ」と喜んでくれたので私は天にも昇る気持ちであった。
気のせいかもしれないが娘が一日中家に居るようになってから
あやちゃんがずいぶんと明るくなったような気がする。
もうお姉ちゃんだからと我慢することもない。
甘えたいだけ母親に甘えることが出来るのだ。
もしかしたらそれが一番に求めていたことなのかもしれないと思う。
まだまだゆっくりと少しずつではあるが前途に光が見えて来た。
誰も背中を押すことはしないが自ら歩み出しているように感じる。
この先どんな日もあるのだろう。辛い日もあるかもしれない。
それはあやちゃんに限らず皆に訪れる日々であった。
私はすくっと立っている。明日はあしたの風が吹くのだもの。
曇り日。風はあったが少し蒸し暑さを感じる。
土手や道端に野薊の花が見られるようになった。
葉も茎も棘だらけであるが花だけはやわらかい。
おそらく手折る人もいないだろう。
そうして自分の身を守り続けている。
秋になると花は綿毛になり自由自在に飛んでいくのだった。
実は私にも棘がある。目には見えないかもしれないが本当の事だ。
私だって身を守らねばならない。そうして自由でありたいと願う。

今朝は山里の職場に着くと義父の姿があった。
田起こしが一段落したのかと声を掛けたら
トラクターが故障してしまったのだそうだ。
一瞬ドキッとする。実は出勤前に母の遺影に手を合わせ
アクシデントがあっても良いから義父を引き留めて欲しいと願った。
その通りになったのだ。きっと母のおかげだろうと思う。
トラクターの修理をするにも今日は部品が手に入らないのだそうだ。
義父もすっかり諦めている様子で工場の仕事をする気になっていた。
なんとほっとしたことだろうか。内心ではしめしめと思う。
午前中からお昼過ぎまで車検完了の書類を作成する。
忙しかったが嬉しくてならない。肩の荷が下りたような気分だった。
私はこれでも専務であり段取り課長でもあるのだが
社長である義父が不在だと手も足も出せないのだ。
ここ数日は空回り状態ですっかり困り果てていた。
仕事は好きだが責任が重い。だからこそ遣り甲斐があるのだと思う。
そうして未だゴールが見えず走る続けるばかりであった。

3時に退社。その前に短歌を書き殴っていた。
お昼休みが取れなかったので仕方ないがやはり後ろめたさがある。
そんな気持ちで書いた短歌に満足出来るはずがなかった。
今日は休めば良かったのだ。発信してから後悔する。
「これだけは」と常に自分に課しているようだ。
「絶対に」となると自分を追い詰めてしまうのだろう。
もっと自由気ままになれないものかと不甲斐なさを感じる。
サニーマートで買い物をし4時過ぎに帰宅した。
嬉しいのは娘が洗濯物を畳んでくれていること。
新たな仕事が見つかればまた忙しくなるだろう。
今のところまだその予定はないらしく毎日寛いでいるようだ。
私もその時が来るまで甘え続けていたいと思っている。
夕飯は予定通りに「破竹の天ぷら」にした。
揚げながら娘と味見をしたら柔らかくなっておりとても美味しい。
大鍋一杯に煮込んでいたのを全部揚げたら大皿にてんこ盛りになった。
とにかくせっせと食べる。無駄にせずに済み何よりだった。
そろそろ8時半になろうとしている。
今日も燃え尽きたのか心地よい達成感しかなかった。
書くことから始まり書くことで終われるなんてなんと幸せなことか。
そのせいかある日突然書けなくなることが怖くてならない。
今日に栞を挟む。そうしてまた明日を開こう。
雲一つない晴天。湿度が低く風がとても爽やかだった。
「さつき晴れ」と云いたいところだが
それは元来梅雨の晴れ間の事を指すのだそうだ。
しかし最近では「ごがつ晴れ」とも云うようになって
テレビのアナウンサーでさえ使うようになった。
日本語の進化だろうか。良いのやら悪いのやら判断に難しい。
職場にお客さんが「破竹」をたくさん持って来てくれた。
今朝獲れだろうか。見た目はとても新鮮で皮も剥いでくれている。
茹でてくれていたらこの上なく有難いのだがそうも言えず
「大好きながよ」と満面の笑顔で頂戴した。
早目に帰って茹でなければと少しプレッシャーを感じる。
破竹は灰汁が少なく米ぬかを入れなくても良いのだそうだ。
「なんちゃあ、すぐに煮えるけん」とお客さんも言ってくれた。
その言葉を信じていつも通りに3時まで仕事をして帰宅する。
帰宅間際に義父が田んぼから帰って来たがまた直ぐに出掛けた。
仕事の報告や相談したい事があったのだが空振りである。
明日も田んぼだろうか。なんだかパニックになってしまいそうだ。
同僚は午後から通院で休み。幸い来客はなく助かったと云うべきか。
会社は自転車操業なのでペダルをこぎ続けていなければならない。
前途はそう明るくはないのだ。ついつい心細くなってしまう。
サニーマートで買い物をし4時に帰宅した。
破竹を数えたら15本もありとても食べ切れそうにない。
お向かいの奥さんに声を掛けたら喜んで貰ってくれて助かった。
早速大鍋に火を点けて破竹を茹でることかれこれ40分。
いつまで経っても箸が通らず堅いままであった。
もしかしたら朝獲れではなかったのかもしれない。
筍類は時間が経つほど堅くなると聞いたことがある。
お向かいの奥さんも困っているだろうなと思ったがもう仕方ない。
取り合えず味付けをして煮込んだがやはり堅くて食べられなかった。
ネットで検索したら新鮮な物なら10分茹でれば良いとある。
10分どころか40分だ。大好物の破竹なのに残念でならない。
娘の提案で明日天ぷらにしてみることになった。
何としても食べるぞと食い意地の張っている私なのである。
せっかく頂いた物をどうして無駄に出来ようか。
旬の物は美味しく頂く。破竹にだって命が宿っているのだもの。
夕暮れ間近、めいちゃんが騒いでいるので何事かと思えば
燕の巣から可愛らしい雛が顔を出していた。
先日残念ながら一羽が死んでしまったがもう大丈夫だろう。
今のところ三羽しか見えていないがもう一羽いるかもしれない。
まためいちゃんが見つけてくれるだろう。我が家の家族である。
この日記を書き始めたのは7時過ぎだったがもう8時を過ぎた。
日課ではあるがのめり込むように日々を綴っている。
書き終えると燃え尽きたようになる。そうして私の一日が終るのだ。
午後7時15分。西の空がまるで燃えているように紅い。
明日は晴れるのだろう。なんだか心がおひさま色に染まりそうだ。
午前中は残り雨。午後から少しずつ陽射しが降り注ぐ。
義父がまるで何かに取り憑かれたように田んぼへ走る。
とにかく引き留めてはいけない。黙って見送るしかなかった。
一度戻って来たので一段落したのかと思いきや
洗車機でトラクターを無我夢中になり洗い始めた。
恐る恐る声を掛けたら田螺が異常発生しており
次の田んぼに行けないのだそうだ。
トラクターにくっ付いている田螺を洗い落としてから
また他の田んぼで作業を続けるつもりらしかった。
そうしなければ全部の田んぼが田螺だらけになってしまうのだ。
「お腹空いたろ?お昼食べてから行ったや」と再び声を掛ける。
「おう、そうじゃな」と素直に聞き入れてくれてほっとした。
夢中になると食事もまともに摂らない。
それは今に始まったことではなくよく身体が持つものだと思う。
リポビタン一本でどうして農作業に精を出すことが出来るだろうか。
そんな心配は無用らしくあまり気遣うと機嫌を損ねてしまう。
見て見ぬふりをするべきなのだろう。それも精神的にきついものである。

同僚に留守番を任せて2時過ぎに退社。少し心苦しい。
アマゾンからメールが届いており今日荷物が届くとのこと。
自室の空気清浄機のフィルターであった。
夫が受け取ると「これは何だ?」となってしまうので
なるべく早く帰宅したかったのだが時すでに遅しとなってしまった。
案の定「ネットであれこれ買うなと言うたろうが」とお小言である。
「これは必要な物やけん」と仕方なく空気清浄機の事を話す。
てっきり喫煙がバレると思っていたのだが深く追求されなかった。
それにしてもなんと後ろめたいことだろう。
愛する夫に隠し事をするなんてもってのほかである。
自室でこそこそとフィルターを交換したが
赤い警告灯が点いたまま消えない。焦ってメーカーに問い合わせたら
リセットボタンを押さなければいけないのだそうだ。
窓からが西日が射し込み汗がだらだらと流れていた。
それから夫のご機嫌取りも兼ねて一緒に大相撲を観る。
あの力士はあの力士の弟だとか訊きもしないのに教えてくれた。
「へえ〜そうながや」そこで私は感嘆の声を上げなければいけない。
夫は上機嫌であった。もう空気清浄機の事など忘れたのに違いない。
夕食は夫の大好きな「オムライス」だった。
機嫌は増々良くなりお代わりをするほどである。
しめしめと私はほくそ笑んでいた。ちょろいもんだなと愉快でならない。
しかし今は違う。もしかしたら夫は何もかもお見通しなのではないか。
知っていても責めようとはしないそれが夫の優しさなのだと思う。
朝のうちは小雨だったが次第に本降りの雨となる。
空の気分をそのままにしんみりと過ごしていた。
気分転換をしたくてならず夫に外食を願い出たが敢え無く却下。
その理由が私の咳だと云うから唖然とするばかり。
確かに所かまわず咳き込むことが多いので反論は出来なかった。
「そのうち治るだろう」と言ってくれたが今は到底無理な話である。
夫は昨年私が禁煙に成功したとすっかり信じているようだ。
だからしつこい咳の原因が煙草だとは思ってもいないのだった。
困ったことになったとすっかり途方に暮れるばかりである。
やはり再び禁煙を志すべきだろうか。酷く追い詰められたような気分だ。

私があまり好きではない「母の日」が今年も来てしまった。
それは少女の頃からの辛い記憶しかなかったのだ。
どれほど母を恨んだことだろう。愛しさは少しもなかった。
まして母に感謝するなどもっての外に思える。
二十歳で母と再会したがもう子供の頃の母ではなかった。
その現実に苛まれながら歳月を乗り越えて来たのだろう。
私はいったい母に何を求めていたのか今もって分からずにいる。
長い闘病生活の果て母は昨年秋に黄泉の国へと旅立ったが
私はあくまでも薄情な娘を貫き涙を流すこともなかった。
悲しくなどなかったのだ。むしろほっとしていたのかもしれない。
最後の最期まで母を赦すことが出来なかったのだろう。
母はそんな私の気持ちを知っていたのだと思う。
義父一人だけに看取られ安らかに息を引き取ったのだった。
18歳の若さで私を産んだ母だった。
初めての子育てでどんなにか戸惑ったことだろう。
それが母の青春だったのかと思うと憐れにも思えて来る。
お腹が空けば泣いただろう。おむつが濡れたら泣いただろう。
母の乳房の温もりさえ知らずにすくすくと育って来たのか。
幼い頃の記憶は殆ど無い。抱かれたことさえ憶えていないのだ。
真実はひとつだけである。母が私を産んでくれたことだ。
母が存在しなければ今の私は存在しない。
そう思うと私の人生は母からの贈り物だったのだろう。
波乱万丈な人生であったがその試練も母が与えてくれたことだ。
辛い思いをしてこその幸せなのだと思う。
涙を流してこその笑顔なのだと思う。
そうして母あってこその私がこうして生きている。
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