| 2022年11月01日(火) |
貧乏もあとどれくらい秋の暮れ |
雨の一日。久しぶりにまとまった雨が降る。
畑の作物などには恵みの雨となったことだろう。
そうして11月が始まる。霜が降りる頃なので霜月と云うのだそうだ。
「立冬」「小雪」と続き季節は急ぎ足で冬に向かおうとしている。
今年もあと2ヶ月なのか。あっという間に一年が終わってしまいそうだ。
やり残したことが沢山あるように思うけれど
出来なくなってしまったことの方が多いような気がする。
それを歳のせいにしてしまうのもなんだか口惜しくてならない。
「六十を越えてからが始まりだ」と云うけれど
私はいったい何を始めれば良いのだろうか。

山里の地場産店「じまんや」で新鮮なほうれん草を買い求めた。
大きな束で150円の安さ。街のスーパではとても手に入らない。
他にも大根菜や葉にんにくもあったが一度に買っても食べきれない。
毎日仕事帰りに寄ってみようと思う。明日は大根菜を買おうか。
スーパーに寄って驚いたのはまた値上げの嵐であった。
牛乳が高くなっていた。一番安い低脂肪乳を買うしかない。
食費の節約にも限度があってしばらくは頭を悩ませそうだった。
安くて美味しいものなどそうそうあるものではない。
お刺身は買えず鯵の干物を買ったけれどそれでも結構高いのだ。
貧乏人の所帯じみたことばかり書いて申し訳ないけれど
もっかの切実なモンダイとしてここに記しておく。
それは決して我が家だけのモンダイではないのではないだろうか。
物価が上がっても収入が増えるわけではない。
お国は助けてくれないとなればひたすら耐えるしかないのだろう。
娘達から毎月の食費はもらっているけれど足りたらない現実もある。
値上げを提案してみようかと思うだけで切り出せずにいる。
「角が立つからそれだけは言うな」と夫は言うのだった。
おまけに「そのうち出て行くだろう」とも言う。
それもそうそう遠くない日かもしれないと私も思っている。
以前は考えるだけで寂しくてたまらなかったけれど
今は夫婦二人暮らしも良いのかもしれないと思えるようになった。
10月も晦日。なんと早いことだろう。
歳を重ねるごとに日々が駆け足で過ぎていく。
背中を押しているのは誰だろう。
なんだか得体のしれないものが後ろに居るような気がする。
先月末に精魂込めて書いた詩の行方が気になってならない。
もし入選していたらそろそろ通知が来る頃であった。
今日も郵便は届かず肩を落としそうになりながら
未だに「負けるもんか」とまるで意地を張っているような私だった。
駄目で元々なのかもしれない。期待しすぎるとよけいに辛くなる。
潔く諦める覚悟も必要なのではないだろうか。

ここに書くべきかずいぶんと迷ったけれど
今朝はとあるSNSである方の発信をミュートさせてもらった。
決して不快な発信ではなかったけれど気に障って仕方なかったのだ。
どうやら小説を書いているらしいが誇示し過ぎていると思った。
自信が無いと言いながら結局は自慢話なのだろう。
それが一日に何度も繰り返されるとさすがに辟易としてしまう。
私とは住む世界が違うのだと思った。離れるべきだと確信する。
顔の見えないネットの世界でご縁を頂き感謝をしているけれど
縁にも波長がある。その波長が確かに交わるとは断言できない。
離れてみるとずいぶんと救われたように思う。
もう心の琴線に傷を付けることもないだろう。
「人の振り見て我が振り直せ」と云うが私も気をつけたいと思う。
ありのままの自分を受けとめてもらえるように努めたい。
この日記は私の素顔そのものであるけれど
もし気を悪くされた方がいたら心からお詫びしたいと思っている。
朝の冷え込みに少しずつ慣れて来たようだ。
まだまだこれからの寒さを乗り越えていかねばならない。
今年の冬は一段と厳しい寒さになるとのこと。
「かかってこい」と勇気を出そうと意気込んでいる。
何事も気の持ちようなのだ。怖気づけば負けてしまうだろう。
今日は孫達のダンス発表会だとばかり思い込んでいた。
娘が何も言ってくれないので恐る恐る訊いてみたら
今日はリハーサルで本番は来年の3月なのだそうだ。
「見に来るつもりだったの」と娘に呆れられてしまった。
めいちゃんが「ダンスがあるよ」とずっと言っていたので
すっかり今日だと思っていて私の早とちりだったようだ。
気分がぽっかりと穴が開いてしまったようになってしまって
夫に提案しまたぶらりと出掛けることにする。
無性にラーメンが食べたくてたまらなくて
先週は西に行ったので今日は東に車を走らせていた。
快晴だったので太平洋の真っ青な海が目に沁みる。
サーファーのなんと多いこと。気持ち良さそうに波と戯れていた。
黒潮町の道の駅には県外ナンバーの車がたくさん停まっていた。
連休中なら頷けるが今日中に帰るのだろうかと心配になるほど。
11時に四万十町の七子峠に着いた。有名なラーメン屋さんがある。
ケンミンショーでも紹介されたことがあり今日も長蛇の列。
開店したばかりなのに凄いなと驚いていたら
コロナ禍で入店制限をしているようだった。
入口に立札がありまず名前を書いてから入店を待つしくみになっている。
その時20人くらい待っていただろうか。気長に待つしかない。
店の外にはベンチが置いてあり座ってそわそわとするばかり。
それでも10分程で名前を呼ばれラッキーだなと思った。
夫は醤油ラーメンと半チャーハンのセット。
私は塩カツラーメンを注文した。以前から食べたかったのだ。
ラーメン屋さんのにおいって何とも言えない。
美味しそうなにおいがどんどん押し寄せて来る。
そうして運ばれ来たラーメンのなんと美味しいことだろう。
お腹はいっぱいになったけれど大盛にすれば良かったと欲も出る。
お店を出てからが愉快だった。二人で顔を見合わせて
「もう帰ろうか」と意気投合したのだった。
これではドライブと云うよりラーメンを食べに来ただけである。
それでも良いではないか。満足に勝る幸せはないだろう。
家からちょうど一時間の道のり。またラーメン旅をしようと思った。
西の空にぽっかりと三日月が浮かんでいる。
なんだか微笑んでいるように見えて心が和む。
三日月に目と鼻と口があってにっこりと笑っている絵。
子供の頃に見た記憶があるのだけれどあれは何だったのだろう。
テレビのCMで見たような気がする。花王石鹸ではなかっただろうか。
子供の頃の記憶は曖昧で間違っていたらお許し願いたい。
そもそもテレビは小学一年生の時まで家に無かった。
東京オリンピックの年だったのだろうか父がやっと買ってくれたのだ。
「ひょっこりひょうたん島」「鉄腕アトム」などとても懐かしい。
小学5年生の頃だったか「青島幸雄のお昼のワイドショー」を見ていた。
やたらと「セックス」と云う言葉が飛び交い何の事だろうと思った。
当時の官舎は父の職場の事務所と併設されていて
父と一緒にS君と云う23歳位の若い青年が働いていた。
なんと私はそのS君に「セックスって何?」と訊いてしまったのだ。
S君は顔を真っ赤にして狼狽え「お母さんに訊いたや」と言って
逃げてしまった。私は子供心にすっかり訳が解らなくなった。
そうして母に訊いたらきっと叱られるだろうと察したのだった。
それを知ったのは中学生になって間もなくのこと。
部活中に3年生の先輩がまるで内緒話のようにして教えてくれた。
その衝撃のなんと大きかったことだろう。とても信じられないと思った。
それまで私はコウノトリが赤ちゃんを運んでくれるのだと思っていた。
私も弟も確かに母から生まれたけれど男女のことなど知る由もない。
その上に母のお腹が割れて生まれたのだと信じていたのだった。
今のように学校で性教育をするような時代ではなかった。
生理のしくみも理解できず「月のもの」がくれば憂鬱でならない。
どうして女の子だけこんな辛い思いをしなければいけないのだろうと。
中学時代は何度も転校を繰り返しやっと海辺の町の学校に落ち着いた。
親友になってくれたSちゃんが泣きながら我が家に来たことがある。
上級生の男子に浜辺に呼び出されいきなりキスをされたのだそうだ。
「にんしんした」と彼女は叫ぶように泣き続けていた。
私はとにかく彼女に性教育を施すことに専念せざるに得なかった。
私は19歳で結婚しSちゃんは確か21歳ではなかっただろうか。
| 2022年10月28日(金) |
秋遍路ひとりふたりと続く道 |
朝の寒さが少し和らぎ日中もぽかぽかと暖かくなる。
今も外気は20℃もありずいぶんと過ごしやすい。
今朝は久しぶりに歩き遍路さんの数をかぞえてみた。
国道だけで5人と今の季節ならではの多さである。
つい荷物に目がいってしまうのはもう習いとなっており
野宿なのか宿泊なのか確かめるためだった。
今朝は5人とも宿泊のようでなんだかほっとする。
野宿となると何処にテントを張るのかとても気になってしまうのだ。
寝袋ではなくお布団に寝かせてあげたくてたまらなくなる。
お風呂にも入らせてあげたい。温かな夕食を食べさせてあげたい等と。
お遍路さんにとってはよけいなお世話かもしれないけれど
お節介の私はどうやらそんな性分らしい。
帰り道の県道で3人のお遍路さん。今日は計8人となった。
外国人のお遍路さんも歩いていて話しかけたくてたまらない。
言葉は通じなくても気持ちはきっと伝わるような気がするのだ。
横顔に会釈をしながら追い越して行く時、ふっと切なくなったりする。
何故だろう。自分でもよく分からないが胸が熱くなるのだった。
そうしていつも後ろ髪を引かれるような気持になってしまうのだ。

めいちゃんの顔の傷がずいぶんと目立たなくなった。
娘が「若いって素晴らしいわねえ」と言うので思わず笑ってしまう。
皮膚がどんどん新しくなっているのだろう。子供は特にそう。
ずいぶんと痛い目にあったけれどもうすっかり忘れているようだ。
大人なら鏡を見ながら溜息をついていることだろう。
明後日の日曜日にダンスの発表会があるので心配していたけれど
薄っすらとお化粧をするのでもう大丈夫だろう。
晴れ姿を見るのがわくわくと楽しみでならない。
怪我をして傷を負うこともあれば何かあって心に傷を負うこともある。
心の傷は子供ほど癒され難いのではないだろうか。
大人は常に子供を守ってあげなくてはならない。
| 2022年10月27日(木) |
ほうれい線とほうれん草 |
曇り日。夕方少しだけ雨が降った。
静かな雨であったが久しぶりの雨音が耳に心地よい。
畑では冬野菜が育ち始めている頃だろう。
そろそろ雨の一日があっても良いのではないだろうか。
山里の義父は一昨年までブロッコリーを栽培していたが
今年も休むそうで実のところほっとしている。
私が口出しするべきではないが本業が疎かになってしまうので
農業は米作りだけにしてくれたらずいぶんと助かるのだった。
日頃から本音は言えない。言ってしまえば怒りを買うだけだろう。
我慢しているわけではないがずっと穏やかな義父で居て欲しい。

あれは私が高校生の時だったろうか
住んでいた官舎には家庭菜園用のちいさな畑があって
父がほうれん草の種を蒔いていたらしい。
その芽が出たばかりの頃に私が引き抜いてしまったことがある。
「雑草と野菜の区別もつかないのか」と父に叱られてしまった。
未だにその時のことが忘れられず怒った父の顔よりも
ほのぼのと懐かしさが込み上げてくるのだった。
ほうれん草はまたすぐに種を蒔き順調に育ったと記憶している。
肥糧はぽっちゃん便所から直に汲み「肥え」としていた。
昔はどこの家庭でもそうしていたのではないだろうか。
不思議と汚いとは思わなかった。それがよく効くらしい。
食事係は主に私であったが部活で帰宅が遅くなる時もあり
父が腕を振るって作ってくれる日もあった。
ほうれん草の料理はあまり記憶にないけれど
私も弟も大好物だったのは「たまごチャーハン」である。
卵と葱だけのシンプルな物だったけれどとても美味しかった。
時々無性に食べたくなる時があるけれど今は作ったことがない。
一度作って家族に振舞おうと思うけれど
あやちゃんあたりから「しょぼい」とクレームが付きそうだ。
だからそれは父と弟と私だけの思い出の味である。
ほうれん草の話からずいぶんと逸れてしまったけれど
歳を重ねるごとに昔のことをよく思い出すようになった。
憶えているうちに記して置くことも良いのかもしれない。
ふと死んだら記憶は消えてしまうのだろうかと思うことがある。
人は輪廻転生を繰り返すらしいが記憶は何処に行くのだろう。
生まれ変わった時に人間になるとは限らないそうだ。
犬や猫になるかもしれないし川や海の魚になるかもしれない。
私などは道端の雑草になるのが似合っているだろうか。
まあそれほど自分を卑下することもないけれど
生まれ変わったらまた女でいたいし今の夫と巡り合いたい。
息子や娘、孫達とも巡り合えたらどんなに良いだろうか。
母には少し途惑うけれど父と弟にはきっと縁があるだろう。
父は今でも私を見守り続けてくれている。
朝の寒さもつかの間。日中は穏やかな秋晴れとなる。
山道を走っているとツワブキの花が目につくようになった。
小さな向日葵のような花でとても可愛いらしい。
古代に初めて咲いた花は黄色だったと聞いたことがあるが
いったいいつ頃から日本で咲くようになったのだろう。
とても外来種だとは思えない。それは古風な佇まいで咲いている。
山影にひっそりと谷川の水辺だったり岩と岩の隙間だったり
とても逞しい花に思えてならず心惹かれる花であった。

職場のお客さんに東京からUターンして来ている方が居て
今日は電話でかなりきつい口ぶりの苦情を受けて少し辛かった。
「だからさあ言ったじゃない!」とか「ほんとに分かってるの!」とか
顔が見えないものだから言葉がもろにぶつかってくるのだった。
東京言葉は標準語であるけれどきつく聞こえるのは何故だろう。
どう受けとめても怒っているとしか思えないのだった。
同じことが高知県内の土佐弁と幡多弁にも言える。
幡多弁は伊予弁に近く穏やかな響きがあるのだけれど
土佐弁は関西弁に近く怒鳴っているように聞こえる時がある。
たとえば土佐弁で「おんしゃあ分かっちゅうがかや」
標準語だと「あなた分かっているの」なのだけれど
幡多弁だと「あんた分かっちょるかい」と言う具合である。
同じ人間でも住む地域によって言葉のニュアンスが大きく変わってくる。
今日のお客さんも決して怒っていたわけではないだろう。
私がうっかりミスをしていた為で確認の電話だったのだと思う。
それにしても山里で生まれ山里で育ったお客さんが
長い東京暮らしですっかり幡多弁を忘れているのが残念であった。
そんなものだろうか。私も東京に住んでいたらそうなるのだろうか。
故郷の言葉はこんなにも優しくあたたかいのだけれど。
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