晴れのち曇り。夕方からぽつぽつと雨が降り出す。
うっかり失念していたが昨日は二十四節気の「穀雨」であった。
穀物を潤す春の雨が降る頃。それだけ大切な時候の訪れである。
そうして八十八夜、立夏と季節は夏へと移り変わって行く。
お昼に私宛の宅急便が届いた。ネット通販はよく利用するが
「日本緑茶センター」と記してあり全く身に覚えがない。
キャンペーンなどに応募した覚えもなく戸惑うばかりであった。
佐川急便の送付状には送り主も受け取り人にも私の名が書かれてあった。
夫が心配して「開けるなよ」と言ってくれたのだが
とにかく中身と納品書を確かめてみないと気が済まない。
中には高価そうなフルーツティーが12箱も入っていた。
しかし納品書には金額の記載がない。振込用紙も入っていないのだ。
まさかカード決済では。それならば犯罪にも繋がるだろう。
居ても立っても居られなくなりネットで「日本緑茶センター」を調べた。
様々な種類のお茶を販売している信用できる会社のようである。
しかし今日は定休日で電話で問い合わすことが出来なかった。
「188」の消費者相談センターも同じく今日は電話が繋がらない。
仕方なく警察署に相談をしたら親切な署員さんが対応してくれて
佐川急便に確認を取って見るようにとアドバイスをいただく。
佐川急便も親身になってくれて「荷物は開けてないですよね」と。
まだ開けていなかったらそのまま送り返すことが出来るのだそうだ。
「だから開けるなと言うたじゃないか」と夫に散々叱られる。
もうどうすることも出来なくなってしまい月曜日まで待つことにした。
とにかくその「日本緑茶センター」に問い合わせするしかないだろう。
こんな不可解なことは初めてのことで私は焦りまくっていた。
それから一時間ほど経ち落ち着いてからもう一度納品書を確認する。
すると納品書の宛先が私ではなく大阪市にある会社名が書いてあった。
今度はその会社を調べてみたら確かに実在する会社なのである。
従業員数が2百人を超えているのでそこそこ大きな会社らしい。
納品書の通りだとその会社が注文し私に送ってくれたことになる。
けれどももちろん全く知らない会社なのだ。いったい何故なのだろう。
もしかしたらと一人だけ思い当たる人が居た。
もう20年近くも音信不通であるが大阪と云えばその人しかいない。
末永くとはいかなかったが私にとってはとても縁の深い人だった。
先日の地震を知り私のことを思い出してくれたのかもしれない。
そうだとしたらなんと有難いことだろうか。
お酒には弱くお茶を好む人だった。今もきっと愛飲しているに違いない。
だとすると「日本緑茶センター」と一本の線で繋がって行く。
娘に話したら「じゃあ電話して確かめてみれば」とさらりと言う。
しかし今更どうしてそんなことが出来よう。
あの頃の私は必死の思いで遠ざかることを決めたのだった。
けれどもその人は一生忘れることの出来ない人になった。
月曜日になれば真相が分かるだろう。今はそっとしておくことを選ぶ。
なんだかとても遠い処から舞い込んだラブレターのようだ。
| 2024年04月19日(金) |
私は今日も生きていました |
この春何度目の夏日だろうか。日中は汗ばむ程の陽気となる。
燦々と降り注ぐ陽射しに樹々の若葉がきらきらと輝いていた。
田植えがやっと一段落したようだ。
今朝は義父の姿がありほっと胸を撫で下ろす。
わずか二日であったが工場の仕事の溜まっていたこと。
金曜日でもあり今日も田植えだったらどうしようと頭を悩ませていた。
午前中に検査を済ませ車検完了の書類を作成する。
午後は一般整備の部品注文等と義父でなければ出来ない仕事があった。
3時半に退社。何とも言えない清々しい達成感である。
FMラジオからは中島みゆきの歌が流れ嬉しくてならない。
私は目の前のことをひとつひとつクリアーして行くのが好きだ。
それが山積みであるほどやる気が出て来るのである。
する仕事のあることは本当に有難いことだ。

このところずっと仕事中に短歌を書いていて心苦しいが
帰宅してからはとても無理で致し方なかった。
今日のように忙しくても周りの目を盗むようにしながら書いている。
そのせいかもしれないが出来はとても悪い。
自分が納得いかないものに誰が共感してくれるだろうか。
それでも書かずにはいられない「さが」のようなものがある。
下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるではないが弾が自分に当たっているのだ。
それならばいっそ止めてしまえば良いのだが思い切ることが出来ない。
夜明け前に書いている詩は我ながら上出来なのではないだろうか。
それが自惚れだとしても私は自分の書いた詩がとても好きだ。
好きになってやらねばあまりにも可哀想に思う。
自分を卑下してはならない。それは私の心を否定することに等しい。
今もって歌人でも詩人でもないがおそらく一生今のままだろう。
以前はそれが口惜しくてならなかったが今は違う。
要するに誇りを持つか持たないかのモンダイではないだろうか。
自信はないが誇りはある。それは誰にも劣らないと思っている。
この日記を読んで下さっている方の中には興味のない方もいるだろう。
それよりも今夜のおかずは?と歯がゆく思っているかもしれない。
時には脱線するが今夜は自分の書きたいことを書かせてもらった。
日記とはそもそも公開するものではないのだが
22年目となったからには腹を括るような気持でいる。
包み隠さずありのままの私を受け止めてもらえたら幸いである。
もし突然死んでしまっても「死にました」とは書けないのが残念だ。
だからこそ「生きています」と最後まで書き続けたいと思う。
今日も生きていました。読んで下さり有難うございます。
雨のち晴れ。午後からは汗ばむ程の陽気となった。
昨夜は豊後水道を震源とする大きな地震があり恐怖を味わう。
これまで何度か地震を体験しているが生まれて初めてのようだった。
四万十市は震度4と発表されたがもっと強かったのではないだろうか。
大きな揺れが収まったらすぐに高台に避難をと日頃から言われており
娘は防災リュックを背負いパニック状態になっていた。
娘婿は外の様子を見に行き孫達は玄関先でぶるぶると震えている。
めいちゃんが「おじいちゃんもおばあちゃんも来て」と泣き叫ぶ。
NHKを見ていた夫が「津波の心配はないぞ」と声を掛けて
やっと皆が落ち着くことが出来た。これで避難の必要はなくなる。
愛媛の宇和島市や隣町の宿毛市では少なからず被害があったようだ。
幸いと言って良いのか四万十市では特に被害はなかったらしい。
もう二度とこんなことは御免だと思いつつ南海トラフが頭を過る。
そうなればもっと大きな揺れに襲われ津波も避けられないだろう。
今後30年の間に80%の確率で必ず起こると言われているのだ。
それを思うと昨夜の地震は良き教訓になったのかもしれない。
帰宅後夫が妙なことを言い始めた。
今朝から燕が我が家に寄り付かなくなったと言うのだ。
娘も気づいていたらしく口々に不吉なことを言い合う。
夫は昨夜の地震は前触れで今夜あたり本震がありそうな気がすると。
娘は家が倒壊するのではないかとすっかり真面目顔であった。
私も不安でいっぱいになり最悪の事態を考えずにいられない。
その時であった。薄暗くなった窓の外から「ちちちち」と声がした。
燕が巣に帰って来てくれたのだ。ぱあっと目の前が明るくなる。
「良かったよかったもうこれで安心」皆が一気に笑顔になった。
悪いことを考え始めたらきりがないのだ。
いくら避けられないことであってもそれは「いま」ではない。
それよりも与えられた平穏に感謝しながら過ごさねばと改めて思う。
私はふと昨夜の胸騒ぎに似た不安を思い出していた。
切羽詰まったようなあの感覚はいったい何だったのだろう。
もしかしたら予知能力のようなものがあるのかもしれない。
それとも父と母が危険を教えてくれていたのかもしれなかった。
魂はそう遠くない処に居て見守ってくれているのだろう。
神よりも仏よりも父であり母である。
黄砂の影響だったのか薄曇りの一日。
けれども陽射しは強くまるで初夏のようであった。
花屋さんの店先にはもう鉢植えの紫陽花が並んでいる。
高価でとても手は出せないが「見るだけ」の楽しみがある。
それと紫陽花は地に植えてあげないと弱ってしまうようだ。
我が家には土の庭が無くもし買えても駄目にしてしまうだろう。
やがて本物の紫陽花の季節がやって来る。
冬の間化石のように枯れていた紫陽花にも若葉が見えるようになった。
春はつかの間。今日のように暑い日があると夏の訪れも早いだろう。

今日は田植え。職場に着くともう義父の姿はなかった。
田植え機を勇ましく操る姿が目に見えるようだった。
毎年のことだが今年も義父の友人が数人手伝いに来てくれていて
どれほど助かることだろう。本当に有難いことである。
山里でも一二を争うほどの作付け量であった。
助けがなければとうてい無理な話である。
私と同僚は工場の仕事があり手伝うことは出来なかったが
お昼にお弁当を届けて欲しいと昨日義父から言付かっていた。
平田町のお弁当屋さんが事務所まで配達してくれるのだそうだ。
それが11時を過ぎても一向に現れない。
12時前になっても来ないのでおそるおそる電話を掛けてみたら
話し声がもぐもぐしていて「もう食べよるぞ」と言うではないか。
どう云う経由で田んぼまでお弁当が届いたのかは訊けなかったが
とにかく私の任務は無かったことになったのだった。
少しでも役に立ちたかったが役立たずの私で少し残念に思う。
3時に退社。今日もFMラジオを聴きながら帰る。
研ナオコの「夏をあきらめて」が流れていた。
昔から好きな歌だったが改めて聴くと胸に沁みるようである。
買い物をして帰宅するとめいちゃんがお友達と遊んでいた。
水曜日は下校が早いので思う存分楽しんでいる様子である。
しかし宿題をしていないとのこと。どうなるかなと心配になった。
案の定、夕食後に泣きながら奮闘しているところである。
3年生の時もそうだったが宿題が多過ぎるのではないだろうか。
勉強は学校だけで十分に思う。それよりも下校後は遊ばせてやりたい。
これから日が長くはなるが遊ぶ時間はほんの僅かであった。
塾や習い事のある子供も居るだろう。その子達も可哀想でならない。
めいちゃんも木曜日はダンス教室があるがとても苦労をしている。
宿題さえなければどれほど気が楽なことだろう。
私は昔人間なのでついつい自分が子供の頃のことを語りたがるが
宿題に苦労した記憶がなかった。日が暮れるまで遊んでいた記憶しかない。
昔と今は違うのだと言ってしまえばそれまでなのだろう。
今夜は入浴時に何故か切羽詰まったような気分になった。
精神的には落ち着いているはずだが自分でも不可解でならない。
突然に何かが終るような気がしたのだった。
それは「死」だろうか。今夜死んでしまうのだろうか。
そうして振り払うように思い直していた。
とにかく明日のことを考えよう。
5年後、10年後の未来のことでもいい。
私はわたしで在り続けるだろうし命はいのちで在り続けるだろう。
| 2024年04月16日(火) |
春雨じゃ濡れて行こう |
一日中霧雨が降っていた。いかにも春らしい雨である。
「春雨じゃ濡れて行こう」と有名な言葉があるが
行友李風作の戯曲「月形半平太」の主人公のセリフなのだそうだ。
気になって調べていたらモデルは土佐藩士の武市半平太であった。
いくら学が無いとは云えつい今しがたまで知らなかった愚か者である。
70の手習いではないが最近よくあれこれと調べるようになった。
スマホは持っていないがインターネットのなんと便利なことだろう。
しかし調べてもすぐに忘れてしまう。それはメモをしても同じであった。
おそらく若い頃のように脳が機能しなくなっているのだろう。
認知症だけにはなりたくないが絶対に大丈夫とは言い切れない。
私はいったいこの先どんな婆さんになるのだろうか。

今朝は職場に着くなりメールチェックをし先日の試験結果を知る。
「合格」と記されておりなんとほっとしたことだろうか。
まったく自信がなかったせいもあり嬉しくてならない。
けれども85点はイマイチであった。常識問題にしては低過ぎである。
この先も保険募集をすることはないがなんと頼りないことだろうか。
でも今度こそ最後である。もう二度とこんなことは嫌だと思う。
肩の荷が下りたせいか午前中は仕事にならないほど眠くてたまらない。
珈琲を飲んだり煙草を吸ったりしながらお昼までやり過ごす。
煙草を吸い過ぎれば咳が出る。咳が出れば尿漏れがある。
この連鎖はどうしようもなく自分に腹も立って来た。
お昼休みを頂くことにして車中で30分程眠った。
助手席には読みかけの本や詩集が転がっているが遠ざかるばかりである。
そのくせ衝動買いをしてしまうので本類は増える一方だった。
このままで良いのかなと少しずつ焦りも出始めているようだ。
もし突然死んでしまったら無読の本類はいったいどうなるのだろう。
お棺に入れて欲しいと娘に頼んでおく手もあるが
灰になった本を果たしてあの世で読めるだろうかと心配になる。
3時過ぎに退社。FMラジオからは懐かしい歌謡曲が流れていた。
「幡多らんど」と云って地元のFM放送が気に入っている。
CMが幡多弁なのも面白くとても親しみが涌くのだった。
夕食は「豚の生姜焼き」実は昨夜「しゃぶしゃぶ」だったのだが
うっかり間違えて生姜焼き用のロース肉を3パックも買ってしまっていた。
当然のことながら「しゃぶしゃぶ」は大不評であった。
胡瓜と薄焼き卵とハムで「中華風サラダ」を作った。
以前からちょくちょく作っていたが食べず嫌いだったのだろうか。
今夜はあやちゃんが気に入ってくれてそれは食べること。
あっという間にお皿が空になってとても嬉しかった。
そうして笑顔でいてくれることがこの上なくほっとするのだった。
明日は何を作ろうか。もう今夜から明日の献立を考えている。
雨はやっと止んだようだ。窓の外からは生温い空気が漂って来た。
日々こつこつと布を織るように過ごしている。
やがては一枚の布になることだろう。
「完成」をこの目で確かめるまでは死ねない。
曇り時々雨。ぽつぽつと春らしい優しい雨だった。
陽射しがないせいか少し肌寒く感じた。
全国的には気温が高くなり真夏日だった処もあったそうだ。
4月に真夏日などかつてあっただろうか。
異常気象、地球温暖化。今年の夏はいったいどうなるのだろう。
藤の花に雨。無風状態だったので揺れもせずひたすら雨に濡れている。
薄紫は母も私も好きな色でありなんだか切なくてならない。
うまく言葉に出来ないが胸に滴がこぼれ落ちて来るようであった。
受け止めなくてはと思う。どれほどの哀しみであってもだ。

昨日、中高時代の友人からメールが届いていたが
返信出来ずにいて今日に至った。
これまでも何度かメールがあったが一切返信をしていなかった。
言葉はとても悪いが彼女は空気が読めないのではないだろうか。
不愉快だと言ってはならないが私の心の領域に飛び込んでくる。
そうして過剰反応を繰り返し私のことを気遣おうとするのだった。
「心配無用」そんな一言を送信できればどんなにか楽だろうか。
昨日のメールは朝刊に私の短歌が掲載されていた件であり
「元気?大丈夫?」で始まっていた。
あの子のことを書いた短歌だったので尚更のことだろう。
決して暗い短歌ではなかったのだが彼女には伝わらなかったようだ。
友達だから助けてやらないとと思ったのなら余計なお世話である。
私がいったい何を求めていると云うのだろうか。
私はただあの子のことを書き残して置きたかっただけなのだ。
このままではずるずるとまたメールが届くだろう。
なんとか阻止しなければと今日は思った。
けれどもはっきり言ってしまえば彼女を傷つけてしまう。
しばらく悩んだ末にとにかく元気でいること。
私は書きたいことを書いているのでどうかそっとしておいて欲しいと。
最後にこれまでの無礼を詫び感謝の気持ちを伝えた。
それで良かったのか今も悩み続けているが
決して後悔だけはするまいと思っている。
友達とはいったい何だろうと考えるきっかけにもなった。
子供のようにいつまでも仲良しこよしではいられないのだ。
青春時代を共に過ごした仲間ではあるが悩みを話したことはない。
どんなに辛いことがあっても涙を見せたこともなかった。
まして彼女に甘えることも頼ることもなかったのだ。
そう振り返ると私には真の友達などいなかったのかもしれない。
群れることを好まずいつも図書室の隅っこで詩を書いていた。
それは孤独でありそんな孤独が私に詩を書かせてくれたのだと思う。
独りぼっちが好きで寂しさが好きで切なさが好きな少女であった。
彼女からもうメールが届くことはないだろう。
だからと云って切れるような縁ではないと思っている。
雲が多かったが概ね晴れ。爽やかな風が吹き過ごし易かった。
窓から川向の山を眺めていると山全体が笑っているように見える。
つい先日まで山桜が沢山咲いていたのだがいつの間にか
椎の木の花が満開になったようだ。クリーム色ではなく黄な粉の色である。
むくむくとそれはそびえ大きな木であることが見て取れた。
今まで近くで見たことがないがいったいどんな花なのだろうか。
姑さんの7回忌。位牌を抱くようにしてお寺に向かった。
義妹、義弟と相談のうえ今回の法要で「上げ法要」とする。
「弔い上げ」とも云うらしいが故人の最後の法要である。
お寺の住職さんはまだ13回忌までは出来るでしょうと言ってくれたが
夫も義妹達も正直なところ自信がなかった。もちろん私もである。
自分達が元気なうちにと思う。それが子の務めではないだろうか。
上げ法要をするともう仏様ではなくご先祖様になるのだそうだ。
「まだ早いことないかい」と姑さんの声が聞こえて来そうだった。
読経、焼香が終わり墓前に向かったが私はお寺の境内で待っていた。
毎朝聞こえている鐘。赤い前掛けをした5体のお地蔵様。
藤の花、八重桜、ツツジも咲いている。
そうして水子地蔵もありはっと胸が締め付けられそうになる。
以前から知ってはいたが人目を気にして手を合わせたことがなかった。
ゆっくりと向き合うこともなかったのだ。なんと薄情なことだろう。
境内には私しかおらず心の中で「いま」しかないと思った。
あの子の50回忌である。母として他に何が出来るだろうか。
そっと手を合わすと胸に淀んでいた灰汁のようなものが流れて行く。
それはあの子の最初で最後の法要であった。

今夜は義妹宅で小宴。身内が集まり賑やかに過ごす。
本来なら長男である夫が段取り我が家で行うべきなのだが
恥ずかしながらお布施を準備するだけで精一杯であった。
だから義妹にはいつも甘えさせてもらっている。
「遠慮せんといっぱい食べてや」と言ってくれて
滅多に食べられないスシローの握り寿司をお腹いっぱいご馳走になった。
夫や娘達はまだ居座っているが私は一足先に帰って来たところである。
いくら目と鼻の先でもあやちゃんを独りにさせておくわけにもいかず
何よりもこの日記が書きたくてならなかった。
「こんなもの」と思ってしまえばいくらでも疎かに出来るだろう。
しかしいつ最後になるやもしれずそれだけは避けたかった。
昼間2018年の4月の日記を読み返していた。
その年の10月にはお舅さんの37回忌で上げ法要をしていた。
もしそれを最後にしていなければ今年は43回忌だったのだ。
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