| 2021年11月17日(水) |
初冬ではないのですか |
今の季節を私は「初冬」だと思っているのだけれど
SNSなど見ていると「秋」という表現が多いのに戸惑っている。
今日は朝日新聞の記者さんが「晩秋」と表現していた。
新聞記者さんが間違えるはずがないと思えば
私が間違っていることになるのだけれどどうなのだろう。
11月も中旬を過ぎ二十四節気は「立冬」から「小雪」になろうとしている。
それでも初冬ではないのだろうか。ついつい考え込んでしまうのだった。
今朝は仕事で納車がありお客さんのお宅を訪ねたら
出荷出来なかった規格外の柚子と畑の大根をいただく。
「ちょっと待ちよってね」と言って畑まで走ってくれたのだ。
新鮮その物の大根のなんとありがたことだろう。
「葉っぱは要らんろ?」と訊かれたので「欲しいよ」と応えた。
鮮やかな緑の葉っぱ。茹でて油炒めにしたら美味しいのだ。
家族は誰も食べないけれど私は大好きだった。
柚子は規格外とは言えとても良い香り。搾れば立派な柚子酢になる。
規格はとても厳しいらしくなんだか柚子が可哀想になった。
農家さんの苦労も報われないのはとても理不尽な事だと思う。
スーパーでお刺身用のハマチが半額。迷わず籠に入れる。
ハマチは鰹と違って新鮮さの見分けがつかない。
黙っていれば分からないだろうと思ったのだけれど
家族にはちょっと不評。ずいぶんと残ってしまった。
その残ったお刺身に塩と酢をかませたら明日の朝に食べられる。
柚子も絞って入れたらきっと美味しいだろう。
もうすぐ午後8時。日記を書き終えたらほっとする。
床に就く9時まで本を読みたい。
連日の小春日和にほっこりと心が和む。
今夜も室温が20℃もありずいぶんと暖かい。
歩き遍路には最適の季節なのだろう。
今日も6人ほどのお遍路さんを見かけた。
印象的だったのは修業僧と思われる黒装束のお遍路さん。
まだ若く20歳くらいに見えた。とても凛とした姿。
足元は草鞋で颯爽と歩く姿が眩しい程だった。
ふと今は亡きKさんを思い出す。彼も修業僧だった。
何故死を選んだのかと思うと胸に熱いものが込み上げてくる。
職場に外国人のお客さんロージーがオイル交換に来てくれた。
日本語がずいぶんと上手になって会話が弾む。
それでもなるべく英語をと思い私も頑張ってみた。
お互いがカタコトでそれも愉快でならない。
彼女は近いうちに歩き遍路に挑戦するのだそう。
「オヘンロイクネ。ガンバルネ」と話してくれた。
そのために新しい靴を買ったのだそう。
今日はその靴を履いていて「ナイスシューズ」
きっと良き旅になるだろうと自分の事のように嬉しかった。
上手く伝わるかなと思いつつ私もお遍路に行きたい事を話す。
でも足が痛くて歩けそうにないことも話してみた。
ロージーは一瞬「オーノー」という顔をしたけれど
私の肩に手を置いて「ダイジョウブ」と励ましてくれた。
言葉は上手く伝わらなくても心はちゃんと伝わっているのだと思った。
それはとてもあたたかく心に沁みるふれあいであった。
ロージーの歩く姿に自分を重ねて私の夢がふくらむ。
決して夢をあきらめてはいけない。
日中の気温が20℃を超えぽかぽかと暖かい。
まさに小春日和とよぶのにふさわしい一日だった。
職場の近くの銀杏の木がすっかり黄金色になる。
今週いっぱいが見頃なのではないだろうか。
葉が散り始めたらそれはあっと言う間のこと。
はらはらと儚いそのさまが目に浮かぶようだ。
帰宅したら昨日の合評会で会ったEさんからメールが届いていた。
私の詩があまりにも罵倒されたものだから
他人事ではないと気遣ってくれたようでありがたいこと。
けれども私は打たれ強いのかめげてもおらず傷ついてもいない。
むしろ励まされたことを伝えなければいけないと思う。
長い返信になりそうなので取り急ぎ明日返信する旨だけを伝えた。
Eさんはまだ30代の若さで前途有望な詩人である。
詩を学ぼうとする姿勢が半端じゃない。
この先きっと高知をいや日本を代表するような詩人になると思う。
それだけの可能性を秘めており私には眩しいくらいの存在である。
若さを妬み老いを嘆く。そんな気持ちは少しもなかった。
私には与えられた道がきっとあるのだろうと信じてやまない。
それは生きてみないとわからない。私にも未来があるのだと思う。
ひとは打たれれば打たれるほど強くなる。
負けてたまるかと思えば不思議と勇気が湧いてくるものだ。
曇り日。薄陽が射してくれたおかげで日中は暖かくなる。
今日は何年ぶりだろうか列車で高知市へ行っていた。
お世話になっている同人誌の合評会に参加するためだった。
先日のDさんとのやり取りもあり一度は会ってみたい。
そんな気持ちもあり決心したのだけれど
まるで血統書付きの犬の品評会にのこのこと出掛ける
雑種の野良犬なのではないかと自分を見下す気持ちもあった。
けれどもなんと和気あいあいと楽しかったことだろう。
帰りの列車の時刻が迫り途中で抜ければならず残念であった。
Dさんが私の詩をとことんけなす理由も分かった気がする。
きっと可能性を信じてくれているのだろう。
同人の皆さんの励ましもとても心強く嬉しかった。
私は70歳よ。私なんか73歳よと女性陣はみな口々に言う。
私も諦めるつもりはない。命がけで立ち向かっていきたい。
いつかきっと辿り着く場所があるのに違いないのだ。
合評会が始まる前に一時間程時間があったので
弟に連絡し亡き父の遺骨に会いに行っていた。
明日が命日。もう18年の歳月が流れたことになる。
未だにお墓は作ってあげられずにいるけれど
父の魂は安らかに眠っているのだと信じてやまない。
ひ孫も4歳になり可愛い盛り。明日あたり二人目のひ孫も誕生する。
賑やかな弟の家で父もきっと微笑んでいることだろう。
今日はとても佳き日でした。ありがとうございました。
朝の寒さが更新されまた今季一番の冷え込み。
ぬくぬくのお布団が名残惜しいこと。
えいやあと起き出しすぐにちゃんちゃんこを羽織る。
朝のうちに頂き物の直七と柚子を絞る。
台所だけでなく家中にその香りが漂っていた。
手や身体にも移り香を残しなんとも清々しい気持ち。
柑橘系の香というものは癒しの効果もあるようだった。
高知の「田舎寿司」には必ず柚子酢が使われていてとても美味しい。
昔の山間部では新鮮な魚が手に入らなかったこともあり
椎茸や蒟蒻、リュウキュウや筍のお寿司が作られていた。
それは今でも食べることが出来て山間部の道の駅などで売られている。
私は特にリュウキュウと筍のお寿司が大好物である。
食べるたびに懐かしさを感じるのは子供の頃の記憶だろうか。
それも曖昧な記憶でいったい誰が作ってくれたのか憶えていない。
母だったのかもしれないし父方の祖母だったような気もする。
父方の祖母の家では柚子を栽培していたような記憶があるのだった。
柚子で有名な馬路村の近くだったからそれはあり得る話でもある。
見よう見真似で田舎寿司を作ることも出来ないではないだろうが
未だ一度も挑戦したことなどない私であった。
その代わり「鰹のひっつけ寿司」はよく作る。
これは嫁いでから姑さんに教わったもので云わば我が家のお寿司だった。
山間部とは違って新鮮な鰹が手に入りやすいこともある。
鰹だけではなく鰤のひっつけ寿司もなかなかに美味しいものである。
なんだ今夜は寿司日記かと苦笑いしておられる方もいるだろう。
つまらない日記に毎晩つきあって頂き感謝しかない。
あやちゃんとめいちゃんがお風呂から出たようだ。
新しいパジャマにはまだ一度も袖を通してくれない。
朝の最低気温が一桁の日が続いている。
やがては真冬並みの寒さが襲って来ることだろう。
少しずつ慣れていかなければいけない。
それにしてもいつからこんなに冬が苦手になってしまったのか。
子供の頃編み物が得意だった母が毛糸の帽子を編んでくれたことがある。
山間部の冬は平野部よりもずっと寒さが厳しくて
その帽子が嬉しく霜柱を踏みながら学校へ通ったものだった。
弟はまだ保育園児だったのではなかっただろうか。
確か白い帽子だった。尻尾のように長い帽子でぼんぼりが付いていた。
ある日の帰り道友達がふざけて弟の帽子を引っ張ったら
ぼんぼりが千切れてしまって弟が大泣きになったことがある。
私はそのぼんぼりを手のひらに包み込むようにして家に帰った。
その夜、母がぼんぼりを付け直してくれたことを憶えている。
弟の白い帽子。私の帽子は何色だったのだろう。
それがどうしても思い出せない。なぜ忘れてしまったのだろう。
母もきっと忘れていることだろう。もしかしたら編んだことさえも。
子供の頃の記憶はとても曖昧で断片的でもある。
よほど印象深い事ではない限り憶えていない事の方が多い。
今は孫たちとふれあいながらの日々にあって
些細なことなどあっても忘れられてしまうかなと思うと
ふっとせつなさが込み上げて来る時がある。
小春日和にほっとしていたけれど午後3時頃突然の時雨。
大気がよほど不安定だったのだろう。
これから真冬になると時雨が雪に変わることもある。
もうそんな季節になったのかとつくづくと冬を感じた。
帰宅するとじいちゃんが「銀行から電話があったぞ」と言う。
それは昨日で住宅ローンが完済になった知らせだった。
30年もの長い間のことで大変だったけれどやっと肩の荷が下りた。
「よく頑張ったよね」と二人で頷きあいながら労い合う。
30年前。蓄えなど全くなく頭金も無いまま建てた家だった。
母屋の老朽が酷く雨漏りがするので瓦を吹き替えたいと
姑さんがその資金を用意するようにと言って来たのだった。
まるでそれが長男の務めだと言わんばかりの口ぶりであった。
貧乏のどん底で家族4人がやっと食べていけるような暮し。
百万円と言われても借金をするしか術が無かったのは言うまでもない。
散々悩んだあげくどうせ借金をするのならと決めたのは
古い母屋を取り壊し新築の家を建てることだった。
それにしても銀行が易々とお金を貸してくれるだろうか。
それは危惧に終わり住宅ローンの手続きはあっという間に整う。
土地と家を担保にすれば簡単に貸してくれたのだった。
その時には後のローン地獄の事など考えてもいなかった。
「なんとかなるだろう」私も夫もまだ若かったせいもある。
母屋から姑さんと義妹を追い出すわけにもいかず
同居を提案したのは他ならず私であった。
新居の設計図には姑さんの部屋と義妹の部屋がしっかりとあった。
私が浅はかだったのはローンの手助けを期待していたこと。
少しぐらいは助けてくれるだろうと安気に考えていたのだった。
しかし現実はそれに反し全く援助はなかったのだ。
おまけに家族は6人となりたちまち生活費に困るようになる。
長男だから親を養うのは当たり前のことだったのだろう。
義妹はさすがに気を遣ったのか食費として月々2万円をくれた。
新築の家は住み心地は良かったけれど家族間の摩擦も多く
決して快適な暮しとは言えなかったと思う。
私も日に日に募るストレスに押しつぶされそうだった。
姑さん達もきっと同じ気持ちだったのだろう。
結局また別居を言い出してくれた時は正直ほっとしたものだった。
それでもローン地獄は続くばかり。
幸い青さ海苔の収入があったのでなんとかなったけれど
それが無かったら土地も家も失っていたことだろう。
やっと解放されたのか。今夜は感慨深い夜になった。
もう苦しまなくていい。もう嘆かなくてもいい。
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