今朝は今季いちばんの冷え込みとなる。
まだまだ序の口の寒さだろうけれど老いた身には堪えた。
職場で電気系統のトラブルがありしばし停電。
エアコンはもちろんのこと事務所の電灯も点かず
仕方なく2時間程車中に籠り待機していた。
おかげで本を読むことが出来て良かったのかもしれない。
帰宅後、お世話になっている同人誌から返礼集が届いていた。
その中に代表者のDさんからの一筆箋の手紙が入っていて
「詩はやめて短歌だけにしませんか」と書いてあった。
覚悟はしていたけれどしっかりと話し合いたくてすぐに電話する。
Dさんいわく。私の詩はもはや詩とは呼べないのだそう。
特に今号の詩はあきれるほどの愚作だったらしい。
散々に罵倒されたけれどもなぜかそれがとても心地よかったのだ。
元々自信などない。それこそが真実だったのだと思い知る。
一から詩を学び直すようにと言われた。
他人の書いた詩をもっともっと読むようにと強く勧められる。
もうすぐ65歳だと告げてもまだ遅くないと言う。
70歳になっても80歳になっても詩は書けるのだそう。
かくして私は大きな壁にぶち当たった。
傷だらけになってもあがきながら詩を見つめ直さなければいけない。
自己満足で終るのは自慰行為に等しい。
それは他人様に決して晒してはいけない行為なのだ。
Dさんとの会話から大きな課題を頂いたように思う。
私にとっては命がけの命題なのかもしれないけれど
「この世に生きて来た証を残す必要はない」とDさんは言う。
死んだらすべてお終い。死後の事など知るすべもないと。
この日記もそう。私の死後も永遠に残るはずなどないと思う。
限りの無い事などこの世には皆無なのだ。
生きることに執着するのはもうよそう。
ただ私は最後まであがく。どれほど無様でも生き抜いて見せよう。
最高気温が16℃ほど。陽射しも少なく肌寒い一日。
職場の近くの銀杏の木がずいぶんと色づく。
渓谷などの紅葉もそろそろ見頃なのではないだろうか。
毎年の事だけれどまたぶらりと行ってみたいものだ。
定時で仕事が終えられたので市立図書館へ寄っていた。
4冊返却してまた4冊借りる。
訊けば文庫本のコーナーもちゃんとあった。
大勢の人が読んだのだろうかなり傷んだ本が目立つ。
それでも未読の本を見つけると手に取らずにはいられない。
市立図書館は今は市役所の二階にあるのだけれど
新庁舎になる前は市役所とは別棟にひっそりと建っていた。
昔、かれこれ30年近く前になるだろうか
その図書館にYさんという司書の人がいて懇意にしていた。
詩の同人誌を紹介してくれたのもYさんでとても親身になってくれた。
土佐は「遠流の地」その同人誌は「ONL」と言った。
最初はわずか3人で始めた詩誌だったけれど次第にメンバーが増え
私はなんとなく居づらくなり辞めることを選んだのだった。
その時の辞め方はまるで後ろ足で砂をかけるような有り様。
もう二度と戻れはしないと覚悟の上での事であった。
Yさんはその時も親身になってくれてとにかく諦めてはいけないと
詩を書き続けるようにと言ってくれてどんなに救われた事だろう。
私はその後「潮流詩派」「SPCAE」を経て今に至る。
Yさんが定年退職を迎え実家のある高知市に帰る事になった。
年の離れた兄のようでもあり父親のようにも思っていただけに
その別れのなんと辛かったことだろう。
けれどもその後は手紙のやり取りが出来るようになり
いつも長い手紙が届き私も長い手紙を書いた。
10年位そんな文通が続いただろうか
ある日の手紙に「もう二度と手紙を出してくれるな」と
まるで寝耳に水のような事が書き記されていたのだった。
理由はもう高齢であるはずの奥様が誤解しているらしいとあった。
男だとか女だとか思ったことなど一度もなかったはずなのに。
悋気とはなんと残酷な仕打ちをするのだろうと悲しかった。
それ以来音信不通になる。今は健在なのかも分からなくなった。
「詩を諦めるなよ」その言葉だけが今も私の胸を打ち続けている。
曇り時々雨の予報だったけれど思いがけずに荒天となる。
風が強く時おりまるで嵐のように強い雨が降った。
冬が押し寄せて来ているのかもしれない。
それはとても激しく手加減などしそうにもなかった。
今夜は暖かいけれどお湯で食器を洗う。
蛇口を捻るだけでお湯が出る。なんと便利になったことか。
昔はガスの瞬間湯沸かし器が主流だったけれど
贅沢品でもあり何処の家にもあるとは限らなかったと思う。
私が子供の頃もそれはなく母はいつも冷たい水で洗っていた。
それが当たり前の時代だったのだ。
高校一年生の初冬だったと記憶している。
父が「毎日冷たいだろう」と言って瞬間湯沸かし器を買ってくれた。
台所にそれが備わった時のなんと嬉しかったことだろう。
試験運転だと言って何度もお湯を出してみたことを憶えている。
食器を洗うのが楽しくてならない。そしてひたすら父に感謝する。
ある夜のこと思いがけない悲劇が起きた。
湯沸かし器のスイッチを入れるなり悲鳴のような声が聴こえたのだ。
最初はいったい何が起きたのか分からなかった。
すると湯沸かし器の上部からすでに焼け焦げた鼠が飛び出して来たのだ。
私は元々鼠が苦手だったけれどこの時にはさすがにショックで
台所にうずくまっておいおいと声をあげて泣いたことを憶えている。
私が泣き叫ぶのを聞いて父が駆けつけて来た。
「大丈夫、死んじゃいない」と言ってくれたけれど
私は殺したと思った。大変な罪を犯したのだと思ったのだった。
その夜は眠れず「魂に捧ぐ」そんな詩を書いたような気がする。
そんな事があると嬉しいはずの湯沸かし器も怖くなり
スイッチを入れるたびにしばらくは臆病にならずにいられなかった。
今思えば笑い話のような事だけれど
思春期の感受性の強い年頃だったのだろう。
「ネズミヲコロシタ」としばらくその罪に苛まれていた。
遠い昔のことだ。今は誰も責めようとはしない。
晴れのち曇り。夕方から雨がぽつぽつと降り始める。
立冬にしては暖かい一日だったけれど
この雨が上がれば一気に初冬らしくなりそうだ。
午前中に市の津波避難訓練があり参加していた。
けたたましいサイレンの音。「大津波です」と叫ぶ声。
訓練だと分かっていても緊張が走る。
高台の避難所をめがけて歩くのだけれど
困ったことに足が酷く痛みとても難儀だった。
実際に津波が襲ってきたら逃げ遅れてしまうかもしれない。
それとも火事場の馬鹿力で走ることが出来るのだろうか。
股関節の痛みはどうやら遺伝のようで
父方の祖母が足の悪いひとだった。
私が物心ついた頃から杖を突いていたと記憶している。
父の妹にあたる叔母も同じで杖が欠かせないよう。
もう何年も会ってはいないけれど祖母の姿が重なるのではないだろうか。
私もいずれは杖に頼らねばならないのだろう。
今日でさえ杖が欲しいと思ったくらいだった。
まだまだ先の事とは思うけれど覚悟をしておいた方が良いだろう。
来月で65歳になる。後10年が勝負なのではないかと思う。
勝つか負けるか生きるか死ぬか。出来れば勝ちたいそして生きたい。
ここ数日、日常の事から離れ回想記のようなものを書いて来た。
まだまだ書き足らない気持ちがあるけれど今夜は小休止としよう。
自分が生きて来た歴史と言うには大げさになるけれど
ささやかな軌跡になればと願ってやまない。
今こうして自分が在るのは過去があってこその事と思うし
それこそがこれからの糧にもなり得るのではないだろうか。
ひとは死ぬために生まれて来るのだそう。
ならばいかにして生きて来たかをこの世に残しておかねばならない。
最近そのことばかりに拘っている自分がいる。
今日を生きた。明日のことなど誰に分かるのだろうか。
曇り日。薄陽が射すこともなく肌寒い一日だった。
漁協からやっと連絡があり少しだけ種付けが出来たとのこと。
朝のうちに漁場に種網を張りに行っていた。
今後海苔の胞子が出る可能性は極めて低く
15日までに出なければもう中止にするのだそうだ。
仕方ない事だけれどやはり戸惑う気持ちが大きい。
昔は「地種」と言って網さえ張っておけば天然の胞子が付いた。
愛媛の岩松町の種が良質で長いことお世話になっていたけれど
それも自然相手の事で今は絶滅と聞いている。
四万十川もそうだけれど水質の変化が原因だろうと思う。
姑さんから青さ海苔漁を一切任されたのはいつ頃だったろうか。
子供達はもう小学生になっていたように記憶している。
家計の苦しさに耐え兼ね夫は再就職をしていた。
私も近くの縫製工場に勤めるようになっていたのだった。
それでは青さ海苔の収穫など手の回らないのが当然のこと。
私はほんの一年半ほどで退職しなければならなかった。
姑さんの手など絶対に借りるものかと意地になっていたようにも思う。
日曜日には夫が助けてくれたけれど平日は一人で頑張る。
もちろん川船には乗れないから軽トラックで漁場に行っていた。
河川敷から大きな盥を引っ張ってせっせと収穫をする。
盥がいっぱいになったら沈めないように気をつけながら
また河川敷まで行き籠に移すのだった。
その籠を軽トラックに積み込むのが最も辛い仕事だった。
けれども若さのせいもあったのだろうそれを難なくやり遂げる。
作業場まで戻ったら海苔の洗浄。洗い機はミキサーのような機械で
当時長い髪だった私はうっかりそのミキサーに髪を巻き込んだのだ。
思わず悲鳴をあげるほどの痛み。やっとの思いで洗い機の電源を切った。
その日の事はそれ以上の記憶がないのだけれど
天日干しまでの作業を最後までやり遂げていたようだった。
記憶が前後し曖昧なところもあるのだけれど
姑さんと二人で青さ海苔漁に行ったことも確かにあった。
雪が降っていたのでよく憶えている。
あまりの雪に姑さんが「もうやめて帰ろうよ」と言ったのだった。
その時私は「まだまだやるよ」と強気な発言をした。
その時一瞬だけれど姑さんに勝ったような優越感を感じたのだった。
どんなに頑張っても家計は楽にならなかった。
今こそブランド品だけれど当時はまだブランド化されておらず
驚くような安値で取引されていたのだった。
それでも無いよりはまし。身を粉にして働くしかないと思っていた。
家業を捨てる訳にはいかない。その思いだけは今も残っている。
連日穏やかな秋晴れの日が続いている。
立冬も目前となり身構えるような気持ちになるけれど
冬ならではの楽しみもきっとあることだろう。
くよくよと不安がらずに立ち向かって行きたいものだ。
今は焚火をすることもなくなったけれど
昔は落ち葉焚きなどよくしたものだった。
それは子供の頃の話でずいぶんと遠い日のこと。
おとなになり嫁いでからは河川敷でよく焚火をした。
冬の青海苔漁で冷たくかじかんだ手や足をその火で温めたものだ。
アルミホイルで包んださつま芋を入れておくとほくほくの焼き芋に。
幼い子供達はそれが好きでとても楽しみにしていた。
寒いからと家で遊ばす訳にはいかない。
まさに「家族総出」で小雪の舞う日も河川敷で遊んでいたのだった。
今思えば親の苦労を子供心に感じていたのであろう。
「おうちへかえりたい」とは一言も言わなかったのだ。
昭和57年の10月にお舅さんが癌で亡くなり
夫は30歳で勤めていた会社を辞め家業を継ぐことになった。
正確には亡くなる数ヵ月前にすでに辞めており
お舅さんが「おらにも跡取りが出来たけん死ぬかもしれんな」と
その時は笑い話でほんの冗談だったのだけれど
まさかその数ヶ月後に本当に亡くなるなどと誰が思ったことだろう。
跡取りとしての修業なども十分ではなかったはずだけれど
夫は見よう見真似でもほんとうによく頑張ったと思う。
冬の青海苔漁も母親と一緒に川船に乗り大漁の日も多かった。
青海苔は船に取り付けた大きな籠で川の水で洗うのだけれど
姑の手捌きは熟練しておりそれは見事だった。
ゆっさゆっさと緑の青海苔がまるで人の髪のように水面に揺れる。
それを夫が河川敷まで運び込み私は綱に掛けて干すのが仕事だった。
3歳の息子は走り回っていたけれど娘は背中におんぶしており
まだ布おむつの頃で尿漏れがすれば背中はしっとりと濡れる。
とにかく大急ぎで干さねばならなくておむつを替える時間もなかった。
焚火で娘のお尻を温めたこともある。おむつかぶれで真っ赤になっていた。
私もまだ若い母親だったので何の因果でこんなことをと
ついつい嘆きそうになる時もあったけれど
それはすべて「食べていくため」の試練だったのだと今は思う。
毎月決まった収入が途絶えたからには身を粉にして働くしかない。
しかし青海苔漁の収入は姑さんと折半で半分しか手に入らなかった。
そのおかげで貧乏に慣れたのだからありがたいことだったのだろう。
思い出すのはあの暖かな焚火。河川敷にはいくらでも燃やせる
流木や木屑がそれはたくさんあったのだ。
息子も拾って来た。「おかあさんぬくいね」その声が懐かしい。
最高気温が22℃ほど。まさに適温と言うべきだろう
一年中こんな気温ならどんなに過ごしやすいことか。
けれども冬の寒さあってこそ春の喜びがあるのだと思う。
春夏秋冬。日本の四季はなくてはならないものなのだ。
川漁師の家に嫁いで42年目の秋が終わろうとしている。
初冬から真冬にかけては天然の青海苔漁。
今ではもう幻となってしまった青海苔がそれは沢山獲れた。
猫の手も借りたいほどの忙しさで私も手伝ったけれど
すでに長男を身籠っておりおまけに慣れない仕事とあって
嫁という立場がこれほど恨めしく思ったことはなかった。
けれども逃げ出すわけにはいかない。郷に入れば郷に従え。
姑の手解きを受けながら次第に慣れて来たように思う。
春の兆しが見え始めれば今度は青さ海苔漁。
舅と姑が収穫して来た青さ海苔を天日干しにしなければならない。
当時は竹で編んだ「えびら」という四角い枠に干していた。
まだ乾燥機は無く雨が降り続いたりしたら忽ち腐ってしまう。
仕方なく捨ててしまったこともあったように記憶している。
無事に天日干しが完了した海苔の異物を取り除く作業もあった。
異物の多いものほど私に任されてなんと根気の要る作業だったか。
臨月も近くなれば立ち仕事も辛くお腹が張り痛む時もあった。
6月無事に長男を出産。とにかくひと月は安静にと言ってもらえる。
姑いわく。出産後の嫁を働かすのは家の恥になるのだそう。
幸い夏場は漁閑期で舅は柴漬け漁で川海老や鰻を獲っていた。
川海老と胡瓜の煮たのなど生まれて初めて食べる美味であった。
鰻は市場に出していたらしくとても貴重な財源だったらしい。
秋になればツガニ漁。これは私の出番がなく
ひたすら育児に専念出来たのだった。
ツガニはモクズ蟹とも呼ばれ上海蟹の味とよく似ているのだそう。
上海蟹などもちろん食べたことなどなかったけれど
ツガニを初めて食べた時の感動は未だに忘れられない。
特に美味しかったのは姑の作る「ふわふわ汁」であった。
石臼でツガニを細かく砕いて醤油味の汁に仕立てるのだけれど
蟹の身が寄せ集まってまさにふわふわの食感であった。
青海苔のふりかけ。青さ海苔のかき揚げ。川海老にツガニ。
春夏秋冬の川の恵みにどれほど舌鼓を打ったことだろう。
辛い事もたくさんあったけれど今思えば些細なこと。
それよりも縁あって嫁げたことが何よりの幸せだったと思う。
四万十川の上流で生まれた私は下流まで流れついて来た。
きっとそれは生まれながらの運命だったのだろうと今は思う。
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