氷点下の朝。日中は陽射しに恵まれほっと空を仰ぐ。
二月のカレンダーは小樽運河の雪景色であった。
北国ではまだまだ遠い春なのだろう。
お昼休みに「流星雨」を読み終える。
あとがきで主人公の「あき」が実在しないひとであることを知った。
けれども同じような境遇を生き抜いたひとが確かにいたのだろう。
夢中になって読み過ぎたせいか夕方から眼の疲れを感じる。
しばらく忘れていた肩凝りも再発してしまったようだ。
カーブスに行けばすぐに解消されるだろうけれど
あまりの感染者の多さに怖くなり土曜日は行かなかった。
今週末もどうなるかわからない。今日は過去最多の感染者となる。
学校の休校や保育園の休園もあり子供の感染が増えているらしい。
幸い孫たちの小学校は今のところ大丈夫だけれど
いつどうなることやら。とても他人事ではなかった。
まず自分を守る。それが家族を守ることになるのだろう。
高知県知事は「まん延」の要請はせず「緊急事態宣言」もしないとのこと。
それよりも経済を守ることを優先するのだと言う。
本当にそれで良いのかと不信感がつのるばかりであった。
このままでは歯止めが効かない。感染者は増えるばかりだと思う。
そうなれば各自が今まで以上の感染対策を実践するしかないだろう。
私は人一倍神経質なものだからスーパーで買物するのも怖い。
そうかと言ってまとめ買いも出来ずその日の事で精一杯だった。
不特定多数の客と接する店員さんはそれ以上に不安なことだろう。
終らない冬がないように終わらないコロナもないと信じたい。
今は耐え忍ぶ時。そうして立ち向かっていく時でもある。
お風呂上がりの孫たちの声が聴こえている。
我が家は今夜も平和そのものであった。
早いもので一月も最終日。「初晦日」と言うらしい。
冬晴れの一日となりたっぷりの陽射しが降り注いでいた。
職場の紅梅が咲き始める。まだ一輪だけれどささやかな春。
今日よりも明日と次々に花を咲かせることだろう。
本の虫が治まらずお昼休みと帰宅後に貪るように読んでいた。
津村節子の「流星雨」で明治初期に会津戊辰戦争を生き抜いた主人公。
「あき」はどうやら実在した女性らしかった。
戦禍から逃れ下北半島で飢餓に耐え忍んでいたところを
函館に奉公口が決まり初めての北海道へと向かうのだった。
父と兄二人は戦死し逃亡中に祖母を亡くし下北半島で祖父を亡くす。
母と妹、残された女ばかりで恐山に行くのだけれど
まるでその光景が目に浮かぶように表現されていた。
そこまで読んだ時に私は「賽の河原」に行ってみたいと強く思う。
そうすれば私の過去の罪も赦されるような気がしたのだった。
「あの子」に会いたい。あの子の魂を声をからして呼んでみたい。
あきは母と妹を下北半島に残し単独で函館に向かった。
奉公先の待遇の良さに残して来た妹が不憫でならない。
姉が妹を思う気持ちが痛いほどに伝わって来る。
ラストまでもう少しだったけれど今日はここまでだった。
明日はなんとしても一気に読み終えたいと思っている。
「あの子」には名前もつけてあげられなかった。
賽の河原で叫ぶときなんと呼べば良いのだろうか。
今日も曇り日。肌寒く陽射しのありがたさをつくづく感じる。
地区では野焼きがあり我が家からは炎は見えなかったけれど
白煙が狼煙のように漂い灰色の空に吸いこまれていた。
毎年立春前に行われていて春の訪れが近い事を知らせてくれる。
朝から読書に夢中になり家事も最低限のことだけ。
お大師堂にも足を向けず疎かにすることばかりだった。
初めてお大師堂にお参りに行ったのは2008年のこと。
亡きあんずとの散歩道でもありふと立ち寄ってみたのだった。
その時偶然にお遍路さんに会ってしばし語らったことを憶えている。
その時の事を手帳に記しており岡山市の石原布美子さん69歳とある。
ちょうど母と同い年であり親近感も増したのであろう。
石原さんは「歩ける限り歩きたい」と言っていたのだった。
少し心細そうではあったけれどなんと勇気のある人だろうと思った。
当時の私は弱音ばかり。体調も優れず死ぬことばかり考えていた。
「死」は恐怖そのものであり不安でならなかったのだろう。
いつも「明日死ぬかも」そんなことばかり考えていた。
石原さんはそんな私に希望を与えてくれたのだと思う。
翌日から私は毎夕お大師堂に足を向けたのは言うまでもない。
石原さんとの出会いが私の「一期一会」になったのだった。
その後石原さんに会うことは叶わず14年の歳月が流れた。
ご健在に過ごされているだろうかと気遣う気持ちが大きい。
14年の間に出会ったお遍路さんは数多く
すべて手帳に記してある。それは私の宝物でもあった。
職業遍路さんが多く何度も再会を果たせた例もあるけれど
今生に一度きりの出会いもありそれも思い出となっていく。
ここ最近はお参りを疎かにしており心苦しさも確かにある。
今日なども本を閉じてしまえば行けたはずと悔やまれてならない。
これではまるで自ずから縁を避けているとしか思えないのだ、
人は出会うべきして出会うものだと思っているけれど
私はいったい何から遠ざかっているのだろうと思う時がよくある。
晴れの予報だったけれど陽射しは届かず。
夕陽も見られないまま日が暮れていった。
桜草の花がぼつぼつと咲き始める。
我が家の右隣のお宅は「花屋敷」でそれは沢山の花を育てている。
奥さんは花の事なら何でも知っている「花博士」であった。
「ますみ」という名の奥さんで「ますみ姉さん」と呼んでいるのだけれど
ご近所の年上の奥さんはみな「姉さん」と呼ぶのが常であった。
私も年下の奥さんから「みか姉」と呼ばれている。
なんだかくすぐったいような嬉しさを感じることが多い。
田舎の風習と言うのだろうかとても親しみを感じるのだった。
もうかなりのご高齢の奥さんでも「姉さん」なのである。
「おばあちゃん」などと言ったら失礼に当たるだろう。
昔嫁いだばかりの頃従兄弟の奥さんを「すみ姉」と呼んで
姑さんに酷く叱られた事が忘れられない。
まだ新米なのだから「すみ姉さん」と呼ぶようにと言われた。
けれども皆がそう呼んでいるのに私だけどうしてと思った。
いきなり呼び方を変えろと言われても急には変えられないものだ。
その後も私はずっと「すみ姉」と呼び続けている。
すみ姉もそのほうが嬉しそうだった。姉さんよりもずっと親しみがある。
私も未だ一度たりとも「みか姉さん」と呼ばれたことはない。
「みか姉」と呼ばれたほうが心地よくてずっと嬉しいのだ。
今日も洗濯物を取り入れていたらお向かいの奥さんが
「みか姉、乾いちょる?」と声をかけてくれた。
「うん、ばっちし乾いちょるよ」と言ったら
「今朝みか姉が干しちょったけん私も急いで干したがよ」と笑った。
それからお向かいのご主人に久しぶりに会って
「みか姉元気やったか?」そんな気遣いも嬉しくてならなかった。
みか姉は70歳になっても80歳になってもみか姉でいられる。
それがなんだか励みのように思えて長生きをしようと思った。
みか姉の夜は短い。まだ8時前なのにもう眠くなった。
久しぶりの快晴。日中は春のような暖かさとなる。
陽射しを浴びているとまるで猫のような気分であった。
陽だまりで「にゃおん」と鳴けば誰かが気づいてくれるだろうか。
今日は午後から損害保険のオンライン試験に臨む。
「損害保険募集人」の資格を取ってから20年以上になるけれど
5年ごとに更新があり今年がその年になっていた。
本来ならば高知市の試験会場まで行かなければならないのだけれど
コロナ禍のため各自の職場で受験出来るようになっている。
5年前に受験した時にはもうこれで最後だと思っていた。
まさかまた更新が来るとは夢にも思っていなかったのだ。
20年前の試験の時には父が高知駅まで迎えに来てくれた。
父に会うのは25年ぶりのことで胸が熱くなるほど懐かしかった。
それなのに私は父に借金の催促をしてしまったのだった。
昔の事をほじくりかえすようななんと愚かな事をと悔やまれる。
その当時父は同居していた元同僚に全財産を持ち逃げされ
大変な苦境に晒されていた。その同僚はとうとう行方不明となる。
父は心労が重なり食物も喉を通らなくなり酷くやつれていたのだった。
心配した弟からの連絡で私はその日父との再会を決めた。
ちょうど父の誕生日であり少しでも励みになればと思っていたはず。
父は一万円札を財布から出すと「後は必ず返すから」と言った。
私は父を気遣うこともせず喜んでそれを受け取ったのだった。
試験が始まる時間まで一時間程あっただろうか二人で喫茶店に入った。
父は甘い珈琲が好きで「うんと砂糖を入れてくれや」と言い
確か3杯ほどの砂糖を入れてあげたことを憶えている。
試験が終わるまで駐車場で待っていてくれた。
「どうだ?出来たか?」と少し心配そうな顔をして気遣ってくれる。
「まあまあかな」と応えたら「きっと受かるぞ」と励ましてくれた。
3日後には合否発表があり父から電話がかかってきた。
「合格したよ」と言ったら「それは良かった」と大喜びしてくれた。
父の声を聴いたのはそれが最後になってしまった。
再会から9日目。父は急逝する。
一昼夜誰にも発見されないなんとも憐れな孤独死であった。
冬晴れの予報に反して曇り空となる。
気温は3月並みだったようだけれどずいぶんと肌寒く感じた。
まるで桜の季節の花冷えのようでもあった。
四万十市入田の河川敷に菜の花がぽつぽつと咲き始めたらしい。
病院のすぐ近くなので来月の通院日に行ってみようと思っている。
立春も近くなり早春の景色を愛でるのもきっと良いものだろう。
職場にJA共済の係の女性が訪ねて来てくれて
我が家の建物共済を見直すことにした。
地震の場合は保険金は半額になるとのこと。
今のままでは家を建て直すことも出来そうにない。
思い切ってこれまでの倍にし家財道具の保険も加入することにした。
総額で3千万。半額でも千5百万の保険金がおりることになる。
それだけあれば十分ではないかと思われるのだけれど
問題は月々の掛け金であり貧乏所帯には大きな負担となるのだった。
けれどもいざと言う時の事を考えると背に腹は代えられない。
命は守れても家を失い家族が路頭に迷うことはあってはならないのだ。
先日の地震から危機感は増すばかりでこれは早急を要する。
少し迷ったけれど2月1日に契約をすることになった。
あと数日、どうか大地震が来ない事をひたすら祈ることしか出来ない。
安心を買う。様々なリスクに備える。それが保険であり共済である。
一人一人の保険料が被災者を救うことを忘れてはならない。
備えあれば憂いなし。つくづくとそう思った1日だった。
三寒四温の「温」の日。日中は3月並みの暖かさとなる。
朝の道を行けば民家の庭先に白梅がこぼれるように咲いていた。
昨夜は「白湯」と思い込んでいたのがただのお湯とわかり
そのお湯なるものを今日も3杯ほど飲んだ。
これがぬるま湯だったらそうそう飲みたくもないだろう。
果たしてめいさんの飲んでいる「白湯」なるものが
本当の白湯なのかただのお湯なのかは知る由もない。
夜は焼酎と決まっており毎晩ほろ酔って寝るのが常である。
飲み過ぎることは殆ど無く毎晩3杯と決めている。
真冬でも水割りでお風呂上がりには格別であった。
そうして飲みながらこの日記を書いているものだから
時おり脱線もするしとんでもないことを書き殴る時もある。
よくもまあ20年も書き続けてきたものだと我ながら感心するけれど
45歳だった私が65歳になりそれは「人生」そのものかもしれない。
最近よく思うのは大地震が来て津波で家を失うこと。
もしノートに書き綴った日記なら流失は免れないだろうと思う。
ここはどうだろう。いつサービスが終了するかは分からないけれど
バックアップ機能がありパソコンには保存できるようだった。
けれどもそれほどの価値もなくただの執着に過ぎないのかもしれない。
こうなったら潔く消滅するか。今ふっと投げ遣りになっている。
焼酎も最後の3杯目。今夜もいささかの脱線が見られたようだ。
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