ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2022年07月21日(木) 夏休み記憶の底の笑顔かな

曇りのち晴れ。下り坂の天気と聞いていたので思いがけなかった。

蒸し暑さは感じず夏らしい陽射しが心地よくてならない。

贅沢な話だけれど事務所の冷房が強すぎて寒さを感じる。

私の適温に合わせていたら義父や同僚には暑いのだそうだ。

屋外で汗を流しているひとの気持ちになってやらねばならない。


母と一緒に仕事をしていた頃にもよく言い争いをしたものだった。

「寒けりゃ着ればいい」と怒鳴られなんと辛かったことだろう。

もう喧嘩も出来ない今となってはそれも懐かしい思い出となった。




孫たちは今日から夏休み。あやちゃんはすっかり元気になっているけれど

早朝のラジオ体操はお休みする。おかげで朝寝坊が出来たようだ。

娘が休みだったので昼食の心配も無く何よりに思う。

明日からはじいちゃんが昼食係となる。大丈夫かなと少し心配だった。

娘がお弁当を作ってくれたら良いのだけれどその気はなさそう。

カップ麺ばかりとはいかないだろう。チャーハンなら作れるだろうか。


ふと自分が子供の頃の夏休みを思い出してみるけれど

昼食はどうしていたのか全く思い出せないのだった。

母は小学校の用務員をしていたので家に居たのかもしれない。

それも3年生までのことでその後の記憶もぷっつりと消えている。

おそらく何不自由なく昼食にありついていたのだろう。

お素麺とか冷や麦とか、おやつにスイカを食べたのかもしれない。

思い出せないと云うことはきっと幸せだったのだろう。

母がいて父がいて弟がいた。この上なく平和な時代だったのだ。


昼食に限らず夏休みのことは殆ど憶えていないのだった。

ただひとつ、父が母方の祖父母の家に連れて行ってくれたことは

よく憶えていてふた従姉妹と川遊びをしたことなど懐かしい。

祖母が作ってくれたぼた餅、じゃが芋のあれは何と云う料理だろう

ふかしたじゃが芋を擂鉢で練って卵と砂糖を加えた物だった。

私はそれが大好きでお腹一杯に食べた記憶がある。


当時はすでに父と母は離婚をしていたのだけれど

父は祖父母との縁を切ろうとはしなかった。

それが父の精一杯の優しさだったのだと今でも感謝している。


蝉の声。谷川のせせらぎ。祖父母の満面の笑顔。

少女の私はとても無邪気であった。



2022年07月20日(水) 神様からの通知表

薄雲が拡がっていたけれどおおむね晴れ。

心地よい風のおかげで暑さもさほど苦にならなかった。

夏には珍しく北西の風だったようだ。

南風には湿気が帯びているけれど北西の風はからりとしている。

今も窓を開け広げ風に吹かれている。夕風は涼風に等しい。



孫たちの小学校では一学期の終了式であったけれど

登校前の検温であやちゃんに微熱があったようだった。

昨日のプールの授業で寒かったらしく鼻水も出ている。

まさかコロナではあるまいと様子を見ることにした。

元気で登校する気満々であったけれど学校には行けない。

姉が発熱なら妹も登校できない規則になっており

めいちゃんも仕方なく休まねばならなかった。

すでにランドセルを背負っていためいちゃんは大きなため息をつく。

長い夏休みを前にして仲良しの友達に会いたかったのだろう。


私が帰宅した頃には平熱になっており病院にも行かなかったそうだ。

娘が学校に行って通知表をもらって来ていた。

今の通知表は昔と違い「よく出来る」「出来る」「もう少し」の三評価。

あやちゃんは算数がよく出来てめいちゃんは体育がよく出来る。

なんと微笑ましいことだろう。ふたりを天才と褒めたたえた。

子供は褒められてこそ伸びる。これからも楽しみなことだった。


私のような老いぼれた大人は「よく出来る」が全く無いに等しい。

身の程を知り尽くしているためか褒められてもピンと来ない。

「もう少し」となればがっくりと肩を落とすばかりである。

自信が全く無いものだからやっぱり駄目なんだなと思うのである。

そのくせ欲深くもしかしたらと一縷の望みを捨てられないでいる。

いつかきっと認めれる日が来るだろうと信じたくてならない。


神様はよほど忙しいらしく通知表を書く暇もないようだ。

それとも私のような者になど関わりたくないのかもしれない。

私はどんどんいじけていく。それがどれほど愚かなことか知りつつ

もがき苦しむ運命なのだろう。まあそれもいいのではないだろうか。


なんとしても生き永らえて見せよう。

そのうち神様からの通知表がある日突然に届くかもしれない。







2022年07月19日(火) お日和とんぼ

雨が降り始めるまでのなんと蒸し暑かったこと。

出勤時の8時には気温が30度を超えていた。

不快指数百パーセントとはそんな朝を云うのだろう。


山里では「お日和とんぼ」が群れをなして飛び交っていた。

祖母だったか母だったか忘れたけれど雨が降る前兆だと聞いたことがある。

その通りとなりやがて大粒の雨が降り始めたのだった。

高知県は線状降水帯からは離れており豪雨にこそならなかったけれど

九州や中国地方などでは冠水の被害が少なからずあったようだ。

そんなニュースを聞くたびにとても他人事とは思えない。

明日は我が身である。何があっても不思議ではない世の中なのだった。




仕事が忙しく少し遅くなったけれど母の新しい携帯を届けに行く。

ずっと面会禁止の状態が続いており直接手渡すことは出来なかった。

昨日、弟が孫の写真を送信してくれて待ち受け画像にする。

それもちゃんと説明してやりたくて夕方母に電話をしたら

開口一番に「ポリデントが無い」と苛立った声が聴こえて来る。

前もって施設の職員さんから連絡をしてくれていたらと残念に思う。

今日行ったばかりでまた出直さなければいけないと母に告げると

「無くても死にはしない」とこれもまた苛立った声に聴こえる。

私もつい声を荒げてしまったのでとても穏やかな会話は出来なかった。

よく聞けばもう随分前から無くなっていたのだそうだ。

ケアマネさんとは何度か話したのに伝わっていなかったのだろう。


そうなると私の頭の中はポリデントでいっぱいになる。

明日にでも買い求めて届けてやらねばと思わずにはいられなかった。

母は「無理せんでもええわ」と言い、「どうでもええわ」とも言う。

それを母の本心だと決めつけるほど私は愚かでもない。

汚れた入れ歯で過ごしている母をただただ不憫に思うのだった。

母にしてみれば娘だからこそ言えることなのだろう。

それは決して我儘ではなくささやかな甘えなのではないだろうか。


またこれからいくらでも穏やかな会話が出来ることだろう。

私はあくまでも優しい娘で在り続けたいと思う。





2022年07月18日(月) 命をかける程に

薄曇り。朝の涼しさもつかの間のこと日中はかなり蒸し暑くなる。

大量の洗濯物が乾燥機に入りきらずいちかばちかと

外に干していたら思いがけずによく乾いていて嬉しかった。

たかが洗濯物に一喜一憂するのも可笑しいことだけれど

私にとっては重要なことで乾かないとがっくりと落ち込んでしまうのだ。

些細なことがストレスになる。そんな自分にうんざりしてしまう。



朝のうちに同人誌へ掲載してもらう短歌をメール送信する。

全部で16首。相変わらずの愚作ばかりで反応が怖くてならない。

詩はいっさい受け付けないと言われており短歌だけが頼りだった。

その短歌も見捨てられたらもう私の居場所は無いに等しい。

いずれ破門もあり得ることで常に覚悟が必要であった。

身の程を知り自ずから退くことも考えてはいるけれど

とにかくしがみつくこを選ぶ。それは命がけの行為でもあった。

気がつけば認められないことに慣れてしまっている。

仲間も誰一人いない。なんと孤独なことだろうと惨めにもなる。

被害妄想気味にもなり自分は虐められているようにも感じるのだった。



俳人の杉田久女は高浜虚子の「ホトトギス」を突然に追放された。

それでも俳句を諦めずに書き続けていたらしい。

けれどもそれを発表する場を失いどれほど苦しかったことだろう。

経済的な理由も在り句集を発刊することも叶わなかった。


ついに精神を病み戦後の精神病院でほぼ餓死の栄養失調で亡くなっている。

戦後の最悪の食糧難は今では考えられない程に深刻だったのだ。

まさに命がけで俳句と向き合った壮絶な人生だったのだと思う。


今回、田辺聖子の「花ごろもぬぐやまつわる」を読了し

深い感動と言葉に出来ないような哀切を感じずにいられなかった。


明日は我が身とまでは云えないまでも

私も命がけで立ち向かっていかなければならない。



2022年07月17日(日) 初蝉に恋しくおもう母の声

つかの間の青空。午後にはぽつりとにわか雨が降る。

今朝は今夏初めて蝉の声を聴いた。まだか細い鳴き声であったけれど

夏らしさが嬉しくなって思わず微笑まずにはいられなかった。

「初蝉」と云うのだろか。なんだか俳句が出来そうな気がする。

蝉は地上に出てから8日しか生きられないと聞くけれど

なんと儚い命だろう。それでも決して嘆いてなどいない。




午後、母の携帯の機種変更にドコモショップへ行く。

本人確認の手順を踏まねばならずそうそう簡単にはいかない。

施設に電話して電話口まで母を連れて来てもらった。

それも車椅子でのことで介護士さんに面倒を掛けざるを得ない。

店員さんが母と話す前に事情を説明しやっと母は理解したようだった。

「そういえばケイタイがないね」と言って笑わせてくれる。


店員さんが生年月日を訊ねてはらはらしたけれど

母はしっかりと応えたようだ。ほっと胸を撫で下ろすばかり。

そうしてやっと本人確認が整い手続きを進めることが出来た。

けれども古い携帯は故障しており電源も入らないらしく

データーを移行できないかもしれないと言われ焦りまくる。

店員さんがあれこれと試してくれていたら一瞬電源が入ったようだ。

「とにかくやってみましょう」その待ち時間もはらはらし通しだった。

「出来ましたよ」その声を聴くなり目の前がぱあっと明るくなる。


直ぐに母に届けてやりたかったけれどそれは叶わず。

病院が休診の日は玄関が閉まっており家族であっても立ち入り禁止なのだ。

この4月からそんな規則が出来たらしくなんとももどかしいこと。

仕方なく連休明けの火曜日に届けることにしたのだった。


今日は少しだけ母の声を聴けて嬉しかった。

薄情な娘であってもやはり本音は恋しくてならないのだろう。

いつの間にか以前のような躊躇いは消え失せてしまっている。


私にも人恋しい夜がある。無性に誰かと話したくてたまらない夜に

母はいつでも待っていてくれるのだ。

「変わりないかね、元気かね」その声を聴くととてもほっとする。







2022年07月16日(土) 自分を守るために

相変わらずすっきりしない天気が続いている。

朝のうちは涼しかったけれど午後から一気に蒸し暑くなった。

今夜は小学校で「夏祭り」が行われるのだそうで

孫たちが楽しみにしており先ほど出掛けて行った。

めいちゃんは浴衣を着たのだけれどあやちゃんは嫌だと言う。

「暑いし動きにくいやんか」確かにその通りである。

女の子らしいおしゃれを選ぶより現実的であるのが面白い。

けれども見たかったなと思う。ささやかな憧れのようなもの。




午前中に恐る恐るであったけれどカーブスへ行っていた。

先週のこともあり出来るかどうか不安でいっぱいだった。

幸い足の痛みは薄れておりなんとか出来たのだけれど

コーチの気遣いが全く感じられずいささか不服気味となってしまう。

私は余程いじけやすい性格なのだろう。一言で良いから

「足は大丈夫ですか?」と訊いて欲しくてたまらなかった。

他の元気なメンバーと一緒にされてはたまらない。

そう思うと腹も立って来てふくれっ面をしてしまうのだった。

マシンを使っているとコーチが寄って来て励ましてくれるのだけれど

それも気に入らない。とにかくそっとしておいて欲しい。

マイペースで無理のないように心がけているのだから。

励まされたら気が滅入る。褒め言葉などももちろん不要である。

張り切って一生懸命に頑張れたらどんなに良いだろうか。

それが出来ないから苦しんでいることをどうか分かって欲しいのだ。

終始苛々とするばかり。身体を動かした後の爽快感は皆無であった。


溜息をつき肩を落として帰路につく。なんだか涙が出そう。

メンタルが落ちているのが自分でもよく分かる。

これではいけないなと思うのだけれどどうしようも出来ない。


「悔しさをバネに」とか「やれば出来る」とか

常日頃から自分に言い聞かせているのだけれど

自己暗示力も極めて衰えているようであった。


こんな時はとことん落ち込んでしまうのが得策かもしれない。

そうすればまた這い上がろうとするのではないだろうか。


自分を守れるのは他の誰でもない。自分自身なのだと思っている。



2022年07月15日(金) 私の灰汁

戻り梅雨と聞いて幾日目だろう。今日も夏空は見られず。

それでも稲穂は日に日に色づき微かに頭を垂れている。

逞しいものだなと思う。人もそうでありたいものだ。


私はなんとなく負の感情が勝りすくっと顔を上げられずにいる。

ついつい悪いことばかり考えてしまう。これも短所なのだろう。

それから少し涙もろくもなってしまった。

特に優しい言葉に弱い。すぐに目頭が熱くなってしまうのだった。

時にはそっとしてほしいと願う。誰とも関わりたくないとさえ思う。

今さら楽天家にはなれはしない。あっけらかんと生きるのは難しい。




仕事を終えていつもの病院へお薬を処方して貰いに行ったら

受付の職員さんに「来月は診察を受けて下さいね」と言われた。

それが威圧的に感じ少しむっとする。思わず「嫌です」と応えたら

「そう云う訳にはいきませんよ」と睨み付けるので余計にむっとする。

「じゃあ考えておきます」と言って逃げるように薬局に向かった。


元々の主治医は人気者で予約制になっており私などは時間の余裕がない。

仕方なく若手の医師のお世話になり始めてから数年が経った。

心療内科は専門外なのかいつだったか私を泣かせたこともある。

その時は何があっても自己責任ですよと言って私を追い詰めたのだった。

もう二度と話したくないと思った。その気持ちは今でも変わらない。

その医師と向き合わなければいけないのが大きなストレスとなっている。


じいちゃん(夫)に相談したらとにかく余計なことを話さないこと。

「お変わりないですか?」と訊かれたら「はい」と応えれば良いと。

ふつふつと胸に込み上げて来ている灰汁のようなものは

行き場を失いまた延々と巣くい続けることだろう。

あれこれと考えても仕方のないことなのだ。

勇気とは少し違うかもしれないけれど来月は診察を受けようと思う。


そう決めると少しこころが楽になったような気がする。

何事も当たって砕けろなのかもしれない。


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