ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2022年11月17日(木) だから悔いはない

曇り日。薄日が射す時間帯もあったが肌寒い一日だった。

おひさまの有難さをつくづくと感じる。


山里の秋桜畑で種を採取している人達を見かけた。

それほど広い畑ではなかったがなんと綺麗な秋桜だったことか。

種はいつ頃蒔くのだろう。春先だろうかと思いを馳せる。

来年もきっとたくさんの花を咲かせてくれることだろう。




今日は高知県芸術祭文芸賞の発表があった。

通知が来ない時点で諦めてはいたのだけれど

落選ならそこに自分の名が無いことを確かめたかった。

やはり思った通り。佳作にも私の名は無かった。


不思議と失望は感じない。むしろすっきりと心地よい。

認められたい欲を断捨離したような気分であった。

「励み」とは何だろうと漠然と思う。

認められ褒められることだろうか。それが自信に繋がるのか。

そうではないのだと今日ははっきりと自覚したように思う。


踏みにじられ拒絶され打ち捨てられてこそ

「励み」が生じるような気がする。

根性が座ると云うか立ち向かう勇気のようなものが湧いて来る。


私は試されたのだろう。どれほどのものが書けるのか。

ある意味限界だったのかもしれないけれど精一杯であった。

だから悔いはない。決して負けたのではないと思っている。





仕事から帰宅したらあやちゃんが平熱になっていた。

食欲も出て来たようでもう大丈夫だろう。

心配性の私にうんざりしたのか「おばあちゃんはうるさい」と言う。

それだけ元気になった証拠でありむしろ嬉しく思う。


家族の平穏無事を祈り続けている日々。

もし定命が尽きても私は祈り続けていることだろう。



2022年11月16日(水) 今こそ希望を

今朝は今季いちばんの冷え込みとなる。

日に日に寒さに慣れて来たのだろうさほど苦にはならなかった。

いつものように4時に起床しパソコン画面と向き合っていたけれど

ただ自分の息を感じるだけで空白に押しつぶされそうだった。


ありのままを記せば見苦しい。自分がとても愚かに感じる。

それでも生きているのだと思った。「いま」を書き残しておきたい。

その一心で言葉を綴る。ほかの誰でもない「わたし」がそこに居る。

どれほど無様でも見捨てることなどどうしてできようか。





あやちゃんが昨夜から発熱。

コロナ禍の学校の規則でめいちゃんも休まなければいけなかった。

学校側も万一の事を考えて慎重に対処しているのだと思う。


娘が仕事を休み小児科へ連れて行っていたら

PCR検査を受けるために10人ほど車中で待機していたらしい。

おそらく何人かは陽性だったと思われるが幸いなことに

あやちゃんは陰性でただの風邪だろうと診断を受けたとのこと。

私が帰宅した頃には微熱になっておりほっと胸を撫で下ろした。

めいちゃんも明日は学校に行けると喜んではしゃいでいる。



県の感染者数の発表は毎日あるけれど

市町村別の感染者数の発表が無くなりしばらく経った。

市内でどれほどの感染が拡大しているのか全く分からない。

それで良いのだろうかと疑問に思わずにいられない。

自然と緊迫感が薄れる。危機感ももちろんのことである。

気のせいかもしれないけれど感染対策も疎かになっているのではないか。


山里で仕事をしていると特にそれを感じる。

殆どの人がマスクを着用していないのだった。

事務所の入り口に消毒液を置いてあるが使用する人は皆無である。

そればかりは強制できなくて戸惑うことが多い。


夫に話したら「自分の身は自分で守れよ」と言われた。

マスクの着用はもちろんのこと手洗い消毒はマメにしている。

以前の経験からいつ自分が濃厚接触者になるとも限らない。


終わらないコロナは無いと信じたいが今のところ前途は暗い。

ただいつかは終息するだろうと漠然と思うばかりである。

今こそ希望を持つべき時なのかもしれない。



2022年11月15日(火) 父の魂

11月も中旬となり初冬らしさが増してきた。

一昨日の雨がきっかけになったのではないだろうか。

これからも一雨ごとに寒さが厳しくなって来ることだろう。


秋桜が散ってしまい芒ばかりが目に付くようになったけれど

今日は職場の庭の片隅に山茶花の花を見つけて心が和んだ。

母が育てていた花を見るとなんだか胸が熱くなってしまう。






父の命日。もう19年の歳月が流れたのかと感慨深く思う。

25年ぶりの再会が叶いその9日後のことであった。

独り暮らしのアパートで「孤独死」なんと憐れな最期だったことか。

しかも24時間誰もその死を知らず私が知ったのも翌日のことだった。

安らかな死顔であったがどれほど寂しかったことだろう。

すっかり冷たくなった父と添い寝しながら何度も話し掛けていた。



父は昭和4年、県東部の安田町で5人兄弟の次男として生まれた。

少年期は戦争の最中で父も少年兵を志願しようとしていたらしい。

16歳で終戦。高等小学校を卒業後中学に進学出来ずにいた父は

林業の手伝いなどをしながらやがて営林署の職員になっていた。


母との出会いについては何も聞かされていない。

何度か訊いたことがあったが教えてはもらえなかった。

高知市内の洋裁学校に通っていた母との接点が確かにあったのだろう。


子供の頃には頑固で厳しかったような記憶もあるけれど

母と離婚してからの父はとても優しかった。

その優しさを裏切るようなことを私はしてしまったのだ。

今となってはもう取り返しのつかないことだけれど

父は寛容でありいつも私の味方をしてくれていたのだ。


離れて暮らすようになって孫の顔も見せてあげられなかった。

25年の歳月を父はどんな思いで暮らしていたことだろう。

息子と娘が初めて父に会ったのは父の葬儀の日だったのだ。



父が亡くなってから不思議なことが沢山あった。

それはいつも私が窮地に立たされていた時ばかりで

必ずと言って良いほど救われるような出来事が起こった。

神様や仏様よりもそれは父のおかげだと私は信じている。

父の魂はずっと私の傍に居て私を守ってくれているのだと思う。








2022年11月14日(月) リラックス

晴れてはいたけれど気温はあまり上がらず

時おり吹く風に冬の気配を感じた。


昨夜は7時には床に就きひたすら眠る。

午前4時にはいつも通りに目覚め「ああ生きているな」とほっとした。

大げさかもしれないけれどそれ程までに私は臆病者らしい。



ちょうど今日は定期の内科通院日だったので診察を受ける。

医師とは以前から相性が悪く少し気が重かったけれど

藁にもすがる思いで昨夜の事を話さずにいられなかった。

そうしたら思いがけずに親身になってくれ救われたように思う。


どうやら血圧のせいで眩暈が起こったのではなく

眩暈が起こったからパニックになり血圧が上がったのらしい。

軽い眩暈は誰にでも少なからずあるとのこと。

もし脳や心臓の不整脈が原因なら立っていられないほど酷いそうだ。


入浴が怖く緊張するのはやはり持病の不安神経症のせいらしい。

また薬が増えてしまうけれど抗不安薬を服用することになった。

なるべくなら薬に頼りたくないけれど仕方ないことだと思う。


病は気からと云うが私の「気」のなんと情けないことだろう。

学んだはずの自己暗示術もすっかり忘れていることに気づく。


入浴は一日の疲れを癒しリラックスするためのものである。

決して命を落とすために自ら危険を冒すものではない。


もちろん人はいつかは死ぬけれど「定命」がある。

それは誰にも知らされておらずだからこそ精一杯に生きねばならない。


お風呂で裸んぼうで死んでたまるか。今夜はそう思った。

弱気になってはいけない。そんな負け方をしてはいけないのだ。








2022年11月13日(日) めまい

雨のち晴れ。夕方にはほうずき色の空が見えた。


入浴中に眩暈。すぐに治まったが血圧が少し高くなっている。

暖かい夜なのにどうしてだろうと不可解でならない。

精神安定剤を服用し様子を見ているが胸がふたふたとするばかり。


いつものように書きたいけれど書けない。

明日は仕事に行かねばならず今夜は安静にしていた方が良さそうだ。


思うようにいかなくて口惜しくてならない。

神様仏様。明日はどうか書けますように。

私のいのちをお守りください。助けてください。



2022年11月12日(土) 家族の行方

晴れの天気予報が外れてしまいぽつぽつと雨が降ったりする。

大量の洗濯物を仕方なく取り入れなければならずなんだかむなしい。


むなしいは「虚しい」とも「空しい」とも書くが

この場合どちらを選べばよいのかよくわからない。

わからないも「分からない」「判らない」「解らない」と書ける。

自信がないものだからついひらがなに頼ってしまった。

無知の上に語学力が足らない。馬鹿ではないと思うのだけれど。




朝のうちにカーブスへ行っていたがまたメンタルを遣られる。

そっとしておいて欲しいのにどうして励ますのだろう。

過剰な誉め言葉ももうたくさんだと思った。

気が滅入るばかりで挨拶もそこそこに逃げるように帰って来た。

脱会するつもりはないが続ける自信もない。

何事も気の持ちようと自分を宥め続けるしかないだろう。



娘夫婦が仕事だったので孫達と昼食。

娘が作り置きのドライカレーを解凍してくれていた。

あやちゃんは食卓で食べてくれたがめいちゃんは二階で食べる。

私が運ぼうとしていたら自分でお盆に載せて運んでくれた。


幼い頃のように子守をするでもなく静かな午後であった。

そっと部屋を覗いたら二人とも頑張って宿題をしていた。

日記の宿題もあるようでそれは明日書くのだそうだ。


今夜はお婿さんの実家で食事会だとか皆で出掛けている。

お婿さんのお兄さんが里帰りしているのだそうだ。

娘は気を遣うかもしれないけれどきっと楽しんでいるだろう。


そんなわけで夫と二人きりの夕食。すっかり楽をさせてもらった。

近所の魚屋さんでお刺身を買って来て後はローソンのチキン。

そんな手抜きにも夫は文句ひとつ言わず有難いことである。

いつかは訪れるであろう二人暮らしもまんざらではないかなと思う。

すっかりやる気を無くした私が目に見えるようである。

夫はそれでも我慢してくれるのだろうか。



息子が突然に家を出てからもう何年になるのか忘れてしまった。

娘もあっけなく家を出て行ったがかれこれ12年程前だったろうか。

日記を読み返せばすぐに分かることだけれどそれが出来ずにいる。


家族4人で暮らしていた頃がとても懐かしく思われてならない。




2022年11月11日(金) よい酔い日記

外気温20℃ずいぶんと暖かな夜になった。

人の躰にはいちばん優しい気温ではないだろうか。

入浴中の緊張感も無くゆったりと湯船に浸かった。

お風呂上がりの冷たい焼酎が身に沁みるように美味しい。


焼酎を好むようになったのはかれこれ40年程前だったろうか。

夫の晩酌がビールから焼酎に替った頃だったと記憶している。

貧乏所帯にはビールは贅沢品であり止む無く焼酎に切り替えたのだ。

それでも夏の間はビールだった。寒くなると焼酎になっていた。

夫は焼酎よりもビールを好み随分と我慢をしたことだろう。

夏のビール解禁をどれほど待ちわびていたことか。


私はまだ子育ての真っ最中で晩酌とはいかなかったけれど

時々寝る前に焼酎を少しだけ飲んでいた記憶がある。

それが寝酒の始まりで今に至っているのであろう。

安眠はもちろんであるがリラックス感が半端ない。

習慣と云うよりすっかり癖になり無くてはならない物になった。

アルコール依存症なのかもしれないけれどあまり気にしてはいない。

たまに飲み過ぎて泥酔する時もあるけれどそれも御愛嬌としている。


泥酔と云えば若い頃に急性アルコール中毒になったことがある。

成人式を目前にして友人たちと日本酒を冷でがぶ飲みしたのだった。

確かお茶碗で飲んだ。私は調子に乗って一気に三杯も飲み干した。

その後の意識は無く3日ほど寝込んだことだけは憶えている。


成人式には人並みに振袖が着たくてならなかった。

けれども結婚したらもう振袖は着てはいけないらしい。

その前に振袖が無い。着ていく着物さえ一枚もなかった。

成人式の当日は布団の中で過ごす。まだ頭がしぶしぶと痛んでいた。


今思えば苦い思い出なのかもしれないけれど懐かしくてならない。

なんと若かったことかと自分が誇らしげにも思えて来る。


焼酎の話から脱線してしまったけれどこれも愉快なこと。

今夜の日記は「よい酔い日記」としよう。


三杯目の焼酎を飲み干した。後はぐっすりと眠るだけだ。


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