ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2023年06月16日(金) 壊れた玩具

梅雨の中休み。快晴の真夏日となる。

雨の日の紫陽花と競い合うようにアガパンサスの花が咲く。

水色と白色があるようだ。和名は紫君子蘭と云う。

ヒガンバナ科の花だけあって彼岸花によく似ている。

茎がすくっと長いので見るからに清々しい花だ。



午後、仕事を少し早めに終わらせてもらって整形外科へ。

56日ぶりで今日はレントゲンを撮る。

やはり左の股関節には白い部分があり炎症を起こしているとのこと。

このところ痛みが薄れていたのだが期待通りにはいかないものだ。


マッサージ、筋トレ、ストレッチと出来ることを頑張っている。

医師に「そのうち奇跡が起こるかもしれない」と言ったら

「それはないない」と笑われてしまった。


職場でもそうだったが今日は自分でも不思議なくらい饒舌になる。

ここ数日の鬱状態がまるで嘘のように思えた。

あまり深く考えたくないが躁鬱病かもしれないと疑った。

躁状態の時には気分が異常なほど高まるのだそうだ。

そうして今度はどすんと落ちる。その繰り返しになってしまうのだ。

まあただの気分屋かもしれないのでしばらく様子を見ようと思う。

とにかく今日は明るく元気だったので良しとしよう。



禁煙は今日も失敗。いや挫折と言うべきだろうか。

昨日煙草を買ってしまったのでその後始末に追われる。

潔く捨ててしまうことがどうしても出来ない。

禁煙を優先するよりも「もったいない」と思ってしまうのだ。

もっともっと自分を責めるべきなのだろうがそれもしない。

我慢することも辛抱することも出来なくなってしまったようだ。



ダイエットもほぼ挫折状態である。

豆腐ダイエットはずっと続けているが食欲が半端ない。

腹八分目で止めることが出来ず満腹になるまで食べ続けてしまう。

やはり禁煙とダイエットを同時に行うのは無理だったのだろうか。


来週には禁煙外来に予約してみようと思っている。

親身になってくれていた医師や看護師さんに会えればきっとまた

初心に返って頑張れるような気がするのだった。


今は自分をコントロール出来ない壊れた玩具のようだ。





2023年06月15日(木) 3歩進んで2歩下がる

雨のち晴れ。久しぶりの青空が嬉しくてならない。

明日からしばらくは梅雨の中休みで晴天が続きそうだ。


「3歩進んで2歩下がる」読者の方から元気が出る一言を頂いた。

いつまでも鬱々としていられないなと思う。

頑張ることは出来ないけれどゆっくりと前へ進んで行けそうな気がする。


夜明け前の詩は陰鬱にならないように意識して書いてみたが

やはりありのままの自分ではないので違和感を感じた。

自分が気に入らない詩を誰が好んでくれるだろうか。

K子さんには申し訳ないが皆がみな「明るさ」を求めているとは限らない。

詩の本質にはやはり暗と影があってこそ光が射すのだと思うのだ。

そうしてその光を希望につなげていくのが私の使命ではないだろうか。


詩人でもない無名の私が偉そうに講釈を垂れても仕方ないことだが

私には私なりの書き方がありそれを誇りに思っている。





今日は子豚がとんでもない罪を犯す。

いや子豚のせいにしてしまってはとても卑怯なことだろう。

同僚が午前中休みだったので近所の煙草屋さんに行ってしまったのだ。

その時点でもう気が狂っているとしか言いようがない。

自分でもその行動が不可解でならなかった。


ここいらの方言でやけくそになることを「ばぶれる」と言うが

ばぶれてしまって正も悪も右も左も分からなくなってしまうのだ。

吸い慣れない銘柄の煙草だったので非常に不味い。

どうしてこんな物を吸わねばならないのだろうと情けなく思う。


それなのに何本か吸っているうちに気分が落ち着いて来る。

このままでは元の木阿弥になるのも時間の問題だろう。


禁煙外来の医師や看護師さんに会いたくてならない。

いつでも連絡して下さいねと看護師さんは優しく言ってくれたが

忙しいのではないだろうかと躊躇してしまうのだった。

次の受診までまだ3週間足らずある。とても耐えられそうにない。


3歩進んで2歩下がるの理想であるが

今の私は3歩進んで3歩下がっているようである。

焦らずゆっくりと前へ進みたい気持ちは大いにあるのだけれど

肝心の足が思うように動かない。

なんだ今度は足のせいにするのか。ばぶれるのもいいかげんにしなさい。





2023年06月14日(水) セロトニン

SNSを始めて今日で10年経ったらしい。

詩や短歌を発信するために始めたのだが

10年分となるとどれほどの量になるのだろうか。

ネット上に永久に残ると思い込んでいたが

ある一定期間ログインが無いとアカウントが消滅するのだそうだ。

と云うことは死んだらすべて消えてしまうことになる。

そのことを最近知り愕然としたがどうしようも出来ないことなのだろう。

結局は生きている「いま」しかないのである。

私にとってSNSは決して娯楽ではない。

大げさだけれど「いのち」そのものだと思っている。





あまりにも不調が続くのでネットで調べてみたら

「禁煙鬱」と云うのがあるらしい。

喫煙すると心の安定をもたらす脳内伝達物質セロトニンが供給され

感情のバランスを整えるのだそうだ。

禁煙するとその反対となり感情のバランスが崩れるのである。

その結果パニック障害や鬱病、眩暈や酷い眠気を引き起こすらしい。

私の鬱症状と酷い眠気もおそらくそうなのではないかと思った。

医師の診断を受けたわけでもないのであくまでも素人考えだが

思い込みの激しい性分なのですっかりそのつもりになっている。


しかし禁煙をした方が良い理由は確かにあって

ひと月程辛抱したら自然にセロトニンが発生されるのだそうだ。

それはどのような抗鬱薬や精神安定剤よりも効き目が大きいらしい。

私は辛抱が出来ず少量ではあっても喫煙をしてしまったので

結果的に悪影響となりずるずると辛い症状が続いているのだろう。

それは墓穴を掘っているのと同じで自業自得なのである。


とにかく禁煙を貫かなければならない。

そうしないといつまでたっても救わる日は来ないだろう。


禁煙を思い立ってからもう半年近くなった。

その間に完全禁煙が出来たのはわずか2ヶ月である。

気分も清々しく爽快であったことを思い出している。


今日は駄目だったけれど明日こそはと。

まるで自分で自分を試しているような日々であった。



2023年06月13日(火) 止まない雨はない

初夏に鶯の声を聴くのもなかなか良いものだ。

鶯は初夏から夏にかけてが繁殖期で山に籠るのだそうだ。

山里だからこそ耳にすることが出来たのだろう。


ホトトギスもしきりに鳴いていた。「てっぺんかけたか」

昔からそう鳴くと言われているが違うようにも聴こえる。

昼間聴くとなんだか楽しく愉快そうに聴こえるが

夜明け前に聴くととても物悲しく聴こえるのだった。

眠らない鳥なのだろうかと不思議に思う時がある。





昨日程の気分の落ち込みは無かったがどうにも落ち着かない。

気が散るばかりで仕事に集中出来なかった。

頭の中がごちゃごちゃしていて何かが暴れまわっているようだった。

とにかく落ち着かなくてはとまた煙草に手を出してしまう。

もちろん同僚の煙草で無理を言って恵んでもらったのだった。

我慢することも辛抱することも出来ず情けないことだが

不思議と自己嫌悪を感じず平然として吸っていた。

今更子豚のせいにするわけにはいかない。正しく自己責任である。

意志の弱さ云々よりも「これが私なのか」とつくづく思った。


やはり精神的なものなのだろう。心が病んでいるのだろうか。

いやそこまではいかなくてもただのニコチン中毒だとは思えない。

その証拠にニコチネルを貼って体内にニコチンを吸収させているのだ。

不可解でならないがもうしばらく様子を見てみようと思う。

元の木阿弥になるのだけはなんとしても避けなければいけない。





今はいろんなことが押し寄せて来ていて渦巻いているようだ。

心配事は尽きず解決の目途も経ってはいない。

家族みんながストレスを抱えていると云っても他言ではないだろう。


ただ一人、夫だけはあっけらかんとしていて

「なるようにしかならん」「なんとかなるけん」と言っている。

私もそう思いたい。それは止まない雨がないのと同じことだ。



2023年06月12日(月) これだけは譲れない

「これだけは譲れない」と云うことが誰にでもあるのではないだろうか。

今朝は昨日のK子さんの言葉が重くのしかかっていた。

けれども壊れてしまうわけにはいかない。

なんとしても自分を守らなければいけないと思った。


真摯に受け止めたつもりでいたがかなりの痛手だったらしい。

それほどまでに私の心は傷つきやすかったのだろうか。

K子さんを恨む気持ちなど少しもなくむしろ感謝しているつもりであった。

やはり日にち薬が必要なようだ。きっと乗り越えられるだろう。


そのせいとは限らないが気分が酷く落ち込んでいた。

「どすん」と音が聞こえるほど深い穴の底に居るようであった。

それは鬱病の症状によく似ていて昔の自分を一気に思い出す。

何かに縋りつきたくてたまらなくなってしまうのだ。


同僚に懇願して煙草を分けてもらう。情けない気持ちよりも

とにかく少しでも気分を安定させたい気持ちだった。

仕事はまったく手が付かず気が変になってしまいそうになる。


咄嗟に病院へ行こうと思い早退させてもらい車を走らした。

掛かりつけの病院であったが心療内科の医師が不在だったため

仕方なく例の相性の悪い医師に診てもらうことになった。

案の定まったくお話にならない。一切聞く耳を持たないのだ。


おそらく軽鬱だろうと諦め先日からの眠気の相談をしたら

薬の量を減らしてしばらく様子を見ることになった。

これだけは実行してみなければ分からないので不安ではあるが

いちかばちかと試してみる気持ちになった。

看護師さんには禁煙外来に行っていることを話してあったが

医師は無視している様子で煙草の話は一切しなかった。

だから私からは何も言えない。それもストレスになっていく。


若い頃から比べると精神的に強くなったと思い込んでいたが

今回のことでなんだか自分の弱さを思い知らされたような気がする。


ただ負けるわけにはいかないと思っている。

そうして自分を守りながら意志を貫きたいのだった。


明日も午前四時に書く。私にしか書けない詩を書く。



2023年06月11日(日) 光を求めて

小雨が降ったり止んだり。いかにも梅雨らしい一日。


夜明け前にしとしとと降る雨音を聴きながら詩を書いたが

いつも読んで下さっているK子さんから貴重な意見を頂いた。

忘れないためにもここに記しておきたいと思う。


まず私の詩は自己への改め、自戒であって前向きでない。

自己の殻を破れないので読んでいて重苦しさを感じる。

発信などせずにノートに書き自己を解放するべきなのだそうだ。

これにはさすがの私もカルチャーショックを受けたが

まともに受け止めてしまったら自分が壊れそうに思った。


私の貫こうとしていることを今更曲げるつもりはない。

「いのち」あってのことなのだ。生きることを大切に守りたい。

それがどうして「自戒」なのかよく分からなかった。


自戒とは自分自身を戒め律することであるが

私はそれほどまでに自分を戒めていたのだろうか。

そんなつもりは毛頭なかった。むしろ自分が愛しくてならない。


確かに暗い詩だったのかもしれないが最後には光が射していた。

それが希望でなくてなんだろうと思う。

暗いからこそ光が見えるのではないだろうか。

人は光あふれる場所でいつも微笑んでいなくてはいけないのだとしたら

哀しむことも嘆くこともなにひとつ無いのだと思う。

切なくて辛いからこそ「微笑み」が光になるのだ。


人生の大先輩でもあるK子さんの言葉はとても重かったが

今まで誰も言ってくれなかった貴重な意見だと受け止めている。

だからと言って「じゃあ明日から変わりますね」とはいかない。

ゆっくりと時間をかけて自分と向き合っていきたいと思っている。





予定通り朝からけい君を預かっていたが

まだ寝ている娘たちの部屋へ行きたがって止めるのに苦労した。

なんとかお昼まで我慢をさせて午後はあやちゃんが遊んでくれ助かる。

めいちゃんとはもうすっかり遊ばなくなってしまって

あやちゃんだけが頼りであった。二人でお散歩にも行っていたようだ。

思いがけなかったのは夕食も一緒に食べてくれたこと。

けい君もどんなにか嬉しかったことだろう。


難しい年頃だけれど思い遣りのある優しい子に育ってくれた。

私達と同じようにけい君を不憫に思っているのだと思う。


今回も入院は長引きそうで息子は今後の事を考えているようだ。

はっきり言ってもう限界なのかもしれないと私達も思っている。

どのような結果になってもけい君だけは守ってやらねばいけない。



今は色んなことが波のように押し寄せてきている。

これが「暗」なのだとしたらきっと光が見つかるのに違いない。

その時には私も心の底から微笑むことが出来るだろう。



2023年06月10日(土) なんとかなるなる

しとしとと静かな雨。紫陽花が喜んでいるようだ。

そんな紫陽花もそろそろ見納めになることだろう。

毎年のことだけれど枯れて化石のようになるのを見届けてあげなくては。



娘たちは高知市内へ。夫は遠方でお葬式があり出掛ける。

まあちゃんのおじいちゃんが不慮の事故で亡くなってしまったのだ。

磯釣りに行っていて崖から転落し溺死したのだそうだ。

あまりにも突然のことでとても言葉に出来ない。

どんな死に方をするのか本当に誰にも分からないことなのだと思う。


午前中はカーブスに行っていたが午後は独りきりだった。

お昼は釜玉うどんを作って食べた。ついつい独り言を呟く。

やはり夫が居ないと寂しくて心細くてならない。

娘たちとの同居はまだ続くかもしれないけれど

もし夫に先立たれたらと思うと目の前が真っ暗になる。





息子44歳の誕生日。何もしてあげられなかったが

仕事は休みだったようでのんびりと過ごせたようだった。

息子にしてみれば誕生日どころではないのだろうと思う。

もしお嫁さんが入院していなくても同じことではないだろうか。


生まれた日のこと。幼い日のこと。思い出は尽きない。

もっともっと幸せになって欲しかったと言ってしまえば

母としてなんの力にもなってあげられなかったことが悔やまれる。


先ほど電話があって明日けい君を預かって欲しいと言って来る。

それなのにひとつ返事で承諾することが出来なかった。

娘には気を遣わないけれど娘婿に気を遣ってしまうのだった。

一年前にも同じようなことがあったと苦いことを思い出す。

そのことを息子に言ってしまってすぐに後悔したけれど

一度口に出してしまったことはもう取り返しがつかない。

どうして余計なことを言ってしまったのだろうと今も悔やんでいる。


本来ならば長男である息子が我が家を継ぐべきなのだろう。

けい君は立派な跡取りであり決して無下に扱うことなど出来ない。

それなのにどうして肩身の狭い思いをさせなくてはいけないのか。


今夜はとても複雑な思いに苛まれてしまった。

こんな時こそ「なんとかなるなる」である。

そう思っただけで本当になんとかなるから人生はけっこう面白い。


 < 過去  INDEX  未来 >


anzu10 [MAIL] [HOMEPAGE]

My追加