ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2023年01月18日(水) 明日がある

深くなる息は何処から生まれるの心の中に吹く風がある


空にはなれそうにない

ただ風に吹かれている



息は心細いけれど

深くなろうとして

奥へ奥へと向かう



私は何処へ行けばいいのか

空は知っているのだろうか



風のように生きたい


果てしなく広がる空に

私の息が吹き抜けていく





今朝はなんとか書くことが出来たが支離滅裂となった。

集中しようと息を整えながらその息が逃げていく。

もっと深くなりたいと思った。どうすればなれるのか。

ずいぶんと長いこと煙草に頼っていたのだろう。

乱れるばかりの息を鎮めることが出来なかったようだ。


情けないことにまだ完全に禁煙とはいかない。

とても愚かなことだけれどシケモクを拾い続けている。

それはとても不味くて嫌悪感でいっぱいになるけれど

まるで藁にも縋るような気持になって火を点けてしまうのだ。

爽快なはずはなく後に残るのは大きな後悔であった。

それがまたストレスになっていく。もうどうしようも出来ない。

私の意志はこれほどまでも弱かったのだろうか。

そう思うと口惜しくてならない。私は生きていてもいいのかとも思う。



唯一嬉しいことがある。もう煙草を買わなくても良いことだ。

それが一番のストレスだったのでずいぶんと楽になった。

後はいかにして煙草を完全に断ち切れるかだろう。


精神的に酷く参っておりこの日記もまともに書けない。

いつまでも禁煙日記を書き続ける訳にもいかないだろう。


明日からは日常に戻ってみようと思っている。

書けるかどうか分からないけれどこんな私にだって明日はあるだろう。



2023年01月17日(火) おそるべし禁断症状

今朝は何も書けなかった。

以前にもそんな時があったけれど何か違う。

訳もなく苛々してどうにも落ち着けない。

集中力も全くなく頭の中が真っ白になっていた。


もしやこれが禁断症状なのであるか。

まさかそうではあるまいと否定したかったけれど

ただならぬ精神状態に認めざるを得なかった。


不思議なのは吸いたくないのに求めていることである。

なんと愚かなことだろうと情けなくてならない。

そのうえに苦痛が伴い気が狂ってしまいそうになった。


煙草は麻薬ではないが本質的には似ているのだろう。

断ち切るためには相当の覚悟と忍耐が必要に思われる。

たかが煙草ではないかと笑う人もいるかもしれないけれど

身体や心に少なからず異変を与えるのに違いない。


唯一救いなのは「吸いたくない」と云う気持ちである。

いくら身体が求めても心さえしっかりしていれば乗り越えられる。

今が正念場なのだと思って立ち向かっていかねばならない。


灰皿からシケモクを拾いつつなんとかこれを記した。


禁煙を宣言しながらずるずるとここまで来てしまったけれど

明日からが真剣勝負だと思っている。


これはきっと今しか出来ないことなのかもしれない。

試されているのならとことん試して頂きましょう。



2023年01月16日(月) 在庫一掃セール

揺れている心に振り子があるようにぶつかる壁鳴り響く音


決心したことがある

貫こうとしているけれど

どうしてこうも揺れるのか



右なのか左なのか

相応しいのはどこ


ぶつかるのが口惜しい

傷つくのを怖れている


確かなのはこの音


いのちは鳴り響いている

それが心地よくてならない





「決心」とは「禁煙」であるがこの詩はそうとは限らない。

そもそも詩とは呼べないだろう。相変わらずの駄作である。


何かを決心した時、誰しも心が揺らぐ時があるのではないだろうか。

迷いが完全に無くなるまでは「時」を味方に付けなければいけない。

壁にぶつかる時もあるだろう。傷つくこともあるだろう。

命さえあればと思う。そうして貫く勇気が芽生えて来る。



禁煙二日目と堂々と胸を張りたいところだが

買い置きの煙草がまだ残っておりひたすらもったいない。

どうして捨てることが出来ようか。

今日は「在庫一掃セール」と称して吸い続けてしまった。

けれども酷く不味い。やはり拒絶反応が出ているようだ。

吸いたくもないのに吸っているジレンマとの闘いである。

在庫は残り少なくなった。もうひとふんばりである。


馬鹿じゃないかと思う人が多いだろう。

私自身がそう思っているのだからそれは当然のことである。

馬鹿は死ななきゃ直らないと云うが死ぬつもりはない。

嫌悪感が湧きおこる人もいるだろう。どうぞ嫌って下さい。

私は正直にここに記している。私は決して自分を否定などしない。


なんだか喧嘩腰になってしまって申し訳ない。

ずいぶんと鼻息が荒くなってしまったようだ。



話は変わるが先月分のガス代の請求書が届いて

ついに三万円を超えており愕然とした。

よくよく考えたら煙草代と同額ではないか。

これは挽回出来るなとすぐに目の前が明るくなった。

家計が苦しかったのはすべて煙草のせいだと気づく。

私は自ら墓穴を掘り続けていたのである。


朗報もあった。娘達が光熱費の代わりにビール代を賄うと言う。

同居を始めて今年で10年目となるが毎月の生活費を値上げせず

文句のひとつも言わずにやり繰りしてきた甲斐があった。

「来月から?」と訊いたら明日からだと言うので嬉しくてならない。

煙草代と合わせたら月に4万円にはなるだろう。


たった今、最後の一本を吸い終えた。

「在庫一掃セール」もやっと店仕舞いである。



2023年01月15日(日) 大きなストレス小さな希望

指先に込める想いは切なくて何を綴ろう何処へ行こうか


オン書きと云うのだそうだ

昔そう教えてくれた人がいて

ずいぶんと救われたことがある



指先に息を吹きかけている

切なくてならないけれど

生きて在ることを記したい



やがては消えてしまうだろう

永遠など信じてはいないけれど


今が私のいのち






ネット上に即興で詩を書くことを「オン書き」と云うのだそうだ。

かれこれ20年程前だったか教えてくれたのはめいさんだった。

当時はまだ無名だっためいさんも今では立派な詩人さんになっている。

よほど縁があったのか今でもSNSで繋がっており有難いことである。

けれども一方通行で私の詩にめいさんの反応は殆ど無い。

これからも認められることは無いだろうともう諦めてしまっている。

卑屈になり辛い時期もあったがめいさんの意思を尊重したいと思っている。


書くことは生きること。それはとても大それたことだろう。

命がけで書いているなどと言ってしまえば愚かなことかもしれない。

儚いネットの世界である。永遠に残ることなど在り得ないだろうと思う。

けれども「いま」を生きている。私は記すことを諦めはしない。





午前11時、ふと禁煙を思い立つ。

私は決して愛煙家ではない。ニコチン中毒でもないだろう。

しいていえばメンソール依存症と云うべきかもしれない。

服用している薬のせいで常時眠気に襲われることが多い。

煙草には覚醒作用があり頼ざる得なかった現実がある。


けれども喫煙に対して大きなストレスを感じているのも事実であった。

家計は苦しいのに高額な煙草を購入しなければならない。

それは月にすると3万円を超え年にすると40万円近くにも及ぶ。

まるで一万円札に火を点けて燃やしているような日々である。

自分の愚かさを痛感する。それこそが大きなストレスであった。


初日の今日は7時間の禁煙に成功する。

夕食後につい手が出てしまったのだ。それは思いがけずに不味かった。

単純な性質だから拒絶反応だと思いぬか喜びしていたけれど

まだ買い置きの煙草がありもったいないと思ってしまったのだろう。

なんと姑息なことか。情けなくてたまらないのもまたストレスとなる。


とにかく明日からはもう絶対に煙草を買わない。

そう決めると不思議とストレスが薄れ爽快な気分になって来た。

煙草代でお刺身が買えるのだ。なんと素晴らしいことではないか。


喫煙者は世間から疎遠され追い詰められている現状である。

私はそんな世間から生き延びる道を選びたい。





2023年01月14日(土) 雨降って地は固まるのか

しとと雨もう水溜まり出来た頃幼子のように戯れている


おとなになれば出来ないこと

まして老いたこの身のことだ



幼子の赤い長靴が

水溜まりではしゃいでいる

微笑ましい光景が目に浮かぶ



私は躊躇っている

勇気は何処に行ったのか


踏み出していかねばならない

無心になって雨と戯れようか





夜明け前、静かな雨音を聴きながら

幼い頃の孫達の姿が目に浮かんできた。

水溜まりが好きなのだ。見つけると我先にと飛び込んでいく。

ぱしゃぱしゃと水を撥ねながら無心になってはしゃいでいる。


そんな微笑ましい姿に老いた我が身を重ねていた。

相変わらずの駄作で詩とは程遠いものなのかもしれない。

自信はいつまでたっても生まれてこない。

このままで良いのかと自問自答を繰り返している日々である。




9時になるのを待ちかねて図書館へと走る。

また椎名誠のエッセイ本を三冊借りて来た。

「ナマコのからえばり」シリーズが面白くてならない。

まるで年の離れた兄のような親近感を感じている。

23年前に亡くなった友が椎名さんと親交が深かったせいもある。

生前、「椎名さんに会わせてくれ」と懇願したことなど懐かしい。

「本の雑誌」の編集部に「青さ海苔」を送ったこともある。

その時には思いがけず新刊の「銀座のカラス」を送り届けてくれた。

ずっと昔からのファンだったのだ。

まるで「会えない時間が愛を育てる現象」だと云えよう。



図書館から美容院へ。寝癖でどうしようもなくなっていた髪を

ちんちくりんになる程ばっさりとカットしてもらった。

美容師さんは娘の同級生で話が弾み楽しかった。

「白髪も似合う」と言ってくれて自己満足に浸るばかり。

やはりもう髪を染めるのは止めようと思う。

栗色の髪のばあさんなんて誰も見たくはないだろう。



10時半カーブスへ。筋トレを始めるなり足が痛みだす。

コーチが無理をしないようにと言ってくれたがつい無理をしてしまった。

出来ないのが悔しくてならないのだ。「なにくそ」と思う。

帰りにはまともに歩けない程になり辛くてならなかった。


昼食後に痛み止めを飲みしばらく安静にしていたけれど

一向に痛みは治まらず今もずきずきと痛んでいる。


低気圧のせいかもしれないなとも思う。

夫も頭痛がするらしく痛み止めを飲んでいた。


心と身体は決して一体ではないのだと思い知ったような一日だった。

けれども私は少々のことではへこたれないだろう。


自信はないけれどこんなにも生きているのだから。









2023年01月13日(金) 波ばかり

波ばかりその冷たさに触れているやがては春になるだろう海


波打ち際を歩いている

まだ素足にはなれない

蹲って指先で触れる海



あれは十九の時だったか

波を怖れることもせず

胸まで浸かったことがある



青春は春なのに違いない


遠い日の記憶が蘇る


あれからどれほど生きてきたことだろう






若い頃、「死」は夢のようなことであった。

死んだらすべてが終わるなどと考えたこともなかったのだ。

むしろ救われると思っていたのだろう。

悲しみも辛さもない。そこにあるのは「幸せ」なのだと信じていた。



あの日、父に結婚を猛反対されて泣きながら家を飛び出した。

家のすぐ裏には太平洋の大海原。打ち寄せる波の音が聴こえる。

私は裸足になり駆け出して行く。そうして波に揉まれて行く。

少しも怖いとは思わなかった。冷たいとも感じなかった。

ただ海の藻屑として消えようと決心していたのだと思う。


彼の声が聴こえた。私はやっと独りではないことに気づく。

海の中で抱きしめられた時、全身の力が抜けていくのを感じた。

生きてさえいれば幸せになれる。それはきっと永遠に違いない。


19歳の春私達は結婚した。その後の運命の波など知りもせずに。






ここ数日、昔のことをよく思い出す。

「過去」と云ってしまえばなんだか「汚点」にさえ思える。

壊れてしまった玩具のようにもう修復が効かない。

どれほど生きて来たかよりもどれほど傷つけたかだろう。

私はもう取り返しのつかないことをこの世に残してきたのだった。


今は生きたくてたまらないけれど赦してもらえるだろうか。

将来を未来だと信じても良いのだろうか。


「墓場まで持って行く」とよく云うけれど

私には持ちきれないほどの罪が沢山あるのだと思う。


何一つ償いは出来ていない。ただ今ある命を全うするだけだ。



2023年01月12日(木) 未来

見えますか知っていますかこの胸の鼓動が私の生きるすべて


ありったけの息を頼りに

暗い夜空を仰いでいる



ちっぽけな命だとしても

見捨てるわけにはいかない


指先まで通う血は熱く

私のすべてを包み込む



失うことなど怖れない

いつだって新鮮になる



生きて生きて辿り着こう

未来の私に会いに行く





「未来」と「将来」の違いについて考える。

未来は例えば百年先のように広範囲な時間のことなのだそうだ。

将来は具体的な人物がいてそれら特定の人物が

これから訪れるかもしれない具体的な時間のことを云うらしい。


そうなると残り少ない人生において私の「未来」は在り得ないことになる。

そう自覚しなければいけない。むやみに未来を語ってはならない。

無教養なうえに軽率でもある。愚かな詩を書いてしまったものだ。


そんな私にも将来はあるだろう。欲を言えば20年後。

86歳になった自分を想像することは出来る。

杖をつきながら歩いている。そうして空を見上げる時もあるだろう。

書くことは諦めていない。無名のままであっても誇りを持っている。

この世に何も残せなくても嘆くことはしないだろう。

人生を全うするために精一杯生きているだろうと思う。



孫達が嫁いでいればひ孫を抱くことも出来るかもしれない。

その幸せにもういつ死んでも悔いは無いと呟いている。

皺くちゃの顔だとしても微笑むことは出来るのだ。


未来はどうして百年後でなければいけないのだろう。

たとえ20年後でもあっても私はそれを「未来」だと信じたい。


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