| 2022年10月18日(火) |
寒さなければ花は咲かず |
雨上がりの朝。思っていたよりも暖かくほっと胸を撫でおろす。
それほどまでに寒さを怖れていたのかと呆れるほどだった。
いつからこんなに臆病者になってしまったのだろう。
突き詰めれば死ぬのが怖くてたまらないのだろう。
それよりも生きて在ることに喜びを感じなければいけない。
「寒さなければ花は咲かず」と云う。
私の葉は間もなく紅葉し散ってしまえば指先に芽が萌えて来る。
寒い冬を乗り越えてこその春。私はきっと満開の桜になるだろう。

舅(義父)の命日。もう40年もの歳月が流れた。
3歳だった息子がお棺に縋りつき泣きじゃくった秋の日を忘れられない。
まだ57歳の若さだった。どんなにか無念だったことだろう。
川漁師であり四万十川と共に暮らした人生に思いを馳せる。
亡くなった年の夏には川海老が豊漁で満面の笑顔であった。
前年までは天然青海苔漁、青さ海苔の養殖、モクズ蟹漁もしていた。
夫が30歳になり突然会社を辞めることになった時
「おらにも跡取りが出来たか」と喜んではいたけれど
そのすぐ後に「おらが死ぬると云うことかもしれんな」と言った。
夫はその時のことを思い出しては「虫の知らせ」だった気がすると言う。
どうしても会社を辞めたくてたまらなくなったのだそうだ。
再就職は考えていなかった。父親の弟子になるのだと言い張る。
定収入が途絶え幼い子供達を抱えての暮らしの苦労は云うまでもない。
それでも夫は一生懸命に川漁師の修行に励んでいた。
その夏のことだった。義父は夏風邪を拗らせたようであったが
詳しい検査の結果、肺癌の末期であることが判ったのだった。
40年前の事で今ほど癌治療が充実してはいなかった。
高知市内の病院に入院してからわずか2ヶ月で儚く逝ってしまう。
危篤の知らせを受け4時間の道のりを駆けつけた。
義父は初孫の息子を溺愛しておりなんとしても会わせてやりたい。
それは本当にぎりぎりだった。孫の顔を見るなり手を伸ばし
「おじいちゃんはもういかんぞ」と言ったのだった。
それが最後の言葉になった。手を伸ばしたまま息を引き取る。
私は息子の手で義父の手を握らせそっと胸の上に置いた。
どれほどの歳月が流れても一生忘れることはないだろう。
仏様になった義父は残された私達をずっと見守ってくれている。
| 2022年10月17日(月) |
あっけらかんと生きていきたい |
小雨降る一日。静かで優しい雨であった。
少しぐらい濡れても平気。冷たい雨にはならず幸いに思う。
今夜のうちに雨は上がるとのこと。明日は晴れそうだけれど
ぐんと肌寒い朝になりそうで今からもう緊張している。
神経質な性質のせいかそれはすぐに血圧に作用する。
一度目は高い。二度目も高い。三度目にやっと正常値になった。
こんな有り様で冬を乗り越えられるのだろうかと不安でならない。
弱音はいくらでも吐ける。暗示にも掛かりやすい。
悪い方へ悪い方へと考え出したらきりがないのであった。
もっとあっけらかんと生きていきたいと願ってやまない。

熱でずっと学校を休んでいたけい君が今日は登校できたとのこと。
息子は「心配ないよ」と言うのだけれどあれこれと気遣う。
マンモス校なので授業に遅れが出ているのではないか
お友達とは仲良く過ごせただろうか。辛い思いをしなかったか。
これも老婆心なのだろう。息子に言わせれば心配し過ぎのようだ。
NHKの朝ドラ「舞いあげれ」を見ていると主人公の舞ちゃんが
おばあちゃんと暮らしながら逞しく成長する姿に感動を覚えた。
子供には無限の可能性がある。その可能性を信じてあげなければ。
心配ばかりしていては子供の芽を育てることは出来ないのだと思う。
「けい君はきっと大丈夫」と呪文のように唱えている夜になった。
あやちゃんとめいちゃんは元気いっぱい。
ただ宿題が多くて夕飯の時間になっても終わらなかったりして
可哀想だなと思う。それも日々の試練なのだろうか。
遣り遂げようとする意思はとても逞しく思えるのだった。
孫たちはそうして成長している。
私もまだまだ成長出来るかもしれない。
老いの道は厳しいけれど負けるわけにはいかない。
10月とは思えないほどの暑さ。
窓を開け広げ扇風機のお世話になる。
明日は雨の予報で明後日にはぐんと気温が下がるとのこと。
一気に炬燵の出番となるのではないだろうか。
寒暖差で体調を崩さないように気をつけなければいけない。
今はうかうかと風邪も引けないご時世である。
青空に誘われるように布団を干した。
平日には干せず久しぶりのこと。
主婦冥利に尽きる。陽射しのなんと有難いことだろう。
午前中に山里まで折り畳み式のベッドを貰いに行く。
母のアパートを引き払った時に捨てずに置いていたのだった。
一つは長年母が使っていたもの。もう一つは義父のものだったけれど
別居を決めてからも母は義父が泊まりに来てくれるのではと
ずっと諦めきれずにいたようだった。
それは一度も叶わず義父のベットは新品のままであった。
せつない話ではあるけれど母はどんな気持ちで暮らしていたのだろう。
ここ最近真夜中にトイレに行く時に転ぶことがよくあり
先日は寝ている夫の上にどさっと倒れ込んでしまった。
ベットがあれば身体を支えられるし安全ではないかと話し合い
義父に相談したらいつでも取りに来るようにと言ってくれた。
母のベットを私が使うようにし義父のベットを夫用に決める。
6畳間の寝室にそれはなんとか収まりほっと嬉しくてならない。
今夜からもう転ぶ心配はないだろう。トイレも苦にならなくなった。
仕事だった娘が帰宅しさっそくお披露目をしたのだけれど
「まるで介護生活じゃん」と苦笑いをしていた。
そう言われてみれば確かにそこは高齢者の寝室のようであった。
10年後、20年後と生きているかは分からないけれど
娘や息子に介護の負担を掛けることだけはなんとしても避けたい。
かと言って年金収入だけで施設に入居する余裕も無さそうだった。
「俺はぽっくり死ぬぞ」と夫は言う。
それはある日突然の死を意味している。
私はそれが怖くてならなかったけれど今日は真剣に考えていた。
「昨日まであんなに元気だったのに」と言われて逝きたい。
それが子に対するいちばんの孝行ではないだろうか。
雲ひとつない青空。空がとても高く感じる。
日中は汗ばむほどの陽気となったけれど陽射しの心地よいこと。
空を仰げば自然と深呼吸をしていた。空気が美味しい。
自分はいったい何処に向かっているのだろうと思う時がある。
心細くはあるけれどもしかしたら空に向かっているのかもしれない。

朝のうちにめいちゃんと買い物。
今日も「お金はある?」と訊かれて子供心に心配しているのだろう。
「いっぱい買いなさいね」と言ったらお菓子売り場に駆け出して行く。
子供用のカゴにそれは沢山のお菓子を入れてにっこりと微笑む。
セルフレジで精算をしたらなんと870円も買っていた。
おやまあと少しばかり痛手ではあったけれど笑顔には適わない。
貧乏なおばあちゃんのイメージから抜け出せたかなと思った。
帰りには重い荷物をよっこらしょと車まで運んでくれた。
今朝も足が痛くて辛かったのでなんと助かったことだろう。
めいちゃんさまさまである。感激で胸が熱くなってしまった。
帰宅してすぐにカーブスへ向かう。
足の痛みが酷かったので「そっとしておいて下さい」とお願いする。
けれども上手く伝わっていなかったのか過剰に励まされるばかり。
ついにはメンタルが弱りはて今にも涙が出そうになった。
どうしてもっと親身になってくれないのだろうと思う。
私は辛くてならなかった。誰にも分かってもらえないのかと悲観する。
けれども午後には足の痛みがずいぶんと楽になっていた。
やはり何もしないよりは効果が出ているのだろう。
継続はチカラである。どんなに辛くても続けなければと思った。
誰にだって限界はある。その限界に立ち向かう勇気が必要なのだ。
私は決して逞しくもなく強くもないけれど
心の片隅にささやかな勇気の花を咲かせてみたいと思っている。
爽やかな秋晴れ。気温が高くなり暑さを感じたけれど
夏日になるのも明日が最後になりそうだった。
来週の日曜日には「霜降」となる。
季節は晩秋となり樹々の紅葉も始まることだろう。
とんとんとんと日々が順調に過ぎていく。
もう老いに足を踏み入れているけれど漠然とした何か
それに少しずつ近づいているようだった。
焦りもある。途惑いもある。心細さや不安もある。
けれども生きてさえいればと自分を励ましているのだった。

また訃報があった。じいちゃん(夫)の幼馴染が亡くなる。
「もうそんな年頃なんだな」と寂しそうに呟いていた。
今年になって友人を亡くすのは二人目。さすがにショックは隠せない。
ひしひしと押し寄せて来る危機感があって当然なのではないだろうか。
「おまえは俺より一日でも長生きをしろよ」と言われたことがある。
私はなんとしてもその約束を果たしたい気持ちでいっぱいだった。
夫を残してどうして先に逝けよう。それがとても残酷に思える。
夫を悲しませるより私が悲しみたいと願ってやまない。
「定命」とは仏教の言葉であるらしい。
人はこの世に生まれた時から命が定められているのだそうだ。
幼くして亡くなる子供もいれば長寿を全うする老人もいる。
やっかいなのは誰もその定命を知らされていないことだろう。
不慮の事故や災害。不治の病。死は様々な形で人を襲って来る。
「長生きがしたい」とどんなに願っても叶うとは限らない。
生命力そのものがすでに定められていることなのだろう。
だからこそ「いま」を精一杯に生きなければならないのだ。
不安や心細さも生きている証のように思う。
痛みや辛さも生きているからこそ感じられるのだろう。
同時に幸福も歓喜も与えられる特権もあるようだ。
人生の折り返し地点はとっくに過ぎたけれど
私は自分の定命を信じてみようと思っている。
今日はもう終わった。きっと明日があるだろう。
晴れたり曇ったり。気温は25℃まで上がり快適な一日となる。
暑からず寒からず身体にはとても優しい気温だった。
おかげで足の痛みも和らぎ昨日に比べると嘘のように楽であった。
夜明け前いつものように書けずもがき苦しむ。
いったい自分に何を課しているのだろうとふと考える。
もっとありのままで良いのではないかと思った。
そうしたら自然に言葉が浮かび詩のようなものが書けたのだった。
明日のことなど分からない。生きてさえいれば書けるのだろうか。

定期の内科通院日。わずか10秒ほどの医師の問診を受けるのに
30分も待たされてしまい少々虫の居所が悪くなる。
土佐の方言で云うと「いられ」なのだろう。
堪え性が無いと云うか我慢が出来ない困った性格である。
薬局で薬を受け取りその足で母の施設のある病院に向かった。
年金支給日は明日だけれど早めに支払いを済ませておくことに。
ちょうど母がいつもお世話になっている介護士さんに会うことが出来る。
タブレットでここ最近の母の写真を見せてくれてとても嬉しかった。
おまけに額に入れた写真をプレゼントしてくれて思いがけなかった。
敬老の日の写真でまだ母が体調を崩す前の満面の笑顔が見える。
まだ点滴等の治療は続いているようだけれどさほど心配はなさそう。
リハビリも少しずつ始めているそうで昨日は歩行練習をしたそうだ。
寝たきりになるのだけはなんとしても避けたい。
母の体力と気力次第ではないだろうか。そうして何よりも生命力だ。
母の笑顔の写真を職場に持って行こうかとも考えたけれど
お客さん達の目に触れるのでなんだか可哀想に思えて来た。
現役時代の母はいつも綺麗にお化粧をしていたからだ。
口紅も塗りたいだろう。おしゃれもしたいだろうと思わずにいられない。
母の写真は私の部屋に飾る。ひ孫達と一緒の方が母も嬉しいだろう。
そうして毎朝毎晩声をかけてあげようと思っている。
9年前の日記には「母に楽をさせてあげたい」と書いてあった。
ゆっくりと休ませてあげたかったのだろう。
母はいま幸せなのだろうか。寂しくはないのだろうか。
天気予報が外れてしまって曇り日。
日中の気温も上がらずなんとも肌寒い一日だった。
朝から左足がずきずきと痛む。
歩かなくても痛み憂鬱でならない。
寒さのせいだとすれば冬が怖ろしくなってしまう。
嘆いても何も変わりはしないけれどつい弱音を吐くばかりだった。
不思議と情けないとは思わない。痛いものは痛いのだ。
我慢をするより「痛い」と口に出した方が気は楽になるものだ。
歩けば少しでも血行が良くなるような気がして
夕方、従姉妹の畑に葱を貰いに行く。
従姉妹も難病を抱えているのだけれど畑仕事は怠らず
いつも綺麗に手入れをしてあり頭が下がる。
さつま芋の葉がすっかり切り落とされていて収穫が近いのだろう。
茄子も一本だけ残してありまだ花が咲いており驚く。
葱は二カ所に植えてあり細い葱と太い葱がある。
今日は太い葱を10本ほど貰った。有難いこと。
足を引き摺りながら路地を歩いていたら
近所に住むYちゃんに久しぶりに会った。
私の歩きぶりを見てすぐに気づいたのだろう。
なんとYちゃんも足が痛く難儀をしているのだそうだ。
それも両膝と聞き私よりもずっと重症なのだった。
立ち話ではあったがしばし二人で「痛み」を語り合う。
あれも出来ないこれも出来ないと言い合ったり
あれも辛いこれも辛いと言い合ったりすっかり意気投合する。
最後には二人で笑い合っていた。なんとかなるよねと言って。
私は不謹慎ではあるけれど仲間を見つけてほっとしている。
自分だけではないのだなと思うと救われたような気分になった。
今は「冬よかかってこい」とまるで挑戦者の気分である。
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