ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2021年11月15日(月) 打たれ強い

日中の気温が20℃を超えぽかぽかと暖かい。

まさに小春日和とよぶのにふさわしい一日だった。

職場の近くの銀杏の木がすっかり黄金色になる。

今週いっぱいが見頃なのではないだろうか。

葉が散り始めたらそれはあっと言う間のこと。

はらはらと儚いそのさまが目に浮かぶようだ。



帰宅したら昨日の合評会で会ったEさんからメールが届いていた。

私の詩があまりにも罵倒されたものだから

他人事ではないと気遣ってくれたようでありがたいこと。

けれども私は打たれ強いのかめげてもおらず傷ついてもいない。

むしろ励まされたことを伝えなければいけないと思う。

長い返信になりそうなので取り急ぎ明日返信する旨だけを伝えた。


Eさんはまだ30代の若さで前途有望な詩人である。

詩を学ぼうとする姿勢が半端じゃない。

この先きっと高知をいや日本を代表するような詩人になると思う。

それだけの可能性を秘めており私には眩しいくらいの存在である。


若さを妬み老いを嘆く。そんな気持ちは少しもなかった。

私には与えられた道がきっとあるのだろうと信じてやまない。

それは生きてみないとわからない。私にも未来があるのだと思う。


ひとは打たれれば打たれるほど強くなる。

負けてたまるかと思えば不思議と勇気が湧いてくるものだ。



2021年11月14日(日) 列車に揺られて

曇り日。薄陽が射してくれたおかげで日中は暖かくなる。


今日は何年ぶりだろうか列車で高知市へ行っていた。

お世話になっている同人誌の合評会に参加するためだった。

先日のDさんとのやり取りもあり一度は会ってみたい。

そんな気持ちもあり決心したのだけれど

まるで血統書付きの犬の品評会にのこのこと出掛ける

雑種の野良犬なのではないかと自分を見下す気持ちもあった。

けれどもなんと和気あいあいと楽しかったことだろう。

帰りの列車の時刻が迫り途中で抜ければならず残念であった。


Dさんが私の詩をとことんけなす理由も分かった気がする。

きっと可能性を信じてくれているのだろう。

同人の皆さんの励ましもとても心強く嬉しかった。

私は70歳よ。私なんか73歳よと女性陣はみな口々に言う。

私も諦めるつもりはない。命がけで立ち向かっていきたい。

いつかきっと辿り着く場所があるのに違いないのだ。




合評会が始まる前に一時間程時間があったので

弟に連絡し亡き父の遺骨に会いに行っていた。

明日が命日。もう18年の歳月が流れたことになる。

未だにお墓は作ってあげられずにいるけれど

父の魂は安らかに眠っているのだと信じてやまない。

ひ孫も4歳になり可愛い盛り。明日あたり二人目のひ孫も誕生する。

賑やかな弟の家で父もきっと微笑んでいることだろう。


今日はとても佳き日でした。ありがとうございました。





2021年11月13日(土) 寿司日記

朝の寒さが更新されまた今季一番の冷え込み。

ぬくぬくのお布団が名残惜しいこと。

えいやあと起き出しすぐにちゃんちゃんこを羽織る。


朝のうちに頂き物の直七と柚子を絞る。

台所だけでなく家中にその香りが漂っていた。

手や身体にも移り香を残しなんとも清々しい気持ち。

柑橘系の香というものは癒しの効果もあるようだった。


高知の「田舎寿司」には必ず柚子酢が使われていてとても美味しい。

昔の山間部では新鮮な魚が手に入らなかったこともあり

椎茸や蒟蒻、リュウキュウや筍のお寿司が作られていた。

それは今でも食べることが出来て山間部の道の駅などで売られている。

私は特にリュウキュウと筍のお寿司が大好物である。


食べるたびに懐かしさを感じるのは子供の頃の記憶だろうか。

それも曖昧な記憶でいったい誰が作ってくれたのか憶えていない。

母だったのかもしれないし父方の祖母だったような気もする。

父方の祖母の家では柚子を栽培していたような記憶があるのだった。

柚子で有名な馬路村の近くだったからそれはあり得る話でもある。


見よう見真似で田舎寿司を作ることも出来ないではないだろうが

未だ一度も挑戦したことなどない私であった。

その代わり「鰹のひっつけ寿司」はよく作る。

これは嫁いでから姑さんに教わったもので云わば我が家のお寿司だった。

山間部とは違って新鮮な鰹が手に入りやすいこともある。

鰹だけではなく鰤のひっつけ寿司もなかなかに美味しいものである。


なんだ今夜は寿司日記かと苦笑いしておられる方もいるだろう。

つまらない日記に毎晩つきあって頂き感謝しかない。



あやちゃんとめいちゃんがお風呂から出たようだ。

新しいパジャマにはまだ一度も袖を通してくれない。



2021年11月12日(金) 白い帽子

朝の最低気温が一桁の日が続いている。

やがては真冬並みの寒さが襲って来ることだろう。

少しずつ慣れていかなければいけない。

それにしてもいつからこんなに冬が苦手になってしまったのか。



子供の頃編み物が得意だった母が毛糸の帽子を編んでくれたことがある。

山間部の冬は平野部よりもずっと寒さが厳しくて

その帽子が嬉しく霜柱を踏みながら学校へ通ったものだった。

弟はまだ保育園児だったのではなかっただろうか。

確か白い帽子だった。尻尾のように長い帽子でぼんぼりが付いていた。


ある日の帰り道友達がふざけて弟の帽子を引っ張ったら

ぼんぼりが千切れてしまって弟が大泣きになったことがある。

私はそのぼんぼりを手のひらに包み込むようにして家に帰った。


その夜、母がぼんぼりを付け直してくれたことを憶えている。

弟の白い帽子。私の帽子は何色だったのだろう。

それがどうしても思い出せない。なぜ忘れてしまったのだろう。

母もきっと忘れていることだろう。もしかしたら編んだことさえも。


子供の頃の記憶はとても曖昧で断片的でもある。

よほど印象深い事ではない限り憶えていない事の方が多い。


今は孫たちとふれあいながらの日々にあって

些細なことなどあっても忘れられてしまうかなと思うと

ふっとせつなさが込み上げて来る時がある。





2021年11月11日(木) 乗り越えた日に

小春日和にほっとしていたけれど午後3時頃突然の時雨。

大気がよほど不安定だったのだろう。

これから真冬になると時雨が雪に変わることもある。

もうそんな季節になったのかとつくづくと冬を感じた。



帰宅するとじいちゃんが「銀行から電話があったぞ」と言う。

それは昨日で住宅ローンが完済になった知らせだった。

30年もの長い間のことで大変だったけれどやっと肩の荷が下りた。

「よく頑張ったよね」と二人で頷きあいながら労い合う。


30年前。蓄えなど全くなく頭金も無いまま建てた家だった。

母屋の老朽が酷く雨漏りがするので瓦を吹き替えたいと

姑さんがその資金を用意するようにと言って来たのだった。

まるでそれが長男の務めだと言わんばかりの口ぶりであった。

貧乏のどん底で家族4人がやっと食べていけるような暮し。

百万円と言われても借金をするしか術が無かったのは言うまでもない。

散々悩んだあげくどうせ借金をするのならと決めたのは

古い母屋を取り壊し新築の家を建てることだった。

それにしても銀行が易々とお金を貸してくれるだろうか。

それは危惧に終わり住宅ローンの手続きはあっという間に整う。

土地と家を担保にすれば簡単に貸してくれたのだった。

その時には後のローン地獄の事など考えてもいなかった。

「なんとかなるだろう」私も夫もまだ若かったせいもある。


母屋から姑さんと義妹を追い出すわけにもいかず

同居を提案したのは他ならず私であった。

新居の設計図には姑さんの部屋と義妹の部屋がしっかりとあった。

私が浅はかだったのはローンの手助けを期待していたこと。

少しぐらいは助けてくれるだろうと安気に考えていたのだった。


しかし現実はそれに反し全く援助はなかったのだ。

おまけに家族は6人となりたちまち生活費に困るようになる。

長男だから親を養うのは当たり前のことだったのだろう。

義妹はさすがに気を遣ったのか食費として月々2万円をくれた。


新築の家は住み心地は良かったけれど家族間の摩擦も多く

決して快適な暮しとは言えなかったと思う。

私も日に日に募るストレスに押しつぶされそうだった。

姑さん達もきっと同じ気持ちだったのだろう。

結局また別居を言い出してくれた時は正直ほっとしたものだった。


それでもローン地獄は続くばかり。

幸い青さ海苔の収入があったのでなんとかなったけれど

それが無かったら土地も家も失っていたことだろう。


やっと解放されたのか。今夜は感慨深い夜になった。

もう苦しまなくていい。もう嘆かなくてもいい。



2021年11月10日(水) 私の自慰行為

今朝は今季いちばんの冷え込みとなる。

まだまだ序の口の寒さだろうけれど老いた身には堪えた。


職場で電気系統のトラブルがありしばし停電。

エアコンはもちろんのこと事務所の電灯も点かず

仕方なく2時間程車中に籠り待機していた。

おかげで本を読むことが出来て良かったのかもしれない。



帰宅後、お世話になっている同人誌から返礼集が届いていた。

その中に代表者のDさんからの一筆箋の手紙が入っていて

「詩はやめて短歌だけにしませんか」と書いてあった。

覚悟はしていたけれどしっかりと話し合いたくてすぐに電話する。


Dさんいわく。私の詩はもはや詩とは呼べないのだそう。

特に今号の詩はあきれるほどの愚作だったらしい。

散々に罵倒されたけれどもなぜかそれがとても心地よかったのだ。

元々自信などない。それこそが真実だったのだと思い知る。

一から詩を学び直すようにと言われた。

他人の書いた詩をもっともっと読むようにと強く勧められる。


もうすぐ65歳だと告げてもまだ遅くないと言う。

70歳になっても80歳になっても詩は書けるのだそう。


かくして私は大きな壁にぶち当たった。

傷だらけになってもあがきながら詩を見つめ直さなければいけない。

自己満足で終るのは自慰行為に等しい。

それは他人様に決して晒してはいけない行為なのだ。


Dさんとの会話から大きな課題を頂いたように思う。

私にとっては命がけの命題なのかもしれないけれど

「この世に生きて来た証を残す必要はない」とDさんは言う。

死んだらすべてお終い。死後の事など知るすべもないと。


この日記もそう。私の死後も永遠に残るはずなどないと思う。

限りの無い事などこの世には皆無なのだ。


生きることに執着するのはもうよそう。

ただ私は最後まであがく。どれほど無様でも生き抜いて見せよう。



2021年11月09日(火) 詩を諦めるなよ

最高気温が16℃ほど。陽射しも少なく肌寒い一日。

職場の近くの銀杏の木がずいぶんと色づく。

渓谷などの紅葉もそろそろ見頃なのではないだろうか。

毎年の事だけれどまたぶらりと行ってみたいものだ。



定時で仕事が終えられたので市立図書館へ寄っていた。

4冊返却してまた4冊借りる。

訊けば文庫本のコーナーもちゃんとあった。

大勢の人が読んだのだろうかなり傷んだ本が目立つ。

それでも未読の本を見つけると手に取らずにはいられない。


市立図書館は今は市役所の二階にあるのだけれど

新庁舎になる前は市役所とは別棟にひっそりと建っていた。

昔、かれこれ30年近く前になるだろうか

その図書館にYさんという司書の人がいて懇意にしていた。

詩の同人誌を紹介してくれたのもYさんでとても親身になってくれた。

土佐は「遠流の地」その同人誌は「ONL」と言った。

最初はわずか3人で始めた詩誌だったけれど次第にメンバーが増え

私はなんとなく居づらくなり辞めることを選んだのだった。

その時の辞め方はまるで後ろ足で砂をかけるような有り様。

もう二度と戻れはしないと覚悟の上での事であった。


Yさんはその時も親身になってくれてとにかく諦めてはいけないと

詩を書き続けるようにと言ってくれてどんなに救われた事だろう。

私はその後「潮流詩派」「SPCAE」を経て今に至る。


Yさんが定年退職を迎え実家のある高知市に帰る事になった。

年の離れた兄のようでもあり父親のようにも思っていただけに

その別れのなんと辛かったことだろう。


けれどもその後は手紙のやり取りが出来るようになり

いつも長い手紙が届き私も長い手紙を書いた。

10年位そんな文通が続いただろうか

ある日の手紙に「もう二度と手紙を出してくれるな」と

まるで寝耳に水のような事が書き記されていたのだった。

理由はもう高齢であるはずの奥様が誤解しているらしいとあった。

男だとか女だとか思ったことなど一度もなかったはずなのに。

悋気とはなんと残酷な仕打ちをするのだろうと悲しかった。


それ以来音信不通になる。今は健在なのかも分からなくなった。

「詩を諦めるなよ」その言葉だけが今も私の胸を打ち続けている。





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