曇り日。午後から寒気が流れ込んで来たようだ。
北西の風が吹き一気に肌寒くなる。
北海道や東日本では真冬並みの寒さになったそうだ。
けれども一時的なものらしく数日経てば平年並みの気温になるとのこと。
体調管理に気をつけながら穏やかな秋の日を待ちたいと思う。
お昼休みに10年前の日記を読み返していた。
先日のN先生の言葉がずっと心に残り続けている。
とにかく納得がいくまで読み返さなければ気が済まない。
潔く燃やしてしまうことは出来ないけれど
ネット上から忽然と消滅してしまうことは覚悟の上だった。
ダウンロード機能はあるけれどそれは画像のみであるらしい。
ファイルを確かめてみて初めてその現実を知った。
かと言って20年間もの日記をプリントアウトするのは不可能である。
それをしたところでいずれは紙屑になってしまうだろう。
ひどく追い詰められた気分になる。私はとても焦っているらしい。
それにしても10年前の日記のなんと懐かしかったことだろう。
まだ生まれて間もない初孫のあやちゃんの可愛いこと。
愛犬あんずもまだ生きていて毎日の散歩の光景がよみがえる。
思ったこと感じたことも記されていて歳月の流れをしみじみと感じた。
「10年後私は生きているのだろうか」そんなことも記されていた。
まるでタイムカプセルを開けたような気持になる。
思わず「生きちょるけん」と微笑みながら呟いていた。
また新たに同じことを書いてみたいとも思う。
この場所が無くなっていてもきっと何処かで私は記しているだろう。
とにかく最後の最期まで書くことを諦めずにいたいと思っている。
たかが日記と思う人もいるかもしれない。
けれどもそこには私の人生そのものが記されている。
雨の日も嵐の日も雪の日も春夏秋冬私は書き続けてきた。
それが私のささやかな誇りでもある。
明日のことなど誰にも分からない。
だからこそ今日を「いま」を大切に生き続けていきたい。
朝の肌寒さを覚悟していたけれどさほど気温は下がらず
思いがけずに快適を感じる朝となった。
けれども油断は禁物だろう。身体に堪える日が来るのに違いない。
血圧がぐんと高くなりぽっくり死んでしまうことだって在り得る。
命は取り留めても祖母のように半身不随になる可能性もあるのだ。
まだ秋の序の口からもう冬が怖くて不安でならなかった。
潔くどうして死ねよう。私はまだまだ生きたくてたまらない。
母がお世話になっている施設のSNSが更新されていて
お習字をしている写真がアップされていた。
そこに母の姿が見つからず一気に不安がつのる。
これまでは必ず母の姿を見せてくれていたのだった。
どうにも気掛かりでならず今日は思い切って施設に電話をしていた。
やはり思った通り先日の母の元気は空元気だったと分かる。
けれども決して嘘をついたわけではない。母に自覚が無いようなのだ。
母らしくあっけらかんとしていて全く気にしていない様子だと言う。
幸い担当の医師と話すことが出来て詳しい病状を聞くことが出来た。
今は頭の上に壺を載せて恐る恐る歩いているような状態らしい。
躓けば壺が落ちて割れてしまうと言う。それは当然のことだった。
心臓を守ろうすれば腎臓が弱る。腎臓を守ろうとすれば心臓が弱る。
今はどちらにも負担が掛からないように最善を尽くしてくれているらしい。
素人にも良く分かるように説明してくれて少し気持ちが楽になった。
とにかく母の生命力を信じるしかないのだと思う。
コロナ禍で面会は叶わないけれど面会が叶う時には
「それは危篤状態になった時ですよ」と医師は言う。
だから面会出来ないことをむしろ喜ぶべきなのだろうとも思った。
異変があれば必ず連絡すると言う。連絡が無いことを祈るしかない。
どれほどの日々が流れるにしても受け止めていかなければいけない。
コロナ感染を乗り越えたのも奇跡だと医師は言った。
母の生命力が人並み以上に強いことを物語っている。
そんな母を残してどうして先に逝けようか。
私は不安がっている場合ではない。
もっともっと強く逞しく生きていかなければならない。
| 2022年10月05日(水) |
執着を潔く手放すこと |
北日本や東日本では一気に気温が低くなったとのこと。
西日本は一日遅れ明日から肌寒くなりそうだった。
今日もほぼ真夏日となり蒸し暑い一日となる。
高知新聞に「あけぼの」と云う随筆欄があり
今朝は小学校4年生の時の担任だったN先生の随筆が載っていた。
80歳になられた先生はそろそろ終活を始めたらしい。
断捨離をしていたら女学生だった頃の日記帳が見つかったとのこと。
懐かしさもありついつい読み耽ってしまったと書いてあった。
少女だった頃の先生を知る由もないけれど
文学少女であり恋もし物思いに耽る時もあったことだろう。
私も読んでみたかったなと思った。それは憧憬にも等しい。
先生と私は50年以上も会ったことがないけれど
今でもその縁はささやかに繋がっているのだった。
お昼休みに早速電話をするととても喜んでくれた。
そうして衝撃的な事実を知ることになった。
随筆には書かれていなかったけれどその日記帳のすべてに
火を点けて燃やしてしまったのだと言う。
私が残念がると笑い飛ばすように「すっきりした」と言った。
読み返した時点で納得しもう未練はないのに違いない。
それほどまでに潔くこの世から消してしまえるものだろうか。
私はひたすら胸を打たれた。きっと私もそうするべきなのだろう。
この20年間書き続けてきた日記がまさにそうである。
執着を潔く手放すこと。それこそが断捨離なのだと思った。

整形外科の受診日だったので仕事を終えるなり急いで病院へ。
予約制であったけれど今日もかなりの待ち時間だった。
診察を諦めて薬の処方箋だけ貰って帰ろうかとも思ったけれど
医師に会いたくてならない。少しでも語り合いたかった。
ひたすら待った甲斐があった。医師のなんと優しいことだろう。
先日の川仕事のことも気にかけてくれて「よう頑張ったね」と。
まるで子供を褒めるように言ってくれてとても嬉しかった。
鎮痛剤は胃弱の私にはあまり勧められないけれど
朝だけだったのが夜の分を頓服として処方してくれる。
我慢できない程の痛みがあればどれほど救いになることだろう。
私はもはや藁にも縋る思いである。本当に良き医師と巡り合った。
帰り道はとても清々しい。すかっと爽やかな気分だった。
スーパーで沢山買物をしたけれど重い荷物もなんのその
気がつけば颯爽と歩いている自分が別人のように思えた。
大気が不安定だったのか少しだけにわか雨が降った。
陽射しもあったけれど異常なほどの蒸し暑さとなる。
かつて10月にエアコンのお世話になったことがあっただろうか。
今年の秋は短く一気に冬が訪れそうな気がしている。
秋らしい風景を見かけるとほっとする。
今日は芒とセイタカアワダチソウ。漢字だと背高泡立ち草だろうか。
まだ三角帽子のてっぺんをわずかに黄色く染めたばかり。
「ぶた草」とも呼ばれ花粉症の原因にもなるので
嫌う人も多いけれど私はなんとなく好きだなと思う。
子供の頃には見かけなかった花だ。いつ頃日本に渡って来たのだろう。
繁殖力が強い外来種なので駆除対象になっているようだ。
生き残るために必死の思いで花粉を放っているのだと思う。
芒はまだ若く艶々とした穂がなんとも美しい。
これは古来から日本に生息していたことだろう。
万葉の人々も歌に詠み慣れ親しんでいたのに違いない。
秋の日の風になびく姿はまるで空の波のようにも見える。
やがては枯れ芒となるのだけれど「昭和枯れすすき」を思い出す。
「貧しさに負けた いえ世間に負けた」
決してふざけているのではないけれど私は「令和枯れすすき」を歌いたい。
いけないいけない。書いているうちに脱線してしまったようだ。
それにしてもこうして書くのが本当に好きでならない。
この場所を失ったら生きていられないとも思う。
出来ることならば生前の最後の日記なるものを残したい。
「この場所を追われた いっそきれいに死のうか
力の限り生きたから未練などないわ」
朝は肌寒く日中はほぼ真夏日となる。
そんな夏の名残もあとわずかのようだ。
今はまさに季節の変わり目と云って良いだろう。
私はぽつねんと佇んでいる。
背中を押されたくはない。手を引かれたくもなかった。
職場の庭の片隅に秋桜が咲き始める。
昔はそれは沢山咲いたけれど今はほんのわずかである。
母を恨む気持ちはないが母のせいだと思っている。
いつだったか花が終わった頃に「汚い」と言って
根こそぎ引き抜いてしまったのだった。
母はそんな人だったのだろうか今はとても信じられない。
その証拠に母が育てていた季節ごとの花が今も咲き続けている。

今朝は職場に着くなり「みい太」が鳴きながら擦り寄って来た。
餌は毎朝義父が与えており空腹とは思えない。
かと言って私に甘える程には懐いていないのだった。
「お仕事するよ」と言ったら工場の車の下に潜り込んでしまった。
昼間、義父が「おう!」と声を上げるので何事かと思ったら
庭に数匹の子猫がよちよちと歩いている。
それはもちろんとても可愛らしかったけれど
一瞬どうしようと思うほど複雑な気持ちになってしまった。
父猫はみい太に違いない。母猫は黒い猫で時々姿が見えていた。
けれども餌を与えられているのはみい太だけなのだった。
子猫たちはまだ生まれて間もなく母猫のお乳だけが頼りだろう。
母猫もしっかりと食べなければお乳も出なくなるのではないか。
そんな心配が頭を過る。小さな命が不安でならなかった。
義父も元々の飼い主のKちゃんも黒猫には餌はやらないと言う。
心を鬼にしている気持ちは分かるけれどあまりにも残酷なこと。
みい太の家族を見殺しにするのだろうかと思った。
義父曰く。自然界の掟に沿うしかないのだそうだ。
野良猫には野良猫の生きる術がきっとあるのだろう。
情けをかけることは猫のためにならないと云うことだと思う。
みい太はあっけらかんとしている。
おそらくまだ父猫の自覚もないのかもしれない。
一日中工場に居て今日も看板猫を務めていた。
| 2022年10月02日(日) |
明日がきっとありますように |
残暑と言うより「秋暑し」と言った方が良いだろう。
もう10月だと言うのにほぼ真夏日の気温になる。
彼岸花が枯れ始めた。どす黒い血のような色。
よけいに怖ろしくなってつい目を背けてしまう。
けれども最後まで見届けてやらなければいけない。
緑の葉がその亡骸をきっと包み込むことだろう。
お隣のご主人のお葬式。お向かいのご夫婦と一緒に参列する。
なんとか他言無用を守り続けたけれどやはり複雑な気持ちであった。
私達以外は親族のみでわずか30名ほどの寂しいお葬式だった。
コロナ禍のせいもあるけれど遺族の意志で
今後のおつきあいが出来なくなるのが一番の原因らしかった。
奥さんは家を手放し娘さんとの同居をもう決めているとのこと。
お隣づき合いが出来るのも49日忌までではないだろうか。
奥さんも高齢なのでそれは致し方ないことにも思える。
今生の別れになることだろう。それも寂しくてならない。
亡くなられたご主人はとても安らかな顔をしていた。
それだけが救いに思える。ただただ冥福を祈るだけだった。
昔、何かの本で読んだことがあるのだけれど
自分のお葬式に誰が来てくれるか考えてみなさいと
あの人もこの人もと沢山の顔が浮かんだことだった。
私は「緊急連絡先」と称し電話番号を記し部屋に貼り付けたことがある。
娘がきっと皆に知らせてくれるだろうと信じていた。
歳月が流れてしまうと一人消え二人消える。
決して縁が切れるのではないけれど心に遠慮が生じてくるのだった。
もう迷惑なのかもしれないと思う。歳月にはそんな儚さもある。
今はもうその紙を破り捨ててしまったけれど
また新たな連絡先を記して置きたいと思うようになった。
遠方の友が多いけれどきっと駆けつけて来てくれるに違いない。
最期になんとしても会いたい。私の亡骸に声を掛けて欲しい。
そうでなければ私はどれほどの未練を残すことだろう。
歳を重ねるごとに人の「死」に慣れてくる。
悲しみよりも観念を感じることが多くなった。
出来ることならば長生きをしたいけれど
こればかりは自分の意志で叶うことではなかった。
希望はある。未来だってきっとあるだろう。
けれども生きれば生きるほど「死」が身近になって来るのだった。
「明日がきっとありますように」祈り続ける日々が続いている。
窓から三日月が見えている。まるで一切れの檸檬のようだ。
そんな月を仰ぎながら一日を振り返るのも良いものである。
カレンダーを10月にしたら一面の秋桜畑だった。
ラジオから山口百恵の「秋桜」が流れてくる。
母を想った。胸に熱いものが込み上げてきて涙がこぼれる。
早朝にお大師堂へ。ほぼひと月ぶりではなかっただろうか。
花枝(しきび)が気になっておりあらかじめ準備して行く。
これだけは人任せに出来ない。私の役目なのだと思っている。
日捲りの暦を今日にして花枝を活け替える。
さらさらと川のせせらぎの音を聴きながら般若心経を唱えた。
家族皆の平穏無事を祈らずにいられない。
神様は出雲の国だけれど仏様はきっと身近に居てくれるだろう。
ふとそんなことを思いながら手を合わせていた。
お線香の補充をしようとしたらもう買い置きがなかった。
買うことは容易いけれどすぐに持ってくる自信がない。
今朝は特に足の痛みが酷く歩くのも辛いほどだった。
仕方なくSさんに頼むことにして書き置きを残す。
手水鉢の水も空っぽ。ああどうしようと困り果てる。
川の水を汲みに行けない。なんとも情けない有り様だった。
Sさんや他のお参り仲間さんがきっと気づいてくれるだろう。
後ろ髪を引かれるようにしながらお堂を後にする。
疎かにしていることばかりだけれど私は精一杯であった。

買物を済ませてからカーブスへ。
先週は川仕事があり休んでいたので2週間ぶりだった。
例の親身になってくれるコーチが不在でなんとなく心細い。
案の定、足の痛みを気遣ってくれる人もなく気分が塞ぐ。
新人コーチが声を掛けてくれたけれど社交辞令に聞こえる。
頑張れないのに「頑張りましょう」とは辛いものである。
気分転換を兼ねてすぐ隣のセリアに寄っていた。
娘が働いているお店なので見つからないようにこっそりと。
「恥ずかしいので来ないで」といつも言われているのだった。
可愛らしいお皿を見つけたので孫たちにと買い求める。
レジに娘が居なかったのでこれ幸いと逃げるようにお店を出た。
気分転換が出来るうちはまだ大丈夫だと思う。
負にばかり囚われてしまうと本当に壊れてしまいそうだ。
けれども世の中には不治の病と闘っている人もたくさん居る。
私の足の痛みなど本当に些細なことなのではないだろうか。
命に係わることではないそれだけで恵まれているのだと思う。
70歳、80歳と人生はまだまだこれからなのだ。
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