曇り日。時おり陽射しがあったが気温はあまり上がらず
厳しい暑さも一休みのようであった。
帰宅途中の県道沿いに浜木綿の花が咲いているのを見つけた。
はっと思い出したのはお大師堂のことである。
今年もきっと咲いていることだろう。
年明けの2日に初詣に行ったきりずっと足が遠のいている。
花枝の管理も怠りなんと無責任なことだろうか。
最初のうちは気になって仕方なかったが月日が経つうちに
「まあいいかな」と思うようになってしまったのだった。
なんと罰当たりなことだろうと今更ながらに思う。
足の痛みのせいにするのは卑怯なことなのかもしれない。
しかし実際のところ河川敷に車を停めて歩くのが辛くなっている。
浜木綿の花は人影に似ていてお遍路さんの姿と重なった。
これまでお大師堂でどれほどの出会いがあったことか。
あの日あの時と思う一期一会がとても尊く思えてならない。

今日は待ち兼ねていた松下さんからの感想が届いた。
漠然と思ったのは私はいったい何を求めていたのかと云うこと。
決して期待外れではなかったが張り詰めていた糸が一気にしなり
ゆらゆらと揺れながら繋がっているような感触であった。
結論から言うとこのまま私が成長することはあり得ないと思う。
学ぶところまで到達しない。うまく表現できないけれど
たとえば私が学生だったとしてひたすらノートを取っているが
そこから何を学べば良いのか理解し難いような感触である。
「ここが駄目なんですよ」「こんなんじゃ詩とは言えない」
それくらいの厳しさがなければ私は成長できないと思う。
ただ嬉しかったのは松下さんがしっかりと私の詩を読んでくれたこと。
読んでくれたからこそ感想を述べてくれたのだと思う。
読みもしないのに感想は言えるものではないだろう。
それだけでも通信教育を続ける意義があるのではないだろうか。
先日ここに博打のようなことだと書いたがもう勝負は始まっている。
決して勝ち負けではないが私は賭けているのだった。
66歳の老いぼれがである。若い頃のように感性もない。
はっとするような魅力もなければ美しい言葉も綴れない。
それでも必死の思いで生き永らえようとしているのだった。
私はよくそれを「この道」と表現するが
信じていなければどうして歩むことが出来ようか。
おおむね晴れ。猛暑日ではなかったが厳しい暑さとなる。
そろそろ梅雨明けの発表があるのではないだろうか。
今日は富山で大雨。土砂崩れがあり一人が犠牲になったようだ。
地域のリーダーであり住民に避難を呼びかけていた直後の事らしい。
残念でならないがその人のおかげで助かった命もあるのだろう。
名誉な死なのかもしれないけれど心が痛んでならない。
いつ何処でどんな死に方をするのか誰にも分からないのだ。

工場の周辺に「つゆ草」の花がたくさん咲いているのを見つけた。
思わず「まあ可愛らしいこと」と声を掛けていた。
16歳の頃だったろうか「つゆくさ」と云う詩を書いたことがある。
当時のノートにも書き残してはおらずどんな詩だったのか忘れたが
なぜか題名だけは憶えていてとても懐かしく思った。
50年後の「つゆ草」はどんなふうに咲いているのだろう。
すでに純真な心を持たない今の私にはとても書けそうになかった。
松下さんに送った詩の感想がまだ届かない。
一週間以内に送ってくれるそうなのでもう少し待ってみようと思う。
「通信教育」なのでメールに添付して詩を送ったのだった。
毎月一編の詩を受け付けてくれるのだそうだ。
厳しい意見と云うか感想をひたすら待っている。
間違っても褒められることは決してないだろう。
これはなんだか私の挑戦のようなことなのだろうと思う。
出来ればとことん痛めつけて欲しいと願っている。
そうでなければ私は成長することが出来ない。
今のままで生き永らえて恥を重ねて行くしかないだろう。
生き永らえればまだ良いがぽっくり死ぬことだって在り得る。
そうなった場合、どれほどの悔いが残るだろうと思うのだ。
思い残すことがないようになどと。それは綺麗ごとだろう。
それだけ生きることを全うするのは難しいことなのではないだろうか。
今夜もまた何を言いたいのか訳が分からなくなってしまった。
私は本当に書きたいことを書いているのだろうか。
それさえも分からなくなる時がある。
| 2023年07月12日(水) |
いつかは終わるそして始まる |
曇り時々晴れ。暑さは少し和らいでいた。
北九州では追い打ちをかけるようにまた大雨が降ったようだ。
関東では危険な猛暑となり八王子で39℃と聞き驚く。
異常気象と一言では済まされないことなのだと思う。
大雨も猛暑も命に関わることである。
私たち人間はどうやって身を守れば良いのだろう。
まだ外は明るく夕風に吹かれながらこれを記している。
やはり自然の風がいちばん良いように思う。
昨夜はここに5機のエアコンをフル稼働と書いてしまったが
エアコンを数える時は「機」ではなく「台」もしくは「基」が
正解なのだそうだ。学が無いとこんな失敗もある。
書き直す必要はないだろうと今ここで訂正させてもらった。
詩もそうだがこうして雑文を書いていても学がものを言う。
頭の良い人は文才が多く、そうでない人は凡才が多い。
学歴は無くてもいかに学ぶかなのではないだろうか。
それを言ってしまうと私などは学歴もなく学ぶこともしない。
そのくせ変にプライドがあるものだからそれが曲者である。
いったい何を書きたいのか分からなくなったので一呼吸置こう。

図書館に予約していた椎名誠の新刊が手に入ったので読み始めたが
なんとなく違和感を感じるのはどうしてだろう。
ずっと古い本ばかり読んでいたのでそのせいかもしれない。
言葉は悪いが一気に老けてしまったのだ。
顔にハリが無くなるように文章にもハリがないように思う。
それとやたらふざけた文章が多いのも気になってしまうのだ。
おやじギャグのつもりだと思うが空振りしているように感じる。
80歳が近いのだからそれも仕方ないことかもしれない。
だからと言って決して嫌いになんかならないし
これからも読み続けていきたいと思っている。
椎名さんもいつかは死ぬのだなと漠然と考えている。
もしかしたら百歳まで書き続けるかもしれないが
私が先に逝ってしまうわけにはいかないだろう。
ずっと傍にいることは出来ないが寄り添うことは出来る気がする。
椎名さんがひとつ老いたら私もひとつ老いていく。
平行線は決して交わることはないがゴールする場所は同じなのだ。
死んだらすべてのことが終るらしいが
私は始めてみたいと思っている。
いったい何を始めるのか上手く言葉に出来ないけれど
そのためには寿命を全うするしかないのではないだろうか。
| 2023年07月11日(火) |
丁と出るか半と出るか |
西日の当たる部屋のなんと暑いこと。
室温が34℃もあり堪えきれずにエアコンのスイッチを入れた。
現在我が家では5機のエアコンがフル稼働していることになる。
電気代が怖ろしいがとても我慢は出来そうにない。
それよりも少しでも快適に暮らすことを優先するべきだろう。
昼間は市の防災放送があり熱中症の注意を呼び掛けていたらしい。
高齢者は特にエアコンを我慢することが多いのだそうだ。
仕事を終えて帰宅したら庭先の花たちがしょんぼりと項垂れていた。
朝の水遣りを疎かにするとこの有り様である。
一度枯らしてしまうと取り返しがつかなくなるので可哀想だが
ついつい忘れてしまうことが多く後になって悔やまれるのだ。
そうかと言って花のない暮らしは侘しい。
日光に強い夏の花があるだろう。たとえば「日日草」とか。

昨日のことだが詩人の松下育夫さんが主宰する「詩の通信教育」に
発作的に申し込みをしてしまった。何か直感のようなものを感じたのだが
それが正しいことなのかは今は全く分からない。
言葉は悪いが博打のようなもので丁と出るか半と出るかである。
本音を言えばこの歳になって「通信教育」が相応しいのかどうか。
けれども人は幾つになっても学ぶことが大切なのではないだろうか。
少なからずプライドもあるが傷つけられることはないと思う。
日頃から松下さんの人柄は熟知しているつもりなのだが
こればかりは実際に触れてみないと分からないことなのだろう。
私は残された人生に賭けていると言っても他言ではない。
そんな大げさなことをと笑われてしまうかもしれないけれど
あと10年なら10年の。あと20年なら20年の
私の「カタチ」を求めているのだった。
それは決して他の人にはない私だけのカタチである。
遊び半分で毎朝詩を書いているのではない。
それは私の息そのものであり命そのものだと思っている。
松下さんにそれが伝わる自信はまったくないが
もしかしたら私を救ってくれるかもしれない。
それは思い上がりかもしれないけれど私は藁にも縋る思いであった。
一編の詩を送信し、その返事を待っている。
雨のち晴れ。朝方の雨はにわか雨だったようだ。
日中はよく晴れて厳しい暑さとなる。
福岡県、大分県では大雨特別警報が出され河川の氾濫、土石流など
亡くなられた方や行方不明の方もおられなんとも心が痛む。
大分と聞き真っ先にとくさんを思ったが大分市内は大丈夫のようだった。
けれども同じ県内の水害に気が気ではなかったろうと察せられる。
雨雲は明日も停滞するとのこと。これ以上の被害が無いことを祈るばかりだ。
今朝は山里に着くなりもう稲の穂が出ているのを見て驚く。
稲の成長は早くあとひと月もすれば稲刈りになるのだった。
これから台風シーズンとなるので心配ではあるが
どうか無事に収穫が出来ますようにと祈っている。
義父は今日も消毒だった。いもち病が拡がっているらしい。
本業の仕事も忙しいがどうやら二の次のようだ。
とにかく要らぬ口を挟んではいけない。義父の顔色を窺うばかりである。
そんなこともあってかやはりストレスを感じずにはいられない。
だから喫煙が許されるとは思ってもいないが
多少のきっかけにはなっているようで考えさせられる。
それは同僚も同じなのではないだろうかと思う。
同類相憐れむではないが同僚は確かに私を憐れんでいるようだ。
それは今までもずっとそうだったしこれからもあり得ることだろう。
3本が6本になりとうとう10本になろうとしている。
最初のうちは有難迷惑だと思っていたが今はそうは思わない。
有難くて涙が出そうになる時がある。
かと言って嬉しくはないのだ。これはとても複雑な心境であるが
私は心の片隅で吸いたくて吸っているのではないと思っている。
同僚が心を鬼にしてくれさえしたら禁煙は完璧なのだと。
そう言ってしまえば責任の転嫁になってしまうだろう。
一番の問題はやはり私の意志の弱さなのだと思う。
その弱さを強さに変えるには人としての本質というか難しいが
根本的な問題を解決していかなければいけないのだと思う。
「変わりたい、さあ変わりましょう」そんな簡単なことではない。
たとえば私の性格そのものを変えるとなると困難に思える。
生まれつきのものもあるだろうし育ってきた環境もあるだろう。
私という人格は自ずから作ったものではないのかもしれない。
その私を客観的に見ることも必要なのではないだろうか。
こうして書いているときりがなく増々複雑化してくるが
私は決して自分を正当化しようとしているのではない。
私はこれまで生きて来たしこれからも生きて行く。
喫煙は愚かなことかもしれないけれど
決して私を貶めるものではないのだと思う。
猛暑日ではなかったようだが朝から蒸し暑く汗が流れる。
梅雨が明けたら本格的な夏となるが乗り越えられるのだろうか。
年々夏の暑さが身に応えるようになってしまった。
電気代が気になりエアコンを節約しなければと思うが
家の中に居ても熱中症で亡くなられる方もいるらしく
電気代の負担よりも命を守ることの方が重要なのだろう。
けれどもよほどの貧乏性なのか今は我慢していて夕風に吹かれている。
窓を開け広げて西の空を仰げば熱を帯びていた夕陽も
こころなしかひっそりと鎮まっているように見える。
もう少しで日が暮れるだろうとひたすら夜を待っている。

朝の家事が終ってから少し本を読んでいたがまた眠気に襲われる。
つくづく異常なことに思えるが病気ではないのだそうだ。
一時間ほど眠り買物に行き帰宅してからまたお昼まで寝る。
昼食後また二時間ほど寝たのでいったい何時間寝たのやら。
病気ではないのだとしたらただの怠け者としか思えない。
当然のように家事は最低限のことしかやっていないのだった。
実はまだ冬物の衣料も片付けられずにいる。
そのうちにと思っているといつのまにか夏になっていたのだ。
今日ふっと考えたのはそのうちに秋になりまた冬が来るだろうと。
じゃあそのままでも良いのではないかとひらめいたのだった。
それはとても良い考えに思えて随分と気が楽になった。
出来ないことを数えるよりも出来ることを大切にしよう。
こんな私にだって出来ることがある。
決して完璧ではないけれど私らしいやり方があるのだと思う。
そこで私は決して輝いてはいないけれど
自分らしさに誇りを持っていることだろう。
今日出来たことは少しだけ。明日もきっと少しだけだと思う。
けれども不思議と満たされているのは何故だろう。
窓の外を見たらいつの間にか夜になっていた。
空の寝息が聴こえる。私の寝息は誰が聴いているのだろうか。
まるで梅雨が明けたかのような快晴。
厳しい暑さとなり一日中エアコンのお世話になっていた。
今朝の天気予報で高知と札幌の最高気温が同じと聞き驚く。
暑さに慣れない人達にとっては辛い一日だったことだろう。
朝食時、夫が「今日でもう4年か」と呟き一緒に頷く。
4年前の今日、入浴後に転倒し後頭部を強打したのだった。
救急車で県立病院に搬送されそのまま入院となった。
最初は経過が良くすぐに退院出来そうであったが
退院予定日の前日に「硬膜下出血」となり緊急手術となってしまった。
頭部の手術でありどれほど心配したことだろうか。
もし退院後の事だったら危うく手遅れになるところだった。
4年前のことであるがつい昨日のことのようによく憶えている。
あの言葉に出来ないような緊迫感はまるで悪夢のようであった。
ぎっくり腰は痛みの峠を越えたのか少しマシになったようだ。
昨夜は夕食後すぐにベッドに横たわっていたのだけれど
今夜は茶の間でのんびりとテレビを見ている。
颯爽と動けるようになるまではまだ数日掛かりそうだが
ひとまずは安心で私もほっと胸を撫で下ろしている。
とにかくいつ何があるやら分からないのだ。
怪我や病気だけではなく自然災害もあり得ることだろう。
平和であればあるほど「いま大地震が来たら」と不安になる時もある。
「あたりまえの危うさ」という言葉があるのを知っているだろうか。
なんだかしみじみと身に沁みるような言葉のように思える。
朝目覚めて空を仰ぎ夜明けを待つこと。
朝食の支度をし夫と向かい合って食べること。
洗濯物は乾くかしらと天気予報を見ること。
今夜は何が食べたい?と訊き買物にいくこと。
午後は眠くなったらお昼寝をすること。
娘と肩を並べて夕食の支度をすること。
数えたらきりがないほどの「あたりまえ」で溢れている。
それはとてもささやかな日常のことであるがもしそれが出来なかったら
それこそが「危うさ」なのかもしれない。
日々を暮らしながら何もかも当たり前のことだと思い込んでいる。
幸せを感じることもなければ感謝することもないのだろう。
それがある日突然に崩れてしまうことがあるのだ。
その時に初めてどれほど幸せだったのかを思い知るのだろう。
一日の終りに感謝する。有難うございました。
どうか平穏無事に朝を迎えられますように。
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