| 2022年07月26日(火) |
蝉しぐれ負けはしないと祈る声 |
猛暑日。風も吹かず凄い熱気だった。
暑さで有名な江川崎では37℃もあったそうだ。
私の生まれ故郷だけれど子供の頃の記憶に猛暑はない。
扇風機だけで十分に過ごせた。外遊びも元気にはしゃいだものだった。
昨日は蜩で一句などと俄かに風流人を気取ってしまったけれど
「蜩」は秋の季語であることを今日になって知る。
なんとも無知で恥ずかしい限りである。
俳句は奥深く難しいものだなとつくづく思う。
少しずつ学びながら極めていけたら良いのだけれど
この凡才に何が出来ようと自分を貶めてもいる。
最初は皆初心者だと思えば少し救われるのだった。

仕事が一段落し定時で帰路に就く。
山里の集落を過ぎたあたりで突然のにわか雨に見舞われる。
義父が稲の消毒をしていたので大丈夫かと気になってならない。
今日で終るからと猛暑の中を張り切っていたのだった。
雨に降られたら消毒は台無しになるのでどんなにか嘆くことだろう。
稲刈りまでもう少し、どうか順調にと願わずにいられなかった。
気がつけば義父の顔色ばかり窺っている自分がいる。
笑顔でいてくれたらほっと嬉しい。機嫌が悪かったらとても悲しい。
帰宅したら娘が洗濯物をたたんでくれていた。
今日は仕事が休みだったようで全く知らされていなかった。
「ありがたや、ありがたや」正に夢に餅である。
台所も綺麗に片づけてくれていてずいぶんと助かる。
お風呂掃除はあやちゃんがしてくれたらしい。
夏休みの課題で「一日ひとつのお手伝い」があるのだそうだ。
めいちゃんは学童の「たけのこ学級」に毎日通っている。
宿題も捗っているようでお友達とも遊べるのだった。
あやちゃんとは大違いでパワー全開の日々が続いている。
県内のコロナ感染者が過去最多となった今日。
不安でならないけれどもうどうしようも出来ないと観念する。
いつ何処で感染しても不思議ではないのだと思う。
介護施設でクラスターと聞けば母を気遣い息子を気遣う。
「何の知らせもないがは無事な証拠やいか」とじいちゃんが言う。
私はただただ仏壇に手を合わせ祈り続けている。
| 2022年07月25日(月) |
蜩のその日暮らしの老いを知る |
快晴ではなかったけれど真夏らしい暑さとなる。
午後、太陽が雲に隠れた時に蜩(ひぐらし)の声を聴く。
その声は人それぞれだろうけど私には「しゃあ、しゃあ」と聴こえた。
声が空から降って来る。そうしてなんとなく切なくなる。
不思議なことに自分が何処から切り離されたような感じなのだ。
決して孤独ではないはずなのに独りぼっちになったような気がした。
「蜩のその日暮らしの老いを知る」拙い一句が出来たりする。

仕事が忙しく嬉しい悲鳴をあげていた。
一時間の残業となり帰宅してからも電話が鳴る。
私のケイタイは会社の電話を転送にしているので
日曜祭日以外はよく鳴ることが多い。
夕食時にも鳴る。入浴中にも鳴る。トイレに居ても鳴る時がある。
今朝は早朝6時過ぎに鳴り何事かと電話に出たら
お客さんが交通事故を起こしたとのこと。
幸い怪我は無かったけれど車はほぼ全損らしかった。
以前には夜明け前の4時過ぎに鳴りそれも驚いた。
新聞配達をしているお客さんの車の故障で処置を急ぐ。
まだ寝ていた義父を起こし駆けつけて対応したことだった。
そんなこんなで先日のauの通信障害には酷く戸惑ってしまう。
幸い緊急事態が無かったのが何よりに思った。
「転送」もそうだけれど便利な世の中であるだけに
どれほど頼りにしているか思い知らされたことだった。
夏休みになりめいちゃんから着信がある時もある。
「おばあちゃんタピオカドリンク買って来て」
それはとても嬉しい。何だって買ってやりたくなるのだった。
未だガラケーを使い続けているのは恥ずかしくもあるけれど
ポケットサイズなのが気に入っている。スマホは大き過ぎる。
最近では首からぶらさげるのが流行りらしいがそれも億劫だった。
まして年寄りには似合わない、ひどく滑稽な姿に思えてならない。
今夜はもう鳴らないだろうか。おとなしく眠って欲しいものだ。
アラームは午前四時。そうして私の一日が始まる。
| 2022年07月24日(日) |
四万十の風は冷たいほうが好き |
おおむね晴れ。夏らしい晴天と云えよう。
今朝は随分と涼しく午前中は過ごしやすかった。
読みかけの本を開く至福のひと時である。
昨日「えんた」に干してあった海苔網がよく乾いた。
ここいらでは堤防の斜面のことを「えんた」と云う。
方言だと思うのだけれど正式名は「堰堤」なのかもしれない。
「えんてい」が訛って「えんた」になったと考えられる。
昔は青さ海苔を干したり切干大根を干している光景も見られた。
そんな風物詩も今ではすっかり廃れてしまったようだ。
乾いた網を軽トラックに山にして積み込む。
その網を5枚づつに重ねて次は人工種付けとなる。
順調に種が付けば漁場に張り後は海苔の生育を待つばかりだった。
保障など何一つない。あるのは一縷の望みだけである。
とにかくやってみなければ分からないことであった。
「四万十の風は冷たいほうが好きもう十年も川漁師の妻」
これは30代の頃に私が詠んだ短歌だけれど
それからもう30年以上の歳月が流れてしまったようだ。
もちろん今でもきりりっと肌を刺すような冷たい風が好きだった。
大河には春夏秋冬の風景がある。空を映し風になびく雄大な流れ。
冬には白波が立つけれど私は特にそんな川が好きでならない。
当時は天然青海苔も豊漁だった。幼い子供達を連れての川仕事も
少しも苦にならずどれほど精を出したことだろう。
立春を前にしての青さ海苔漁もずっと豊漁続きだった。
今思えばまるで夢物語であるかのような過去の栄華である。
「昔は良かったね」と口にすることも多くなったこの頃。
自然の過酷さに打ちひしがれ肩を落とすこともあるのだけれど
最後の最後まで諦めるわけにはいかないのだと思っている。
試練はいくらでも頂こう。試されているうちが花である。
私は四万十の風に逆らうために生きているのではない。
| 2022年07月23日(土) |
大暑には鰻手当の有り難さ |
二十四節気の「大暑」季節はもう真夏となる。
戻り梅雨もやっと明けたらしく素晴らしいほどの夏空となった。
早朝より海苔網を洗う作業に精を出す。
今年は収穫ゼロと大変な痛手ではあったけれど
汚れた網をそのまま野晒になどどうして出来ようか。
綺麗に洗って干す。そうして来年の希望に繋げていく。
不思議と虚しさを感じなかった。網も愛しいものである。
どんなにか海苔の子供を順調に育てかったことだろう。

土用の丑の日でもあり三年ぶりに鰻を食べる。
昔は天然鰻をいくらでも食べられたけれど
今は養殖鰻でも高価になり貧乏人には手が出せなかった。
それこそ清水の舞台から飛び降りるような気持ちで買ったのが三年前。
今年は思いがけずに職場から「うなぎ手当」を頂く。
一昨日、会社に臨時収入があり義父が「鰻を食べようぜ」と言う。
本来なら会社の運転資金として貯蓄するべき収入であったけれど
義父もよほど鰻が食べたかったのであろう。
結局は大判振る舞いとなり金庫番の私も大賛成となった。
久しぶりに食べる鰻のなんと美味しかったことだろう。
贅沢をすると幸せな気分になる。三年ぶりなら尚更のこと。
たかが鰻では決してない。鰻が神様のように思えて来る。
何よりも家族の喜ぶ顔が身に沁みるように嬉しかった。
貧乏所帯の毎日の遣り繰りも一瞬報われたような気がする。
明日は鰯の丸干しであろうとも耐えてくれるに違いない。
常日頃から貧富の差を感じずにいられないこの頃でもあった。
つい卑屈になり惨めな思いをすることも多いけれど
貧しさは決して不幸ではあるまい。
裕福な人が幸せとは限らないのと等しい。
戦中戦後の食糧難に比べたらなんと恵まれていることだろうか。
| 2022年07月22日(金) |
英会話たどたどしくも夏の空 |
雲ひとつない快晴。やっと戻り梅雨が明けたような気がする。
北西の心地よい風が吹き抜け暑さを和らげてくれたようだ。
山里では義父が稲刈りの準備を始めており乾燥機の掃除に余念がない。
もうすでに捕らぬ狸の皮算用を始めているらしく微笑ましいこと。
昨年は安値だったけれど今年はどうなるのだろう。
苦労が少しでも報われることを願わずにはいられなかった。
稲作に夢中になっている義父は子供のようにも見える。
決して遊びではないのだけれど好きで好きでたまらないのだろう。

お客さんのロージーの家に用事があって訪ねたら
外国人のお友達が来ていて初対面の挨拶を交わす。
ロージーが「チャントエイゴシテネ」と笑いながら言うので
一瞬緊張したけれど「マイネームイズミカ」と自己紹介した。
そうしたらそのお友達が「オオ!」大きな声で叫んだのだけれど
何を言っているのかさっぱり解らない。とりあえず笑顔でごまかす。
笑顔は世界中の共通語にも等しく誰にでもきっと伝わるのだった。
笑う門には福来たるとはちょっと違うけれど幸せな気分になる。
もっともっと話したかったけれど私の英会話のなんと未熟なことだろう。
「シーユアアゲーン」と手を振って別れることしか出来なかった。
ロージーは英会話の先生をしていて私も生徒になりたくてならない。
時間とお金の余裕さえあればと無い物ねだりをしたくなる。
それでもこうして時々でもロージーに会えるだけでも嬉しかった。
「縁」英語では何と言うのだろう。
「ご縁をありがとうございました」とロージーに伝えたくてならない。
| 2022年07月21日(木) |
夏休み記憶の底の笑顔かな |
曇りのち晴れ。下り坂の天気と聞いていたので思いがけなかった。
蒸し暑さは感じず夏らしい陽射しが心地よくてならない。
贅沢な話だけれど事務所の冷房が強すぎて寒さを感じる。
私の適温に合わせていたら義父や同僚には暑いのだそうだ。
屋外で汗を流しているひとの気持ちになってやらねばならない。
母と一緒に仕事をしていた頃にもよく言い争いをしたものだった。
「寒けりゃ着ればいい」と怒鳴られなんと辛かったことだろう。
もう喧嘩も出来ない今となってはそれも懐かしい思い出となった。

孫たちは今日から夏休み。あやちゃんはすっかり元気になっているけれど
早朝のラジオ体操はお休みする。おかげで朝寝坊が出来たようだ。
娘が休みだったので昼食の心配も無く何よりに思う。
明日からはじいちゃんが昼食係となる。大丈夫かなと少し心配だった。
娘がお弁当を作ってくれたら良いのだけれどその気はなさそう。
カップ麺ばかりとはいかないだろう。チャーハンなら作れるだろうか。
ふと自分が子供の頃の夏休みを思い出してみるけれど
昼食はどうしていたのか全く思い出せないのだった。
母は小学校の用務員をしていたので家に居たのかもしれない。
それも3年生までのことでその後の記憶もぷっつりと消えている。
おそらく何不自由なく昼食にありついていたのだろう。
お素麺とか冷や麦とか、おやつにスイカを食べたのかもしれない。
思い出せないと云うことはきっと幸せだったのだろう。
母がいて父がいて弟がいた。この上なく平和な時代だったのだ。
昼食に限らず夏休みのことは殆ど憶えていないのだった。
ただひとつ、父が母方の祖父母の家に連れて行ってくれたことは
よく憶えていてふた従姉妹と川遊びをしたことなど懐かしい。
祖母が作ってくれたぼた餅、じゃが芋のあれは何と云う料理だろう
ふかしたじゃが芋を擂鉢で練って卵と砂糖を加えた物だった。
私はそれが大好きでお腹一杯に食べた記憶がある。
当時はすでに父と母は離婚をしていたのだけれど
父は祖父母との縁を切ろうとはしなかった。
それが父の精一杯の優しさだったのだと今でも感謝している。
蝉の声。谷川のせせらぎ。祖父母の満面の笑顔。
少女の私はとても無邪気であった。
薄雲が拡がっていたけれどおおむね晴れ。
心地よい風のおかげで暑さもさほど苦にならなかった。
夏には珍しく北西の風だったようだ。
南風には湿気が帯びているけれど北西の風はからりとしている。
今も窓を開け広げ風に吹かれている。夕風は涼風に等しい。
孫たちの小学校では一学期の終了式であったけれど
登校前の検温であやちゃんに微熱があったようだった。
昨日のプールの授業で寒かったらしく鼻水も出ている。
まさかコロナではあるまいと様子を見ることにした。
元気で登校する気満々であったけれど学校には行けない。
姉が発熱なら妹も登校できない規則になっており
めいちゃんも仕方なく休まねばならなかった。
すでにランドセルを背負っていためいちゃんは大きなため息をつく。
長い夏休みを前にして仲良しの友達に会いたかったのだろう。
私が帰宅した頃には平熱になっており病院にも行かなかったそうだ。
娘が学校に行って通知表をもらって来ていた。
今の通知表は昔と違い「よく出来る」「出来る」「もう少し」の三評価。
あやちゃんは算数がよく出来てめいちゃんは体育がよく出来る。
なんと微笑ましいことだろう。ふたりを天才と褒めたたえた。
子供は褒められてこそ伸びる。これからも楽しみなことだった。
私のような老いぼれた大人は「よく出来る」が全く無いに等しい。
身の程を知り尽くしているためか褒められてもピンと来ない。
「もう少し」となればがっくりと肩を落とすばかりである。
自信が全く無いものだからやっぱり駄目なんだなと思うのである。
そのくせ欲深くもしかしたらと一縷の望みを捨てられないでいる。
いつかきっと認めれる日が来るだろうと信じたくてならない。
神様はよほど忙しいらしく通知表を書く暇もないようだ。
それとも私のような者になど関わりたくないのかもしれない。
私はどんどんいじけていく。それがどれほど愚かなことか知りつつ
もがき苦しむ運命なのだろう。まあそれもいいのではないだろうか。
なんとしても生き永らえて見せよう。
そのうち神様からの通知表がある日突然に届くかもしれない。
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