高知県西部は幸い大雨にはならなかったが
線状降水帯が発生した地域では土砂崩れで亡くなられた方がいるようだ。
たかが雨と侮ってはいけない。どんな危険が襲って来るのか分からない。
51年前の繁藤災害を思い出す。大勢の犠牲者を出した痛ましい災害だった。
あれも梅雨の最中だった。7月5日の早朝だったと記憶している。
息子が日勤だったので朝からけい君を預かっていた。
先ほど仕事を終えた息子が迎えに来て帰って行ったが
晩御飯はお父さんと食べたいと言って何も口にしなかった。
あまりの健気さにほろりと涙が出そうになる。
今日はあやちゃんとも遊べず寂しかったことだろう。
それなのに我儘も言わずよく辛抱したものだと思う。

朝のうちに図書館とカーブスへ。
けい君はおじいちゃんとお留守番だった。
図書館ではまた椎名誠の本を4冊借りて来る。
新刊も出ているのだが予約待ちでまだしばらく掛かりそうだ。
今日は2年前に出た写真とエッセイの本等にした。
とにかく出版されている全ての本を読みたいと思っている。
今年もあと半年になったが「目標」があるのは良いことだ。
カーブスでは足の痛みが軽く心地よく汗を流した。
3B体操の仲間だったSさんが優しく声を掛けてくれて嬉しかった。
いつも私の足を気遣ってくれるのだ。なんと有難いことだろう。
Sさんも膝に痛みがあるのだそうだ。けれども溌溂としていて
笑顔で頑張っている姿を見ると私も励まされるような気がする。
痛みに耐えているのは決して自分一人ではないのだった。

午後テレビを観ていてはっと我が身を振り返ったことがある。
芸能人が俳句を作って有名な俳人の先生に指導を受けていたのだが
なるほどと思うくらい目から鱗であった。
私は誰かから教わったことがあるだろうかとまず思った。
短歌にしても詩にしてもずっと昔から自己流ではなかったのか。
この50年間ただただ突っ走って来たのではないだろうか。
私の詩を「詩になっていない」と言ってくれたDさんや
「SNSで発信するのを止めた方が良い」と言ってくれたK子さん。
それは今まで誰も言ってくれなかった貴重な意見なのだと思う。
そこから私は大切なことを学ばなければいけないのだ。
卑屈になっている場合ではなかったのである。
人生はある意味「学び」ではないかと思う。
そうして壁にぶつかりながら人は成長していくのだろう。
ぽつぽつと小雨が降っている。
九州北部から中国地方にかけてはかなりの雨が降ったようだ。
「線状降水帯」と云う言葉が当たり前のように発せられるようになった。
昔も集中豪雨はあったがそれとはまた違った降り方なのだろう。
6月晦日。一年の折り返しとなり後半の平穏を祈らずにいられない。
まだこれから台風シーズンとなり油断の出来ない時期となった。
紫陽花の花が日に日に枯れ始めている。
今朝はそんな紫陽花に想いを寄せて詩を書いてみた。
K子さんの反応が気になっていたがスルーされていた。
やはり不快な詩を書いているのだろうか、自分ではよく分からない。
いつまでも人目を気にしていてはいけないと思うのだが
一度受けたショックからなかなか立ち直れずにいる。
何を言われても私は私なのだ。もっと胸を張って堂々としていよう。
夏を代表する花に百日紅がある。
今日は職場の庭の片隅にそっと咲き始めているのを見つけた。
昔、母が鉢植えにした木なので小さな百日紅ではあるが
紅よりも少し薄い鮮やかな桃色をしている。
母が見たらどんなにか喜ぶことだろうか。
夏には夏の花が咲く。当たり前のようでいて奇跡のようなことだ。
四季折々の花のことを想う。みんな精一杯に生きているのだろう。

ダイエットは二の次にしてしまったのでどうしようもないが
豆腐を主食にすることはずっと続けている。
いろんな豆腐を食べてみてやっとお気に入りの豆腐が見つかった。
豊ノ島には申し訳ないが梶原食品の豆腐ではない。
食品会社の名前は忘れたが豆腐の中に柚子が入っているのだった。
木綿ほど固くなく絹ほどは柔らかくなくとても食べやすい。
何よりもほんのりと柚子の香りがしてすっかり気に入ってしまった。
お値段は少し高めだがたまに半額の時がありラッキーと思う。
飽きもせず毎日豆腐を食べているが、未だ何の成果もない。
禁煙も未だ完璧ではなかった。と、言ってしまえば軽蔑されるだろう。
それでもいいかなと思っている。所詮子豚は子豚なのだった。
ただ言っておきたいのは吸いたくて吸っている訳ではなかった。
異常なほどの眠気と毎日闘っているのである。
煙草の覚醒作用はカフェインよりも偉大なのではないだろうか。
自分をコントロール出来ないのはとても辛い。
時々気が狂ってしまったのではないだろうかと思う時もある。
禁煙外来の医師や看護師さんが「ぼちぼち」と言ってくれたことで
ほんとうに救われたように思っている。
少しずつ本数を減らす努力を続けて行かなければいけない。
子豚は豚小屋の隅で小さくなっている。
悲しい訳ではないけれど時々たまらなく涙をこぼす時もあった。
昨日のこともあり今日は洗濯物を外干しせずに出掛けたが
午後少し曇っただけで雨は降らずなんだか損をしたような気分だった。
明日からはまた梅雨空が戻ってくるのだそうだ。
山里では義父が稲の消毒に追われていてあたふたとしている。
雨が少しでも降ったら消毒が台無しになるので焦っているのだろう。
苛立ちもあるのかちょっとしたことで当たり散らしたりする。
義父の性格は分かり切っているつもりでも辛い思いをする時もあった。
血の繋がりこそないが「おとうさん」と呼んでいる。
義父は私のことを名前で呼んでくれるが
他人に紹介する時は娘ではなく「事務員」と言うのだった。
社長からしたらそれは当然のことであまり気にはならないが
よく事情を知らないお客さんから「奥さん」と呼ばれるのは嫌だ。
「おばさん」と呼ばれるよりはマシかもしれないが
大概の人が私のことを義父の奥さんだと勘違いしているのである。
おそらく義父が実年齢よりも若く見え、私が老けているからだろう。
母が一緒に仕事をしていた頃にはそんな間違いはなかったが
母が施設に入居してから随分と歳月が流れてしまった。
その母から夕方珍しく着信があった。
携帯電話の着信を知らすランプが点灯していたのに気づいたのだろう。
それは2週間程前に私が掛けていたのだった。
いくら鳴らしても出ないので諦めて切ったことがあった。
もう電話は無理だなと思っていたところに今日の着信である。
心配していた熱は母も忘れるくらいにすっかり治っており
点滴もしていないと言ったが本当かどうかは分からない。
施設の看護師さんからはその後連絡が無かったので信じたいと思う。
「晩御飯はなあに?」と母が問う。
「天下茶屋よ」と応えた。
天下茶屋とは宿毛市内にある野菜炒め風の焼き肉屋さんの名だった。
「ほんじゃけんええ匂いがする」と母が言う。
「ビールも冷えちょるけん来たや」と私が言ったら
「ははは」と母が笑った。母の笑顔が見えるようであった。
「じゃあね、ばいばーい」と母が言った。
「うん、またね。ばいばーい」ぷっつりと母がまた遠くなった。
奥さんは母なのだ。それは誰が何と言っても母しかいないと思った。
寝不足の朝。蒸し暑く寝苦しかったのか殆ど眠れなかった。
いつものように4時に起きたがさすがに何も書けない。
書きたい気持ちはあるのだが頭に靄が掛かったようになっていた。
大げさかもしれないけれど歯がゆくてならない。
パソコン画面をぼんやりと見つめながら時間ばかりが過ぎてゆく。
45分程そうしていてとうとう「書けない」と発信した。
そんなこと誰も気に留めないだろうと思っていたのだけれど
いつもと同じくらい反応があってとても驚く。
SNSとは元来そういうものなのかもしれない。

大気が不安定で昼間にわか雨が降ったようだ。
山里ではぽつぽつだったので気にしていなかったけれど
家では夫が洗濯物を取り入れるのに大慌てしたらしい。
お向かいの奥さんは布団を干したまま出掛けており
お隣の奥さんが勝手知ったるで取り入れたそうだ。
都会なら在り得ないことだろう。そんな田舎らしさが好きだなと思う。
ご近所さんから夏野菜のお裾分け。それも田舎ならではである。
無農薬の新鮮な野菜は本当に有難い。
姑さんが健在だった頃は野菜作りに精を出していたけれど
茄子一個でも勝手に採ってはいけなかった。
たまたまご近所さんから頂いたりするとすごい剣幕で叱られた。
家にある物を他人様から貰ってはいけないのだと言う。
それは当然のことのようでもあったが私は胡瓜が欲しかった。
トマトも茄子も欲しくてたまらなかったのである。
厳しい姑さんだったのであまり良い思い出はなく
辛かったことばかり憶えている。
一つくらいは嬉しかったことをとよく思うのだけれど
辛さの方が勝ってしまって嬉しさは小さくなってしまうのだった。
思い出すたびにああ嫌だなと思う。じゃあ思い出さなければいいのに。
結局それって自分が可哀想でならないのだろう。
そんな自分の性格にはほとほと嫌気が差している。
これほどまでに幸せなのになんと罰当たりなことだろう。
過ぎ去ったことを変えることは出来ないが
これからのことを意識的に変えることは出来るのではないだろうか。
運命には逆らえないが運命に従うことは出来る。
ひとつひとつ受け止めながら未来の自分に会いに行く。
最高気温が30℃を超え真夏日だったようだ。
今は夕風が心地よく涼風に吹かれながらこれを記している。
午後7時。外はまだずいぶんと明るい。
階下の食堂では娘たちが夕食を食べていて微笑ましい声が聴こえている。
家族ではあるけれどなんだかお隣のご家族のようにも思える。
決して邪魔をしてはならないと思うとふと寂しさを感じるのだった。
同居を始めて今年で9年だろうか。ずいぶんと歳月が流れた。

夜明け前もそうだったが今夜も思うように書けない。
書きたくてたまらないのにいったいどうしたことだろう。
少女時代には鍵付きの日記帳に書いていた。
机の引き出しに入れてあったがある日学校から帰ったら
鍵が壊されていて誰かが読んだ形跡があった。
父であることはすぐに分かったが私は咎めることをしなかった。
読みたければ読めばいいと思っていたのだろう。
それからもずっと書き続けていたように思う。
記憶は曖昧ではっきりと憶えていないのだった。
その日記帳を捨てた記憶もないまま今は行方不明になっている。
どんなことを書いていたのだろう。まったく思い出すことが出来ない。
日記帳とは別にノートに詩を書いていた。
それはいつも学校へ持って行っていたので父には見つからなかったようだ。
学校でも友達に見せることはなかったが好きな人には見て欲しい。
恋の詩ばかりだったからそれは当然のことだったのだろう。
今思えばなんと厚かましい押しつけがましい行為であった。
ノートは6冊ほど。それは奇跡的に今も私の手元にある。
ある意味放浪的な人生であったが肌身離さず持っていたのだった。
何度か断捨離をしたがどうしても捨てることが出来なかった。
ここでもまた死後のことを考える。押し入れの中から発見される訳だが
娘だろうか、それとも孫たちだろうか。手に取って読んでくれるのか。
もしかしたらゴミとして捨ててしまわれるかもしれない。
それならばいっそ遺書をしたためお棺に入れてもらう手もあるだろう。
焼かれて灰になるのがいちばんのように思えてならない。
さてどうしたものか。これは生きているうちに考えておかねばならない。
名のある人の物なら貴重な遺品となるであろうが
名もない凡人の残した物など誰も見向きはしないだろう。
なんだか虚しいものですな。哀しいものですな。
雨が降りそうで降らず。この上ないような蒸し暑さとなる。
紫陽花が日に日に枯れ始めて憐れでならない。
特に純白の紫陽花は苦しんでいるように見える。
潔く散れたらどんなにか救われるだろうか。
私は決して純白ではないけれど黒い紫陽花でもない。
あらゆる花があるけれど黒い花はないのではないだろうか。
野に咲く花は黄色が多いが黄色い紫陽花もなかった。
決められた色とカタチ。花には花の生き方があるのだろう。

椎名誠の「北への旅」読了。東北北部の写真と旅行記である。
写真はすべてモノクロで雪のある風景などとても風情があって良い。
白と黒なのだ。混ざり気のない自然のありのままの姿である。
文章はとても軽快でさっぱりとしていて清々しい。
読んでいると無性に自分も書きたくてたまらなくなってくる。
そうして今、さあ書こうと意気込んでも思うように書けない。
もどかしくてならないけれど所詮素人のWeb日記であった。
毎晩こつこつと書き続けているがいつかは消えてしまう運命である。
せめて私が生きているうちはと思っているがどうなるのだろう。
死後の遺品にでもなれば救われるがそれも在り得ないと思う。
ようは「執着心」なのだ。自分の書いたものに執着する。
その欲さえ捨てられたら綺麗さっぱりと忘れられることだろう。
死んだら懐かしむことも思い出すことも出来なくなる。
息も出来なくなるのだから当たり前のことなのだ。
そうかと言って命にしがみつくのも程々にしようと思っている。
最近つくづくと「みっともない」と思うようになった。
まだまだ生きたいけれど「もういいかな」と思う時もある。
出来ればある日突然ではないのが理想的であるが
神様が決めるのか仏様が決めるのか分からないことだった。
まっいいかどうだって。死ぬ時が来ればみんな死ぬのだから。
だらだらと書き連ねているうちに収拾がつかなくなった。
酔いも回って来て意識も朦朧としてきてもう訳が分からない。
みっともない。ああみっともない。
曇り日。気温はさほど高くなかったが蒸し暑い一日だった。
ぐっすりと眠ったつもりだったがやはり朝方の眠気が酷い。
最低限の家事を済ませてから一時間ほどうたた寝をしていた。
寝室に夫婦のベッドがふたつ。隣の日本間にけい君のベッド。
襖を開け広げていてもけい君が寂しがるので
真ん中の私のベッドにけい君が寝ることにしている。
昨夜も夜遅くまでゲームをしていたがいつの間にか眠っていたようだ。
8時過ぎにはあやちゃんも起きてけい君と遊んでくれる。
まるで姉と弟のようで微笑ましいが「金魚のふん」のようでもある。
さすがにトイレまでは付いて行かないがあやちゃんも内心は鬱陶しそう。
一歳違いとは言え女の子と男の子では遊びにも限度があるのだろう。
それでも優しく接してくれるあやちゃんにはとても感謝している。
午後には父親が恋しくなったのか帰りを待ち兼ねるようになった。
息子に電話してみたらまだ徳島に居るとのこと。
早くても4時間は掛かるそうで帰り着くのは夕方になりそうだった。
そわそわと落ち着かない様子のけい君を宥めながらひたすら待つ。
母親の話は一切しないのだ。それが返って不憫に思えてならなかった。
あやちゃんが「金魚のふんってどんなが?」と訊くのも愉快。
「お尻にくっ付いてなかなか離れんがよ」と応えると
それがけい君の様子と重なりくすくすと声を上げて笑っていた。
たとえ金魚のふんだとしても無理やり切り離さないことだ。
11歳になったあやちゃんにはそれが解っているのだと思う。
5時前、息子がやっと帰って来た。
玄関に飛び出したけい君が「お父さん、徳島ラーメン」と言って
皆で笑いながら送り出したことだった。
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