「お雛まつり」桃の節句でもある。
我が家は一昨年からお雛様を飾らずにいるけれど
孫たちに乞われることもなくそれを都合よく受けとめている。
床の間のある日本間はもはや物置部屋と化しており
とてもお雛様を飾るようなスペースはなかった。
おまけに40年前の娘の初節句のもので
孫たちには新しいお雛様を買ってあげられなかったのだ。
それでも孫たちの健やかな成長を願わずにはいられず
せめてもと思いショートケーキを買って帰る。
娘と孫たちにと3個だけで私は我慢することにした。
一足遅く帰って来た娘が冷倉庫を開けて「おお!」と声をあげる。
娘もショートケーキを買って来たのだそうだ。
4個買って来たと言うので思わず「おばあちゃんも女の子だもんね」と
単純な私は嬉しくにっこりと微笑んだのは言うまでもない。
しかしそれは大きな勘違いだったと後になり知った。
娘はあくまでも家族4人で食べようと思い買って来たのだそうだ。
7個もあるのだから食べればいいじゃんとそっけなく言う。
私はその時女の意地に目覚めた。絶対に食べるものかと思った。
食べ物の恨みは大きいと言うけれどそういう次元のことではなく
娘と孫たちにと思って買ったケーキが憐れでならないのだった。
なんだかその心遣いがないがしろにされたようで悲しくなる。
たかがケーキ。されどケーキであろうか。
偶然の事だと言えケーキには罪はないだろう。
あやちゃんが「おばあちゃん明日も食べるけん」と言ってくれる。
ほんとうに優しい子に育ってくれたものだ。
春うらら。優しい陽射しが降り注ぐ穏やかな一日。
まだまだ寒の戻りがあるだろうけれどその時はその時。
少し冬と語り合うのも良いのかもしれない。
名残惜しさをそのままに彼にも伝えたいことがあるだろう。
頷いてあげなければいけない。思い残すことなどないように。
定時で仕事が終われたので図書館へ走る。
また裏の書庫から古い本を借りて来た。
どうしても裏の書庫には立入禁止なのだそうだ。
掘り出し物の本が眠っていると思えば歯がゆくてならない。
「規則ですので」と言われても何の為の規則なのかわからない。
職員さんとはすっかり顔馴染みになったけれど
「また裏の人が来た」と思われていることだろう。
帰宅したらあやちゃんがピアノ教室に行くところだった。
「おばあちゃん行って来ます」と言ってくれてとても嬉しかった。
ずっと反抗期だったのが最近はずいぶんと素直になった気がする。
あと2ヵ月もすれば10歳になる。なんだかあっという間の歳月だった。
地区の中学校が今年で閉校になるとのこと。
生徒数が著しく減少しもう限界になったらしい。
あやちゃんが中学生になる頃には市内のマンモス校に通うことになる。
県立と市立がありあやちゃんはどちらを選ぶのだろう。
まだまだ先のことと思うけれど3年なんてあっという間ではないだろうか。
孫たちの成長は私達老夫婦にとって大きな励みでもある。
長生きをして見届けたい気持ちは生きる糧にもなり得る。
未来あってこその人生なのだ。その未来に賭けてみたいと思う。
恵みの雨。春を告げるような優しい雨であった。
梅の花もしっとりと濡れより一層の風情である。
花に限らず植物たちはどんなにか雨を待ちわびていたことか。
そうして弥生三月の扉が開かれていく。
冬の背はせつなく少し肩を落としているようにも見える。
春の胸は希望でふくらみ夢を見ることを許されたようだ。
公立高校の卒業式。私達の頃から変わらない3月1日。
もう47年の歳月が流れたようだ。
いったい自分はどうなってしまうのだろうかと不安でならなかった。
私は妊娠7ヶ月に差し掛かろうとしていた。
お腹の子はそれは元気に動き回っていたのだった。
母乳がにじみ出るようになっていて制服の胸を濡らしていた。
本来なら卒業式どころではなかったのだろう。
思い出してはいけないことなのかもしれないけれど
どうして忘れ去ることが出来ようか。
どんなにか生まれたかったことだろう。
まさか母親に殺されるとは夢にも思っていなかっただろう。
なんの供養もしてあげれなかった母を永遠に憎んで欲しいとさえ思う。
今が幸せであればあるほど心が痛んでならないのであった。
誰にでも過ちはある。取り返しのつかない罪もある。
人生に「卒業」があるのだとすればそれは「死」に他ならない。
過去の罪を墓場にまで持って行く覚悟は出来ている。
肉体は消滅しても魂は永遠に生き続けるのだろうか。
「天国」に辿り着く前に私は罪を償わなければいけない。
地獄の閻魔様に泣き縋って赦しを乞うことだろう。
そうしてあの子の魂を捜す。きっと見つけて抱きしめてあげたい。
| 2022年02月28日(月) |
おぬしなかなかやるな |
早いもので2月も晦日。「逃げる」とはよく言ったものだ。
あらあらという間に日々が過ぎ去ったように思う。
逃げれば追いたくもあるけれど潔く諦めることも出来る。
また「これで十分」と思えば満たされることも出来る。
欲深い私などは足らないことばかり考えているものだから
なんとなく物足らず「あと二日」などと呟いてしまうのだった。
心理学に「自己暗示術」と言う分野がある。
その名の通り自分に暗示をかけるのだけれど
例えば「大丈夫」「なんとかなる」と楽観的な暗示。
反対に「駄目かもしれない」「どうしようもできない」と悲観的な暗示。
私はなるべく楽観的な暗示をかけるように心がけている。
けれども時には嘆く時もありひどく落ち込むこともあるのだった。
それは人間だから仕方のないことだと思う。
生きていく上にそれは必要なことなのかもしれない。
とことん落ち込んでこそ這い上がることが出来るのではないだろうか。
精神に成長があるのならば私はまだまだ未熟者である。
どれほど自分に暗示をかけても思うようにいかない時が多い。
そこにはいつも「欲」があり私の成長を妨げている気がする。
「欲」を手放すには「感謝」だと学んだことがあるけれど
その感謝が曲者にも思う。「おぬしなかなかやるな」の気持ちとなる。
上辺だけの感謝なら誰でも出来る。要は心からの感謝が必要なのだ。
小難しいことを書いているうちに何を言いたいのか分からなくなった。
「まあどんな時もあるさ」と自分に暗示をかけている今だった。
川向の山が霞んで見え「春霞」かと思った。
気温は16℃まで上がりぽかぽか日和となる。
チューリップの球根を沢山頂いていたので今日こそ植えようと
庭先に出たらすでに娘が植え終えていた。
赤白黄とあるらしい。咲くのは4月頃だろうか。
孫達がどんなにか喜ぶことであろう。
朝のうちに買物を済ませ本を読んでいたけれど
暖かさに誘われるように思い立ち白髪染めをする。
真っ白なら諦めもつくけれど中途半端な白髪が気になっていた。
洗い流すために洗面所で俯いたらふらふらと眩暈におそわれる。
体調が悪いわけでもないのにどうしたことだろうと戸惑うばかり。
洗面台にしがみつくようにしてなんとか洗い流す。
ドライヤーで乾かしたらすっかり栗色の乙女のようになっていた。
更年期障害と診断されたのは20年程前だったろうか。
最初は鬱状態で心療内科に通っていたけれど
パニック発作のようなこともあり過呼吸で救急搬送されたこともあった。
次第に血圧も高くなり内科のお世話になるようになった。
心療内科で処方して貰っていた薬を内科でも処方して貰えたのだ。
薬さえ服用していれば大丈夫と思う気持ちが強くなり
未だに薬とは縁が切れずにいる。情けない事なのかもしれないけれど
ひとつでも薬を減らしてしまえば忽ち体調に変化が表れる。
閉経はとっくの昔の事だったけれど一生続くのかもしれない。
時おり不安神経症かと思う症状が表れるけれど私は元気であった。
先日職場で70代の女性のお客さんと雑談をしていた時
そのお客さんも私とまったく同じ境遇であることを知った。
見かけはとても明るく朗らかな女性なのだけれど
若い頃からの薬を未だ手放せずにいると言っていた。
ご主人に先立たれ独り暮らしなのだそうだ。
入浴時には浴室まで携帯電話を持って行くのだと話していた。
不安はみな同じなのだと思う。女として生まれた宿命だと言えば
とても大げさに聞こえるけれどいくら気丈に振る舞っていても
不安や心細さは一生付いてまわるものなのだろう。
私も明るく朗らかな日々を過ごしているつもりである。
それは決して空元気ではなく正真正銘の「元気」に他ならない。
明日の事などわかる人など誰もいないのだ。
だからこそ立ち向かうように歩んで行きたいと思う。
朝の寒さもつかの間。日中はすっかり春の陽気となる。
ひとの躰は陽射しを浴びると気の流れが良くなるのだそうだ。
二本足で立っているのだから頭から足の先まで光が通過するのだろう。
空に手を伸ばせば指先からもそれが伝わって来るのである。
深呼吸をするのも良いだろう。春の光はきっと心にも届く。
今日は午後から職場へ。義父も協力してくれて順調に捗る。
同僚一人ではとても手に負えなかったことだろう。
義父が機嫌良く手伝ってくれてほんとうに助かった。
社長なのだから当たり前のことなのかもしれないけれど
兼業の稲作もないがしろには出来ず義父も苦しい立場であった。
34年前、私が入社した頃には5人程の整備士が居た。
村では大規模なダム工事が行われていて好景気の最中だったのだ。
ダムが完成してから少しずつ仕事が減り始めたのは仕方なく
それでも解雇はせずに必死の思いで経営を続けていたのだろう。
仕事もないのにお給料を払うのはどんなにか大変だった事と思う。
一人辞め二人辞める。一人は独立して自分の工場を持った。
残った二人はそれは一生懸命に仕事に励んでくれたのだけれど
一番の取引先の建設会社が倒産してしまったのだった。
手形の不渡りはもちろんの事、お人好しの義父は借金の保証人になっていた。
その結果工場は抵当に入り挙句には競売に晒される羽目となる。
義父はなんとしても工場を守りたい一心で大きな借金をした。
それは工場の経営だけではとても払いきれない金額であった。
義父が稲作でそれを補おうとしたのは当然の成り行きだったのだろう。
「趣味だよ」と笑っているけれどその陰には真実が隠されている。
お給料がまともに払えなくなってまた一人辞めた。
それでも最後まで残ってくれたのが今の同僚である。
高校中退で17歳の時に見習いとして入社したのだと聞く。
彼が居てくれなかったらとっくに会社は倒産していたことだろう。
私も無給の時期が長く続いたけれど娘なのだからと割り切っていた。
時々母が「お小遣い」と言って一万円をくれたのが嬉しかった。
難破船のような会社でよく今まで乗り越えて来たものだと感慨深く思う。
「諦めたらお終い」それは社長である義父の信念でもある。
母の事実上の引退を機に今は経営を任されている我が身。
同僚を労う気持ちを大切にお給料を奮発する時もある。
私も日給をしっかりと頂いている日々であった。
あと10年だと義父は言う。義父は88歳。同僚は69歳。私は75歳。
気が遠くなりそうだけれどオールを漕ぎ続けて行こう。
氷点下の朝だったけれど日中はずいぶんと暖かくなる。
風がなければぽかぽか日和になったことだろう。
梅の花もほころび青空に映える。それはとても誇らしげに
まるで春の使者としての任務を果たそうとしているかのようだった。
私の任務とは何だろう。一番は仕事なのかもしれないけれど
それ以上に家庭を守り波風を立てぬように努めなければいけない。
大家族なら尚更のこと。親しき仲にも気遣いは大切なことに思う。
かと言って干渉し過ぎてもいけない。ほどほどの距離を保つこと。
今夜は娘がPTAの役員会があり出掛けているのだけれど
「頼むよ」の一言もなくいつの間にか居なくなっていた。
孫たちは自主的に入浴を済ませ部屋でおとなしく遊んでいる。
両親が居なくても大丈夫。それだけ成長した証なのであろう。
頼まれてもいないのにと思いつつ何度も部屋を覗く私はお節介。
分かっているけれど声を掛けずにはいられないのだった。
台所のテーブルにはすっかり冷めてしまった料理が並び侘しい。
娘むこは今夜も遅い帰宅になるのだろうか。
妻でもないのに帰りを待っている私も少し滑稽に思えてくる。
「家族ではない」と言われたからにはそれを受け止めなければいけない。
家族ではないのに毎日大量の洗濯物を欲し
夕食の献立を考えながら必死でやりくりをしている。
それは少しも苦にはならないけれど時々ふっと虚しくなるのだった。
愚痴を言えば波風が立つ。それだけはあってはならないこと。
金曜日のせいか少し疲れているようだ。
あやちゃんとめいちゃんに「おやすみ」を言って早めに床に就こう。
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