朝の寒さが更新され今季一番の冷え込みとなる。
とにかく寒さに慣れなければと思うばかり。
今朝は目覚めるなり胸がふたふたと落ち着かず
思った通り血圧がぐんと高くなっていた。
頓服の精神安定剤を服用しなんとか少し楽になる。
もちろん寒さのせいもあるけれど気の持ちようでもあるだろう。
ゆったりとした気持ちで寒さを受け止めていかねばならない。
寒さを冬を愉しもう。そう自分に言い聞かせながら乗り越えて行こう。

孫達の登校を見送り山里の職場に向かった。
めいちゃんはガーゼが気に入っているようで娘が貼り替えていた。
保健室の先生に手当てをしてもらったのがよほど嬉しかったのだろう。
まるで「勲章」であるかのように誇らしげな笑顔であった。
仕事は来客多し。初めてのお客さんに「奥さん」と呼ばれる。
それは社長夫人にも等しく勘違いされても仕方ない。
義父と私はとても親子には見えないのだろう。
すぐに否定すべきであったが何も言えなかった。
もやもやと嫌な気分になる。そうしてシュンと辛くなる。
腹を立てるようなことではなかった。ちょっとしたジョークである。
常連のお客さんは母のことをよく気遣ってくれる。
母の復帰を心待ちにしてくれているお客さんも多い。
それだけ母が慕われていた証拠でもあるだろう。
けれども復帰はもうあり得ない。それは誰にも伝えられない。
何よりもそれを望んでいないのは私自身であった。
薄情な娘はとことん薄情である。
母をゆっくりと休めせてあげたいなどと綺麗ごとを言っている。
ここ数日夏日が続いていたけれど平年並みの気温になる。
西高東低の冬型の気圧配置だそうだ。
北海道の山間部では初雪が降ったらしい。
短い秋が終わりもう「冬」と云って良いだろう。
北国に比べれば温暖な四国のなんと恵まれていることか。
冬を怖れる私などほんとうに罰当たりだと思う。
今朝はめいちゃんが名誉の負傷。
集団登校に遅れそうになって慌てていたのだろう。
家から出るなり前のめりに転んでしまって顔に怪我をしてしまった。
月曜日は荷物が多く手で支えることが出来なかったようだ。
泣きじゃくりながら帰って来てしばらく様子を見ていたけれど
娘が学校に連絡をして少し遅れて登校することになった。
大丈夫だろうか、心配しつつ山里の職場に向かった朝のこと。
午後4時半、思ったよりも元気に帰って来てほっとする。
学校で保健室の先生が手当てをしてくれたそうで
頬と額にガーゼが貼られておりなんとも痛々しい。
眼の下は紫色になっておりよほど強く打ったのだろう。
娘からのお達しで家族皆が怪我のことに触れないことにした。
過剰に心配すればめいちゃんも落ち込むに違いないと。
私もとにかくそっとしておくのが一番に思えた。
明日にはガーゼも取れるだろう。しばらくは傷跡が気になるけれど
後々まで残るような深い傷ではないのが幸いだった。
娘も子供の頃にはよく怪我をしたことを思い出す。
今思えば男の子のような女の子だった。
めいちゃん痛い思いをしたけれど辛抱して偉かったね。
いっぱい泣いたけれど今は笑顔でいてくれてほっとしています。
朝のうちは雲が多かったけれど次第に晴れて来る。
今日もずいぶんと暖かく日中は夏日となった。
早朝お大師堂へ。そろそろ花枝(しきび)を活け替える頃だった。
艶々とした緑のなんと綺麗なことだろう。
一枝ずつ手折りながら亡き姑を思い出す。
舅(義父)が亡くなってから植えたしきびは立派な木になった。
「お大師さんへ持って行くね」と私の声が聞こえただろうか。
Sさんがお線香を2箱も買ってくれていた。
「毎日香」でとても上品な香りがする。
いつもは百均のお線香なのに奮発してくれたのだなと嬉しかった。
川のせせらぎの音が耳に心地よい。ゆっくりと般若心経を唱える。
願い事はしてはいけないのだけれどついつい願ってしまうことばかり。

10時頃から夫とプチドライブに出掛けた。
遠出は出来ず近場の土佐清水市経由で大月町に向かう。
頭集(かしらつどい)と云う集落に遅咲きの向日葵が咲いているらしい。
海岸沿いの国道を走りながらきらきらと輝く海を眺めた。
快晴ではなかったので海は灰色に見えたけれど
水平線の彼方に貨物船だろうか大きな船がゆっくりと進んでいた。
なんと穏やかな海だろう。心が洗われるようであった。
頭集には一度も訪れたことがなくナビだけが頼りだった。
柏島方面に向かい右手に山沿いの細い道がある。
向日葵畑は何処だろうときょろきょろしていたら
道路からずいぶんと離れたところにそれがあった。
駐車場など無く車を停めることも出来ない。
「歩けるか?無理をするなよ」夫の声に「大丈夫!」と応えた。
なんとしても行きたい。諦めるわけにいかなかった。
夫はそこら辺を走って来ると云うので時間の余裕もない。
畑の畦道を痛い足を引き摺りながら歩いた。
でこぼこ道のなんと辛いこと。負けるもんかとひたすら思う。
向日葵はさすがに季節外れらしく夏の向日葵よりもずいぶんと小さい。
よく造花で見かけるような花でそれはそれで可愛らしかった。
花弁がすでに散り種だけになっている切ない向日葵もあった。
それでも陽に向かい精一杯に微笑んでいる姿に感動を覚える。
久しぶりに写真を撮ったけれどここではお見せ出来ず申し訳ない。
画像サイズの制限があり新パソコンではそれが上手く出来なかった。
明日の朝SNSでちらっと投稿しようと思っている。
2時間ほどのドライブであったが夫と色んな話しをした。
昔話やこれからのこと。私たち老夫婦にもきっと未来はあるだろう。
日中は気温が上がり蒸し暑さを感じる。
寒暖差に途惑うばかりであるが寒いよりは良いだろう。
窓を開け広げていられるのも心地良いものだった。
扇風機を片付けてしまったので自然の風はとても有難い。
ここ数日、夜明け前に思うように書けず苦しんでいる。
短歌のようなものさえ書ければ後はなんとかなるのだけれど
その31文字がどうしても書けない。焦れば焦るほど
頭の中が真っ白になってしまって言葉は逃げていくのだった。
365日書けば365の短歌のようなものが出来るのだろう。
それが分かっているからよけいに焦ってしまうのだと思う。
ある尊敬している詩人さんがSNSで発信していた。
書けない時は「書けない」と書けば良いのだそうだ。
ありのままの自分と向き合うことで新鮮になれるのだと言う。
私は大きな壁に突き当たりその壁をよじ登れずにいる。
スランプは思った以上に辛い。自分が惨めでならなくなる。

午前中に週一のカーブスへ。
今日は例の親身になってくれるコーチが居てくれて
ほっと嬉しくずいぶんと精神的に楽であった。
足の痛みを気遣ってくれるのは本当に有難いことである。
自然と意欲が湧いてきて薄っすらと心地よい汗を流した。
決して特別扱いを求めているわけではない。
ただ心のこもった優しさを求めているのだろうと思う。
それはカーブスに限らず日常生活でも同じであった。
もちろんそれは一番に与えなければいけないことだろう。
与えもせずに求めるばかりでは「欲」と云うものだ。
私はまだまだ学ぶことが多い。成長しきっていないのだと思う。
いま陥っているスランプも成長するための試練なのではないだろうか。
爽やかな秋晴れ。降り注ぐ陽射しのなんと有難いこと。
秋桜はもう盛りを過ぎたようで切なげに風に揺れる。
芒はまるで青春を謳歌しているかのように輝いている。
背高泡立ち草は生き残るために風に身を任せようとしている。
私は秋の真っ只中にいていのちについて考えていた。
もしもある日突然があるのならばこんな日に逝きたいと思う。
けれどもまだまだと思う気持ちもある。
こころの断捨離がまだ終わっていない。
それはとても難しいことらしい。
少しでも永く生きてひとつでも捨てられたらと思っている。

午後は気温が上がりずいぶんと暖かくなった。
窓を閉め切った事務所に居るのが息苦しくなってしまい
西側と南側にあるドアを開け広げ風を通していた。
その間に看板猫のみい太が忍び込んだことに全く気付かなかったのだ。
事務所の二階は義父の住居になっており
みい太は台所まで行って悪さをしたらしい。
昼食を食べに二階に上がった義父が見つけ大騒ぎになった。
みい太は煮物を入れてある鍋の蓋を開けていたのだそうだ。
義父に見つかり酷く叱られすぐに跳び逃げたけれど
義父はもう煮物は食べられないと言って怒りまくっていた。
そのとばっちりが私に向かって来た。
どうしてドアを開けたのだと言い「暑ければエアコンを点けろ」と言う。
決して暑いのではなかった。ただ風に吹かれたかっただけなのに。
まるで「お前のせいだからな」と言わんばかりの剣幕であった。
それにしてもどうしてみい太は鍋の蓋を開けたりしたのだろう。
朝御飯もいっぱい食べていたので空腹だとは思えなかった。
二階に上がったのは初めてでただの好奇心だったのかもしれない。
父にはとても懐いていて許されると思っていたのだろうか。
私は常日頃から義父の顔色ばかり気にしているものだから
かなりのショックですっかり気が滅入ってしまった。
みい太のせいでこんな辛い思いをするなど考えてもいなかった。
メンタルの弱さをもろに突き付けられたような出来事だった。
こんな日はさっさと帰ってしまおうと思う。
車に向かったらなんと張本人のみい太が車の下でくつろいでいた。
「みいちゃん、悪さをしたらいかんろ」と𠮟りつけたら
目を閉じて寝たふりをする。聞く耳などまったく無い素振りをする。
そんなみい太の姿を見ていたら叱るのも馬鹿らしくなった。
そうして自然と笑みがこぼれて来る。
誰にも罪などないのだと思うとずいぶんと気が楽になった。
どんな日もあってよし。自動車道を時速90キロで走って帰る。
| 2022年10月20日(木) |
一歩一歩踏みしめながら |
今朝は今季いちばんの冷え込みだったようだ。
またすぐに更新されるだろう。
季節は急ぎ足で冬に向かっている。
じたばたしても仕方ないとやっと思えるようになった。
晩秋の樹々の紅葉。木枯らしの吹く頃。初冬の霜の風景。
自然はなんと素直なことだろうか。
その季節ならではの風情を見せて決して逆らうことをしない。
だから人も嘆いてはいけないのだと思う。
季節に身を委ね季節と一体になって日々を全うするべきなのだ。

午前中に職場のすぐ近くの商工会まで歩いた。
医師からも運動療法を勧められており痛くても歩かなくてはいけない。
ゆっくりと少しずつではあったが一歩一歩踏みしめながら歩く。
ご近所さんの金木犀が芳香を放っており足を止めた。
そのお宅は家の周りにぐるりと金木犀を植えてある。
日頃から手入れを怠らないのだろう。それはなんとも見事であった。
ふと足元を見ると季節外れの薔薇の花も咲いている。
深紅のミニ薔薇でとても可愛らしかった。
商工会の駐車場には鶏頭の花。まるで燃えているように紅い。
それはアスファルトの隙間からとても逞しく咲いていた。
どれもこれも歩いてみないと気づかない季節の花だった。
私はとても清々しくなって足の痛みも忘れてしまう。
少しでも歩けることは本当に有難いことだなと思った。
商工会からの帰り道で近所に住む「ゆっちゃん」に会った。
もう90歳が近いのではないだろうか。とても元気な老人であった。
「足が痛いがか?」と気遣ってくれてほっと嬉しくてならない
ゆっちゃんも膝が悪く手術をして40日も入院していたのだそうだ。
「年寄りはみんなそんなもんよ」と笑い飛ばしてくれる。
私はゆっちゃんよりもまだまだ若いと思っていたけれど
この際お仲間に入れてもらおうかと愉快な気持ちが込み上げて来た。
私が職場の事務所に辿り着くまでゆっちゃんはずっと見ていてくれる。
空は抜けるように青くて眩しいほどの光が降り注いでいた。
今朝は予報通りの冷え込みとなる。
やはり覚悟はしておくべきだなと思った。
昨夜のうちに用意しておいたちゃんちゃんこを羽織る。
靴下を履きエアコンの暖房を点ければもう怖いものはない。
それでも死ぬのならそれが定命なのではないだろうか。
寒さを否定しようとするから怖いのだと思う。
あっけらかんと受け止めればずいぶんと気楽になるものだ。
臆病風に吹かれている自分が滑稽でならず馬鹿じゃないかと思った。
馬鹿は死ななきゃ直らないらしいがまだ死ぬつもりはない。

仕事を終えていつものスーパーで買物をしていたら
川向に住む従姉妹と久しぶりに会った。
私より2歳年上なのだけれど髪の毛が真っ白になっていて驚く。
白髪と云うより銀髪に近い。それは見事で美しくも見えた。
思わず「綺麗ね」と声が出る。従姉妹は恥ずかしそうにしながら
「すっかりおばあちゃんになっちゃった」と微笑んでいた。
その顔を見てどれほどほっとしたことだろう。
老いを受け止めることは決して切ないことではないのだと思う。
感動すら覚えた私は彼女のように生きたいと憧れを抱いていた。
人は上辺だけでは分からない。苦労もあるだろう悩みもあるだろう。
不安もあれば心細いこともたくさんあるのだと思う。
「どうしたが?なんか疲れちょるみたいなね」と彼女が言った。
私は一瞬どきっとした。そんな風に私は見えるのだろうか。
弱音を吐くつもりなどなかったのに否定することが出来ない。
精一杯の笑顔さえも作り笑いのように見えたことだろう。
「早く帰って洗濯物を畳まんといかんけん」と呟いていた。
「また会おうね」」と手を振って別れる。
車に乗るなり大きな溜息が出た。それが何を意味していたのか
未だに分からないまま夜を迎えてしまった。
仕事のこと家事のことも少しも辛いとは感じたことがない。
けれども寄る年波に勝てないと云うことかもしれない。
今日頑張ったのかな私。それさえも分からないまま
寝酒の焼酎を飲みつつまったりとこれを記した。
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