穏やかな秋晴れ。冬の小春日和を思わすような暖かさだった。
予約してあった津野町の治療院へ向かう。
3時間は掛かるだろうと見込んでいたが
ナビが近道を教えてくれて2時間足らずで着く。
七々子峠から大野見経由の四万十川上流沿いの道である。
四万十川の源流に近くあちらこちらに看板が見えていた。
夏場などは観光客が多いのだろう。道路整備が進んでいるようだ。
早く着き過ぎてしまって近くの道の駅で小休止。
ちょうど観光バスが到着しており大勢のお客さんだった。
朝採れの野菜の新鮮なこと。残念ながら見るだけで終わる。
治療院は津野町の街中にあった。散髪屋さんの角を曲がって行く。
民家のような佇まいで庭先に大きな犬が繋がれていた。
ドアを開けても受付窓口のような場所が見当たらない。
治療室だろうかと思われる部屋のドアを開けたら老齢の男性が居た。
ちょっと気難しいような顔をしていたが意外と愛想が良かった。
杖を付いた私の姿を見るなり「かなり酷いなあ」と言う。
「もう2年が近いだろう」と話さなくても判ったようで驚く。
結論から云うと完治の見込みはまったくないのだそうだ。
怖れていた通りのことをずばりと云われたじろぐばかりである。
しかし気長に治療を続けていると今の痛みが三分の一になるらしい。
その覚悟さえあれば出来る限りの手を尽くしてくれると言った。
駐車場で待機していた夫を呼び寄せると
夫の姿を見るなり「ご主人もかなり酷いですなあ」と云う。
私よりも先に歩けなくなる可能性があるのだそうだ。
そうして夫が長いこと運転手をしていたことも判ったようだ。
腰痛持ちの夫はただただあっけにとられ驚くばかりである。
少しだけ治療することになり施術台にうつ伏せになった。
足ではなく背骨から腰のあたりをマッサージする。
指圧とはまた違ったまるで魔法の手のようであった。
10分位して立ち上がると不思議なことに痛みを感じない。
しかしそれは一時的なものですぐに元に戻るのだそうだ。
とにかく継続的な治療が必要だと云うことなのだろう。
夫と相談し今後も治療に通うことにしたが
最低でも週に2回は通院しなければいけないとのこと。
それもすべて予約制なので自分の都合通りにはいかないようだった。
来月はもうすでに予約で埋まっているとのこと。
おまけにこれから冬になると積雪の多い土地なので交通の心配もある。
しばらく辛抱して春から継続して治療をすることになった。
しかし今日すぐに3月頃の予約は出来ないのだそうだ。
年が明けてからまた電話するように言われる。
継続と云っても何ヶ月掛かるのかまったく分からなかった。
長い人は何年も通っていると聞き気が遠くなってしまいそうだった。
問題は治療費である。保険適用ではないので一回につき4千円。
週に2回だとすると8千円。月にすると3万円を超えてしまうのだ。
それほどの多額の治療費を果たして捻出出来るだろうか。
夫はなんとかなるだろうと云うが私は自信がなく不安であった。
貧乏人の辛いところである。お金さえあればと情けなくなってくる。
とりあえず年明けまで辛抱しながらようく考えてみようと思っている。
痛みが自然に薄れるとは思えず辛い日々となるかもしれないが
自分を試す良い機会になるかもしれない。
| 2023年10月27日(金) |
かみさま。ほとけさま。おかあさま。 |
高知県西部は穏やかな晴天であったが東部では雹が降ったそうだ。
全国的に不安定な天気だったようで各地から雷雨や雹のニュースが流れる。
上空に強い寒気が流れ込んでいるとのこと。いつまでも秋ではいられない。
今朝は山道の路肩に車を停め10分程仮眠をした。
それだけで随分と眠気が治まる。
その分遅刻をしてしまったが事故を起こすよりは良いだろう。
来週からもそうしようと思っている。眠ければ寝れば良いのだ。
とにかく原因が判らないので受け止めるしかないのだと思う。
つわぶきの花。いつもぼんやりしているから気づかなったのだろう。
今朝は山肌からこぼれるように咲いているその花を見つけた。
お遍路さんも足を止めてくれるだろう。それは一瞬で心が和む。

足の痛みが半端ない。日に日に痛みが増しているように感じる。
仕事中は座っていることが多くそれほどでもないが
スーパーで買物をしている時が一番辛く涙が出そうになる。
買い忘れた物があってもその売り場まで戻ることが出来ないのだ。
途中で立ち止まって大きく息をする。負けるなよと励ます。
今日も荷物が重かった。帰宅して車から下ろそうとしていたら
ちょうどめいちゃんが学校から帰って来て家の中まで運んでくれた。
優しくて力持ちのめいちゃんは本当に頼りになる。
明日は予約した治療院に行くのだけれど少し不安になって来た。
治る見込みがない場合は即刻に告げられるのだそうだ。
一か八かと思う気持ちはあるが駄目だったらどれほど落ち込むことか。
それでも藁を掴むような気持で臨まなければいけないのだろう。
かみさま。ほとけさま。おかあさまと祈り続けている。
きっと助けてくれるに違いないと信じようとしているのだった。
まるで崖っぷちに立たされているような心境であるが
最後まで望みを捨ててはならない。
今朝は少し暖かく感じた。
日中も薄っすらと汗をかくほど。
職場の看板猫みい太も車の下に潜り込み昼寝をしていた。
猫ほど癒される動物はいないのではないだろうか。
あくびをしただけでほっこりと心が和む。
今朝も相変わらずの眠気。もううんざりしてしまった。
ネットで検索したら「隠れ疲労」と書いてあった。
起床してから4時間後に眠気が襲って来るのだそうだ。
私はすぐに鵜呑みにしてしまう性質なのでその気になってしまう。
「隠れ疲労」とは自分では気づかないうちに疲れが溜まっているらしい。
それはどうだろう。私は本当に疲れているのだろうか。
昨夜も寝つきが悪く夜中に何度も目が覚めてしまった。
けれども寝起きは良く特に睡眠不足とも思えない。
ただ詩を書いてみると暗く重苦しい詩になってしまう。
「いけない、いけない」と思いつつ最後まで書いてしまった。
やはり精神的に安定していないのかもしれない。
いきなり薬を飲むのを中止したからではないかと思う。
あれこれと考えているとパニックになってしまいそうだった。
仕方なくまた今夜から薬を服用することにした。
まるで薬の依存症のようで情けなくもあるけれど
自分にとって何が最善なのかこれも大切な選択にも思える。

母宛にドコモの請求書が届いた。
義父と相談し今月いっぱいで解約することにする。
ドコモショップに予約をしたら死亡したことが判る書類が要るとのこと。
葬儀屋さんが死亡届のコピーをしてくれていたので助かった。
携帯電話は母の仏前に置いていたので仏間へ取りに行く。
お線香を立てて手を合わせ母と少しだけ話した。
やはり母は死んでなどいない。目の前にちゃんと居るのにと思う。
携帯電話を手にすると「着信あり」はっとして確かめると
母が亡くなった翌日に誰かが電話を掛けてくれていたようだ。
未登録の番号でそれが誰なのか判るはずもなかった。
もしやと思い当たる人がいて折り返し電話をしてみたが
留守番電話になっており繋がることは出来なかった。
病院の施設で一番仲良しだった人だ。
転院を余儀なくされ泣く泣く母と別れたと聞いていた。
息子さんが携帯電話を買ってくれたのだそうだ。
母の番号は伝えてあったからきっとその人に違いないと思う。
きっと虫が知らせたのだろう。もしかしたら母が知らせたのかも。
母の死を知ったらどんなにか嘆くことだろうと思ったが
まるで母の遺言のように感じて「知らせなくては」と思った。
また折り返し電話を掛けてくれる可能性もあるが
解約するまでに間に合うだろうか。
「お掛けになった番号は現在使われておりません」
それですべてを受け止めてくれることを願っている。
| 2023年10月25日(水) |
溺れる者は藁をもつかむ |
朝の肌寒さもつかの間。日中は25℃の夏日となる。
長期予報では今年は暖冬になるらしい。
冬野菜が心配だと農家の人が嘆いていた。
やはり冬らしい寒さが必要なのだろう。
昨夜は寝つきが悪かったがなんとか眠ることが出来た。
20年ほども飲み続けている薬を止めたのだから
体調が悪くなるのではと不安だったが心地よく朝を迎える。
今日こそはと思っていた。絶対に眠気が来ない自信があったのだ。
しかしいつもの山道に差し掛かるなりそれが襲って来る。
なんだか気を失ってしまうような酷い眠気であった。
幸い事故にはならず無事に職場に着きほっと肩の荷を下ろす。
薬が原因でないのならいったい何が悪いのだろうか。
医師に相談することも考えなければいけない。

私の足を気遣ってくれるお客さんから治療院を紹介してもらった。
指圧とマッサージで痛みを取り除くのだそうだ。
半信半疑ではあったが一度診てもらうことにして予約を入れる。
その治療院は遠方の津野町にあり片道3時間ほど掛かる。
私に運転が出来るはずはなく夫が引き受けてくれたが
「そんなもんで治るもんか」と疑っているような口ぶりであった。
溺れる者は藁をもつかむである。その藁を掴んでみなくては分からない。
整形外科の医師からはもう限界だと云われている。
その時はまだまだと思っていたが最近の痛みは度を越しているようだ。
スーパーで買物をするのも辛くなった。
カートを押していても思うように歩けなくなってしまったのだ。
荷物の持ち運びにもとても苦労している。
この痛みが少しでも薄れてくれたらどんなにか助かることだろうか。
予約は今度の土曜日。ドライブがてら行ってみようと思っている。

最後にはついあやちゃんのことを書いてしまうのだけれど
本人が読んだら気を悪くするだろうと心配でもあった。
もしかしたら傷つけてしまうかもしれないのだ。
腫れ物に触るような日々が続いており
かと云ってどうすることも出来ないもどかしさがある。
先日、出口のないトンネルなどないとここに書いたが
せめて少しでも光を届けてやりたくてたまらない。
二十四節気の「霜降」。冬の始まりを思わすような節気であるが
今朝はさほど冷え込まず日中も穏やかな秋晴れとなった。
そろそろつわぶきの花が咲く頃だが今朝はまだ見つけられなかった。
相変わらず朝の眠気が続いており今朝も危ないところだった。
山道をぼんやり走っていて対向車に気づくのが遅れてしまったのだ。
危機一髪のところでハンドルを切り事故を免れる。
先日から薬は職場に着いてから飲むようにしているのだから
やはり副作用ではなさそうである。いったい何が悪いのだろう。
昼間、常連のお客さんが来てくれてその話をしていたら
夜の薬がそのまま朝まで残っているのではないかと云う。
長いこと看護師さんをしていた人で真実味があった。
夜は精神安定時と抗不安薬を服用している。
精神安定剤は頓服であるが習慣になっており毎晩服用していた。
飲まないと眠れないような気がしてならないのだ。
おそらくそれが原因ではないかと云う。
その手の薬は歳を重ねるごとに副作用が強まるのだそうだ。
眠気はもちろんのことふらつきや眩暈もあるらしい。
もう20年ほど服用しているが昔は何も感じなかった。
40代から60代へと私も随分と歳を重ねたのだ。
今日のアドバイスはとても参考になり有難かった。
試しに今夜はその薬の服用を中止している。
これで朝の眠気が治まればやはりその薬が原因だと判るだろう。
薬のおかげで元気でいられる気がしていたが
薬ほど怖いものはないとも思い始めている。
このままでは死ぬまで薬漬けの日々が続くのかもしれない。

今夜は珍しくあやちゃんが娘達と一緒に夕飯を食べていた。
けれども一言も口を聞かずにいるのがとても気になっている。
おまけに服装も真夏のままで寒そうに見えた。
いくら気になっても口出しをしないようにと娘からきつく言われているので
なんだか無視するようなカタチとなり私まで気が塞いでしまう。
明るく笑顔を見せる日もあるのだ。今夜は虫の居所が悪いのかもしれない。
それにしても硝子細工のように見えて心細くてならなかった。
割れないでいて欲しい。ひびひとつもあってはならないのだ。
今朝は目覚める寸前まで母の夢を見ていた。
とても切実な顔をして「ガソリン代がない」と云う。
もう免許も失効し運転は出来ないのに何処にいくのだろうと思った。
生前からよくあったことで「お金がない」は日常茶飯事のこと。
特に私が会社の金庫番をするようになってから
母は自由にお金が使えなくなり困惑していたようだった。
夢の中で私は金庫から一万円札を出し母に渡した。
そうしたらとてもほっとしたように微笑む。
しかしその後忽然と姿を消してしまったのだった。
そうして目が覚める。母にお金を渡した後で良かったなと思う。
もし渡せないまま目覚めたらなんとも悔やまれたことだろう。
まだ三途の川は渡っていない。母は車なのでフェリーだろうか。
サングラスを掛け三山ひろしの歌を聴いているに違いない。
決して苦しく辛い旅ではないはずだ。笑顔のままで逝ったのだもの。
職場に着くなり義父に夢のことを話したら
持たせたお金が底をついたのかもしれないと言う。
途中にパチンコ屋さんがあったのかもしれないと。
義父は毎晩母の仏前にお寿司を供えビールをコップに注いでいるらしい。
そのことを今日聞くまで私は知らずにいた。
私はと云えばもう幾日もお線香も上げず母に会ってはいなかった。
いくら忙しくてもそれはあんまりことではないかと反省するばかり。
それ以前に私の薄情さが明るみになったと云っても過言ではない。
仕事を終えてからやっと母に会いに行く。
玄関を開けて「お母ちゃん」と声を掛けてから仏間に行った。
母は決して怒ってはいなかった。その微笑みに救われるような思いである。
母の夢を見なかったら仏前に手を合わすこともなかっただろう。
おざなりにしながら49日を迎えていたのかもしれない。
一万円で足りるだろうか。もし足らなかったらちゃんと伝えてね。
昨日よりも今日と冷え込んだ朝。
まだまだこれからの寒さだけれど老体には厳しい。
血圧が高いとよけいに不安がつのるばかりである。
買物に行くと真冬を思わすような服装の人を多く見かけた。
私はと云えば七分袖のシャツに秋物のベストを羽織っただけである。
なんだか貧乏くさいような引け目を感じずにいられなかった。
去年の今頃は何を着ていたのだろうと思う。
新しい服を買うような余裕もない。

秋晴れの好天に恵まれ夫とふたりぶらりと出掛けることにした。
先日行われた四万十川ウルトラマラソンのコースを走ることにする。
百キロなので2時間ほどのドライブになりそうだった。
昼食の心配もあり街でほか弁を買って行く。
夫はステーキ弁当、私はチキン南蛮弁当にした。
スタート地点まで行きさあここからだと云うところであったが
空腹に耐えられなくなり早めにお弁当を食べることにする。
四万十川の支流の後川(うしろがわ)の土手でお弁当を開く。
すると夫が川向の民家を指さし「あの家だったな」と言う。
そこはなんと息子の最初のお嫁さんの実家であった。
気立ての良い可愛らしい娘さんだったことなどを話す。
今となってはどうしようも出来ないことであったが
縁はあったもののなんと儚い縁だったのだろう。
子供さえ無事に生まれていたらと残念でならない。
息子に話せば「そんな昔のことを」と叱られてしまうだろう。
時が経て息子はまた新たに結婚したがそれも破局となった。
「病める時も健やかなる時も」と云うが
病には勝てなかったのだと思う。どうして息子を責められようか。
今はけい君とふたり楽しく暮らしているようで何よりのことだろう。
息子には息子の人生がある。私達父母はただそっと見守るしかない。
さて肝心のドライブであるがお腹がいっぱいになり眠くなってしまった。
まだスタート地点を過ぎたばかりである。どうする?と顔を見合わす。
「リタイヤしようぜ」と夫が云うので私も大賛成であった。
それにしても何と愉快な珍道中であろうか。
二人でくすくす笑いながらさっさと家に帰っていた。
帰宅して炬燵に潜り込むなり三時まで寝ていた。
夕飯はおでんの残りにはんぺんを足し「はんぺん鍋」にする。
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