曇りのち雨。春らしいやわらかな雨となる。
何処からともなく若い緑の匂いがするような気がした。
雨を受けながらきっと生き生きとしているのだろう。
私はと云えばしんみりとするばかり。
鬱ではないと思うのだが感傷的になってしまうのだ。
例えば若い子は箸が転んでも笑うとよく云われているが
私の場合は箸が転んだら悲しくなってしまうだろう。
無理に微笑むことをせずにいるとどんどん深みにはまって行く。
「そんな時は自分を抱きしめて」それも綺麗ごとにしか思えない。
こうなれば在りのままの自分を愉しむしかないのだった。

今朝は再放送の「オードリー」を見てから2時間近くも眠っていた。
そろそろ買い物に行かなければと気だるさのまま起き出す。
ふっと頭に浮かんだのは「鰤大根」であった。
寒い頃に頂いた大根が冷蔵庫の野菜室で眠っている。
まだ大丈夫だろうと確かめもせずにもう鰤のアラを買おうとしていた。
サニーマートの鮮魚売り場へ行ったら切り身はあるのにアラがない。
もしやと思い店員さんに訊いたらまだ準備中とのこと。
忙しそうにしていたのに奥から出して来てくれてとても助かる。
2パックで7百円、切り身よりもずっと安い。
帰宅したらもう10時を過ぎていた。次はカーブスである。
計測日であったが強制ではないのでさらりとお断りする。
体重もお腹周りももうどうだっていいのだと開き直っていた。
大きな扇風機がいくつか回っているのに流れる汗が半端ない。
それはとても心地よくそれだけで来た甲斐があると思った。
コーチが声を掛けてくれて脂肪が燃えているのだと言う。
それは嘘だろう。そんな誉め言葉に私は騙されはしない。
帰宅する前にほか弁を買いに行く。
全部で6人分。娘とけい君の分もあった。
娘はまだ店舗の後片付けが残っているが疲れが酷いとのこと。
今日も行く予定だったが急きょ休みにしたようだ。
けい君に会うのはお正月以来であった。
少し見ない間に背が伸びていてびっくりしてしまう。
やっとあやちゃんが遊んでくれたのは昼食を終えてからだった。
タブレットとゲーム機、それさえあれば何も要らない。
部屋からは楽しそうな話し声も聴こえていてとてもほっとした。
4時には息子が迎えに来て仕方なくもう帰らなくてはいけない。
つかの間ではあったが息子と少し話すことが出来た。
私の声がまだまともに出ていないのを心配してくれて嬉しい。
けれども最後には「煙草を止めんといかんぞ」と叱られてしまう。
仕事は順調とのこと。元お嫁さんとも度々会っていて
息子が夜勤の時には泊まりに来てくれているそうだ。
季節の変わり目なので心配なこともあったらしいが
今は落ち着いていると聞きどれほど安堵したことだろう。
離婚という息子の決断は決して間違ってはいなかったと思う。
「夫婦」にしばられなくても息子達のような関係もあるのだ。
もう5年生のけい君が辛い思いをすることは今後も決してないだろう。
降り止まぬ雨音を聴きながらこれを記した。
暖かいので窓を開けているが降っているはずの雨は見えない。
気分は相変わらず低迷しているが幸せな一日だった。
霧雨だったのがやがて本降りになる。
気温は朝から殆ど上がらず午後からは肌寒く感じた。
桜の花びらが雪のように舞うのを見ているとやはり切ないものである。
郵便局の桜はもうすっかり葉桜になっておりこれも侘しい。
心にぽっかり穴が空いたように思う。なんとも寂しいものだ。
けれども桜の木は何も失ってなどいないのだ。
嘘だと思うなら桜の木に訊いてみるがいい。
今朝は職場に着くなり大変な忘れ物に気づく。
車から下りようとしたら大切な杖が見当たらなかったのだ。
うっかりではない。おそらく無意識の内のことだろう。
家の玄関を出て車までいったいどうやって歩いたのか記憶になかった。
それだけ痛みが薄れていたのかもしれないがそれも記憶にない。
職場では車から下りて歩くことが出来ず同僚に助けを求めた。
そうしたら家に杖があるからとわざわざ取りに帰ってくれる。
今は老人ホームに入居しているお母さんの杖なのだそうだ。
有難いこと。おかげで一日難儀をせずに済み随分と助かった。
それにしても不思議でならない。今朝はどうしたことだろうか。
義父は早朝から田起こしに行ったらしく留守だった。
車検が3台もう整備は終っており後は検査をするだけである。
ひたすら義父の帰りを待っていたがお昼になっても帰って来なかった。
これは長丁場になるなと察しお昼休みの内に短歌を書いておく。
「しとと雨はらり桜の舞う空は失うことを怖れもせずに」
意味不明かもしれないが分かる人にはきっと伝わるだろう。
何しろ自己満足のうえに自分勝手な者だからこんなもんである。
詩もそうだが短歌も低迷し続けているようだ。
自分では80点だと思っていても現実は厳しく30点としたものだ。
めげるなよ挫けるなよとひたすら自分を励まし続けている日々であった。

義父は2時前にやっと帰って来てくれたが昼食の時間もあり
適合証を書き終えたら3時をとっくに過ぎていた。
同僚と納車を済ませてから4時に退社することが出来る。
今日は娘が家に居てくれたので随分と気が楽だった。
サニーマートへ着いてから娘に電話をする。
残りご飯が多いか少ないかの確認であった。
「いっぱいあるよ」と聞き「鰹のひっつけ寿司」に決める。
鮮魚売り場へ真っ先に行ったら今日も新鮮な鰹があった。
予想に反して少し高く一節で9百円だったが奮発して二節買った。
後は半額の物をあれこれ買ったので総額は予算内で収まる。
我ながら賢い主婦である。半額様々と呟きながら家に帰った。
「鰹のひっつけ寿司」は顎が落ちそうなほど美味しく幸せである。
息子から久しぶりに電話があり明日けい君を預かることになった。
もう5年生になるのでほったらかしでも良いのだけれど
めいちゃんとは遊ばすあやちゃんにべったりのけい君である。
おそるおそるあやちゃんに訊いたら一緒に遊んでくれるとのこと。
それも「おばあちゃんが決めたらえいよ」と言うので意外だった。
友達は居ても誰とも遊ぶことのなかったこの一年である。
けい君とは不思議と気が合いひたすらゲーム三昧をするのだった。
明日はきっと良き気分転換になることだろう。
桜はすっかり散ってしまっても何も失わないと言ったが
樹齢百年を超えた桜の木もあるのだそうだ。
そのほんの一年のことである。桜の季節は永遠に巡って来るのだ。
二十四節気の「清明」すべての命あるものが生き生きと光り輝く頃。
桜はもちろんのこと樹の若葉。道端の草やてんとう虫もである。
人間はどうだろう。輝けるはずがないと嘆く人もいるだろうが
自然を仰ぎ心を清々しくしながら穏やかさを保とうとすることは出来る。
私のように歳を重ね落ちぶれてしまった者でも歓びはある。
そうして微笑めば奇跡のように輝くことが出来るのではないだろうか。
くすぼっていてはいけないのだ。諦めてしまってはいけないのだ。
自分の可能性を信じる。生きてさえいればきっと叶う日が来るだろう。

週一のリハビリの日だったので3時前に退社。
余裕を持って早めに行って良かった。病院に着くなり直ぐに順番が来る。
私は待ち時間が苦手なのだ。些細なことでもストレスを感じてしまう。
夫いわく病院は待つのが当たり前なのだそうだ。
「おまえは辛抱が足らんがじゃ」とよく言われる。
今日の療法士さんは若い男性でちょっと胸がときめく。
しょっぱなからの手触りがなんとも優しくうっとりとしてしまった。
それなのに突然咳き込み始めて焦りまくる。
一度咳が出始めるとなかなか止まらないのだった。
マスクをしていてもこれほど迷惑なことはないだろう。
療法士さんが気遣ってくれて「喘息ですか?」と訊ねてくれた。
煙草を吸った直後ならまだしも私にも原因がよく分からないのだった。
血行が良くなり身体が温まると出るような気もするが
そんな病気があるのだろうか。それにしても困った咳である。

サニーマートで買物をして4時半に帰宅する。
今日は遅くなるかもしれないと思いお昼休みに短歌を書き終えていた。
「あのひとのことなどもう忘れたいよ歌詞のようにはいかない恋だ」
なんとお粗末でふざけた短歌だろう。自分で呆れながらも愉快である。
突然、浜田省吾の「片思い」が頭に浮かんで来たのだった。
ちなみに私には忘れたいひとなど一人もいない。
二度と帰れない青春である。忘れてたまるものかと思っている。
洗濯物を畳もうとしていたらあやちゃんの姿が見えたので
「ただいまあ」と声を掛けたら「おかえりい」と言ってくれて嬉しかった。
今日も機嫌の良い証拠である。精神的にも落ち着いているのだろう。
春休みも残り少なくなったが期待はせずにいようと思っている。
背中を押すことも決してしてはならない。
でもあやちゃんにはもうトンネルの出口が見えているような気がする。
そこには散り始めた桜の花びらが春の空を舞っていることだろう。
| 2024年04月03日(水) |
大丈夫よ心配しないで |
雨が時おり激しく降る。春雷も鳴り空が割れてしまいそうだった。
季節を真っ二つに引き裂くような一日ではなかったろうか。
桜散らしの雨だと思い込んでいたが見上げる桜のなんと健気なこと。
まるで雨を愉しんでいるかのように微笑んでいるのだった。
「大丈夫よ心配しないで」そんな声が聴こえて来る。
嘆いてはいけないのだ。何があっても強く生きなければばらない。
桜にとっては覚悟の雨だったのに違いない。
逃げることも隠れることも出来ないのなら立ち向かうしかないのだ。

義父が午前中出掛けていたため午後から一気に忙しくなった。
どうやら久しぶりに友人達と喫茶店で盛り上がっていたようだ。
農閑期にはよくあることだがそんな息抜きもなくてはならない。
ストレス発散になったのか機嫌よく帰って来たので私も嬉しかった。
午後からは「さあやるぞ」である。パワフル満開になっていて愉快。
心配していた同僚も今日は体調が良さそうで何よりだった。
3時半に退社。いつもより遅くなり大急ぎで帰路に着く。
夕飯は何にしようかと考えながら運転していた。
それから短歌である。今日は書く時間がないかもしれない。
良心市で手に入れた新玉葱があったので親子丼にすることにした。
サニーマートで格安のブラジル鶏を買う。
お刺身は鰹、新鮮な鰹が安くてなんと助かる。
4時半に帰宅。洗濯物も畳まずに二階の自室に駆け上がった。
ちょうど大きな雷が鳴り始めてめいちゃんが怖がっていた。
「ごめんねめいちゃん、おじいちゃんと一緒におってや」
私を頼ってくれたのになんと薄情なおばあちゃんだろう。
制限時間は20分である。なんとしても書くぞと気合が入る。
「春雷に折れそうになる老いた樹に寄り添う花の優しさを見る」

洗濯物を畳むのに20分も掛かってしまった。
もう5時を過ぎていたが少しだけ寝転がってしまう。
なんだかとてもしんどかった。ひどく疲れを感じる。
歳のせいだとは思いたくはないが無理をしているのかもしれない。
夕食の支度をしなければと思いつつ直ぐには起き上がれなかった。
その時である。娘が早めに帰って来てくれたのだった。
今日も遅くなると聞いていたのでなんと嬉しかったことだろう。
ゲンキンなもので直ぐにやり気満々になった。
店舗の片づけは明日で終わりそうとのこと。
男手が無いので店長と娘だけで頑張っているのだそうだ。
じゃあ明後日からずっと家に居てくれるのかなと期待がふくらむ。
ずるい性格なのでもう楽をしようと目論んでいる私であった。
先のことは何も分からないがだからこそ前を向いていたい。
ひと針ずつ縫い続けているような日々であった。
いったい何が出来上がるのだろう。この目で確かめようと思う。
花冷えだろうか今朝は少し肌寒かったが
日中は風もなくずいぶんと暖かくなった。
雨が近づいているらしく午後には雲が広がり
何処からともなく蛙の鳴き声が聞こえていた。
出勤時に四万十大橋を渡っているとS子ちゃんの車とすれ違った。
12年もの間村の商工会に勤めていたのだが
この春の異動で黒潮町に転勤になったのである。
「また会える日もあるよね」と笑顔で別れたのだが
まさかこんなに早く再会できるとは夢にも思っていなかった。
あっS子ちゃんのプリウスだと気づいたのは一瞬のことで
窓を開けて手を振ることも間に合わずとても残念に思う。
けれども明日がある。明後日もある。これから毎朝会えることだろう。
私もぼんやりしていてはいけない。手を振る準備をしておかなくては。
そう思うと朝の道が楽しみでならずなんだかわくわくとしてきた。

仕事は3月の繁忙期を乗り越えたようにも思えるが
まだまだ油断は出来ず既に来週いっぱいは予約で埋まった。
来週には義父が田植えを始めるらしいがどうなることだろう。
どちらもも順調に捗るようにと願ってやまない。
気になるのは同僚の体調のこと。昨日は不整脈の発作が起きてしまい
仕事を終えてから救急外来へ行っていたそうだ。
ゆっくりと休ませてあげたいが今日も無理をさせてしまった。
義父に相談しても無理な話で「煙草の吸い過ぎじゃ」と怒るばかり。
一歩間違えればパワハラである。もう少し親身になってあげて欲しい。

3時に退社。今日は娘が店舗の片付けに行っていて遅くなるらしい。
昨日の歓びもつかの間であったが今日は今日のことをと思う。
サニーマートであれこれと悩みながらとにかく半額品を買った。
鮭の切り身が半額。脂がのっていてとても美味しそうだった。
後は特売の茄子と南瓜を買い天婦羅にすることにする。
南瓜の素揚げが大好きなあやちゃんにお手伝いを頼んでみたが
部屋に閉じ籠っており応答がなかった。
私もつい苛立ってしまって「じゃあもういい」と怒鳴り散らす。
いけないいけない。また血圧が上がってしまいそうだ。
とにかく落ち着こうとパソコンに向かい短歌を書いた。
何度か深呼吸をしたのが良かったのだろう我ながら上出来である。
ここだけの話だが俵万智の短歌よりずっと優れていると思った。
「雨近く花を曇らせ薄紅の恋したひとも明日は散るかな」
今はまだ降っていないが今夜遅くからまとまった雨になりそうだ。
おそらく桜散らしの雨になることだろう。
儚いようで潔い。そんな花のいのちが愛しくてならない。
今日こそはと快晴。黄砂の飛来もなく真っ青な空だった。
気温はほぼ夏日であったが爽やかな風が吹く。
郵便局へ行ったら入口に桜の花びらが沢山落ちていて
もう散り始めたのかと切なくてならない。
ソメイヨシノより少し早く咲いていたのだった。
局長さんが大島桜だと教えてくれたのはつい先日のこと。
純白の桜でソメイヨシノより花が大きく葉が緑なのが特徴である。
私はこの桜がとても好きで毎年咲くのを楽しみにしていた。
思いがけない桜吹雪だった。なんと儚いことだろうか。
帰り道の平田町ではソメイヨシノが満開になっており
お花見客が多く見られた。乳母車の赤ちゃんもいる。
青空に吸い込まれてしまいそうな桜を仰いでいると
なぜか胸が熱くなり涙がこぼれてしまいそうになる。
ふとどうしてしまったのだろうと自分が分からなくなった。
母が死んでも涙ひとつこぼさなかった私がである。
「そうか、そうか咲いたのか」と心の中でつぶやいていた。
誰に語り掛けていたのだろう。あの子かもしれないとふと思った。
咲かせてあげたかったのだ。それは「いのち」の花である。

帰宅すると当たり前のように娘が居る。
夕陽を受けて娘の車がきらきらと輝いて見えた。
なんだか嫁いだ娘が里帰りをしているような気がする。
「おかえりなさい」と言われてはっと我に帰った。
この安心感はなんだろう。肩の荷が下りたようにほっとする。
気が抜けたようになりつつ日課の短歌を書いた。
制限時間は30分である。おかげで穏やかな気持ちで書けたようだ。
「断捨離の母の春着に手を添えて懐かしきかなあの日の笑顔」
久しぶりに娘と肩を並べて夕食の支度をする。
もうばたばた慌てることもない。もちろん血圧も上がらない。
5時半には晩酌を始める夫には鯛のお刺身を作った。
後は「椎茸のタタキ」「豚ロースの味噌焼き」
いつものように夫と二人で先に食べ始めていたのだが
娘夫婦が庭で何かこそこそとやっているのが気になった。
何かを焼きながらビールを飲んでいるらしいのだが
いったい何だろう。匂いも漂って来ないのだった。
夫が口に指を当てて「黙っていろよ」と合図をする。
好きなようにさせるのが一番なのだろう。
もう10年も一緒に暮らしているとあれこれ秘密もあるらしい。
日が暮れると何事も無かったように家の中に戻ってくる。
「さあご飯食べようかね」と娘が言うのでくすっと可笑しかった。
あやちゃんは今夜もご機嫌である。それが何よりも嬉しく思う。
我が家の居間にはメモリアルボードが飾ってあって
歩き始めた頃のあやちゃんの写真もある。
そのあどけない笑顔が私は好きで好きでたまらない。
10年ひと昔と云うがまるで昨日のことように思う時がある。
快晴かと思いきや午後から花曇りとなった。
昨日初燕を見たばかりだがなんと元気に飛び交うことだろう。
長い旅を終えたばかりとはとても思えない。
さえずりも可愛らしく聴いているだけで心が和む。
いつもは朝から寝てしまう日曜日だが
今朝は冬物を片付けようと押し入れを開けていた。
まだ花冷えもあるだろうがもう着ることもないだろう。
母のもはや形見になってしまった衣類も沢山あった。
アパートを引き払う時にかなり処分はしていたのだが
衣装持ちの母のことである。とても捨て切れなかったのと
施設に入居しても普段着の必要な時もあり残して置いたのだった。
高価だった衣類が多く状態はとても良かったが心を鬼にする。
一枚一枚確かめるように手に取り母を懐かしく思い出す。
ああこれは好きだったな。ああこれもよく着ていた。
懐かしんでいたらきりがなく思い切ってビニール袋に詰め込む。
もちろんゴミではなく市のリサイクル施設へ持ち込むのだ。
繊維資源として何か他の物に生まれ変わるのかもしれない。
衣類のまま発展途上国へ送られるのかもしれなかった。
これも断捨離なのかと思う。母を断つ。母を捨てる。母と離れる。
空っぽになった衣装ケースに夫と私の冬物を入れた。
もしもの時には娘が処分してくれるだろう。
無事に生きていればまた寒くなったら着れば良いのだ。

午後は2時間ほどお昼寝。暖か過ぎて炬燵も要らない。
いつの間にか曇っていたので早めに洗濯物を取り入れようとしていたら
外で遊んでいためいっちゃんが駆け寄って来てくれて手伝ってくれた。
背が伸びたのだろう。高い所にも手が届きなんとも頼もしい。
洗濯物を畳んでいたら台所からがちゃがちゃと音が聞こえる。
なんとめいちゃんが流しにいっぱいだった食器を洗ってくれていた。
こんなに嬉しいことがあるだろうか。思わず目頭が熱くなるばかりである。
自分から進んでお手伝いが出来るようになった大きな成長だと思う。
その後、冷たいコーヒーを飲みながら短歌を書く。
このひと月のあいだ最後には「あの子」のことを書いて来たが
今日で終わりにしようと思っていた。
わずか31首であったが少しは供養になったのだろうか。
身勝手な自己満足に過ぎないが書くことで救われたようにも思う。
「毎日が命日だった弥生尽く忘れぬことが供養だろうか」

6時半に娘が帰宅。やれるだけのことをやったのだろう機嫌が良い。
心身ともに疲れ切ってしょんぼりして帰って来るのではと思っていた。
もしかしたら空元気かもしれないが鼻歌まで聞こえているのだった。
あれこれと訊ねてはいけないと思いただ微笑むばかりの母である。
明日はもう卯月四月。きっと新鮮な春になることだろう。
弥生三月は去ろうとしている。そうしてやがて過去になるのだ。
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