| 2023年08月05日(土) |
共に白髪の生えるまで |
晴れたり曇ったり雨が降ったりと忙しい空。
いつ雨が降るか分からないので洗濯物が干せない。
再び沖縄を襲った台風はゆっくりの速度で北上している。
昨日は豊後水道あたりかと思っていたが今日には九州縦断のコースだった。
迷走台風なのでまたコースを変えるかもしれないが
影響を免れることはまずないだろうと思う。厳重な注意が必要である。
今夜は「あしずり祭り」の花火大会が土佐清水市で開催されるようだ。
今のところ雨は降っておらず予定通りに行われるだろう。
夕方になりそのことを知っためいちゃんが行きたがって
急きょ娘達は出掛ける準備をしているようだ。
あやちゃんは行かないのだそう。理由を訊いたら「めんどくさい」と言う。
だんだんと親と一緒に行動することが少なくなって行くのだろうか。
まだ11歳なのか。もう11歳なのか。

花火と云えば夫と知り合ったばかりの頃の夏を思い出す。
スピード婚だったので交際期間は短かったが
市の花火大会を川船で見に行こうと誘ってくれたのだった。
彼の父親の所有する川船であった。私にとっては初めてのことである。
その時彼のご両親を紹介されなんだか家族の一員になったような気がした。
今思えばすでに運命の一歩を踏み出していたように思う。
45年前のことだ。その夜のことは一生忘れることはないだろう。
新しい命を授かった。それも確かにその夜のことだと信じている。
川船から見る花火のなんと綺麗だったことだろう。
花火の欠片がきらきらと川面に落ちて行くのがとても儚かった。
それは一瞬のことだ。その一瞬にまた一瞬を重ねて行くのである。
そんなふうに私の運命も燃えながら散って行ったのだろうか。
共に白髪の生えるまで。そう誓ったわけではなかったけれど
気がつけば二人ともすっかり白髪頭の年寄りになった。
時々ふっと若い頃の面影を探そうとする時があるが
それはそうそう簡単に見つかるものではなかった。
声さえも違うように思う。長いこと聞き慣れているはずなのにだ。
今朝はまるで梨の実のような肌を見て一瞬たじろいでしまった。
それも馴染んだ肌ではあるがなんだか信じられなかったのだ。
この背中に爪を立てていたのかと思う。他の誰でもない自分がだ。
夫も同じことを感じているだろう。一匹のトドと暮らしている。
もうすでに諦めてはいるだろうが手の施しようがないことを。
一生変わらないことがあるのなら信頼関係だろうか。
姿形は変わっても「このひとでなければ」といつも思っている。
失うことが怖くてならない。その大切さは言葉に出来ないほどだ。
もし夫に先立たれたらと思うと気が狂ってしまいそうだ。
夫は「俺よりも長生きしろよ」と口癖のように言っている。
曇りのち晴れ。大気が不安定で日和雨が降ったりする。
台風は再び沖縄へ。停電や食糧難で大変なことになっているようだ。
迷走台風なのではっきりとした進路は分からないが
今日の予想では豊後水道あたりに接近するのではないだろうか。
高知県西部は台風の右側に当たるため大荒れになりそうである。
義父がお盆には稲刈りを予定しているがどうなることだろう。
とても順調に刈れるとは思えずはらはらと心配している。
職場は11日から16日までお盆休みであるが
もし稲刈りが出来なかったら義父の機嫌は如何ばかりか。
想像しただけで気が重くなってしまいそうだ。

入浴後、夫に足の爪を切って貰った。
情けないことだがもう一切自分で切ることが出来なくなった。
巻き爪でおまけに硬い爪でとても切り難そうである。
まるで家来が姫にかしづくような姿なのであるが
気の毒ではあってもなんとなく優越感に浸ったりするのだった。
夫の白髪頭がすぐ間近に見える。つむじがなんだか台風のようだ。
触れてみたい撫でてみたいと思いつつ少し緊張している私が居る。
「やれやれ」切り終わると夫はいつもそう言うのだが
まんざら嫌なわけでもなさそうで私はほっとするのだった。
おかげさまでといつも思う。他の誰がしてくれようかと思う。
「おらが死んだらどうするがや?」と言う。
それは考えたくもないことで目の前が真っ暗になってしまう。
どうしたらいいのか分からないことを訊かないで欲しい。
さっきから何度も自分の足先を見ている。
几帳面な夫らしい切り方でさすがだなと思うのだ。
曇り時々雨。ざあっと音を立てて雨が通り過ぎて行く。
台風6号は沖縄に被害をもたらしまたすぐにUターンするのだそうだ。
その後は九州、四国にかなり接近するらしい。
稲刈りの近い田んぼも気になり大事に至らないことを祈るばかりである。
11時より告別式。言葉に出来ないような複雑な気持ちだった。
故人が「泣いてくれるなよ」と言っているような気がする。
かと言って笑顔で送り出すようなことが出来るわけがない。
ずっと唇を噛みしめていた。なんだかとても悔しかったのだ。
人は必ず死ぬけれどそれは遅かれ早かれだと言う。
この世に生まれた時から決まっているらしい定命とは何か。
いったい誰が決めたことなのだろうかと思った。
霊柩車がクラクションを鳴らして遠ざかって行く。
故人の奥さんが助手席の窓を開けて小さく手を振った。

夢か現かよくわからない夢を見る時がよくある。
それは大きな飴玉のようなものを飲み込み窒息死する夢だった。
その時には夢だと認識できず現実のように感じてしまう。
だから思わず「あっ、いま死んだ」と心の中で叫んでいるのだった。
はっきりと目を覚ましてからやっとそれが夢だったことが分かる。
寝汗なのか冷や汗なのか沢山汗をかいておりぶるっと震えたりする。
歳を重ねるごとに死が身近になってきた。
これまでどれほどの人を見送ったことだろうか。
子供の頃に父方の祖父を見送ったがそれが最初ではなかっただろうか。
確か7歳ぐらいの時だっと記憶している。
その時中学生だった従姉妹が「もう会えんのよ」とお棺の傍で言った。
他のことはすっかり忘れてしまったがその事だけは今も憶えている。
病身でいつも床に臥せっており怒鳴り声を発する時もあった。
そんな祖父を子供心に恐ろしいと思っていたのだった。
それなのにもう会えないことがなんだかとても寂しかったのだ。
母の姉に当たる伯母は自死であった。
真冬の真夜中に家の裏山に登り池に足を浸して凍死した。
私は長男を身籠っており伯母の死顔を見ることが出来なかった。
妊婦は死人に触れてはいけないそんな風習があったのだろう。
最後のお別れが出来なかった。それは今でも悔やまれてならない。
思い出せばきりがないほど沢山の人を見送って来た。
今日もまた一人である。決して慣れるようなことではない。
長生きをすればするほどその数も増えていくことだろう。
そうしていつか私も見送られる日が来る。
その日が悲しい日であってはならない。
またきっと巡り合える日が来る。それは約束の日だ。
台風の影響で不安定な天気が続いている。
今日も時々にわか雨が降った。
病院からの帰り道、市内の葬儀社の前を通って驚く。
そこには以前から仲良くさせてもらっていた人の名が書いてあった。
同姓同名とは思えなかったのだ。ここ数日ずっと気になっていたので
間違いないと思い駐車場に車を停め葬儀社内の控室へと向かった。
その人はどう見ても眠っているようにしか見えなかった。
微かに笑みもたたえている。きっと安らかな最期だったのだろう。
不思議と悲しみも寂しさも込み上げては来ないのだった。
どうして冷静でいられるのか自分でもよく分からない。
ただ「やはり人は死ぬのだな」と漠然と思った。
今夜がお通夜であったが明日の告別式に参列することにした。
もう二度と会えないのだ。それなのにお別れの言葉も思い浮かばない。
ただ亡くなっても縁が切れるのではないのだと信じている。

禁煙外来最終日。今日で84日間の治療が終わった。
残念ながら卒煙は出来なかったが自分を責めるつもりはなかった。
結果はどうであれそれなりに努力したことを認めてやりたい。
医師の話では私のような患者は今までで初めてなのだそうだ。
具体的に言うと家では禁煙、職場でだけ喫煙と言うケースである。
私の場合は仕事を辞めたら煙草も止められるのだと思う。
それまで長くて10年、短くても5年ではないだろうか。
今日明日のことではなく長い目で見守ってやらねばいけない。
ずっと親身になって応援してくれていた医師や看護師さんには
本当に心苦しくてならず頭を下げることしか出来なかったけれど
にこやかな笑顔で背中を押してくれて本当に感謝してる。
看護師さんが「また何処かで会いましょうね」と言ってくれた。
それが優しさでなくて何だろうと思う。
無理な話だけれど私は毎日でも会いたいと思った。
禁煙を決意してからもう8ヵ月目になったようだ。
応援して下さった方々にはひたすら感謝しかない。
結局子豚は死ぬことが出来なかったが堂々と生きても行けないだろう。
ひっそりと息をしながら日々を乗り越えて行こうと思っている。
| 2023年08月01日(火) |
行ってみないと分からない |
曇りのち時々晴れ。気温は34℃。
山里では風がありさほど暑さを感じなかった。
昨夜ここに百日紅は散れない花だと書いてしまったが
今朝のこと県道沿いに散った桃色の花びらを見た。
職場の百日紅は散った形跡がないので勘違いをしていたようだ。
勘違いはそればかりではなく夏から秋まで100日間咲くと思っていたが
一度咲いた枝先から再度芽が出て花をつけるのだそうだ。
そのため長いこと咲いているように見えるらしい。
「散れば咲き散れば咲きして百日紅」そんな有名な俳句もあるようだ。
ついつい憶測で文章を書いてしまうことが多いが
気になったことはちゃんと調べて書く習慣を付けたいものだと思う。
目から鱗のこともきっとたくさんあるのではないだろうか。

仕事の合間に同僚と会社の「これから」のことを話していて
後何年持つのだろうかと。二人で5年くらいかなと勝手に決めていた。
それはあくまでも理想であり実際はもっと長く続くのかもしれない。
社長である義父が健在である限りと言った方が正しいだろう。
縁起が悪い話ではあるが義父にもしものことがあればそこで終わりである。
人一倍タフな義父はそんなことは全く考えていないようであった。
もし10年としたら私達はどうなってしまうのだろう。
私は77歳になるし同僚は70歳になってしまう。
90歳の義父を想像すると気が遠くなってしまいそうだった。
難破船のような会社であるが難破よりも老朽化が激しくなる。
それは気合で乗り越えられることでは決してないと思う。
前途洋々とは思えないが前途多難でもなさそうである。
ただこの先何が待ち受けているのか行ってみないと分からないのだ。
以前は意気込んでいた頃もあったけれど今は惰性で動いている。
一日が無事に終わればまた明くる日が待っているその繰り返しであった。
私は時々ふっと義父の死を考えてしまうことがある。
どんなふうにしてすべてが終るのだろうと思うのだ。
けれどももしかしたら私が先に死んでしまうかもしれない。
それは誰にも分からないことであった。
そうかと思えば元気に長生きをして欲しいと願っている。
そうして私も生きたいと強く願わずにはいられないのだった。
大気が不安定らしく時々ぱらぱらと雨が降った。
猛暑は和らいでいたが蒸し暑さは変わらない。
百日紅はやはり散れない花で実のようなものが付いている。
それが種だとしたら何処かに植えたら新しい木になるのだろうか。
我が家に土の庭があれば植えてみたいが生憎コンクリートの庭だった。
家を建てた時に土の庭は要らないと言ってしまって後悔している。
それにしても猫の額ほどの庭のこと。木が育つかどうか分からないが。
私が嫁いだ頃にはまだ古い家で中庭があった。
その庭もコンクリートであったが今の庭よりも広く
姑さんがプランターに沢山花を植えて育てていた。
それは舅さんが亡くなってからだったと記憶している。
花を見ながら寂しさを紛らし心を和ませていたのだろう。
家を建てる時に古い家は取り壊したが、花の行方は憶えていない。
姑さんが諦めたとは思えず仮住まいに運んだのかもしれない。

7月も晦日となりあまりの早さに途惑うほどである。
職場で義父と話していて立秋が近いこと、お盆が近いこと。
お盆を過ぎれば朝晩が涼しくなり秋めいてくることなど。
その頃には稲刈りもほぼ終わっていることだろう。
今日の義父はとても穏やかでほっと嬉しかった。
虫の居所が悪い時はおそらく忙しくて苛々しているのだろう。
私や同僚が邪魔をするわけはないがつい当たり散らしてしまう。
義父の性格は分かり切っているつもりだが辛く感じる時が多い。
ふと思うのは母はどうして義父を好きになったのだろうと。
遡ると母は28歳、義父は23歳の頃だったようだ。
今更二人に訊くことは出来ないがこれは永遠の謎なのだろうか。
運命の歯車のようなものが確かに動いていたらしい。
「運命」と言ってしまえば何もかもがそうである。
それは私のこれまでの人生にも当てはまることであった。
ひとつひとつ選んで来たのだ。どれほど迷ったとしてもだ。
過ぎたことよりもこれからをと最近はよく思うのだけれど
あとどのくらいなのかと思うと心細くてならない。
ある日突然に終るのならもっともっと精一杯に生きなければと思う。
| 2023年07月30日(日) |
涙が出るほど嬉しいこと |
曇り時々雨。薄日が射す時間帯もあった。
大気が不安定なのは台風6号の影響らしい。
週間天気予報ではしばらくすっきりしない天気が続きそうだ。
ちょっと嫌なことがあるとすぐに鬱々としてしまう。
そういう性分なのだろうが自己嫌悪に陥ってしまうのだった。
もっとさっぱりとした人になりたいが思うようにはいかないものだ。
神経質なのは父親譲りなのだと思う。
そう云えばいつも朗らかな人ではなかった記憶が多い。
朝のうちに少しでも本を読もうと開いたものの
5分もしないうちにまた酷く眠くなってしまった。
午前7時のことである。横になるとそのまま9時まで寝ていた。
やはり異常なのかなと思うけれどもう慣れてしまったような気もする。
週末は殆ど本を読めない。まあそれも仕方ないことなのだろう。
なんとなく気分転換をしたくなりまた「一風」まで出掛ける。
とにかく美味しいものを食べたら元気になるような気がしたのだった。
夫は冷やし中華セットにしたが私はラーメンセットにした。
汗を流しながらラーメンを食べるのも心地よいものである。
食後すぐに帰るのももったいない気がして少しだけドライブ。
私の職場のある三原村まで行って土佐清水市まで山道を走った。
この道は昔「ツガニ漁」をしていた時に通っていた道で懐かしい。
夫は30歳、私は25歳だったか。若い時の大きな苦労でもあった。
私達の口癖は「あの時あんなことをしなければ」とつい言ってしまうが
その大きな苦労があってこその「いま」なのではないだろうか。
過ぎてしまったことは決して悔やんではいけないのだと思う。
2時前に帰宅。またすぐに横になり4時まで寝ていた。
とにかく外に出なければ私は一日中寝ているのではないだろうか。
4時に起きて録画してあった「ポツンと一軒家」を見た。
一軒家の主が66歳で私と同い年であったのが興味深かった。
夕食は焼き肉。昨夜こっそり鰻を食べたことはすでにバレていた。
お向かいの奥さんが天然鰻の蒲焼を持って来てくれて思いがけなかった。
ご主人が定年後、四万十川で川漁師をしているのだった。
天然鰻などめったに食べられない高級品である。
夕食後、珍しくあやちゃんが私より先にお風呂に入った。
「おばあちゃん、滑るかもしれんけん気をつけて」と言ってくれる。
そんな何でもないような一言が涙が出そうなくらいに嬉しかった。
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