冬晴れの予報に反して曇り空となる。
気温は3月並みだったようだけれどずいぶんと肌寒く感じた。
まるで桜の季節の花冷えのようでもあった。
四万十市入田の河川敷に菜の花がぽつぽつと咲き始めたらしい。
病院のすぐ近くなので来月の通院日に行ってみようと思っている。
立春も近くなり早春の景色を愛でるのもきっと良いものだろう。
職場にJA共済の係の女性が訪ねて来てくれて
我が家の建物共済を見直すことにした。
地震の場合は保険金は半額になるとのこと。
今のままでは家を建て直すことも出来そうにない。
思い切ってこれまでの倍にし家財道具の保険も加入することにした。
総額で3千万。半額でも千5百万の保険金がおりることになる。
それだけあれば十分ではないかと思われるのだけれど
問題は月々の掛け金であり貧乏所帯には大きな負担となるのだった。
けれどもいざと言う時の事を考えると背に腹は代えられない。
命は守れても家を失い家族が路頭に迷うことはあってはならないのだ。
先日の地震から危機感は増すばかりでこれは早急を要する。
少し迷ったけれど2月1日に契約をすることになった。
あと数日、どうか大地震が来ない事をひたすら祈ることしか出来ない。
安心を買う。様々なリスクに備える。それが保険であり共済である。
一人一人の保険料が被災者を救うことを忘れてはならない。
備えあれば憂いなし。つくづくとそう思った1日だった。
三寒四温の「温」の日。日中は3月並みの暖かさとなる。
朝の道を行けば民家の庭先に白梅がこぼれるように咲いていた。
昨夜は「白湯」と思い込んでいたのがただのお湯とわかり
そのお湯なるものを今日も3杯ほど飲んだ。
これがぬるま湯だったらそうそう飲みたくもないだろう。
果たしてめいさんの飲んでいる「白湯」なるものが
本当の白湯なのかただのお湯なのかは知る由もない。
夜は焼酎と決まっており毎晩ほろ酔って寝るのが常である。
飲み過ぎることは殆ど無く毎晩3杯と決めている。
真冬でも水割りでお風呂上がりには格別であった。
そうして飲みながらこの日記を書いているものだから
時おり脱線もするしとんでもないことを書き殴る時もある。
よくもまあ20年も書き続けてきたものだと我ながら感心するけれど
45歳だった私が65歳になりそれは「人生」そのものかもしれない。
最近よく思うのは大地震が来て津波で家を失うこと。
もしノートに書き綴った日記なら流失は免れないだろうと思う。
ここはどうだろう。いつサービスが終了するかは分からないけれど
バックアップ機能がありパソコンには保存できるようだった。
けれどもそれほどの価値もなくただの執着に過ぎないのかもしれない。
こうなったら潔く消滅するか。今ふっと投げ遣りになっている。
焼酎も最後の3杯目。今夜もいささかの脱線が見られたようだ。
目覚めた時には霧雨が降っていた。
今日もすっきりとしない空模様となり夕方になり夕陽が見える。
コーヒーが好きで多い時には一日に5杯は飲んでいる。
朝のうちに3杯。職場で2杯と言ったところだろうか。
さすがに飲み過ぎだと自覚しており合間に白湯を飲むことが多い。
コーヒーを飲み終わった後や昼食時にも白湯を飲む。
飲み慣れるとお茶よりも美味しく感じるのは不思議なことである。
白湯が特に身体に良いとは思えないけれど冬場は身体が温まる。
熱々の白湯が胃に沁み込むように流れ込む感覚が好きなのだ。
「入っているな」と思う。どうやら心にも胃があるらしい。
昨日のこと某SNSで親愛なる詩人のめいさん(白井明大さん)が
「白湯で一服しているところ」と呟いていてなんだかとても嬉しかった。
詩人仲間としては永遠に認められることはないけれど
白湯仲間なのだなと思った。一緒なんだなと思った。
偶然にもその時私も白湯を飲んでいたから尚更のことである。
私はそれくらい単純に出来ている。いわゆる単細胞なのだ。
だからいつまでたっても「詩人」にはなれない。
そんな私の愚かさを一番知っているのがめいさんだとさえ思う。
認められたい欲はもうすっかり薄れた。
それでももしかしたらと思う希望は捨てきれずにいる。
無色透明の白湯のように生きられたらどんなに良いだろうか。
※書き終わってから白湯について調べてみたら
水が沸騰してから50℃程まで冷ましたものが白湯なのだそうです。
だから私が飲んでいたのはただの「お湯」だったようです。
またその白湯は身体にも効用があるとのことです。
すでに書いてしまったので記事の訂正はしませんが
無知無学な私をお許し下さいませ。
曇り日。夕方には西の空だけ晴れて夕陽が見られた。
明日は朝からきっと青空になるだろう。
また新しい一週間が始まる。すくっと前を向きながらも
毎日がスローライフならどんなに良いだろうかと思った。
出勤までの時間はとても慌ただしく気忙しくてならない。
職場は朝から来客が多く活気に満ちていた。
そうなると私も仕事の虫が動き出し自然と笑顔になるのだった。
昨年秋に新車を購入してくれたお客さんのバックドアに大きなへこみ。
お客さんは高齢者で誤って何処かにぶつけてしまったらしい。
修理をすればお金がかかるだろうとすでに諦めている様子だった。
それを社長である義父がわずか30分程で修復したのには驚く。
へこみは殆ど目立たなくなり完璧な職人技であった。
「お金はいいよ」と義父。私もそう言うだろうと思っていた。
義父は日頃からサービス仕事が多く手間を惜しまない人であった。
その後、懇意にしている建設会社の社長さんが珍しい機械を持って来る。
工事現場で使う機械らしくエンジンがかからなくなったらしい。
格闘すること二時間程だったろうか、大きなエンジン音が工場に響く。
それはさすがに少しくらい請求しても良いのではと思ったのだけれど
「また飲みに行こうや」と義父は笑いながら告げるのだった。
商売には「損して得取れ」という諺がある。
労力を惜しまず多少の損をしてもそれは必ず倍になって返って来るらしい。
常連のお客さんなら尚更のことで奉仕は当然の事なのだろう。
母が現役だった頃はそれが理解できず義父との確執も大きかったようだ。
私は大いに理解できる。いくらでも損をしようとさえ思える。
何よりもお客さんの笑顔が「得」に思えてならないのだった。
商売は面白い。つくづくそう思った一日だった。
静かに優しい雨の一日。まるで春先の雨のようであった。
ずっと空気が乾燥していた日が続いていたので
「慈雨」と言うべきなのかもしれない。
四万十川にかかる沈下橋も橋桁が剥き出しになっていたようで
川の水量が著しく減少している証であった。
菜種梅雨にはまだまだ早いけれど程よい雨が必要なのだろう。
伯母の49日の法要が菩提寺でありじいちゃんが出掛ける。
コロナ禍の事で最小限の人数で執り行うとのこと。
お葬式にも参列できなかった私は伯母の遺影にさえ会うことが叶わず。
帰宅したじいちゃんに聞けば孫やひ孫達の姿もなかったそうだ。
49日になると魂は三途の川を渡るのだと言う。
川船で釣りに行くのが好きだった伯父が迎えに来ていただろうか。
そうして天国で穏やかに暮らせるのならもう言う事は何もない。
私は輪廻転生を信じていて魂は必ず生まれ変わると思っている。
ソウルメイト。ツインソウル。今はもう死語に等しいかもしれない。
けれども切っても切れない縁は必ずあるのだと信じてやまない。
「赤い糸で結ばれていた」という表現もあるように
ひとは出会うべきものとして出会うものなのではないだろうか。
そんなことを考えていると「死」は決して怖ろしいことではなく
魂は浄化され再び生を受ける望みも無いとは言い切れないだろう。
けれども死ぬのはやはり怖くてならない。そんな矛盾を抱えつつ
せめて与えられた命を全うしようと躍起にならざるを得ない。
脚光を浴びるわけでもなくひたすら地味な道をこつこつと進む。
「死んだら何も残りはしない」とある亡き作家の言葉にあるけれど
その作家は今でも脚光を浴びていることを知っているのだろうか。
私もずいぶんと老いぼれて来たけれど
枯野の尾花にも降り注ぐ雨があった。
晴れのち曇り。明日は雨になるらしい。
一雨ごとに春に向かうような優しい雨であることを願っている。
昨夜は深夜に豊後水道を震源地とする地震があった。
熟睡していたのをケイタイの地震アラートで飛び起きる。
その後すぐに揺れが襲って来たけれどかなりの横揺れで怖ろしかった。
二階では娘婿が叫び声をあげていて娘が子供達を庇っていたようだ。
四万十市では震度5弱。大分や宮崎では震度5強だったとのこと。
南海トラフとの関連性も考えられ大きな不安となってしまった。
幸い被害はなく夜が明ければ何事も無かったように平和であった。
余震が7回程あったらしいが身に感じない程の弱いものだった。
ちょうど今読んでいる本が津村節子の「三陸の海」であり
東日本大震災で津波に襲われた岩手県の田野畑村の事を書いてある。
偶然ではあるけれどもしも大地震が襲って来たらと考えずにはいられない。
津波は避けられないだろう。家も失ってしまうかもしれない。
命だけはなんとしても守らなければいけないとひたすらに強く思う。
それは今夜かもしれないし明日かもしれないことだった。
そんな大きな不安に立ち向かっていかなければいけないのだろう。
田野畑村は奇跡的な復興を成し遂げ今は観光地として栄えているらしい。
その様子を田野畑村役場のホームページで見たのは昨日のこと。
どれほど大きな打撃と悲痛を味わった事だろうと思う。
ひとはみな弱いけれど希望さえあれば強くなれるのではないだろうか。
明日は我が身と思いつつ今日の平穏無事をかみしめていた。
氷点下の朝が続いている。
山里は平野部よりも気温が低く8時半にマイナス3℃だった。
事務所のエアコンを28℃に設定してもお昼にやっと20℃。
同僚は暖房器具など無い工場でどんなにか寒かったことだろう。
そんな寒さのなか庭の椿の花が一輪だけ咲いていた。
傍らには蕾がたくさんありまるで希望のようにふくらんでいる。
椿の花は咲き終わるとぽとんと落ちてしまうので
縁起が悪いようにも言われるけれど私は好きだなと思う。
34年前に私が勤め始めた頃からあった椿の木なので
きっと若かりし頃の母が植えていたのだろうと思われる。
母も椿が好きだったのだろう。私達はやはり似ているのかもしれない。
17歳で父と結婚した母はずっと官舎住まいだった。
平屋だったけれど猫の額ほどの庭しかなかったと記憶している。
物干し台を置くだけで精一杯で植物を植えていた記憶はない。
当時は樹木を植えるなどとんでもない事だったのだろう。
ましていつ転勤になるか分からない。家はあくまでも借家であった。
そんな母が義父と再婚して広い庭を手に入れたのだ。
やまももの木。ねむの木。芙蓉の木。紫式部の木。梅の木。
そうして椿の木とどれほど嬉しかったことだろうと思われる。
私は20歳になって初めてそんな母の事を知ったのだった。
数年前の入退院を繰り返していた頃には樹木を我が子のように気遣い
誰も手入れをする者が居ない事を嘆いていたこともあった。
私は敢えて何もしなかった。忙しくてそれどころではないのは言い訳。
ただ花が咲けば母を想う。母の花なのだなと愛しく思って来た。
椿の木も周りは枯草に覆われているけれど
「今年も咲いたよ」と知らせてくれる母の声のようでもあった。
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