手探りで君との距離を確かめる届かぬことも希望に変えて
きみの声が聴こえたような気がして
暗闇を一歩踏み出してみた私は息だ
届かぬことを嘆かずに
憧憬を夢とも思わずに
ただ息だけを頼りに生きている
きみに会いたいのではない
ほんの少しでいい
きみを知りたいと思っている

久しぶりに「きみ」が出て来る詩のようなものを書いたが
これは特定の誰かを指しているわけではない。
もちろん憧れているわけでもなく恋をしているわけでもないのだ。
ただ「きみ」と書いてみたかっただけなのだろうと思う。
だから心が少しも籠っていない。まるで雲を掴むような詩である。
いくらでも恋の詩が書けた若き頃がふと懐かしく思い出される。
午後から仕事を休ませてもらって整形外科へ。
診察前にリハビリがあったがキャンセルをする。
簡単なストレッチなので家で毎日出来ることばかりなのだ。
時間の無駄だと思ったのは言うまでもない。
病院に長居をしたくないのも本音であった。
待合室は高齢者で溢れている。私もその仲間となってしまった。
医師に無理を言って60日分の薬を処方してもらう。
これでしばらくは通院を免れることが出来る。
足の痛みは相変わらずで辛い日もあるけれど
気長に付き合っていく覚悟は出来ている。
まだ歩くことが出来るのだ。それだけで十分ではないだろうか。
最近嬉しいのは会う人がみな「足はどう?」と気遣ってくれることだ。
全く知らない人でも「大丈夫ですか?」と声を掛けてくれるのだった。
自分ではあまり意識していないけれど歩き方が不自然らしい。
「びっこ」という言葉は差別語になり今は使ってはならないけれど
まさしくそれであり足を引き摺りながら歩いているのだった。
これから春になり暖かくなると痛みが和らぐような気がしてならない。
希望を持って春を迎えようと思っている。
漆黒の空を彷徨う眠らない鳥のごとくに時をついばむ
明けない夜はないという
星は消えてしまうのではなく
ただ見えなくなってしまうのだ
私は羽ばたくことをしない
ずっと樹にしがみついている
眠れなかったのではない
眠らずに夜明けを待っている
時は味方だろうか
どれほどの希望があるのだろう

いつも読んで下さっている方が絵文字の拍手で応えてくれた。
素直に喜んで良いのかよく分からないままお礼を伝える。
どうなんだろう?本当にこんな詩で良いのだろうか。
矛盾している箇所がある。
鳥のような私は漆黒の空を彷徨っている。
彷徨うには空を飛ばなければいけないのではないか。
それなのに樹にしがみついているのはおかしいと思うのだ。
所詮その場しのぎの言葉なのだろう。口から出まかせとも云うらしい。
椎名誠の本を読んでいると「垂涎」という言葉がよく出て来る。
「よだれをたらす」意味は分かるのだが読み方が分からなかった。
それがやっと今日分かった。「すいぜん」と読むのだそうだ。
決して難しい漢字ではないけれど私のような無知無学の者も居る。
なるべくならふりがなを振って欲しいと願ってやまない。
涎を垂らすほど食べたくてたまらない物だがそれには我慢が要る。
そう易々と口に出来ないから「垂涎」と云うのだそうだ。
食べ物だけとは限らない。たとえば欲しくてたまらない物だ。
手に入れたくてたまらないがそれにも我慢が必要なのである。
「垂涎的」と云う表現をするらしいことを初めて知った。
私は人一倍食い意地が張っていて常に涎を垂らしている。
食べたいと思ったらもう我慢が出来なくなってしまうのだ。
そんな場合はどう表現すれば良いのだろう。
垂涎を叶える?とでも云うのだろうか。日本語は難しくてよく分からない。
読書量は多くひっきりなしに本を読んでいるけれど
あまりおりこうさんにはなっていないようだ。
| 2023年02月22日(水) |
このままではいけない |
冷ややかな空に語りかけている春かもしれない星の微笑み
ずいぶんと遠いところ
手を伸ばせば逃げていく
まるで幻のような空だった
季節はせめぎ合いながら
空を冬色に染めるけれど
漆黒の空に輝く星がある
その微笑みに春を託そう
希望をなくしてどうして
生きていられるだろうか
春は遠くなどない

今朝は氷点下の冷え込み。真冬並みの寒さとなる。
もう慣れてしまっているのだろう。少しも苦には思わなかった。
部屋を暖めながら短歌を書きそして詩を書いていく。
自分ではほんとうに良し悪しが分からず自信の欠片もなかった。
「つっこみ」と云うかけなすことはいくらでも出来る。
たとえば星の微笑みとはどのような光景であるのか。
それを私はこの目で見たことがあるのだろうか。
やはり自分の綴る言葉に酔っているとしか思えないのだった。
最近ここに書きたいことが思うように書けない。
禁煙日記を境になんだか以前のような日常が遠ざかっていったようだ。
孫たちのことを書きたくてたまらないけれど躊躇してしまう。
特にあやちゃんは難しい年頃となり書いてはいけないことが多くなった。
とても複雑な気持ちになるけれどそれは寂しさにも等しい。
孫たちは成長していて時はどんどん流れているのだと思う。
私も変わらなくてはいけないのだろう。このままではいけないのだ。
これはブログではなく「日記」なのだと宣言したことがあるが
果たして日記になっているのだろうかと心細くてならない。
先日のように自棄になればまるで狂ったも同然である。
心の余裕が無いものだからどんどん追い詰められていく。
そうして去っていく人達が居る。それはもう自業自得であった。
このような私にどうして引き留めることが出来ようか。
梅の花が咲き菜の花が咲く頃。寒の戻りはあっても春なのに違いない。
希望をなくしてどうして生きていられるだろうか。
静寂にかける言葉が見つからず宙を彷徨う私は欠片
とうとう割れてしまったのか
触れると傷つきそうな欠片になった
ぶつかってはいけない
かと言ってためらえば
居場所を見失ってしまう
どうすればいいのだろう
私は彷徨い続けている
ふさわしい言葉があれば
おしえてはくれまいか
このひと欠片に

今朝は少しマシなものが書けたように思ったのだけれど
いま読み返してみるとやっぱり駄目のようだ。
自分を「欠片」だと言っているが本当に割れたのだろうか。
それも粉々になるほどに脆いものだったのだろうか。
自分を卑下しようとしているのが見え見えである。
きっと憐れに思っているのだろう。無様な姿としか思えない。
もっと自分に誇りを持てるようなものが書けないものだろうか。
それは「自信」とは違う。心細くとも強い芯のあるようなもの。
この日記もそう。昨夜はかなり自棄になっていたようだ。
今朝読み返してみて笑った。愚かな自分が可笑しくてならなかった。
思った通りアクセス数がぐんと減り得票数も一票となる。
私にとっては「清き一票」である。本当に有難くてならない。
何を書こうと私を信頼してくれている人が居てくれるのだろう。
その好意に私は甘えていたいと思うのだった。
本来ならばランキングなどに拘らないのが一番であろう。
分かっているけれどついつい結果を知りたくなってしまうのだ。
勝とうが負けようがどうでも良いではないか。
ただ自分が思う存分に書ける場所があるだけで幸せだと思いたい。
近い将来この場所も無くなってしまうだろう。
私は何処に行けば良いのだろう。
やっぱり私は欠片になって彷徨っているのかもしれない。
こどくとは毒のようなものなのか私の灰汁もそれに似ている
決してうつくしくはない
浮き上がった汚れは
ふつふつと漂っている
私は孤独のふりをして
膝を抱えているけれど
振り向けば誰かが居て
そっと声が聴こえてくる
毒ならば捨ててしまおう
やがては澄んだ水のように
生かされる時が来るだろう

短歌は3年前に書いたもの。誰も憶えてはいないと自信がある。
この短歌で詩を書いてみたらどんな詩になるだろうかと
試しに書いてみたのだった。止めて置けば良いものを。
結果はご覧の通りである。またしても意味不明なものになった。
私は自分のことを灰汁の強い人間だと思っている。
変わり者で偏屈であるし頑固でもあるのだ。
人当たりは良いかもしれないが表と裏があるように思う。
正直者でもないし素直でもない。ようはろくでもない人間なのだ。
どうだ参ったか。ここまで自分をこき下ろすとなんと心地よいことか。
これは癖になるなとほくそ笑んでいるところである。
普段は優しそうな仮面を付けているが外すと鬼ばばあなのだ。
だからうかうかと近づいたらきっと酷い目にあうだろう。
刃物を振舞わすようなことはしないが危険なことには変わりない。
自分では無意識のうちにぐさっと突き刺さる言葉を発する時もある。
ああオソロシヤ。こんな人の日記をずっと読んでいたなんて
そう思った人は一刻も早く逃げておしまいなさい。
「恨めしや」と追い駆けることなどしないので安心するのです。
私は時々こんなふうにやけっぱちになる。
決して孤独ではないというのにどうしてなのかよく分からない。
道遥か生きてみないとわからない踏み出して行くいのちの一歩
終わることを怖れるよりも
始めてみるべきではないか
どれほどの心細さも
生きる糧になるだろう
道は遥かに続いている
何が待っているのか
誰もおしえてはくれない
確かなことがきっとある
ひとつきりの大切ないのちではないか

今朝はすんなりと書けたが相変わらずの駄作である。
やたらと「いのち」に拘っている。
生きたい気持ちは分からないでもないが度が過ぎると愚かになり
どのような言葉で飾ってもそれは綺麗ごとに他ならない。
「確かなこと」とはいったい何だろう。
書いた本人にも分からない不可解な詩となってしまった。
雨の予報だったが降らないまま一日が暮れる。
二十四節気の「雨水」雪が雨に変わる頃と云われている。
北国にもゆっくりと春が近づいているのではないだろうか。
陽射しこそなかったが気温が高くなり暖かな一日だった。
本を読むには最適で今日も一冊読み終える。
後は少しお昼寝をしたりテレビを見たりしていた。
夫が「鬼平犯科帳」を見ていたので一緒に見ていたら結構面白い。
気のせいかもしれないけれど夫の機嫌がとても良く感じた。
「一緒」というのが嬉しいのだろう。まるで子供のようである。
なんだか「おかあさんといっしょ」みたいで可笑しかった。
煙草を止めたことをまだ話していなくて少し後ろめたい。
重大な隠し事をしているような気がしてならないのだった。
鈍感な人なので気づくことはないだろうと思うとよけいに後ろめたくなる。
打ち明ければ喜んでくれるのだろうか。それとも「当然のこと」だと
言って馬鹿にされるかもしれない。私は増々臆病になってしまう。
元々喫煙には理解のない人だったのでそれも仕方ないことだろうか。
それにしても30年以上もよく我慢してくれたものだと思う。
私は決して機嫌を取っているつもりはないが
夫が穏やかな笑顔でいてくれるのが一番の幸せであった。
若い頃にはぶつかり合うことも多く夫婦の危機さえもあった。
その度に夫は私を赦し私のすべてを認めてくれたのだと思う。
だから私は夫を失うのが怖くてならない。
あとどれくらいなのか分からないけれど
一緒にいられる日々を大切に過ごしたいと思っている。
書けないと呟いてみる夜明け前書きたい私が彷徨っている
いつものように4時に目覚めたが何も書けず悶々とするばかり。
制限時間は4時50分まで。文字数は140文字である。
4時半までに短歌が書けなかったらまず無理であろう。
焦りと苦しさ。なんだか崖っぶちに立っているような気分になる。
決して書かなくてはいけないのではない。
ただ書きたくてたまらないだけなのだった。
思うようにいかない日は潔く諦めるようにしているけれど
すっきりとはしない。こころの奥で何かがくすぼっているのを感じる。

椎名誠のナマコシリーズを全て読み終え今は赤マントシリーズを読んでいる。
とにかく面白くてたまらない。堅苦しさが無いのでとても気楽だった。
書くことが大好きというだけあって楽しみながら書いているのが分かる。
私もこんなふうに日々を綴れたらどんなに良いだろうかと思う。
洗いざらい包み隠さずが理想ではあるがそうは問屋が卸さない。
以前のように孫達のことや家族のことはあまり書けなくなってしまった。
それも寂しいことではあるがやはり家族を守らねばならない。
「公開されている」それを一番の念頭に置くべきなのだろう。
自分のことはいくらでも書ける。恥も外聞もない。
先日来の禁煙日記などどれほど愚かなことだったろうか。
禁煙に成功しある意味もうネタ切れになってしまっている。
それでも生きてさえいれば日記は書けると言ったのは私であった。
明日がどんな一日になるのやら分からない。
それでも私は書くだろう。ありのままの自分の姿を見つめながら。
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