今日は冬至。最高気温が18℃まで上がりぽかぽか日和となる。
明日から少しずつ日が伸びて来る。春はまだ遠いけれど
季節は確実に春に向かっているのだろう。
終らない冬はない。もうしばらく冬と付き合っていこう。
柚子農家さんがお風呂にとまた柚子を届けてくれた。
柚子酢の上にお風呂まで気遣ってくれてありがたいこと。
今夜はほんのりと柚子の香るお風呂でゆっくりと温まった。
我が家にも柚子の木を植えてみたくなり先日から探しているけれど
ホームセンターでは見当たらず時季外れなのかもしれない。
昔は一条大祭などで植木市があったけれど今はどうなのろう。
もし見つけられたら一本だけでも買い求め植えてみたいものだ。
でも植えてから実をつけるまで数年待たなければいけないよう。
そのためには長生きをしなければならずそれも張り合いになる。
楽しみにしながら生き永らえるのまた良いのかもしれない。
母の生まれ育った実家は蜜柑農家であった。
30年位前までは祖父もまだ元気で蜜柑を栽培していたと記憶している。
家の離れに「蜜柑の部屋」があり収穫した蜜柑を寝かせてあった。
もちろん蜜柑畑もあったのだけれど今はもうその跡形も無い。
祖父が根こそぎ木を掘り起こしたとは考えられず
おそらく自然に枯れたかして消滅してしまったのだろう。
祖父は丹精込めて蜜柑を栽培していたのだと思う。
種類は違ってもそれは柚子農家さんと同じなのではないだろうか。
蜜柑の木は無くなってしまってもその味は今も忘れられない。
小粒で甘くてとても美味しかった。
それにしても木が枯れることが信じられない。
根さえあればいつまでも生き続けているように思えてならない。
曇り日。陽射しがなく日中も肌寒く感じる。
冬枯れた景色のなか銀杏の裸木が物悲しく見えた。
羽根を休める鳥もいない。ただ風だけが吹く抜けていく。
支払いに来てくれたお客さんが手土産にと和菓子を持って来てくれた。
蓋をあけて思わず歓声をあげる。なんと可愛らしい和菓子だこと。
兎の姿をしたものや虎の姿をした物もあり笑みがこぼれる。
老舗の和菓子ならではの職人技なのだろう。
一目見ただけでそれが心を込めて作られたことが感じられた。
ダイエット中で甘い物は控えているけれど一個だけならと許し
豆大福を頂いた。中は白餡でとても優しい甘さが美味であった。
高校時代に友達とよく行っていた和菓子屋さんを思い出す。
安芸市の「和食屋」というお店できっと今もあると思う。
私も弟もその店の桜餅が大好きだった。
弟が二十歳くらいの時だったろうか。私はすでに嫁いでいたけれど
久しぶりに弟に会うのに手土産にとその桜餅を持参したことがある。
けれども弟は意に反してあまり喜んではくれなかったのだ。
「大好きだったのに」と私が言えば「いつの話だよ」と苦笑いする。
今思えば二十歳の男の子に桜餅は不似合いだったのだろう。
おとなになれば好みも変わるそれが当然のことに思われる。
「こんなにどっさり買うてきて」と弟は呆れ顔をしていた。
それでもなんとか一個だけは食べてくれて
「後は姉ちゃんが持って帰りなよ」とまた私の手元に戻って来た。
ちょっとどころかけっこう寂しかった。そうして苦い思い出となる。
けれどもこうして40年以上の歳月が流れてしまえば
苦い思い出も愉快な思い出となってくれるものなのだ。
私はあれ以来桜餅を殆ど口にしたことがない。
弟もおそらく同じだろうと思う。
安芸市に足を運ぶこともなくなり「和食屋」の桜餅がとても懐かしい。
春になり桜の季節になればまたきっと思い出すことだろう。
最高気温が10℃を超え陽射しが暖かく感じられる。
朝の寒さにも慣れて来たようだ。少しも苦にはならなくなった。
夜明けを待ちかねて大量の洗濯物を干す。
冷たくなった手のひらもファンヒーターにかざせばすぐに温もる。
貸し倒れ寸前になっているお客さんがいて
数年前から郵便物が届かなくなっている。
幸い勤務先が分かっているので請求書を届けに行っていたら
今年の春に退職したとのこと、もう諦めるしかないのか。
そうしたら思いがけずに新しい勤務先を教えてくれたのだった。
それが隣町の得意先の建設会社だったのでびっくりとおどろく。
ちょうど今日が集金日で午後から出向くことになっていたのだ。
追い掛け回すようで少し気が引けたけれど背に腹は代えられず
事務員さんに事情を話し請求書を預けることが出来た。
そうしたら一時間も経たないうちに社長さんから電話があった。
なんとしても責任を持って支払わせるからと言ってくれる。
「お金にルーズな者は仕事もルーズだから」と
とても厳しい口調で「許せない」とまで言うのだった。
私はとても複雑な気持ちになる。まるで自分が鬼の取立屋であるかのよう。
貸し倒れにすることは容易く今年限りで諦めることも出来たのだ。
請求書はあくまでも年末の形式的なものに過ぎなかった。
最後の取引から10年を超えておりすでにお客さんではないかもしれない。
けれども縁があったことは確かで当時は好青年にさえ思えた。
ギャンブル狂と噂に聞いていたので暮しにも困っているのだろう。
無い物は払えない。それが当然の事だと思われる。
仕事を終えてから社長にこっぴどく叱られたのではあるまいか。
「くそ、どこまでも追い掛けて来やがって」と悪態もつきかねない。
そんなことを考えていると何が善くて何が悪いのか分からなくなる。
もし年末までに振り込みがあればとてもありがたいことだけれど
振り込みが無かったらもう潮時なのではないだろうか。
縁を切ってあげるのも人の道ではないかと思ったりしている。
幸い雪にはならなかったけれど午前中は時雨れていた。
もう少し気温が下がっていたら小雪の舞う一日になったことだろう。
朝のうちに川仕事へ。海苔の種網を漁場に張る作業。
今年は種付けが順調に行かずほんのわずかであった。
それでも無いよりはまし。少しでもと思う気持ちが大きい。
昨年の三分の一ほど。収穫もぐんと少なくなりそうだ。
例年なら1月下旬には収穫が始まるのだけれど
今年は大幅に遅れそうで前途は決して明るくはない。
40年もこの家業を続けていればどんな年もあり
豊作の年もあれば不作の年もある。
ここ数年は不作の年が続いておりとても期待は出来ない。
一番大きな原因は水質の悪化ではないかと思われる。
水温の高さもありそればかりは自然に任せるしかなかった。
昔とはもう違うのだと現実の厳しさをつくづくと感じる。
長くてあと10年だろうか。いや5年で絶滅するかもしれない。
それでも最後まで諦めずに続けられたらと願ってやまない。
この40年を思い起こせば感慨深く懐かしく思い出される事が多い。
息子が3歳の時には高知放送のテレビ番組の取材を受けた。
「三歳児の世界」という番組で作業場で一人遊ぶ息子の姿を
テレビカメラに収めてくれてとても良き思い出となった。
両親ともに働いている傍らで息子は健気な3歳児として映る。
春先の事で土手で土筆を見つけて微笑んでいる顔が印象的だった。
もちろん録画をして当時は何度も再生して見たけれど
古くなったVHSのテープは今はもう再生出来なくなってしまった。
けれどもあの時の息子の笑顔は今も目に鮮やかに蘇って来る。
まだ乳飲み子だった娘も今年は40歳になった。
忙しさのせいにして抱っこもしてあげられなかった日々がある。
夜泣きはしたけれど昼間はすやすやとよく眠ってくれる子だった。
オムツはいつもぐっしょり。今思えば不憫な子だったのかもしれない。
その娘が小学生になって学校の社会見学で先生とクラスのお友達が
作業場の見学に来ることになった時、娘は泣いて嫌がっており
とうとうその朝熱を出して学校を休んだことがあった。
娘にとっては決して自慢出来ることではなかったのだろう。
熱が出るほど精神的に追い詰められてしまったのだと思う。
けれども私達夫婦は「誇り」を捨てることが出来なかった。
最低限の暮しを守るために精一杯の努力を惜しまなかったのだ。
40年の歳月が流れ犠牲にしてきたことも多い。
けれども家業がなければ叶わなかったことも確かにある。
「潮時」という言葉があるけれど満潮だろうか干潮だろうか。
窮地に追い込まれた時に「潮時」というのは「諦め」に等しい。
今日は大潮で空にはそれは綺麗な満月が輝いている。
予報通りに厳しい冷え込み。山間部では初雪が降ったようだ。
川向の山が薄っすらと雪化粧をしているのを見た朝。
日中も気温が上がらずそれでも精一杯の陽射しだった。
孫たちは参観日で通常通りの授業。
寒さに負けず元気に登校するものと思っていたけれど
あやちゃんが憂鬱そうな顔をして「行きたくない」と言う。
理由ははっきりと言ってくれて
昨日仲良しのお友達と喧嘩をしたのだそう。
どうやら日頃から体型の事を言われたりして傷ついていたらしい。
仲良しだからこそそれがストレスになっていたのだと思う。
娘は無理強いをしない。私達もそれに倣った。
ゆっくりと時間をかけて見守ってあげなければいけない。
学校を休むことに後ろめたさを感じていたのだろうか
今朝は洗濯物を庭まで運んでくれてその上に干すのを手伝ってくれる。
冷たさにかじかんだ手のひら。思わず手を取って温めていた。
人一倍優しい子なのだ。だからこそ傷つきやすいのだと思う。
朝のうちにすぐ担任の先生から娘に電話があり心配していた様子。
授業参観が終わってから娘は洗いざらい話したのだそうだ。
些細な事からいじめに繋がることもある。
先生も心して見守ってくれると言ってくれたそう。
私も中学時代にいじめられたことがあり他人事ではなかった。
今のように陰湿ないじめではなかったけれど
母親もおらず誰にも相談できなかったことを憶えている。
父親には何も言えなかったから自分で解決するしかなかった。
私は直談判をした。どうしていじめるのかと立ち向かって行ったのだ。
今思えばそれ程の強さが自分にあったことが信じられない。
結果的にその「つよさ」が自分を救ってくれたのだろうと思う。
傷つくことを怖れてはいけない。痛みを糧に乗り越えて行くことだ。
夕飯は「寄せ鍋」あやちゃんは好物のくずきりをちゅるちゅると食べる。
今季最強の寒波だとか。強い北風が吹き荒れている。
それは初雪の前触れのようでもあった。
職場の年賀状の宛名を書き終え郵便局へ持って行く。
印刷ばかりでは味気なく思い宛名だけは手書きにしている。
そのままポストに入れてしまえば良いのだけれど
ポストの中でばらばらになってしまいそうで不安なのだ。
局長さんに受け取ってもらえてとてもほっとした。
私は今年も年賀状を出さないことに決めている。
気忙しさの中で書きしたためてもいけない気もするし
新年が明けてからゆっくりと寒中見舞いを出そうと思っている。
その気持ちが伝わる人にはちゃんと伝わるだろうし
伝わらない人にはそれでいい。縁が途絶えても仕方ないと思う。
とにかく気分的にとても楽なのだ。あたふたと義理を通すこともない。
今年もあと2週間となり背中を押されているようなこの頃。
じいちゃん曰く。何もしなくても新しい年は来るのだそう。
だから大掃除もしない。最低限の家事だけをしていようと思う。
昨日母に宣言したように仕事だけはきっちりと終えたい。
29日には仕事納めが出来るように精一杯頑張っている。
年越しの仕事だけはあってはならない。それがけじめだろう。
来週いっぱいが勝負だ。なんとしても乗り越えてみせよう。
背中を押されるのはあまり好きではない。
出来れば自分の意思で前へ進みたいものだ。
きっと心地よい達成感が待っているだろうと思う。
午前中は晴れていたけれど午後からぽつぽつと雨が降り始める。
幸い冷たい雨ではなく少しくらい濡れても平気だった。
お昼で仕事を終わらせてもらって病院へ向かう。
いつもはお薬だけだけれど今日は診察があった。
待ち時間が辛いので早めに行き順番を取っておく。
前回の診察はいつのことだったか。
医師からきついことを言われ不覚にも泣いてしまったのだ。
よほど相性が悪いのだろう。信頼感は一気に薄れる。
嫌悪感もつのり顔さえも見たくないと思っていた。
けれども今日は診察を避けられず仕方ないと観念する。
とにかく自分からは何も話さないこと。
訊かれたことだけに応えるように努めてみた。
医師も素直な患者だと思ったのだろう。優しい笑顔を見せてくれる。
これからまだ長く付き合っていかなければいけない。
ようは私の心がけ次第なのだと改めて思った。
短時間で薬を貰えたので次は母の施設のある病院へ向かう。
先月分の支払いを済ませケアマネさんに会いに行くと
主治医の先生から大切な手紙を預かっているとのこと。
それは現在の母の病状に関することで
心臓は落ち着いているけれど腎機能が著しく低下しているらしい。
最悪の場合は透析をしなければいけないのだそうだ。
病院には透析の設備が無いため転院し施設も替らなければいけないと言う。
母の命を守るためにそれは必要なことだと分かっていても
慣れ親しんでいる施設を替るのはとても酷な事に思えてならない。
近日中に家族の意思を知らせてほしいと言われた。
私の一存では決められず明日にでも義父に相談しようと思う。
母との面会も叶ったけれど終始仕事の話ばかり。
資金繰りは大丈夫か。無事に年を越えられそうか。
事実上は引退している母であってもやはり心配でならないのだろう。
会社の通帳を見せたら「あらまあ」とびっくりしていた。
私が「ボーナスも貰うからね」と笑いながら言ったら
「お父さんにもあげてね」と義父の事を気遣っていた。
今年最後の面会になるだろう。どうか元気に新年を迎えて欲しい。
買物を済ませ帰路を急いでいたらけい君の小学校から着信。
今朝は久しぶりに登校していたけれど午後からまた微熱とのこと。
養護の先生からの電話で保健室で預かっていると言う。
今日は息子からお迎えを頼まれていたのですぐにじいちゃんが向かった。
マンションへ送り届けたらお嫁さんは寝ていたらしい。
おそらく昼間のうちに睡眠薬を飲んでいたのだろう。
今さらどうしようも出来ない事だけれど遣り切れない思いが募る。
けい君が不憫でならないけれど手も足も出せなかった。
けい君、晩ご飯はちゃんと食べられたろうか。
息子は夜勤なのだろうか。何も分からないまま夜が更けていく。
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