快晴。気温は平年並みであったが随分と暖かく感じる。
冬の陽射しはほんとうに有難いものだ。
見渡す限りの雀色。枯れ草が目立つようになった。
私も草のように生きているけれど憐れだとは思っていない。
根をしっかりと張って土と語り合っているような日々だった。
寒い冬を乗り越えてこその春。私は若草にだってなれるだろう。

夕方母から着信アリ。忙しい時間帯のことで無視してしまった。
正直言って特に声を聞きたいとも思わない。
やはり私は薄情な娘なのだろう。まるで鬼のようでもある。
少し距離を置きたいとも思っている。とても複雑な気持ちだった。
それなのに後ろめたくてならない。心苦しくてならないのだ。
もしかしたら優しい娘を演じようとしているのかもしれない。
そんな自分が嫌いでならない。とても愚かなことに思える。
本音を言えば私の誕生日に電話を掛けてきて欲しかった。
もしかしたらと夜まで待っていたけれどそれは空振りに終わる。
やっぱり忘れているのだなと思った。母らしいと言うべきだろうか。
53年前のあの日も私の誕生日を忘れていたのかもしれない。
ああ嫌だ嫌だ。こんなぐじぐじしたことばかり書きたくはない。
と、思っていたらまた母から着信があった。
夕方自分が電話したことをもう忘れてしまっているのだった。
出られなかったことを詫びればへらへらと笑い飛ばしている。
もう何が何やら分からなくなってしまって呆然としている今である。
訊きもしないことをしゃべり続ける母は
やはり寂しくてたまらなかったのに違いない。
曇りのち雨。気温は低めで冷たい雨となった。
寒さのせいか気圧のせいか左足がずきずきと痛む。
この先耐えられるだろうかと少し不安になる。
なんとか歩くことは出来る。歩けなくなったらお終いだ。
弱気になってはいけないなと思う。気を強く持ちたい。
命に関わる事ではないのだ。私はしっかりと生きている。

山里では義父がお葬式に。家族葬ではあったけれど
故人の娘さんから是非にと頼まれたようだ。
喪主となった娘さんもどんなにか心細かったことだろう。
義父は少しでも力になってあげたい気持ちでいっぱいだったと思う。
なんとも寂しいお葬式だったようだ。
お棺に添える生花も無く義父が急きょ「お供え」をしたらしい。
故人は元気だった頃の面影は全く無かったと言う。
いつも明るくて朗らかな人だっただけに憐れでならない。
遺骨を娘さんの嫁ぎ先に納めてはいけないと言われたらしい。
そんな仏教のしきたりがあることなど知らなかった。
かと言ってもう誰も住んでいない家にどうして納められよう。
遺骨は仕方なくすぐに埋葬することになったのだった。
先祖代々のお墓はあるけれど納骨堂ではない。
お墓の周りに穴を掘って土葬にするしかなかったようだ。
義父はその役目を快く引き受けていた。
火葬場から帰るなり作業服に着替え長靴を履きスコップを持つ。
雨が降り始めていたけれど合羽も持たずに出掛けて行った。
そんな義父の姿に最後の最後まで「尽くす」ことを学んだ気がする。
故人の魂は今どこにいるのだろう。
冷たい土の中だとはどうしても思いたくない。
それではあまりにも可哀想でならなかった。
娘さん夫婦と可愛らしいお孫さん達。
唯一の家族に囲まれてきっと微笑んでいるのだと信じたい。
| 2022年12月04日(日) |
またひとつ歳を重ねて |
曇り日。陽射しがないとやはり肌寒い。
朝のうちに少しだけ本を読む。
後はずっと炬燵に潜り込んでばかりだった。
今朝は目覚めるなり父の遺影に手を合わす。
「お父ちゃん生きているよ」と声を掛けていた。
昨夜は本当に不安でならなかったのだ。
とうとう66歳になった。なんだか信じられなくて
自分が自分ではないような気がしてならない。
いったい私は何処に向かっているのだろうと思った。
めいちゃんが「おばあちゃんおたんじょう日おめでとう」と
少し照れくさそうな笑顔で言ってくれて嬉しい。
鬱々とはしていられない。笑顔で過ごさなければと思う。
トラウマだろうか。どうしても53年前の事が忘れられない。
私はそれ程までに可哀想な少女だったのだろうか。
未だに母を恨んでいるのならなんと愚かなことだろうか。
もうとっくの昔に過ぎたことに拘り続けている。
私にだって未来はあるのだ。もっともっと前を向きたい。
いったいいつになったら心から母を赦せるのだろうか。
夕方のこと娘と出掛けていためいちゃんから思いがけない贈り物。
可愛らしい袋に襟巻とマスコット人形とお手紙が入っていた。
手紙には「いつもおせんたくしてくれてありがとう」と書いてあった。
なんと嬉しいことだろう。感激で胸がいっぱいになる。
娘からはめったに飲めない焼酎の「黒霧島」
娘婿はチーズケーキを買って来てくれた。
改めて家族の有難さをつくづく感じた夜になった。
なんとしても長生きをしたいと思う。
私は未来の家族に会いたくてならないのだ。
今朝は今季いちばんの冷え込み。
まだまだこれから更新されていくだろう。
晴れの予報だったので陽射しを楽しみにしていたけれど
すっかり曇ってしまって洗濯物も乾かなかった。
どんな日もあって良しと思う。鬱々と気にしないことだ。
午前中にカーブスへ。今日は60歳位のコーチだった。
いつもは表立って指導をしていないが今日は特別だったのだろう。
思いがけずに優しく声をかけてくれてとてもほっとする。
頑張れない私に「無理せずやりましょうね」と言ってくれる。
それがどれほど励みになったことだろうか。
私は自分の限界を知っているつもりである。
過剰に褒められたらすぐに気が滅入ってしまうのだった。
たとえば頑張ってなどいないのに「えらいですね」と言われること。
ひねくれているのかなとも思う。困った性格かもしれない。
土佐清水市で産業祭があり孫達がダンスを披露したようだ。
見には行けなかったけれどとても楽しかった様子。
でも少し疲れたのかあやちゃんは夕食前に寝入ってしまった。
めいちゃんも眠いのを我慢していて夕食も食べたがらない。
お風呂に誘ってみたら快く頷いてくれて嬉しかった。
めいちゃんと一緒にお風呂に入るのは本当に久しぶりのこと。
髪も自分で洗いメイク落としで洗顔もした。
二人で湯船に浸かりいろんな話をする。ほっこりと心が和む。
私は幸せ過ぎてふと今夜死ぬのではないかと思った。
65歳も最後の夜のことである。
真冬並みの寒さ。日中は陽射しがありずいぶんと救われる。
看板猫の「みい太」が陽だまりでお昼寝をしていた。
撫でると薄目を開けるがまたすぐに眠ってしまう。
なんとも気持ち良さそう。私も猫になりたいと思った。
みい太のおかげで皆が穏やかで優しい。
荒い言葉が飛び交うこともなかった。
これなら年末の慌ただしさもきっと乗り越えられるだろう。

今朝は訃報が。母が親しくしていたお客さんが亡くなった報せ。
娘さんが真っ先に義父に報せてくれたのだった。
家族は嫁いだ娘さんだけで他には身寄りはない。
なんと孤独な人だったのだろうと改めて思う。
母とはパチンコ仲間でよく話が盛り上がっていた。
ほぼ毎日職場に来てくれて母と話すのが楽しみだったようだ。
名前が母の弟と同じで母も弟のように思っていたのだろう。
談笑していた様子が昨日のことように蘇って来る。
義父が母には「絶対に言うな」と言う。
私も伝えるつもりはない。口が裂けても伝えてはならない。
どれほどショックを受け悲しがることだろうか。
母が施設に入居してからそれは沢山の人が亡くなった。
友人の妹さんが自死した時の母のショックも大きかった。
それも私が伝えてしまったせいで未だに後悔している。
「変わったことはないかね?」母は電話口でいつも訊く。
正直に言ってはいけないのだ。
「なにも変わったことはないけんね」と応えなければいけない。
これからはずっとそうしようと思っている。
母の心がいつまでも穏やかでありますように。
師走に入るなりの最強寒波。数日前までの小春日和が嘘のようだ。
まだまだ序の口だろう。氷点下の朝もきっとやって来る。
少しずつ寒さに慣れなければいけない。負けるもんかと思っている。
北風の冷たい寒い一日にだったが孫達は「マラソン大会」だった。
めいちゃんは楽しみにしていたけれど
あやちゃんは昨夜から憂鬱でならない様子。
「学校を休みたい」と言って娘を困らせていた。
「頑張ろうね」と決して言ってはならない。
娘もそれは心得ているようだった。
完走できなくても良いのだ。途中でリタイヤしても良い。
誰にだって苦手なことはあるのだもの。
ただ最初から逃げ出してはいけない。諦めてはいけないのだ。
私も子供の頃からマラソンは大の苦手だった。
すぐに横っ腹が痛くなりなんと苦しかったことだろう。
小学5年生の時だったか途中で寄り道をしたことがある。
友達も一緒であったが先生に酷く叱られた記憶があった。
高校生になってからは仮病を使って休んだ。
「生理」と言えば割と簡単に認めてもらえる。
けれども高校では追試験のような「マラソン」があったのだった。
当日休んでいた生徒を集めて再びコースを走らせるのである。
そう度々生理にはなれない。もう逃げ道などなかった。
途中で走れなくなり歩いたこともある。
それでもゴールは確かにあった。そうして心地よい達成感がある。
「やれば出来るのだ」やらなくてはゴールは永遠にないだろう。
未だに持久力はない。前途もそれほど明るくはないけれど
残された人生に何か一つでも貫くことがあればと思っている。
今は何処を走っているのだろう。不安になる時もあるけれど
全うするべき道が確かにあるのだと信じている。
朝の気温より日中の気温が低くなる。
陽射しはわずかにあったが冷たい北風が吹いていた。
明日からは師走。一気に冬らしくなることだろう。
北海道では積雪。すぐに根雪になってしまうのではないだろうか。
北国の暮らしを思えば南国土佐のなんと恵まれていることか。
冬に怖気づいている私などとても愚かに思えてならない。
月末の仕事を無事に終えほっと肩の荷が下りる。
資金繰りが順調で何よりだった。
母と一緒に仕事をしていた頃の苦労が嘘のように思える。
会社はいつも火の車だった。その上に母の散財が重なり
言い争いが絶えなかったこと。暴言の嵐だったこと。
もう辞めてしまいたいと何度思ったことだろうか。
父の遺影に手を合わせ「母を何とかして下さい」と願っていた。
母さえ居なくなればと思っていたのだろう。
それほどまでに私は薄情な娘だったのだ。
その後の母の度重なる転倒による怪我。心不全の悪化。
入退院を繰り返していたがついに施設に入居することになったのだ。
母にとってはどれほど悔しく不本意なことだったろうか。
私はそれを自分のせいだと思っている。
亡き父が私を助けてくれたのだとしても願ったのは私に他ならない。
だから未だに後ろめたさを感じながら生きている。
これは口が裂けても母には言えないことだった。
ただ母が今の暮らしに慣れ嘘でも「幸せ」と言ってくれることに
どれほど救われていることだろうか。
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