ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2022年02月03日(木) 宝くじと恵方巻

曇り日。日中も気温が上がらず寒い一日となる。

今日は節分。明日は立春と思えばもう名残の冬であった。

急ぐことはなにもあるまい。ゆっくりと春を待とうと思う。



恵方巻を買わなければと少しプレッシャーを感じていた。

いくら家計が苦しくとも楽しみにしている家族が待っている。

一本丸かじりなんていったい誰が考えたことなのだろう。

一口でも良いではないかと恨みがましくも思っていた。


大型スーパーに立ち寄り買物をする前に宝くじ売り場に向かう。

いつまでも未練がましく持っていたけれど

そろそろ欲を断ち切ろうと思ったのだった。

そうしたら何ということでしょう。

末等の300円のつもりでいたのが3300円もあった。

売り場の女性が「おめでとうございます」と言ってくれる。


私は天にも昇る気持ちであった。夢に餅とはこのことである。

うきうきしながらスーパーの店内に入ったのは言うまでもない。

そうしてまっしぐらに恵方巻売り場へと向かった。

ハーフの4本入りを3パック買う。計2700円程である。

予定では2パックだったけれど肝が大きくなっていたのだ。


宝くじ様様と感謝しつつふと父の顔が目に浮かんだ。

これは父が助けてくれたのに違いないと思ったのだ。

宝くじを仏壇の父の遺影に添えていたこともあるけれど

数日前に夢を見て父がしきりに宝くじのことを気にしていたのだった。

それが今日の虫の知らせだったのに違いないと思う。

帰宅するなり父の遺影に手を合わす。

そうしたら思わず目頭が熱くなってしまった。


今年の恵方は北北西。我が家ではちょうどトイレのある方向で

皆でトイレに向かって黙々と食べるのも愉快であった。

食後は娘が鬼になり孫たちと豆まきをする。

邪気を払いひたすら家族の健康と平安を祈ることが出来た。

「節分」の行事はやはりなくてはならないものだ。










2022年02月02日(水) かかってこいや

雲が多く快晴ではなかったけれど柔らかな陽射しに恵まれる。

春の足音は空から聴こえて来るのかもしれない。

その音を聴き逃さないよう耳を澄ませていようと思う。



「よんでん」(四国電力)のマイページにアクセスして驚愕が走る。

なんと一月分の電気料が4万5千円と表示されていた。

コロナではないけれど我が家にとって過去最高の料金であった。

それは一般家庭の2倍と言っても他言ではないだろう。


じいちゃんに話したら「冬だから仕方ないさ」と言う。

もうひと月辛抱すれば楽になるとあっけらかんとしているけれど

家計のやりくりを任されている身には大きな打撃であった。

娘達からの生活費は月に5万と決めていてそれ以上は望めず。

これを機に値上げしようかと思ったけれど言い出せなかった。

いくら娘でも角が立つだろう。娘婿にもやはり遠慮がある。

結論を言えばとにかく耐え忍ぶしかないのだと思う。


節電も厳しい。娘達の協力が無ければ到底叶わないことだった。

今も3部屋のエアコンが稼動しているありさまである。


ちまちまと細かい事に目くじらを立てるのは好きではない。

かと言って大風呂敷を広げるには度胸が必要であった。

それは「かかってこいや」の意気込みでもある。


さてさてこの苦境をいかに乗り越えるかが見所でありますぞ。



2022年02月01日(火) 何があっても平和

氷点下の朝。日中は陽射しに恵まれほっと空を仰ぐ。


二月のカレンダーは小樽運河の雪景色であった。

北国ではまだまだ遠い春なのだろう。



お昼休みに「流星雨」を読み終える。

あとがきで主人公の「あき」が実在しないひとであることを知った。

けれども同じような境遇を生き抜いたひとが確かにいたのだろう。


夢中になって読み過ぎたせいか夕方から眼の疲れを感じる。

しばらく忘れていた肩凝りも再発してしまったようだ。

カーブスに行けばすぐに解消されるだろうけれど

あまりの感染者の多さに怖くなり土曜日は行かなかった。


今週末もどうなるかわからない。今日は過去最多の感染者となる。

学校の休校や保育園の休園もあり子供の感染が増えているらしい。

幸い孫たちの小学校は今のところ大丈夫だけれど

いつどうなることやら。とても他人事ではなかった。

まず自分を守る。それが家族を守ることになるのだろう。


高知県知事は「まん延」の要請はせず「緊急事態宣言」もしないとのこと。

それよりも経済を守ることを優先するのだと言う。

本当にそれで良いのかと不信感がつのるばかりであった。

このままでは歯止めが効かない。感染者は増えるばかりだと思う。

そうなれば各自が今まで以上の感染対策を実践するしかないだろう。


私は人一倍神経質なものだからスーパーで買物するのも怖い。

そうかと言ってまとめ買いも出来ずその日の事で精一杯だった。

不特定多数の客と接する店員さんはそれ以上に不安なことだろう。


終らない冬がないように終わらないコロナもないと信じたい。

今は耐え忍ぶ時。そうして立ち向かっていく時でもある。



お風呂上がりの孫たちの声が聴こえている。

我が家は今夜も平和そのものであった。




2022年01月31日(月) 初晦日

早いもので一月も最終日。「初晦日」と言うらしい。

冬晴れの一日となりたっぷりの陽射しが降り注いでいた。

職場の紅梅が咲き始める。まだ一輪だけれどささやかな春。

今日よりも明日と次々に花を咲かせることだろう。



本の虫が治まらずお昼休みと帰宅後に貪るように読んでいた。

津村節子の「流星雨」で明治初期に会津戊辰戦争を生き抜いた主人公。

「あき」はどうやら実在した女性らしかった。

戦禍から逃れ下北半島で飢餓に耐え忍んでいたところを

函館に奉公口が決まり初めての北海道へと向かうのだった。


父と兄二人は戦死し逃亡中に祖母を亡くし下北半島で祖父を亡くす。

母と妹、残された女ばかりで恐山に行くのだけれど

まるでその光景が目に浮かぶように表現されていた。

そこまで読んだ時に私は「賽の河原」に行ってみたいと強く思う。

そうすれば私の過去の罪も赦されるような気がしたのだった。

「あの子」に会いたい。あの子の魂を声をからして呼んでみたい。



あきは母と妹を下北半島に残し単独で函館に向かった。

奉公先の待遇の良さに残して来た妹が不憫でならない。

姉が妹を思う気持ちが痛いほどに伝わって来る。



ラストまでもう少しだったけれど今日はここまでだった。

明日はなんとしても一気に読み終えたいと思っている。



「あの子」には名前もつけてあげられなかった。

賽の河原で叫ぶときなんと呼べば良いのだろうか。



2022年01月30日(日) 一期一会

今日も曇り日。肌寒く陽射しのありがたさをつくづく感じる。

地区では野焼きがあり我が家からは炎は見えなかったけれど

白煙が狼煙のように漂い灰色の空に吸いこまれていた。

毎年立春前に行われていて春の訪れが近い事を知らせてくれる。



朝から読書に夢中になり家事も最低限のことだけ。

お大師堂にも足を向けず疎かにすることばかりだった。


初めてお大師堂にお参りに行ったのは2008年のこと。

亡きあんずとの散歩道でもありふと立ち寄ってみたのだった。

その時偶然にお遍路さんに会ってしばし語らったことを憶えている。

その時の事を手帳に記しており岡山市の石原布美子さん69歳とある。

ちょうど母と同い年であり親近感も増したのであろう。

石原さんは「歩ける限り歩きたい」と言っていたのだった。

少し心細そうではあったけれどなんと勇気のある人だろうと思った。


当時の私は弱音ばかり。体調も優れず死ぬことばかり考えていた。

「死」は恐怖そのものであり不安でならなかったのだろう。

いつも「明日死ぬかも」そんなことばかり考えていた。


石原さんはそんな私に希望を与えてくれたのだと思う。

翌日から私は毎夕お大師堂に足を向けたのは言うまでもない。

石原さんとの出会いが私の「一期一会」になったのだった。


その後石原さんに会うことは叶わず14年の歳月が流れた。

ご健在に過ごされているだろうかと気遣う気持ちが大きい。


14年の間に出会ったお遍路さんは数多く

すべて手帳に記してある。それは私の宝物でもあった。

職業遍路さんが多く何度も再会を果たせた例もあるけれど

今生に一度きりの出会いもありそれも思い出となっていく。


ここ最近はお参りを疎かにしており心苦しさも確かにある。

今日なども本を閉じてしまえば行けたはずと悔やまれてならない。

これではまるで自ずから縁を避けているとしか思えないのだ、


人は出会うべきして出会うものだと思っているけれど

私はいったい何から遠ざかっているのだろうと思う時がよくある。



2022年01月29日(土) みか姉

晴れの予報だったけれど陽射しは届かず。

夕陽も見られないまま日が暮れていった。


桜草の花がぼつぼつと咲き始める。

我が家の右隣のお宅は「花屋敷」でそれは沢山の花を育てている。

奥さんは花の事なら何でも知っている「花博士」であった。


「ますみ」という名の奥さんで「ますみ姉さん」と呼んでいるのだけれど

ご近所の年上の奥さんはみな「姉さん」と呼ぶのが常であった。

私も年下の奥さんから「みか姉」と呼ばれている。

なんだかくすぐったいような嬉しさを感じることが多い。

田舎の風習と言うのだろうかとても親しみを感じるのだった。

もうかなりのご高齢の奥さんでも「姉さん」なのである。

「おばあちゃん」などと言ったら失礼に当たるだろう。


昔嫁いだばかりの頃従兄弟の奥さんを「すみ姉」と呼んで

姑さんに酷く叱られた事が忘れられない。

まだ新米なのだから「すみ姉さん」と呼ぶようにと言われた。

けれども皆がそう呼んでいるのに私だけどうしてと思った。

いきなり呼び方を変えろと言われても急には変えられないものだ。

その後も私はずっと「すみ姉」と呼び続けている。

すみ姉もそのほうが嬉しそうだった。姉さんよりもずっと親しみがある。


私も未だ一度たりとも「みか姉さん」と呼ばれたことはない。

「みか姉」と呼ばれたほうが心地よくてずっと嬉しいのだ。

今日も洗濯物を取り入れていたらお向かいの奥さんが

「みか姉、乾いちょる?」と声をかけてくれた。

「うん、ばっちし乾いちょるよ」と言ったら

「今朝みか姉が干しちょったけん私も急いで干したがよ」と笑った。


それからお向かいのご主人に久しぶりに会って

「みか姉元気やったか?」そんな気遣いも嬉しくてならなかった。


みか姉は70歳になっても80歳になってもみか姉でいられる。

それがなんだか励みのように思えて長生きをしようと思った。


みか姉の夜は短い。まだ8時前なのにもう眠くなった。



2022年01月28日(金) 甘い珈琲

久しぶりの快晴。日中は春のような暖かさとなる。

陽射しを浴びているとまるで猫のような気分であった。

陽だまりで「にゃおん」と鳴けば誰かが気づいてくれるだろうか。



今日は午後から損害保険のオンライン試験に臨む。

「損害保険募集人」の資格を取ってから20年以上になるけれど

5年ごとに更新があり今年がその年になっていた。

本来ならば高知市の試験会場まで行かなければならないのだけれど

コロナ禍のため各自の職場で受験出来るようになっている。


5年前に受験した時にはもうこれで最後だと思っていた。

まさかまた更新が来るとは夢にも思っていなかったのだ。


20年前の試験の時には父が高知駅まで迎えに来てくれた。

父に会うのは25年ぶりのことで胸が熱くなるほど懐かしかった。

それなのに私は父に借金の催促をしてしまったのだった。

昔の事をほじくりかえすようななんと愚かな事をと悔やまれる。

その当時父は同居していた元同僚に全財産を持ち逃げされ

大変な苦境に晒されていた。その同僚はとうとう行方不明となる。

父は心労が重なり食物も喉を通らなくなり酷くやつれていたのだった。


心配した弟からの連絡で私はその日父との再会を決めた。

ちょうど父の誕生日であり少しでも励みになればと思っていたはず。

父は一万円札を財布から出すと「後は必ず返すから」と言った。

私は父を気遣うこともせず喜んでそれを受け取ったのだった。


試験が始まる時間まで一時間程あっただろうか二人で喫茶店に入った。

父は甘い珈琲が好きで「うんと砂糖を入れてくれや」と言い

確か3杯ほどの砂糖を入れてあげたことを憶えている。


試験が終わるまで駐車場で待っていてくれた。

「どうだ?出来たか?」と少し心配そうな顔をして気遣ってくれる。

「まあまあかな」と応えたら「きっと受かるぞ」と励ましてくれた。


3日後には合否発表があり父から電話がかかってきた。

「合格したよ」と言ったら「それは良かった」と大喜びしてくれた。


父の声を聴いたのはそれが最後になってしまった。

再会から9日目。父は急逝する。

一昼夜誰にも発見されないなんとも憐れな孤独死であった。




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