朝の肌寒さもつかの間のこと日中は春らしい陽気となる。
予想していた通り桜は一気に咲き始め5分咲き程になった。
中にはまだ咲いていない樹もあるけれど枝には蕾が沢山見えている。
山里では田植えの準備に忙しく水を張られた田んぼが多くなった。
義父は工場の仕事と掛け持ちでてんてこ舞いしており
昼間は田んぼ。夜は遅くまで工場の仕事に精を出している。
それは78歳という年齢を感じさせず頭が下がる思いであった。
まるで忙しさを楽しむように活き活きとしている。
今日は同僚が親戚のお葬式があり午後から開店休業となった。
来客もなかったのでしばらく本を読みながら過ごす。
定時でタイムカードを押し事務所を出ようとしていたら
郵便局のI君が転勤の挨拶を兼ね新任者の引継ぎに来てくれた。
I君は若くてイケメンだったけれど新任者は白髪交じりの人だった。
人を見かけで判断してはいけないけれどなんとなく不安になる。
郵便局の車輌メンテを引き受けているので順調でなければならない。
そんな不安と同時にI君との別れが寂しくもあった。
三月は去るというけれど別れの季節でもあることを改めて感じる。
別れもあれば出会いもあるだろう。どうか新鮮な春であって欲しい。
帰宅したらめいちゃんが昼食を食べなかったとのこと。
今日は卒業式と終了式があって学校はお昼までで終わっていた。
子供部屋を覗いたらもう春休みの宿題に取り掛かっていて
どうやら一気に済ませて春休みを満喫しようと目論んでいるらしい。
通知表を見せてもらったら「よく出来ました」がたくさんあった。
この一年間ほんとうによく頑張ったのだと感慨深く思う。
春休みが終わったらめいちゃんは2年生。あやちゃんは4年生になる。
孫たちの成長がまるで生きがいのように感じるこの頃である。
午後から雨がぽつぽつと降り始める。
春雨と呼ぶには冷たい雨となった。
それでいて桜の季節となり二分咲きくらい。
日に日に蕾が開くことだろう。
山肌には山躑躅が咲いており桃色の花に心が和む。
やがて木の芽も見え始め新緑の季節も訪れるだろう。
冬の名残りを残しつつ季節は確実に春に向かっているようだ。
仕事で久しぶりに軽トラックの運転をする。
自動車道を高速で走りタイヤショップまでの道のり。
時速80キロは出せなばならぬとハンドルを握りしめてのこと。
行きは前方に大型トラックが走っていたので気楽だったけれど
帰りは後続車に追われ逃げるようにアクセルを踏んでいた。
無事に帰り着いたもののもうこりごりだと思った。
自動車免許を取得したのは22歳の時だったから
もう43年も経ったことになる。その間に雪道での事故が二回。
ずっと無違反でゴールド免許だったけれど三年前に初の違反。
山里に覆面パトが来ており不覚にもシートベルトをしていなかった。
初めての事なので勘弁して欲しいと懇願したけれど
「それは出来ませんよ」と警官は笑いながら対応していた。
運転には決して自信はなく過信は事故の元だと思うようにしている。
高齢者の事故が多発している昨今、明日は我が身だとも思う。
ブレーキとアクセルを間違えるなど在り得ないと思いつつも
咄嗟の時になってしまわなければそれも確信は持てないのだった。
かと言って車失くしては身動きが取れずたちまち不自由になる。
今は仕事があるので車を頼りに通い続けているけれど
10年後の事など考えると気が遠くなってしまいそうだった。
とにかく慎重な運転を心がける。事故だけは避けなければいけない。
今日はちょっとした「軽トラック野郎」を頑張ってみた日。
午前中は冷たい雨となったけれど静かで優しい雨であった。
関東は名残雪とのこと。その上に電力不足が追い打ちをかける。
寒い夜に停電にでもなったらなんとも気の毒でならない。
朝の山道に小さな集落があり「タラの芽あります」の立て看板。
もうそろそろではないかと待ちかねていたので早速買い求める。
良心市には可愛らしい湯呑が置いて在りその中に百円硬貨を入れた。
鍵付きの料金箱を備える良心市が多いけれどそれは無防備で
いかにも「良心」を問うような光景であった。
夕方、母の施設の看護師さんから電話があり
以前から予定されていた専門病院での腎臓の検査を見送ることになった。
コロナ禍の影響で先延ばしにしていたのだけれど
今の母の状態ではとても透析に耐えられそうにないのだそうだ。
透析となれば施設も移らなければならず悩んでいただけに
思わずこれ幸いと思ったことは言うまでもない。
この先腎不全が悪化する恐れもあるけれど仕方ないことだろう。
それよりも母が今の施設で笑顔で過ごしてくれることを望んでいる。
敢えて義父には伝えない事にした。私の一存で母を守ってあげたい。
血の繋がった娘として最後の親孝行になるのかもしれないけれど。
夕食は「タラの芽の天ぷら」柔らかくてとても美味しかった。
それと「ふ海苔の卵とじ」初物尽くしで春の恵みを有り難く頂く。
曇り日。午前中は少しだけ薄陽が射していた。
暖かいうちにと庭の草引きをする。
庭といっても猫の額ほどでしかもコンクリートであった。
雑草のなんと逞しいこと。それはコンクリートの隙間から
僅かな土を糧にしたかのように力強く伸びている。
そんな雑草に身を寄せるように野スミレの花が咲いていた。
周りの雑草だけを引き抜き野スミレを残す。
数えてみたら10本もありすっかり野スミレの庭になった。
自然のままにさりげなく。とても可憐な姿であった。

春分の日。お彼岸の中日でもあったけれどお墓参りは行かず。
例年ならば義妹が率先して段取りをするのだけれど
彼女も不整脈の発作が起こるようになり弱気になっているようだった。
お墓はお寺の裏山にあり急こう配の山道を上らればならなかった。
私達夫婦もすっかり足腰が弱くなり自信のないのが本音でもある。
これ幸いと思えば亡き義父母に申し訳がないけれど
今年は許して頂こうと意見が一致したのだった。
その代わりではないけれどお大師堂にお参りに行く。
お菓子をお供えして拙い般若心経を唱える。
それがせめてもの供養にも思えた。
昼食後からしばらく本を読んでいたけれど
甲子園で高知高校の初戦があったのでじいちゃんと観戦する。
9回裏に逆転されるのではないかとはらはらしていたけれど
無事に初戦突破できて何よりだった。胸に熱いものが込み上げて来る。
私はプロ野球には全く興味が無いけれど高校野球は昔から好きだった。
あれは高一の時だったから昭和46年の夏だったろうか。
高知商業高校の益永投手の大ファンになり「おっかけ」をした。
高知市営球場での予選も観に行き写真を撮ったこともある。
その時の写真は今でも手元にあり大切に保存している。
それは試合中の写真ではなくて待機中の写真なのだけれど
益永君はカメラを意識したのかはにかんだような横顔だった。
必ず優勝して甲子園に行くと信じていた通りになって
その夏の私の熱狂ぶりは半狂乱だったことは言うまでもない。
勝っても泣き負けても泣いた記憶が今でもはっきりと蘇る。
ずいぶんと歳月が流れたけれどそれは私の青春に他ならず
「甲子園」と聞けば必ず益永君の事を思い出すのだった。
午前中は肌寒く午後になりやっと暖かくなった。
それでも気温は平年並みとのこと。
暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったものだ。
先日のように一気に夏日になるよりも身体には優しい。
我が家のチューリップにもう花芽が見え始めた。
つい先日まで5センチ程だったのが10センチにもなっている。
花の色はまだよくわからないけれど黄色ではないだろうか。
葉牡丹の花もいつの間にか咲いておりその成長におどろく。
種を採ろうと目論んでいるけれど上手くいくだろうか。
庭の手入れも怠ってばかりだけれど植物はとても健気であった。

最低限の家事だけに留めひたすら本ばかり読んでいた。
吉村昭の「破船」読了。夕方近くなりまた図書館へ走る。
裏の書庫から今度は「長英逃亡」を借りて来てすぐに読み始める。
片時も本から目を離せない困った人になってしまったようだ。
たまには掃除でもしたらどうだとじいちゃんは苦笑いしている。
そのうちやる気スイッチが入ることだろう。しばし待てと言いたい。
一人の作家に魅かれると全著書を読破しなければ気が済まず
今は8割程だろうか。あと一月はかかりそうであった。
夕食は焼肉。先日のじいちゃんの誕生日が平日だったため
家族がみな揃う日曜日にしたのだった。
家族6人でテーブルを囲むのはめったにないことで嬉しかった。
娘も気を効かせてくれたようで有り難く思う。
じいちゃんは子供の頃から誕生日に縁がなかったらしく
家族で祝うなどと言う習慣は皆無だったと聞く。
私が嫁いでからは少しずつ改善されて来たけれど
姑さんも舅さんもかなり戸惑っていた記憶がある。
特別な事をすれば「贅沢」だと思うのが当然の事だったのだろう。
郷に入れば郷に従えと言うけれど私は少し反発していたのかもしれない。
それを認めてもらうためには少なからず歳月が必要であった。
今はもう亡き人の誕生日と命日をカレンダーに記し続けている。
生きていればと思いつつ亡き人を偲ぶ日でもあった。
寒の戻りだろうか。日中も気温が上がらず肌寒い一日だった。
高知城下の桜(ソメイヨシノ)が咲いたそうで
全国に先駆けて開花宣言がある。
同じ高知でも四万十の桜はまだ蕾が固いように見え
咲き始めるのは彼岸明け頃ではないだろうか。
10時にカーブスへ行き終わり次第に職場に向かう。
自動車道で事故があったらしくパトカーが4台も停まっていた。
徐行しながら通り過ぎたけれど2台の車が損傷しているのが見えた。
高速道路なのでかなりのスピードが出ていたことだろう。
明日は我が身と思いつつ気を引き締めて慎重に走った。
工場の仕事はなんとか一段落。まだ後の予約が控えているけれど
それはまた連休明けの事として今日は肩の荷が下りたような気がした。
同僚のお給料は週給制なので少し奮発して支給する。
経営者側に立てば労う気持ちがとても大切に思うのだった。
高齢者のお客さんが多いけれど今日は珍しく20代の若者。
子供の頃に会ったきりだったのがすっかり好青年になっていた。
両親の離婚を経験しており女手一つで育てられたと聞いていたが
明るくて素直で少しも「陰」を感じることはなかった。
「お父さんには会っているの?」そこまで口に出掛けたけれど躊躇する。
もし絶縁状態になっていたら傷つけてしまう恐れがあった。
青年が帰ってから1時間程してその「お父さん」がやって来る。
まさにニアミス状態で父と子の再会が叶ったのかもしれなかった。
立派に成長した息子の姿を見せてあげたかった気持ちがつのる。
もし離婚してから一度も会っていないのなら尚更のことであった。
けれども「会いたくはなかった」と言われればそれまでのこと。
私にとってはとても他人事には思えない出来事であった。
もし45年前に私が母を頼りにしなかったら
私と母はどうなっていたのだろうと思う。
父を犠牲にしたように母を犠牲にしてしまったかもしれない。
母は死んだものと思い平然と暮らしていたのかもしれなかった。
切っても切れない血縁だとしても「会わない」選択は出来ただろう。
そこまで考えてしまうと私の今の暮しは消滅してしまうのだった。
母と再会したからこそ今の暮しがあるのだと思う。
あの時の私の選んだ道は決して間違ってはいなかったのだ。
夜明け前からかなりの雨。一時は小康状態になっていたけれど
お昼過ぎにかけて滝のような大雨となった。
朝の道でお遍路さんの姿を見かけていたので
どんなにか難儀をしていることだろうと気になった。
今朝は3人のお遍路さん。無事に目的の札所に着いただろうか。
国道沿いの白木蓮の花も雨に打たれたらしく
今朝はかなり散っており道路を雪のように覆っていた。
儚いものだなと思う。散り急ぐ花ではないだけに憐れであった。
彼岸の嵐と言うらしい。季節の分かれ目でもあり
冬と春がせめぎ合いつつまるで格闘をしているような一日のこと。

工場の仕事は順調に捗らず思うようにはいかなかった。
世間は3連休らしいけれど明日も出勤することに決める。
なんとしてもこの繁忙期を乗り越えなければいけない。
私は段取りをするばかりで何の役にも立たないけれど
義父や同僚を励ますことは出来るのではないだろうか。
娘の帰宅が遅くなる日だったので夕食の支度に奮闘していたら
昨日の今日でまた母から着信があった。
傍らから介護士さんの声が聞こえていて促されたことが分かる。
母は忙しい時間帯だとちゃんとわきまえているのだけれど
介護士さんにはそれが上手く伝わらなかったようだった。
気遣ってくれる気持ちはとても有り難いけれど
本音を言えば連日の電話は控えて欲しいと願ってしまう。
「ごめんね」と母が言った。「ありがとうね」と私は言った。
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