ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2022年02月17日(木) いたずら電話

今日も真冬の寒さとなり山里では薄っすらと雪が積もる。

午後には雲ひとつない青空となり陽射しのなんとありがたいこと。

職場の庭の紅梅の花が嬉しそうに微笑んでいた。



お昼休みに母から着信あり。出たらすぐに切れたので折り返しかける。

側に先日の介護士さんと思われる男性の声がしていて

母はしきりに「嫌ちや」と叫んでいるのだった。

そうして私には「これはいたずら電話やき」と告げるのである。

どうやら介護士さんから電話をかけるようにと言われたらしく

先日私が涙を見せたりしたものだから気を効かせてくれたのだろう。

仕事も忙しいだろうに有り難い心遣いであった。


けれども母は特に話したいこともない様子でそれは私も同じ。

ただ声を聴くだけでそれはつかの間のことであった。

「いたずら電話か」思わず笑みがこぼれずにいられない。

それは母のお茶目ぶりを垣間見たような気がした出来事であった。



母と私の声はとても似ているらしくよく間違えられる。

不思議なもので自分の声と言うものは自分にはよくわからない。

以前に娘が何かの動画を再生していた時に自分の声を聴いたのだけれど

まさしくそれは母の声とそっくりで自分で驚いたことがある。

声帯が酷似しているのだろう。やはり血を分けた母娘なのだった。

電話だと同じ声で語り合うことになりそれも愉快に思える。


母からまた「いたずら電話」がかかってくれば良いなと思った。

「じゃあまたね」とあっけなく電話は切れてしまったけれど

母の声はいつ聴いても懐かしくそれは私自身の声でもあった。





2022年02月16日(水) 貧乏万歳

昨日とは打って変わって北風が吹く寒い一日。

陽射しはあったけれど時おり小雪が舞っていた。

三寒四温とはよく言ったものだと思う。

また暖かい日が巡って来ては春めいてくるのだろう。



帰宅したらポストにガスの検針票が入っていた。

料金を見てまた驚愕が走る。なんと3万円を超えていた。

先日の電気料金と同じで我が家の最多記録である。

灯油代、水道料金と併せると光熱費はほぼ10万円に達する。

「かかってこいや」と意気込んでいたけれどすっかり負けた気分になった。


もうこうなれば仕方なく耐え忍ぶしかないのだろう。

やはり娘にはどうしても言えず後は私のやりくりにかかっている。



高校生の時だったか空き巣に入られたことがある。

父から預かっていたひと月分の食費をごっそりと盗まれてしまったのだ。

勉強机の引き出しに封筒に入れしまっておいたのだけれど

犯人は私が主婦業をしていることを知っていたのだろうか。

警察のお世話にはなったものの当然のように犯人は捕まらなかった。


父も頼りなくおそらく蓄えもなかったのだろう。

なんとかわずかの生活費の中から食費を工面することになった。

私が決めたのは一週間を千円でやりくりすることであった。

それが少しも苦にならずむしろ面白くもあったのだ。

食べ盛りの弟も我慢をしてくれてそれが張り合いにもなった。

肉や魚はもっての他で野菜ばかり食べていた記憶がある。

夏の事だったのか頂き物の茄子を三日続けて食べたりした。

やっと父の給料日が来た日には達成感で満たされていたのだった。

どんな苦境に立たされても「やれば出来る」と言うことだろう。


今は娘夫婦や孫達の手前もあり食費の節約はなかなかに難しい。

まして家計のピンチを悟らすことも出来ず苦しい立場である。

それでも少しでも安い食材で美味しい物を作ろうと努力している。

半額の物は必ず買いそれを元にメニューを考えたりするのだった。


お金はあるに越したことはないけれど貧乏もまんざらではない。

毎日働くかいもあるし何よりもお金の有難味を感じることが出来る。

「貧乏万歳」で乗り越えて行こうと思っている。





2022年02月15日(火) 菜の花畠に入り日薄れ

おおむね晴れ。少し風があったけれど日中は春の陽気となる。

風も北風ではなく東風だったようだ。

東風は「こち」と読み有名な菅原道真の歌に

「東風吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとも春を忘るな」がある。

この歌は、菅原道真が無実の罪を着せられて太宰府へ左遷される前に

大事にしていた梅の木を前にして語り掛けるように詠んだ歌だそうだ。

どんなにか無念だったことか。とても寂しくせつない歌だと思う。





今日は午後から仕事を休ませてもらって病院へ。

とは言え診察は無く薬の処方箋を貰いに行くだけのことだった。

「お変わりないですか?じゃあいつのも薬を」と手短な面談。

12時半を少し過ぎていたけれど午前中の処理にしてくれ助かる。

薬局での待ち時間も無く思いがけずたっぷりと時間があった。


病院のすぐ近くの河川敷にそれはたくさんの菜の花。

まるで絵のような風景にすっかり春の気分に浸っていた。

これは毎年の楽しみでありまた来年もきっと訪れようと思う。


その足で母の施設のある病院へと向かう。

会計で一月分の支払いを済ませていたら介護士さんが声をかけてくれた。

タブレットを手にしており母の写真を見せてくれると言う。

それは初めてのことで秋の運動会からお正月、節分と続き

今日のお習字会のほやほやの写真もあった。

もちろん面会は叶わなかったけれどなんと嬉しかったことだろう。

思わず目頭が熱くなり涙が溢れて来るのだった。

会いたいとはつゆとも思っていないはずだったのに

自分でもよく分からない感情が込み上げて来たようだった。

やはり私の母なのだ。どうしようもなく母なのに違いない。

薄情な娘を装いながら本音は恋しかったのかもしれないと思う。


介護士さんが写真をプリントアウトしてくれて数枚頂く。

それから今日のお習字の作品も持たせてくれた。

「コピーで良いですよ」と言ったら

「また書きますからね」と笑って手渡してくれたのだった。


母の書いた字を見るのはほんとうに久しぶりのこと。

そこには「朧月夜」の歌詞が書かれており

「菜の花畠に入り日薄れ見わたす山の端かすみ深し」しな子とあった。


しな子さんは明るくて朗らかですごい人気者なのだそうだ。



2022年02月14日(月) 縁あってこそのこと

曇りのち晴れ。午後には暖かな陽射しが降り注ぐ。

もう名ばかりの春ではあるまい。梅の花もずいぶんと咲いた。


今朝は顔なじみのお遍路さんを国道で見かけ車のお接待。

山里までの道のりを語らいながらのひと時を過ごす。

山梨出身のMさんが職業遍路になってからずいぶんと経った。

初めて出会ってから12年程ではないだろうか。

その時に亡くなられた奥様の供養の旅だと聞いていたのだった。

昨年には百巡目を結願していたけれどMさんの旅はまだ続いている。

春夏秋冬、雨の日も風の日もどんなに辛くても旅は終わらない。

よほどの信念がなければ耐えられない事だろうと察する。


今朝は山梨の娘さんの話をしてくれた。

結婚してずっと子宝に恵まれなかったのがやっと叶ったとのこと。

出産予定日は3月中旬であとひと月ほどであった。

それは嬉しそうに話してくれたけれど会えない寂しさもある。

けれども決して孤独ではないことを私は伝えたかった。

Mさんは天涯孤独ではないのだ。どんなに遠く離れていても

かけがえのない肉親がいて初孫も授かろうとしている。

一生会えないはずはない。いつか必ず会える日が来ると信じたい。


Mさんは娘さんから「帰って来て」と言われたこともあるらしい。

けれども娘さん夫婦の負担にはなりたくないと首を振る。

そんな遠慮がまるで盾であるかのように遍路旅を続けているのだった。


私よりも一歳年上。今年の11月には67歳となる。

偶然にも誕生日は私の父と同じ11月6日であった。

縁というものは不思議なものだけれど出会うべきして出会った気がする。


そうしてまた不思議なのは必ず朝の道で再会する。

そろそろ会いそうだなと思っていたらMさんの姿を見つけるのだった。

後ろ姿を見ただけですぐにMさんだと分かるのだった。


Mさんは私の名を知らずいつも「おかあさん」と呼んでくれる。

年下だけど「おかあさん」それは最高の親しみではないだろうか。


山里の自販機で温かい缶コーヒーをお接待して別れる。

「また会おうね」と言ってなんとも清々しい別れであった。


今度会う時にはもう桜の花が咲いていることだろう。



2022年02月13日(日) 罪の欠片

まるで春の足音であるかのように小雨降る一日。

しっとりた潤ったこころに記憶の波が押し寄せて来る。

忘れようとしていたわけではないのだけれど

あまりにも遠い記憶が砂のようにこぼれ落ちていたらしい。



N先生との再会は夏ではなく春だったのだ。

高3になる前の春休みだったことをはっきりと思い出した。

なぜなら高3時代の私の側には常に先生の姿があり

私はまるで彼に飼われている小鳥のように過ごしていたからだった。


先生は教職の道を諦め公務員になっていた。

毎週土曜日には必ず私のもとを訪れていて

時には夕食を一緒に食べてから帰ることもあった。

父に手土産だと一升瓶のお酒を持って来たこともあり

父は大層喜び私達の交際はもう公認となっていた。

けれども父の内心はどれほど心配だったことだろう。

きっとはらはらしながら見守っていたことだろうと思う。


土曜日の放課後、友達とフォークソングを楽しんでいたら

同級生の一人が教室に駆け込んで来て「N先生が来ている」と

知らせてくれたことも度々あった。急いで校門へと走り出ると

「いつまで遊んでいるんだ」ととても不機嫌な顔をしていた。

それが束縛でなくてなんだろう。まだまだ青春を謳歌したい年頃だった。


もちろん週末に友達と遊ぶことなど許されるわけもなく

まるで若妻であるかのような日々が続くばかりであった。

今思えばその頃にはもう私の青春は終わっていたのかもしれない。


私は彼の許嫁でもあるらしかった。彼の親兄弟にも会っていたし

私が卒業したら「結婚」とすでに決められていたようにも思う。

反発もあったけれどもはや私は「籠の鳥」に他ならなかった。


すでに決まっていた就職はどうなるのだろう。

初任給が公務員の彼よりも多かったので気に入らない様子だった。

前途は暗くなる一方でまるで押し流されるような日々であった。


そんな矢先に私の身体に異変が起こる。

男と女のことだからそれは当然の成り行きだったのだろう。

彼も彼の両親も世間体を一番に重んじていたのだった。

父は憐れとしか言いようがなかった。どれほどそれを怖れていた事か。


「どうせ結婚するのだから」と彼は言った。

その言葉は愛情の欠片も感じられない理不尽な一言であった。


私は一大決心をするしか道がなかったけれど

どれほどの歳月が流れても今もってその罪を背負い続けている。

なんの供養もしてあげられなかった我が子への懺悔であった。

それは墓場までも背負い続けて行くべきことであり

決して赦されることではないのだと思う。

いや、赦してなど欲しくはない。いつまでも責め続けて欲しいとさえ思う。



無事に高校を卒業したけれどもう彼には会いたくもなかった。

ずっと避け続けながらなんとか就職まで漕ぎつける。

ある日のこと営業所に電話がかかってきて

「話したいことがあるんだけど」と彼の声が聞こえて来た。


「申し訳ありませんがお話しすることは何もございません」と電話を切った。

やっと縁が切れた瞬間のことであった。



彼のその後の消息は知る由もなかったけれど

おそらく誰かと結婚をし子宝にも恵まれあたたかい家庭を築いた事だろう。

今は70歳になっており老後の暮しを謳歌しているかもしれない。


けれども「あの子」のことなどすっかり忘れていることだろう。

それは母である私だけの罪だったのだろうか。


憎しみはない。あるのは懐かしさだけだったけれど

ふと少しでも罪の欠片を背負ってはくれまいかと願ってしまうのだった。


叶わない現実に立ち向かうようにまた春が訪れようとしている。



2022年02月12日(土) 懐かしいひと

曇り日。気温は高めだったけれどやはり肌寒い。

陽射しがあれば春を思わすような陽気になったことだろう。

朝のうちに買物。お昼にカーブスへ行き後はひたすら読書ばかり。

貪るように読んでいると無性に書きたくてたまらなくなる。



昨夜はアナウンサーになりたかったと書いたけれど

高校時代はテニスをしながら放送部に所属していた。

文芸部にも所属していたけれど細々と詩や短歌を書くのみであった。


2年生後半になりテニス部の副キャプテンに任命されたのを機に退部。

同時に放送部の部長になっていたので両立はとても無理であった。

おまけに主婦業もあり下校後は夕食の支度に忙しかったせいもある。


3年生になると放送部の活動にまさに全力投球となった。

NHK高知放送局主催のアナウンス大会などにも積極的に参加する。

優勝することは出来なかったけれど準優勝でもとても励みになった。


放送部の活動のひとつにお昼休みのリクエストコーナーがあり

放送室の前に据えられた箱に次々とリクエストが寄せられる。

レコードを買い揃える予算など無かったので殆ど部員の持ち寄りであった。

時には部員以外から借りる事もあり少しでも希望に添えるよう努力する。


そんな折にちょうど教育実習で来ていたN先生の存在があり

なんと頻繁に放送室へ押しかけて来たことだろう。

大学生なのでさほど年も変わらないのに先輩風を吹かせていた。

倫理社会を教えていたけれどその授業の面白かったこと。

授業そっちのけで麻雀の話をしたりして忽ち人気者になっていた。


ほんの数ヵ月の事で教育実習を終え名古屋の大学に帰って行った。

あれはいつ頃の事だったのか記憶は定かではないのだけれど

学校が休みの時だったので夏休みではなかったかと思う。

N先生から突然電話がかかってきて私を驚かせた。

当時の我が家には電話がなく近所の雑貨店にかかって来たのだった。

その雑貨店では簡易なマイクを備えており「呼び出し」を行う。

自分の名が呼ばれた時には「何事か」と急いで駆けつけたのだった。


N先生はおそらく在校中に私の住所を調べていたのだろう。

そうでなければ近くの雑貨店など知る由もなかったのだ。

帰郷していたN先生は「ドライブへ行こうよ」と私を誘った。

恋心などまったくなくN先生に興味のかけらもなかったのだけれど

その時の私はただただ好奇心でいっぱいだったのだと思う。


車は新車のサニーだった。何処に行ったのかも憶えてなどいない。

どんな話をしたのかも記憶にないけれど楽しい一日ではあった。


N先生との再会が私の人生を左右することになるとは

夢にも思っていなかったが私にとっては取り返しのつかない過去となる。


不思議と憎しみは感じない。

ただただ懐かしい思いが込み上げて来るこの頃であった。







2022年02月11日(金) 陽射しの中で

風もなく穏やかな晴天。すっかり春の陽気であった。

窓辺で本を読んでいると陽射しにつつまれ

さながら日向ぼっことなり至福の午後を過ごす。



子供の頃から読書好きではあったけれど

結婚や子育てで本から遠ざかっていた時期も長くあった。

子育てが一段落してから図書館へ通うようになったのだけれど

今のように貪るように読んでいた記憶はない。

どうやら私の読書癖には大波小波があるようだった。


中学生の頃の話になるけれど本のセールスマンが度々訪ねて来て

百科事典だったり日本文学全集だったりしきりに勧めるのだけれど

家計の苦しさもあり高価な本を買う余裕などなかった。

当時の私は少女でありながら主婦でもあったのだ。

父に頼めば買ってくれたかもしれないけれど話す気はなかった。

セールスマンとのやり取りは大人顔負けであったらしい。

それは後に聞いたことで当時の私はひたすら断ることに終始していた。


すっかり顔馴染みになったセールスマンは高校生になっても訪れ

ある日思いがけずに就職の話を持ち出して来たのだった。

近いうちに町に新しく営業所が出来るので事務員として採用したいと言う。


私の夢はアナウンサーになることでまだ進路を決め兼ねていた。

進路指導の教師に相談したら最低でも短大を出なければいけないと言う。

理数系は苦手だったけれど古典や国語の成績は良かったので

文化系の短大なら推薦入学も可能ではないと言ってくれたのだった。

けれども私は大いに悩んだ。とても父には話せないことだったのだ。

中学生だった弟も高校入試を控えている時に

いくら短大とはいえ入学金や授業料の事を考えると言い出せるはずがない。

どうして高卒ではアナウンサーになれないのかと悔しくもあった。


散々悩んだあげくに私はその営業所に就職を決める。

まだ同級生の誰も進路が決まっていない時であった。

初任給8万5千円。公務員でも6万円ほどの時代の事である。

友達は口々に「騙されている」と言った。当然の事だったのだろう。


高校卒業までには私の人生を左右するような大きな出来事があった。

就職どころかあわや結婚かと追い詰められたけれど

一大決心をしあることを成し遂げる。それは大罪にも値する事で

どれほどの歳月を持っても一生背負わなければいけない罪となった。


桜の花がほころびる頃、私はとうとう社会人となる。

例のセールスマンは営業所の所長さんで大出世をしていた。

仕事はとても楽でおまけに本は読み放題となんと恵まれていたことだろう。

和気藹々とした職場で毎日がほんとうに楽しかった。

わずか一年で辞めてしまったことが今更ながらに悔やまれる。


同僚と結婚。所長は涙を流しながら祝辞を述べてくれた。

その時の泣き顔は今でもはっきりと憶えており切なくてならない。


人生に歯車があるのだとしたら狂うこともあるのだろう。

それが正確であったならば今の私は存在しなかったことになる。







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