最高気温が23℃まで上がりすっかり春らしい陽気となる。
帰り道の県道で見かけた若いお遍路さんは
半袖Tシャツにハーフパンツのいで立ちであった。
歩き続けていると汗ばむほどの陽気だったのだろう。
ふくらはぎには湿布を貼ってあり気になったけれど
颯爽と歩いており痛みは峠を越えているように見えた。
荷物が少なかったので野宿ではなさそうだった。
今頃はきっと宿で疲れを癒していることだろう。
健脚ならば明日は伊予路に入るだろうと思う。
40番の観自在寺は静かでとても落ち着く札所である。
今日は他にも6人のお遍路さんを見かけたけれど
誰一人して声を掛けることも出来ずただ会釈を繰り返すばかりだった。
思い起こせば今までたくさんのお遍路さんと出逢い
一期一会のご縁を頂いたけれど
以前は毎日だったお大師堂にも最近はすっかり足が遠のいている。
行動無くしてはその機会もないのが当然のことだろう。
私が変わったのではなくただ老いてしまっただけのことかもしれない。
疎かにすることが随分と多くなったように思う。
朝の道でもきっかけさえあればと心しているけれど
声を掛けるタイミングも掴めないのがもどかしく感じている。
この年にもなるとなかなか思うように積極的にはなれないものだ。
臆病にもなり声を掛けることに躊躇ってしまうことも多くなった。
きっかけが無ければ自分で作れば良いとも思うけれど
それもお節介に成り兼ねずついつい善悪に心を奪われてしまうのだった。
日々は流れていくばかり。やがて季節も春から夏に変わるだろう。
私はただ指を折りつつ土佐の幡多路を歩くお遍路さんを数えている。
やっと朝の寒さが和らぎ日中も春らしい陽気となる。
ほっと空を仰ぎ降り注ぐ陽射しをいっぱいに浴びた。
朝の国道では春遍路さんを5人も見かける。
ここ数日の間にお遍路さんが一気に増えたようだ。
桜吹雪の舞う道をひたすら歩いて来たことだろう。
目指す金剛福寺では足摺岬の真っ青な太平洋が待っている。
一人一人に会釈をしながら旅の無事を祈ったことだった。
私もいつかきっとと思う。もう歩き遍路は無理だけれど
バスツアーならそれが叶うのではないだろうか。
仕事を辞められる目処は一向に立たないけれど夢はふくらむばかり。
帰宅したらじいちゃんがぎっくり腰になっていた。
原因はよく分からずいきなり激痛に襲われたとのこと。
今朝は地区の資源ごみの収集日で役員として出掛けていたので
資源ごみの仕分けをしたり重い物を持ったのかもしれない。
けれどもその時は何ともなかったと不思議そうな顔をしていた。
ぎっくり腰はくしゃみをしても起こるものらしい。
そのうえ癖になるとも言われおり本人はけっこうけろりとしている。
「またですか」と言うと「またやっちまった」と苦笑いしていた。
孫たちは春休みの最終日。明日は入学式と始業式だった。
あやちゃんは4年生に。めいちゃんは2年生になる。
春休みも宿題があったようで二人とももう完璧なのだそう。
成人年齢が18歳と決まり、あやちゃんは後8年で成人になる。
なんだか信じられないけれどきっとあっという間のことなのだろう。
めいちゃんが生まれてから8年。つい昨日のようにおもい起こしている。
少女から大人へ。いったいどんな未来が待ち受けているのだろう。
私達は老いに負けずその未来をきっと見届けようと思っている。
春は生きている限り必ず巡って来る。
そのたびに桜は咲きそのたびに散っていくけれど
その儚さを嘆くことだけはしたくないのだった。
二十四節気の「清明」すべてのものが清らかで生き生きとする頃。
いのちの営みを感じ生きる喜びも感じられる頃だろう。
そんな「清明」の季節が私はいちばん好きだなと思う。
だからこそすくっと前を向いて歩み出していかなければならない。
私は能天気な性格ではないので欝々としてしまう時もあるけれど
何事も気の持ちようだと思い直すことが出来るようになった。
心配事があればそればかりに囚われてどん底の気分にもなるけれど
「なんとかなるだろう」と開き直ることも出来るようになった。
生きている限りひとは成長することが出来るのだと思う。
今日は定時より少し遅くなり帰路に就く。
合いびき肉が半額で売っており頭の中がハンバーグになっていた。
あやちゃんもきっと喜んでくれるだろうとうきうきした気分で帰宅。
今日も「ばんごはんはなあに?」「ハのつくものよ」と応える。
「歯につくもの?」と兎のような前歯を見せながら笑った。
我が家のハンバーグは照り焼きと決まっていて娘が作ってくれる。
私は茎わかめと厚揚げの煮物を作っただけで楽ちんだった。
5時半には一番風呂に入るじいちゃんが早々とテーブルに着き
まるで居酒屋の客のような顔をして晩酌の肴を待っている。
今日はお刺身が高くて買えなかったので「サラダカツオ」を出した。
鰹の生節なのだけれど柔らか目でオイル漬けにしてあるものだ。
じいちゃんはそれにお醤油をかけて食べるのが好きなのだった。
今夜は珍しくあやちゃんが子供部屋から下りて来て一緒に食べてくれる。
大盛りのご飯で満足そうに食べてくれてとても嬉しかった。
やはりメニューは孫中心でなければいけないと改めて思う。
めいちゃんはいつも最後のはしに食べるのが常となっており
今夜も「ままは?」と訊ねたら「まだ食べたくない」と言う。
「まま」とは「まんま」の事で私は未だに赤ちゃん言葉だった。
それなのにめいちゃんは全く違和感を感じないらしく
「まま」イコール「ごはん」だとわきまえているのも愉快なことだ。
今はお風呂に入っているらしく浴室からはしゃぎ声が聴こえている。
なんと平和な夜だろう。私は微笑みながらこれを記した。
桜が散り始めてからやっと青空になる。
日中の気温も20℃に達し春らしい一日だった。
桜は徐々に葉桜に。木の芽も見えるようになり柿の木や枇杷の木。
特に枇杷の木は新芽が花のように見えて好きだなと思う。
やがて新緑の季節がやってくるだろう。それも楽しみでならない。
令和4年4月4日。私は「しあわせの日」と名づけた。
元来4は不吉な「死」と結びつく数字ではあるけれど
それも人それぞれの受け止め方で変わるのではないだろうか。
マイナス思考をプラス思考に変えてみるべきなのだ。
4がたくさんあるほど4は合わさり「しあわせ」になる。
仕事は今週も忙しくスタートしたけれど
一段落したところで後は明日と定時で帰路に就いた。
帰宅して洗濯物をたたみ終えるなり本を読み始める。
寸暇を惜しまずとはこのようなことだろうか。
時間が足らないと言ってしまえば幸せにはなれない。
少しでも時間があって有り難いと思えば幸せになれる。
あやちゃんが「晩ごはんはなあに?」と毎日の事なのだけれど
今日は「それだけは訊かないで」と言ってしまった。
そうしたら「なに?なに?」と連呼するありさま。
「焼きそば」と応えたら「ふ〜ん」とつまらなそうな顔をした。
案の定、夕飯時になっても子供部屋から出て来ない。
娘がしぶしぶフライドポテトを揚げてくれて助かった。
最近のあやちゃんは私に不平不満をぶつけることをしない。
わがままも言わず少しは私の苦労を感じているのだろう。
そんな思い遣りを感じることも幸せではないだろうか。
「しあわせの日」が穏やかに暮れていく。
あやちゃんに声をかけたら振り向いてにっこりと笑った。
今朝は真冬のような寒さとなる。
「花冷え」と受け止めていても途惑わずにいられなかった。
日中もあまり気温が上がらず肌寒い一日となる。
PC内の古いフォルダーを整理していたら「梨の花」の写真を見つける。
日付は2002年3月28にとなっておりなんと20年前の写真だった。
おぼろげな記憶ではあったが確かに梨畑に行ったことを思い出す。
デジカメを買ったばかりの頃であり行動力もあったのだろう。
他にも海の写真が多くあり独りで砂浜を歩いたことも懐かしかった。
45歳の私はまだ女盛りだったのかもしれない。
海を見ながら感傷に浸っている姿は気恥ずかしささえ感じる。
その頃の写真の殆どが「ひまじんネット」にアップされており
多くの方とコミュニケーションがあったようだった。
コメントは「つっこみ」と呼ばれておりそれは沢山あって
返信がとても大変だったことも今となっては懐かしい思い出である。
まさに「暇人」でなければ到底出来兼ねない有り様であった。
「四万十オフ会」と称し全国からお仲間さんが集まったこともある。
当時高知大学の学生だったD君と二人で段取りをして
東京、埼玉、京都、和歌山とお仲間さんがはるばる四万十へ来てくれた。
ネット空間だけの繋がりで顔も知らなかった人達と会える喜び。
なんだか信じられないようなことが現実になったのだった。
パンドラちゃん。夢楽堂さん。PAOさん等
それぞれの本名も分かり親密感はいっそうに増したのだった。
ずっといつまでも続く縁だと信じてやまなかったのは言うまでもない。
しかしその親密感が災いしたのかその後「破局」が訪れた。
パンドラちゃんと夢楽堂さんが晴れて結婚することになり
都内で行われる結婚式に私はどうしても出席出来なかったのだ。
旅費はもちろんのこと仕事に追われる毎日で諦めるしかなかった。
その寂しさをありのままにこの日記に記したのがいけなかったようだ。
「祝福」よりも寂しさが勝っていたのだろうと思う。
日記を読んだパンドラちゃんからすぐに絶縁状のようなメールが届く。
そこには「絶対にゆるさない」と書かれてあった。
縁とはこれほどまでに儚いものだろうかと悲しくてならなかった。
同時に不本意にも彼女を傷つけてしまったことが悔やまれた。
「ひまじんネット」はすでに退会していたけれど
その後の私はネット空間に異常なほど慎重になっていた。
深入りをしないこと。親身にならないこと。そうして好意を持たないこと。
すべてを守り切ることは出来なくて今に至っているけれど
私は私なりのネット人生を歩んで来たのだと思っている。
去る者は追わず来るものは拒まずでもあった。
日中も気温が上がらず今日も花冷えの一日となる。
桜は少しずつ散り始めているけれど
葉桜になるまではまだ猶予がありそうだった。
散り急がずにいてくれてなんとありがたいことだろう。
花の命に自分の命を重ねる。もう少しあと少しと願う。
そうして最期となれば潔く散ってしまいたいと思う。
きっと思い残すことなど何もないのに違いない。

朝のうちに買物を済ませ10時にカーブスへ。
今日は月初めの測定日でわずかであるけれど成果が出ていた。
一番は筋肉量の増加で自覚は全くないけれど数値が上がっていた。
辛かった足の痛みが薄れたのもきっとそのおかげだと思う。
とにかくコーチは「パーフェクト!」と言って褒めちぎるので
とても照れくさいけれど素直に喜んでいた。
この年になってまるで子供のように褒められるのは少し途惑う。
けれどもそれがカーブスの狙いなのではないだろうか。
子供は褒められて伸びると言うけれど大人もきっとそうなのだろう。
終り次第に職場へ向かい11時には着いていた。
昨日やり残した仕事があり少しずつ片付けていく。
3時には工場の仕事も一段落し早めに店じまいをすることにした。
同僚も田植えの準備が思うように捗らず少し焦っているようだった。
ずっと忙しい日が続いていたので無理もないことだろう。
週休二日にしてあげられなくて申し訳ないなと思った。
私は3時半まで仕事をして帰路に就くことにした。
お客さんから電話があり帰りに筍を取りに来るようにと言ってくれて
遠慮なく頂こうとお客さんのお宅へ寄ってから帰る。
今朝掘ったばかりの筍を湯がいてくれていて有り難かった。
それは水に晒してあって今夜すぐに食べられる状態になっていた。
帰宅してすぐに筍を煮る。初物を頂く時はわくわくと嬉しくてならない。
なんとも柔らかく今まで食べた筍で一番美味しかったように思う。
思わず今日は「筍記念日と」記したくなる程だった。
春には春の恵みがありそれを頂けることはなんと幸せなことだろうか。
寒の戻りだろうか花冷えの一日となる。
それでも四月の声を聞けば心が浮き立つようだった。
どうやら燕が帰って来たらしくその姿を見かける。
我が家の玄関先には古巣を残してあるけれど
そろそろ巣の修復を始めるのかもしれない。
これまで我が家から巣立った子燕の数は数え切れないほどだ。
娘が植えてくれていたチューリップも咲き始めた。
最初に赤が。白は少し遅れているようだ。
球根だった時の姿を思うとその成長に感動さえおぼえる。
毎年咲いてくれるのだろう。大切に守ってあげたいと思う。

20年前に開設したホームページの掲示板を借りている運営サイトから
重要なお知らせというメールが届いた。
今年の8月1日を最後にレンタルサービスを終了するという報せだった。
広告収入で成り立っていたと思われるサイトだけに頷ける話だと思う。
SNSが主流となってしまった今の時代に掲示板は廃れるばかりで
書き込む人も見ている人も殆どいなくなってしまったのだろう。
私もホームページの更新が出来なくなって随分と経ったけれど
「風とあのねのね」と題した掲示板は今もひっそりと残っている。
決して放置しているつもりはないけれど訪問者は皆無となった。
ホームページ自体が機能していなのでそれは当然のことだろう。
そうしてついに掲示板が消えることになってしまったけれど
寂しさというより観念というかこれも時代の流れだと受け止めている。
たくさんの出会いとふれあいを頂いた思い出あふれる場所は
消えてしまってもずっと私の心に残り続けることだろう。
20年という歳月を振り返る。この日記もそうだけれど
すでに私の人生の一部となり生き永らえて来たのだろう。
この「エンピツ」の日記サイトもある日突然の終了があり得る。
時代遅れだと言われるのは辛いけれど私はしがみついていたいのだ。
最後を怖れていては何も出来ない気がする。
始め良ければ終りよし。何事も気の持ちようなのかもしれない。
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