雨が近いらしく今日は少し蒸し暑さを感じた。
気温も25℃を超え夏日となる。
春遍路さんもすっかり夏遍路となり歩くのも大変そうである。
半袖Tシャツにハーフパンツ姿の若者が多い。
それと外国人のお遍路さんも多く今日も二人見かけた。
野宿と思われるお遍路さんは少なくなんだかほっとする。
民宿に泊まれば一日の汗も流すことが出来るだろう。
最近Mさんに会わないが元気でいるだろうか。
これまで50日位のサイクルで再会していたので
月日が流れるとやはり心配になってしまう。
お遍路を止めて何処かに落ち着いたのならそれに越したことはないが
365日歩き続けている身に何か起こったのではと気になっている。

「ニコチメル」治療の二日目。今日は子豚の姿を垣間見る。
けれども以前のように責めるのはもう止めることにした。
ようはどんな日もあると云うことなのだ。
だからと言って見逃すつもりはないが大目に見るのも良いだろう。
禁煙日誌を書くことを義務付けられており正直に書く。
離脱症状の有無とそのランク。強いほどランクが上がっていく。
そうしてどう対処したかも記さねばならない。
我慢したのか我慢できなかったのか。吸ったのか吸わなかったのかだ。
子豚は喫煙所へ行き吸殻を拾った。全部で5本も拾ってしまった。
その時は精神的にパニック状態になっていたのか
死んでもいいと思うくらい追い詰められていたのだと思う。
後悔もしなければ反省もしなかった。すでに開き直っていたのだろう。

夫があやちゃんに「おばあちゃんが泣いていたぞ」と告げたそうだ。
夕食を食べていたらあやちゃんが傍にやって来て
「おばあちゃん、ピアノの調子が悪いけん」と声を掛けて来た。
心を鬼にするように無視しようとしたがさすがに出来なかった。
夕食後にピアノを弾いてみたが特に変わった様子はない。
その音をあやちゃんは階下で聴いていたのだろう。
これを記していると黙って部屋に入って来て3曲ほど弾いた。
私は黙って聴いていたが「うん、いいかも」と言って頷き
ドアをバタンと閉めるとまた子供部屋に閉じこもってしまった。
夕食は食べたのだろうか。私は何も訊くことが出来ずにいる。
今後一切の干渉をしないと決めたがやはり寂しいものだ。
ほぼ夏日となったが湿度が低いせいか心地よい暑さとなる。
爽やかな風もあり過ごし易い一日となった。
枇杷の実がもう色づき始めている。
あと一週間もすれば食べ頃になるのではないだろうか。
他人様の庭先にあるのをまるで自分の物であるかのように眺めた。
今の子供たちはあまり喜ばないけれど昔は旬のおやつだった。
仕事が早く終れたので美容院へ行き髪を切ってもらう。
私よりずっと年上だと思われるご婦人が二人髪を染めていた。
私は堂々と白髪を自慢しながら鏡に向かう。
もう染めるつもりはない。これこそ年相応の美しさである。
髪を切ると心も軽くなった。何かを断ち切ったような気分になる。

今朝目覚めるなりパソコンを立ち上げるとメールが届いていた。
読者の方からで禁煙を激しく応援してくれている。
今度こそと私も思っているが不安がないわけではなかった。
気にかけてくれて応援してくれとても心強く思う。
最終的には強い意志が必要になるだろう。
決して負けるわけにはいかない。ゴールを目指して頑張ろうと思う。
「ニコチメル」を胸に貼り付けて出勤する。
不思議なものでそれを貼っているだけでとても落ち着くのだった。
ニコチンが少しずつ身体に吸収されているらしいが実感はない。
煙草を吸いたくなくなるのかと思えばそうでもなく
お昼下がりには無性に吸いたくなってしまった。
かと言って苛々するわけでもなくひたすら我慢を強いられていた。
同僚に相談したら「吸ったら死ぬぞ」と脅すので怖くなる。
医師の説明でもニコチンの過剰摂取になると聞いていた。
定時でタイムカードを押し逃げるように帰った。
今日はなんとか乗り越えたのだ。それが自信に繋がっていく。

あやちゃんが私と顔を合わせたくないのだそうだ。
それほどまでに嫌われてしまったのかとショックでならない。
おばあちゃんなんか早く死んでしまえと思っているのかもしれない。
私にも考えるところがありしばらく口を聞かないことにした。
ずっとずっと心配でならなかった。それが仇になったのだろう。
「うざい」その一言で私は簡単に傷つく。
けれどもあやちゃんの心の傷は誰が癒してやるのだろう。
朝と日中の寒暖差が大きくて戸惑う。
毎年のことなのかもしれないが今年は特別ではないだろうか。
まだ炬燵も仕舞わずにいて暖房を点ける朝もある。
一気に夏になるよりは良いのかもしれない。
今日は珍しく義父が居てくれて随分と仕事が捗った。
同僚と二人で頭を悩ませてもどうしようも出来なかったのだ。
しかし義父の短所と云うべきか長所なのかもしれないが
一つの事に集中し始めると無我夢中になってしまう癖がある。
お昼休みも忘れてしまうので今日は私が犠牲になった。
けれども一気に仕事が片付きなんとほっとしたことだろう。
義父もそれなりに工場のことを考えていてくれるのだと思う。

禁煙外来は2時半の予約だった。少し余裕を持って早めに行く。
初めての病院だったが受付の女性がとても親切で優しかった。
先日電話で応対してくれた看護師さんにも会えて嬉しくてならない。
医師も穏やかな笑顔でとても親身になってくれた。
「一緒に頑張りましょう」と励ましてくれなんと心強いことだろう。
治療には2ヶ月余り掛かるのだそうだ。
まずは「ニコチネル」と云う貼り薬を身体に貼り様子を見ていく。
その薬は身体にニコチンを吸収させるのだそうだ。
その上に煙草を吸ったら身体に悪影響を与え危険だと言われた。
まれに我慢できずに吸ってしまう人もいるらしい。
その時は正直に報告することが義務付けられている。
しかし危険だと分かっていて吸うことなど私は出来ないと思う。
もう覚悟は出来ているのだ。それが揺らぐことはないだろう。
帰宅して娘には話したが夫には話すことが出来なかった。
煙草が大嫌いで憎むほどの夫にどうして話すことが出来よう。
隠し事をするようで気が咎めるがいつかずっと先になって
「いつの間に止めたんだ」と言わせたいと思っている。
子豚は死んだわけではないがもう姿を現すことはないだろう。
最後に吸ったラッキーストライクが美味しかった。
もう思い残すことはないだろうと思っている。
| 2023年05月09日(火) |
もうどうなってもいいや |
五月晴れ(さつきばれ)は本来梅雨の晴れ間を云うのであり
「ごがつばれ」と読めば今の時期の晴れ間を云うのだそうだ。
それも最近になってからだそうでテレビや新聞から広まったらしい。
今日テレビで「ごがつばれ」と言っていて違和感を感じたけれど
調べてみたら間違いではないことが分かった。
大昔からある日本語もそうして進化していくのだろう。
山里に大きな栴檀の木があり薄紫の花が見事に咲いていた。
風に揺れる花はいかにも初夏らしい風景である。
栴檀の木は季節ごとに姿を変えるがどの季節も私は好きだ。
秋になればオリーブ色の実を、冬には黄金色に変わる。
その実を鳥が啄み糞をすればまた新しい木が生えるのだそうだ。
すごい生命力だなと思う。きっと「実」こそが命なのだろう。

昨夜はどうしたことか一時間ごとに目が覚めてしまいよく眠れなかった。
いつもは爆睡なのでいささか辛い夜になってしまった。
変な夢ばかり見る。喪服を着て誰かのお葬式に行こうとしているのだが
黒い靴を履いていないのだった。これでは行けないと焦っていると
はっと目が覚めてまたしばらく眠れなくなってしまうのだ。
もしかしたらストレスかなと思う。昨夜は特に気が滅入っていた。
その上に「書く」と云う行為が拍車を掛けたのかもしれない。
酒量も多かったので少し興奮していたようにも思うのだ。
ニコチン中毒の上にアル中かともう救いようがなくなっているようだ。
今夜は昨夜ほどの苦しさはなく気分も落ち着いているような気がする。
早い話が観念さえすれば済むことなのだった。
「観念」とはもうこれまでだと諦めること。覚悟することである。
今日は同僚の煙草をくすねてはなんとか凌いだ。
もう最後だからと言い訳をしていたがまだ明日もある。
禁煙外来は午後からなので午前中は子豚の姿を見かけるだろう。
正直言ってもううんざりしている。未練がないわけではないが
ここに子豚と書くだけで嫌悪感が沸き起こって来るのだった。
結局最後まで殺すことは出来なかった。
後は子豚の息が絶えるのを見守るしかないだろう。
これまで闘って来たせいか敗北感が半端ではなかった。
「もうどうなってもいいや」と今夜は思っている。
夜明け前には強い風が唸るように吹いていて
雨雲を東へと追いやったのだろう。
夜が明けたら雨上がりの爽やかな青空が広がっていた。
連休のあいだ気分が鬱々と停滞気味であったせいか
月曜日が嬉しく浮き立つような気分で職場に向かう。
国道沿いの土手には茅の白い穂がちろちろと風に揺れていた。
四万十川は少し濁っていたがさらさらと雄大な流れである。
お遍路さんが三人軽快な足取りで歩いていた。
ああ日常が返って来たなと思う。私はそんな朝の道が好きでならない。

職場に着くなり子豚がずる賢く騒ぎ出す。
やはり思っていた通りだった。もう誰にも止めることが出来ない。
連休前に同僚から貰っていた煙草が10本程残っていた。
それを気が狂ったように吸いまくり午前中には空箱になる。
「我慢」の反動はとてつもなく大きいものだった。
その上に集中力が全く無くなり仕事が手に付かない。
そわそわと落ち着かず何度も喫煙所に向かった。
同僚もずっかり呆れ顔でお手上げ状態だったようだ。
明後日には禁煙外来である。もうこそ観念しなければと思う。
子豚も年貢の納め時なのだ。もっと自覚しなければいけない。
昼間の喫煙が祟り案の定今は悶え苦しんでいる。
娘夫婦が台所の換気扇の下で連れモクをしていた。
吸殻で良いから分けてもらえないかとその一言が言えない。
連休のあいだ我慢出来たのだからと自分を励ましている。
それにしても今夜が今までで一番苦しいのではないだろうか。
予定では明日が子豚に会える最後の日である。
しかし餌を断たれてしまったらその予定も叶わないだろう。
同僚がドラえもんになってくれる保障など在りはしない。
「どうする家康」ではないが「どうする子豚」になってしまいそうだ。
とにかく年貢を納めなければいけない。
いくら不作であっても納めなければいけないと昔から決まっている。
納められないと娘を売らなければいけなかったそうだ。
うちの娘はもう40を過ぎているので売れもしないだろう。
あれこれ考えていると気が変になりそうだ。
今夜はぐだぐだと書き殴るのも程々にした方が良さそうに思う。
さっさと寝るべし。おや?済みませんが済まして下さい。
大雨にこそならなかったが雨が降り続いている。
かなり蒸し暑くまるで梅雨時のようだ。
汗をかきやすくなったのは「たんぱく質」のせいらしい。
プロティンを飲み始めてから体質が変わったようだ。
筋肉量が増えれば太り難い身体になるそうだが
それは今のところ成果が表れていないように思う。
髪の毛がふさふさになった。爪が伸びやすくなった。
それもすべて「たんぱく質」のせいなのだそうだ。
「おかげ」と云うべきかもしれないがあまり有難みを感じない。
理想としては筋肉量を増やし足の痛みを軽減させたい。
そうしてもちろん少しでも痩せられたら云うことはない。

連休も最終日。退屈でたまらず溜息ばかり出て来る。
生憎の雨模様でドライブの気分ではなかったが
無性にラーメンが食べたくなり宿毛市の「一風」まで行っていた。
郊外のレストランでありラーメン屋さんではないのだけれど
あっさり系のラーメンは昔ながらの中華そばでとても美味しい。
ラーメンセットを注文したので半チャーハンも付いている。
このチャーハンもまた美味しくやみつきになるのだった。
今日は福神漬けが赤いのではなく黄色いやつだった。
一瞬あれ?と思ったが黄色のもなかなかいける。
月に一度は食べたいラーメンセット。来月もきっと食べに来よう。

計画禁煙5日目。成功しているようにも思えるがダメージが大きい。
我慢の反動で明日はまた煙草を吸ってしまいそうだ。
そもそも「止めたい」と云う気持ちがすっかり薄れてしまって
「止めなくてはいけない」と精神的に追い詰められているように思う。
やはり私は病気なのだろう。意志よりも「医師」が必要である。
求めてはいけないことを求める。そのジレンマに押しつぶされそうだ。
けれどもこの5日間、我ながらよく耐えたと思う。
禁煙外来に行けば観念するのではないだろうか。
我慢するために行くのではない。煙草を止めるために行くのである。
どうしようもなく落ちぶれてしまった子豚であるが
この数ヶ月の間にずいぶんと成長したようにも思う。
一番に自分と真っ直ぐに向き合うことが出来るようになった。
それは最後まで自分を見捨てないことに等しい。
明日のことは明日になってみないと分からないが
どれほど無様であっても自分の運命を受け止められるだろう。
二十四節気の「立夏」暦の上では今日から夏である。
雨の予報であったが降りそうで降らず
湿度が高いせいか蒸し暑さを感じた。
我が家の庭先でとても不思議なことが起きた。
去年の秋に植えていた小菊の花が咲き始めたのだ。
花が終った時に剪定をしていたのが良かったのだろうか。
それにしても初夏に咲く菊など今まで見たこともない。
これからの暑さを乗り越えられるか心配であるが
枯らさないように水遣りだけは怠らずにいようと思っている。
午前中にカーブスへ。体重測定がありこの一週間でまた2キロ増えていた。
禁煙を決意した時からだと4キロ増えたことになる。
やはりストレスなのだろうか食欲は留まることを知らない。
なんとか元の体重に戻そうと努力しているつもりであるが
今は禁煙のことで頭がいっぱいになっており余裕がないようである。
体脂肪率は先月と変わらずなんとか維持できているようだった。
今の私にあれもこれもは無理だろうと思う。
ひどく焦る気持ちもあるが焦ってもどうしようも出来ないだろう。
まずは禁煙であるがこれがなかなかに手強い。
完全禁煙も4日目が終ろうとしている。正直言ってかなりつらい。
禁断症状は薄れているつもりであるがあくまでも「つもり」なのだろう。
娘の吸殻は何処にも見つからずすっかり諦めてしまっているが
娘婿の吸殻はそこらへんにいつでもあり誘惑の手を伸ばしている。
しかし娘と同じ加熱式煙草であっても種類が全く違うので
火を点けて吸うこと自体が出来ない代物であった。
それをどうするかである。愚かなことにそれを口に咥えているのだった。
ついにそこまで落ちぶれてしまったのかと情けなくてならない。
それは無味無臭のフィルターのような物であった。
とにかく「我慢」することと「手放す」ことは違うのだと思う。
我慢は精神的に追い詰めることでありそれには辛抱が連なる。
「辛抱」という字は辛さを抱くのであるからどれほど苦しいことだろう。
その上に我慢の先に明るい未来が待っているとは限らないのだ。
子豚を殺すことは容易くはない。
どれほど愚かな子豚でも掛け替えのない「いのち」を持っている。
もう生きる価値などないのだろうか。
ふと子豚が憐れでならなくなった。
私は明日も辛さを抱くのであろうか。
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