ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2023年03月01日(水) 花として生きたい

花として生きてみたいと願いつつ一歩踏み出す弥生三月


まだ固い蕾を胸に

老いた樹は風に吹かれている



あれはいつの春だったか

学び舎から旅立ったころ

どれほど生きられるかなど

考えてもいなかったのだ



歳月は流れ

冬の寒さを乗り越えてこそ咲く花


そんな一輪になりたい

花として生きたい





花は桜を意味する。

老いた樹はもちろん私のことである。

学び舎を旅立つのは卒業のこと。

もう49年も昔のことであった。

私にとっては生涯忘れることの出来ない日である。

大きな罪を背負った。記憶はとても残酷に蘇って来る。

私は今まで赦されて生きて来たのだろうか。


「花として生きたい」と最後を結んだが

それはもしかしたらとんでもなく愚かなことなのかもしれない。

私はあまりにも身の程を知らな過ぎるのではないだろうか。




そんな気持ちとは裏腹に弥生三月のなんと新鮮なことだろう。

特に何かを始めるのではないがもう始まっている気がする。

それが何なのか分からないけれど生き生きとしてくるのだった。

目に見えないものに動かされているような気がしてならない。

うまく言葉に出来ないけれどそうして生かされているのだろう。

季節の扉はもう開かれている。迷わず踏み出していかねばならない。


この道で良いのかよく分からない。

葛藤もあれば迷いもあることだろう。

何よりも老いはひしひしと迫って来ている。


私は胸を張りたいけれど心細くてならなかった。

美しくなくても良いのだ。ただこの春を花として生きたいと思う。



2023年02月28日(火) 一歩一歩

届かぬと諦めそうになりながら見上げる空に光る星粒


夢は何処を彷徨っているのか

身の程を知り過ぎた我が身に

突き刺すような未練があった



果てしなく広がる空に

もしも希望があるなら

一目だけでも見せて欲しい



満たされることよりも

一粒を選びたいと思う


私はまだ諦めてはいない





私の夢とはいったい何だろうと思う。

そもそもこの歳で夢もへったくれもないのではないか。

それなのにどうして「夢」と書きたがるのだろう。

はっきりとしたカタチがあるわけではない。

それは漠然としていてまさに彷徨っているようだ。

ほんの一粒の星の欠片のようなものなのだろう。


そこまで言うのなら星の欠片を見たことがあるのか。

流れ星さえも見たことがないくせにいい加減なことを書くんじゃない。




今日は全国的に春の陽気となったようだ。

夕方のニュースで札幌の雪解けの様子を見た。

2月にしては観測史上初の暖かさだったらしい。

もう雪の日がないことを祈らずにはいられない。



足の痛みは昨日よりも少しマシになっていた。

やはり突発的なものだったのだろうか。

今日は歩けることの有難さをつくづくと感じる。

当たり前のことなどなにひとつないのだと思う。

一歩一歩踏みしめるように歩きながら感極まっていた。


まだまだこれからの試練なのだ。少なくとも10年だろう。

手術が出来る環境が整えば私はもう迷うことはない。


どれ程の痛みにも耐えて見せよう。私はもう歩き始めている。



2023年02月27日(月) 勇気のようなもの

まだ冬の名残の朝に佇んでせめて息はと呼ぶ春がある


逃げて行くのだという

季節は何の罪を犯したのか

囚われるのを怖れているようだ



私は息を数えている

ひとつふたつ春を感じながら

そのぬくもりに命を預けた



どこまでが冬なのだろう

決めることは出来ないけれど

逃れさせてやらねばと思う





今朝は真冬並みの寒さとなり氷点下だったようだ。

せめて息はと思いながら書いたけれど

相変わらずのモノになってしまった。

最後の一行がなんとなく変ではないかと思う。

逃れさせてやらねば。日本語として間違っているのかもしれない。

ようは逃げる2月を表現したかったのだが上手くいかなかったのだ。




最高気温が15℃を超えすっかり春の陽気となった。

優しい陽射しを浴びていると生き返ったような気分になる。

まだまだ寒の戻りがあるかもしれないけれど

季節はもう春と言っても良いのではないだろうか。



夕方から左足が酷く痛む。歩くのもままならないほど。

特に無理をした覚えもないので突発的なものだろうか。

毎日ストレッチをしていても効き目が殆ど感じられない。

運動療法が一番の治療だと聞いていたが不信感が募って来た。

それでも藁にも縋る思いで続けて行こうと思っている。

たとえ今日のように最悪の日があってもずっと続くわけではない。

明日の朝には痛みが和らいでいるかもしれないのだ。

少しだけ弱音を吐いて少しだけ嘆いた。今日は許してやろうと思う。

本当のことを書いてこその日記ではないだろうか。


夫が教えてくれたのだけれど歌手の和田アキ子も股関節だとか。

ネットで検索したらすぐに詳しいことが分かった。

私と同じ変形症ではないようだけれど人工関節手術は同じだった。

手術をしない限り完治はしないのである。

彼女は杖をついたり時には車椅子も頼ったりとかなり重症らしい。

それでも仕事に穴を空けない。生放送にもちゃんと出ている。

「大丈夫、なんとかなっています」とコメントがあった。

さすがアッ子さんだと感激し頼もしく思ったのは言うまでもない。

私も胸を張って「大丈夫」と言いたくてならないのだった。


痛みがあると少なからずメンタルが弱る。

「なんのこれしき」と思っていても痛みには勝てないのだ。


だからと言って負けっぱなしでいるつもりはなかった。

立ち向かって行く勇気のようなものがまだ私にも残っているようだ。





2023年02月26日(日) ふたりだからこそ

生きている限り明日があるならば今を希望と呼ぶべきだろう


いつかは終わる

限りある命だとしても

精一杯でありたいと思う



今を生きていると

辛く苦しいこともあるけれど

与えられた試練ではないだろうか



嘆いても何も変わらないのなら

信じてみたらどうだろう


明日こそが希望なのだ

辿り着こうよ





今朝は苦労なくすらすらと書けたが

なんだか綺麗ごとを並べ立てたような詩になってしまった。

ひとは本当に辛くて苦しい時に明日を信じられるのだろうか。

たとえ試練だと分かっていても乗り越える強さが必要である。

そんなにひとは強くはない。弱さも認めてやらねばならないのだ。

そう思うとなんと無責任な詩なのではないだろうか。




今日は穏やかな晴天に誘われるよう出掛けていた。

四万十川を遡り県境を越え愛媛県の鬼北町まで行く。

山間の小さな町だがあちらこちらに菜の花が咲き乱れていて心が和む。

なんだか菜の花の町のようなイメージがあった。

お昼時になり国道沿いのこじんまりとしたお店で昼食を摂る。

食堂でもなく喫茶店でもなくなんと呼べば良いのだろう。

「お食事処」と書いてあったが民家のようでもあった。

メニューが面白い。「ラーメン屋さんではないけどラーメン」とあり

私は迷わずにラーメンを頼み、夫はオムソバを頼んだ。

繁盛しているのか後から後からお客さんが入店してくる。


運ばれてきたラーメンは決して不味くはなかったけれど

市販のラーメンスープに蒸し麺を入れた物のようだった。

チャーシューの代わりに豚肉の炒めた物が入っている。

やっぱりラーメン屋さんではないのだと愉快な気持ちになった。

夫は可哀想。オムソバに大嫌いなピーマンが入っていたのだった。

それでも食べ終わるまでその事を言わなかった。



宇和島経由で帰路に就くことにしナビにお任せをしたのだけれど

ナビは最短距離を教えてくれるのでそれも良し悪しであった。

国道441号線を初めて通る。それがなんと酷道なのである。

車一台がやっと通れるような細い峠道をくねくねと走る。

やっと民家が見え始めたと思ったらそこはまだ鬼北町なのであった。

もう一度ナビを設定し直しやっと宇和島市へ辿り着くことが出来た。



そこで緊急事態が発生する。私が便意を催してしまったのだ。

高速道路に入いる直前にコンビニが在りそこへ飛び込んでいた。

出すものを出してしまえばなんともすっきりと心地よい。

コンビニでアーモンドチョコを買ったので食べながら家路に就いた。


「ちょいと疲れたけど面白かったな」夫と笑い合っていた。


二人で行けるうちにといつも思っている。

独りでは私は何処にも行けないだろう。







2023年02月25日(土) 私の孤独

今朝は何も書けず。悶々としていたが潔く諦めることにした。

頭の中が白紙状態で落書きさえも書けない時がある。

苦しみよりも酷く焦ってしまう。焦れば焦るほど言葉は逃げていく。

しばらくどん底の気分になっていたが落ち込んでも仕方ないことだ。


明日は書けるかもしれない。そう思うと少し気が楽になっていた。



高校時代にも毎日詩を書いていた。

昼休みになると図書室へ行き隅っこで黙々と書いていたのだった。

同じ文芸部だった西沢君に放課後詩のノートを渡すと

次の日にノートが返って来て西沢君の詩が書いてあった。

今思えば交換日記のような物だったのかもしれない。


私は西沢君の詩がとても好きだった。

「きみ」と書かれていると私のことかもしれないと思ったりもした。

でもやがてそれが大きな勘違いだと判り辛い思いをしたけれど

西沢君は私の詩のいちばんの理解者だったことに変りはなかった。


50年の歳月が流れ西沢君の消息は未だに分からない。

ただ今もきっと詩を書いているのに違いないと信じているのだった。

それはどんな詩だろう。出来ることならば読みたくてたまらない。

会うことは叶わなくても西沢君の詩に再会したいのだった。



短歌にしても詩にしても私は孤独だと言って良いだろう。

「一匹狼」などと言えば恰好良く聞こえるがまず仲間が誰一人居ない。

それは理解者が一人も居ないことにも等しいのではないだろうか。

それを寂しいことだと言ってしまえば私はお終いだと思う。


私には私なりに貫くべきことがありそのために生きている。

理解者を求めるよりも自ずから自分を理解するべきなのだ。



とことん守ってやろうではないか。最後の最期まで。

独りぼっちだからこそ書けることがきっとあるのに違いない。



2023年02月24日(金) 春に希望を

手探りで君との距離を確かめる届かぬことも希望に変えて


きみの声が聴こえたような気がして

暗闇を一歩踏み出してみた私は息だ



届かぬことを嘆かずに

憧憬を夢とも思わずに



ただ息だけを頼りに生きている


きみに会いたいのではない


ほんの少しでいい

きみを知りたいと思っている





久しぶりに「きみ」が出て来る詩のようなものを書いたが

これは特定の誰かを指しているわけではない。

もちろん憧れているわけでもなく恋をしているわけでもないのだ。

ただ「きみ」と書いてみたかっただけなのだろうと思う。

だから心が少しも籠っていない。まるで雲を掴むような詩である。

いくらでも恋の詩が書けた若き頃がふと懐かしく思い出される。




午後から仕事を休ませてもらって整形外科へ。

診察前にリハビリがあったがキャンセルをする。

簡単なストレッチなので家で毎日出来ることばかりなのだ。

時間の無駄だと思ったのは言うまでもない。

病院に長居をしたくないのも本音であった。

待合室は高齢者で溢れている。私もその仲間となってしまった。


医師に無理を言って60日分の薬を処方してもらう。

これでしばらくは通院を免れることが出来る。


足の痛みは相変わらずで辛い日もあるけれど

気長に付き合っていく覚悟は出来ている。

まだ歩くことが出来るのだ。それだけで十分ではないだろうか。


最近嬉しいのは会う人がみな「足はどう?」と気遣ってくれることだ。

全く知らない人でも「大丈夫ですか?」と声を掛けてくれるのだった。

自分ではあまり意識していないけれど歩き方が不自然らしい。

「びっこ」という言葉は差別語になり今は使ってはならないけれど

まさしくそれであり足を引き摺りながら歩いているのだった。


これから春になり暖かくなると痛みが和らぐような気がしてならない。

希望を持って春を迎えようと思っている。



2023年02月23日(木) よだれをたらす

漆黒の空を彷徨う眠らない鳥のごとくに時をついばむ


明けない夜はないという



星は消えてしまうのではなく

ただ見えなくなってしまうのだ



私は羽ばたくことをしない

ずっと樹にしがみついている

眠れなかったのではない

眠らずに夜明けを待っている



時は味方だろうか

どれほどの希望があるのだろう





いつも読んで下さっている方が絵文字の拍手で応えてくれた。

素直に喜んで良いのかよく分からないままお礼を伝える。

どうなんだろう?本当にこんな詩で良いのだろうか。


矛盾している箇所がある。

鳥のような私は漆黒の空を彷徨っている。

彷徨うには空を飛ばなければいけないのではないか。

それなのに樹にしがみついているのはおかしいと思うのだ。

所詮その場しのぎの言葉なのだろう。口から出まかせとも云うらしい。




椎名誠の本を読んでいると「垂涎」という言葉がよく出て来る。

「よだれをたらす」意味は分かるのだが読み方が分からなかった。

それがやっと今日分かった。「すいぜん」と読むのだそうだ。

決して難しい漢字ではないけれど私のような無知無学の者も居る。

なるべくならふりがなを振って欲しいと願ってやまない。


涎を垂らすほど食べたくてたまらない物だがそれには我慢が要る。

そう易々と口に出来ないから「垂涎」と云うのだそうだ。

食べ物だけとは限らない。たとえば欲しくてたまらない物だ。

手に入れたくてたまらないがそれにも我慢が必要なのである。

「垂涎的」と云う表現をするらしいことを初めて知った。



私は人一倍食い意地が張っていて常に涎を垂らしている。

食べたいと思ったらもう我慢が出来なくなってしまうのだ。

そんな場合はどう表現すれば良いのだろう。

垂涎を叶える?とでも云うのだろうか。日本語は難しくてよく分からない。



読書量は多くひっきりなしに本を読んでいるけれど

あまりおりこうさんにはなっていないようだ。


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