曇り時々雨の予報だったけれど思いがけずに荒天となる。
風が強く時おりまるで嵐のように強い雨が降った。
冬が押し寄せて来ているのかもしれない。
それはとても激しく手加減などしそうにもなかった。
今夜は暖かいけれどお湯で食器を洗う。
蛇口を捻るだけでお湯が出る。なんと便利になったことか。
昔はガスの瞬間湯沸かし器が主流だったけれど
贅沢品でもあり何処の家にもあるとは限らなかったと思う。
私が子供の頃もそれはなく母はいつも冷たい水で洗っていた。
それが当たり前の時代だったのだ。
高校一年生の初冬だったと記憶している。
父が「毎日冷たいだろう」と言って瞬間湯沸かし器を買ってくれた。
台所にそれが備わった時のなんと嬉しかったことだろう。
試験運転だと言って何度もお湯を出してみたことを憶えている。
食器を洗うのが楽しくてならない。そしてひたすら父に感謝する。
ある夜のこと思いがけない悲劇が起きた。
湯沸かし器のスイッチを入れるなり悲鳴のような声が聴こえたのだ。
最初はいったい何が起きたのか分からなかった。
すると湯沸かし器の上部からすでに焼け焦げた鼠が飛び出して来たのだ。
私は元々鼠が苦手だったけれどこの時にはさすがにショックで
台所にうずくまっておいおいと声をあげて泣いたことを憶えている。
私が泣き叫ぶのを聞いて父が駆けつけて来た。
「大丈夫、死んじゃいない」と言ってくれたけれど
私は殺したと思った。大変な罪を犯したのだと思ったのだった。
その夜は眠れず「魂に捧ぐ」そんな詩を書いたような気がする。
そんな事があると嬉しいはずの湯沸かし器も怖くなり
スイッチを入れるたびにしばらくは臆病にならずにいられなかった。
今思えば笑い話のような事だけれど
思春期の感受性の強い年頃だったのだろう。
「ネズミヲコロシタ」としばらくその罪に苛まれていた。
遠い昔のことだ。今は誰も責めようとはしない。
晴れのち曇り。夕方から雨がぽつぽつと降り始める。
立冬にしては暖かい一日だったけれど
この雨が上がれば一気に初冬らしくなりそうだ。
午前中に市の津波避難訓練があり参加していた。
けたたましいサイレンの音。「大津波です」と叫ぶ声。
訓練だと分かっていても緊張が走る。
高台の避難所をめがけて歩くのだけれど
困ったことに足が酷く痛みとても難儀だった。
実際に津波が襲ってきたら逃げ遅れてしまうかもしれない。
それとも火事場の馬鹿力で走ることが出来るのだろうか。
股関節の痛みはどうやら遺伝のようで
父方の祖母が足の悪いひとだった。
私が物心ついた頃から杖を突いていたと記憶している。
父の妹にあたる叔母も同じで杖が欠かせないよう。
もう何年も会ってはいないけれど祖母の姿が重なるのではないだろうか。
私もいずれは杖に頼らねばならないのだろう。
今日でさえ杖が欲しいと思ったくらいだった。
まだまだ先の事とは思うけれど覚悟をしておいた方が良いだろう。
来月で65歳になる。後10年が勝負なのではないかと思う。
勝つか負けるか生きるか死ぬか。出来れば勝ちたいそして生きたい。
ここ数日、日常の事から離れ回想記のようなものを書いて来た。
まだまだ書き足らない気持ちがあるけれど今夜は小休止としよう。
自分が生きて来た歴史と言うには大げさになるけれど
ささやかな軌跡になればと願ってやまない。
今こうして自分が在るのは過去があってこその事と思うし
それこそがこれからの糧にもなり得るのではないだろうか。
ひとは死ぬために生まれて来るのだそう。
ならばいかにして生きて来たかをこの世に残しておかねばならない。
最近そのことばかりに拘っている自分がいる。
今日を生きた。明日のことなど誰に分かるのだろうか。
曇り日。薄陽が射すこともなく肌寒い一日だった。
漁協からやっと連絡があり少しだけ種付けが出来たとのこと。
朝のうちに漁場に種網を張りに行っていた。
今後海苔の胞子が出る可能性は極めて低く
15日までに出なければもう中止にするのだそうだ。
仕方ない事だけれどやはり戸惑う気持ちが大きい。
昔は「地種」と言って網さえ張っておけば天然の胞子が付いた。
愛媛の岩松町の種が良質で長いことお世話になっていたけれど
それも自然相手の事で今は絶滅と聞いている。
四万十川もそうだけれど水質の変化が原因だろうと思う。
姑さんから青さ海苔漁を一切任されたのはいつ頃だったろうか。
子供達はもう小学生になっていたように記憶している。
家計の苦しさに耐え兼ね夫は再就職をしていた。
私も近くの縫製工場に勤めるようになっていたのだった。
それでは青さ海苔の収穫など手の回らないのが当然のこと。
私はほんの一年半ほどで退職しなければならなかった。
姑さんの手など絶対に借りるものかと意地になっていたようにも思う。
日曜日には夫が助けてくれたけれど平日は一人で頑張る。
もちろん川船には乗れないから軽トラックで漁場に行っていた。
河川敷から大きな盥を引っ張ってせっせと収穫をする。
盥がいっぱいになったら沈めないように気をつけながら
また河川敷まで行き籠に移すのだった。
その籠を軽トラックに積み込むのが最も辛い仕事だった。
けれども若さのせいもあったのだろうそれを難なくやり遂げる。
作業場まで戻ったら海苔の洗浄。洗い機はミキサーのような機械で
当時長い髪だった私はうっかりそのミキサーに髪を巻き込んだのだ。
思わず悲鳴をあげるほどの痛み。やっとの思いで洗い機の電源を切った。
その日の事はそれ以上の記憶がないのだけれど
天日干しまでの作業を最後までやり遂げていたようだった。
記憶が前後し曖昧なところもあるのだけれど
姑さんと二人で青さ海苔漁に行ったことも確かにあった。
雪が降っていたのでよく憶えている。
あまりの雪に姑さんが「もうやめて帰ろうよ」と言ったのだった。
その時私は「まだまだやるよ」と強気な発言をした。
その時一瞬だけれど姑さんに勝ったような優越感を感じたのだった。
どんなに頑張っても家計は楽にならなかった。
今こそブランド品だけれど当時はまだブランド化されておらず
驚くような安値で取引されていたのだった。
それでも無いよりはまし。身を粉にして働くしかないと思っていた。
家業を捨てる訳にはいかない。その思いだけは今も残っている。
連日穏やかな秋晴れの日が続いている。
立冬も目前となり身構えるような気持ちになるけれど
冬ならではの楽しみもきっとあることだろう。
くよくよと不安がらずに立ち向かって行きたいものだ。
今は焚火をすることもなくなったけれど
昔は落ち葉焚きなどよくしたものだった。
それは子供の頃の話でずいぶんと遠い日のこと。
おとなになり嫁いでからは河川敷でよく焚火をした。
冬の青海苔漁で冷たくかじかんだ手や足をその火で温めたものだ。
アルミホイルで包んださつま芋を入れておくとほくほくの焼き芋に。
幼い子供達はそれが好きでとても楽しみにしていた。
寒いからと家で遊ばす訳にはいかない。
まさに「家族総出」で小雪の舞う日も河川敷で遊んでいたのだった。
今思えば親の苦労を子供心に感じていたのであろう。
「おうちへかえりたい」とは一言も言わなかったのだ。
昭和57年の10月にお舅さんが癌で亡くなり
夫は30歳で勤めていた会社を辞め家業を継ぐことになった。
正確には亡くなる数ヵ月前にすでに辞めており
お舅さんが「おらにも跡取りが出来たけん死ぬかもしれんな」と
その時は笑い話でほんの冗談だったのだけれど
まさかその数ヶ月後に本当に亡くなるなどと誰が思ったことだろう。
跡取りとしての修業なども十分ではなかったはずだけれど
夫は見よう見真似でもほんとうによく頑張ったと思う。
冬の青海苔漁も母親と一緒に川船に乗り大漁の日も多かった。
青海苔は船に取り付けた大きな籠で川の水で洗うのだけれど
姑の手捌きは熟練しておりそれは見事だった。
ゆっさゆっさと緑の青海苔がまるで人の髪のように水面に揺れる。
それを夫が河川敷まで運び込み私は綱に掛けて干すのが仕事だった。
3歳の息子は走り回っていたけれど娘は背中におんぶしており
まだ布おむつの頃で尿漏れがすれば背中はしっとりと濡れる。
とにかく大急ぎで干さねばならなくておむつを替える時間もなかった。
焚火で娘のお尻を温めたこともある。おむつかぶれで真っ赤になっていた。
私もまだ若い母親だったので何の因果でこんなことをと
ついつい嘆きそうになる時もあったけれど
それはすべて「食べていくため」の試練だったのだと今は思う。
毎月決まった収入が途絶えたからには身を粉にして働くしかない。
しかし青海苔漁の収入は姑さんと折半で半分しか手に入らなかった。
そのおかげで貧乏に慣れたのだからありがたいことだったのだろう。
思い出すのはあの暖かな焚火。河川敷にはいくらでも燃やせる
流木や木屑がそれはたくさんあったのだ。
息子も拾って来た。「おかあさんぬくいね」その声が懐かしい。
最高気温が22℃ほど。まさに適温と言うべきだろう
一年中こんな気温ならどんなに過ごしやすいことか。
けれども冬の寒さあってこそ春の喜びがあるのだと思う。
春夏秋冬。日本の四季はなくてはならないものなのだ。
川漁師の家に嫁いで42年目の秋が終わろうとしている。
初冬から真冬にかけては天然の青海苔漁。
今ではもう幻となってしまった青海苔がそれは沢山獲れた。
猫の手も借りたいほどの忙しさで私も手伝ったけれど
すでに長男を身籠っておりおまけに慣れない仕事とあって
嫁という立場がこれほど恨めしく思ったことはなかった。
けれども逃げ出すわけにはいかない。郷に入れば郷に従え。
姑の手解きを受けながら次第に慣れて来たように思う。
春の兆しが見え始めれば今度は青さ海苔漁。
舅と姑が収穫して来た青さ海苔を天日干しにしなければならない。
当時は竹で編んだ「えびら」という四角い枠に干していた。
まだ乾燥機は無く雨が降り続いたりしたら忽ち腐ってしまう。
仕方なく捨ててしまったこともあったように記憶している。
無事に天日干しが完了した海苔の異物を取り除く作業もあった。
異物の多いものほど私に任されてなんと根気の要る作業だったか。
臨月も近くなれば立ち仕事も辛くお腹が張り痛む時もあった。
6月無事に長男を出産。とにかくひと月は安静にと言ってもらえる。
姑いわく。出産後の嫁を働かすのは家の恥になるのだそう。
幸い夏場は漁閑期で舅は柴漬け漁で川海老や鰻を獲っていた。
川海老と胡瓜の煮たのなど生まれて初めて食べる美味であった。
鰻は市場に出していたらしくとても貴重な財源だったらしい。
秋になればツガニ漁。これは私の出番がなく
ひたすら育児に専念出来たのだった。
ツガニはモクズ蟹とも呼ばれ上海蟹の味とよく似ているのだそう。
上海蟹などもちろん食べたことなどなかったけれど
ツガニを初めて食べた時の感動は未だに忘れられない。
特に美味しかったのは姑の作る「ふわふわ汁」であった。
石臼でツガニを細かく砕いて醤油味の汁に仕立てるのだけれど
蟹の身が寄せ集まってまさにふわふわの食感であった。
青海苔のふりかけ。青さ海苔のかき揚げ。川海老にツガニ。
春夏秋冬の川の恵みにどれほど舌鼓を打ったことだろう。
辛い事もたくさんあったけれど今思えば些細なこと。
それよりも縁あって嫁げたことが何よりの幸せだったと思う。
四万十川の上流で生まれた私は下流まで流れついて来た。
きっとそれは生まれながらの運命だったのだろうと今は思う。
風もなく穏やかな晴天。つい小春日和と言ってしまいたくなるけれど
それは立冬を過ぎてからの言葉なのでまだ使うわけにはいかない。
日本語はむつかしく時に戸惑ってしまう時もあるものだ。
我が家のすぐ裏側の古い家屋が先日から解体されていて
祭日である今日も重機の音が賑やかであった。
持ち主は老人施設に入居しておりもう帰ることもないのだろう。
大きな地震でもくれば潰れてしまいそうな古い家で
解体も致し方なかったのだろうと察せられる。
今日はとうとう庭にそびえていた大きな柿の木が伐採される。
今年は柿の裏年らしく殆ど実をつけてはいなかったけれど
春から夏にかけてそれは鮮やかな葉の緑がとても美しかった。
柿の実がなれば我が家の二階から手を伸ばしたくなるほど
まるで我が家の柿の木のように思っていつも眺めていたものだった。
そんな愛着のあった木があっという間に無くなってしまったのだ。
寂しさは勿論のことだけれどいささかショックな一日となる。
柿の木だけは残して欲しかったと言える筋合いではないのだけれど。
我が家も築30年となり昔の母屋を解体し新築した家だけれど
その古い母屋があった頃から裏の柿の木があったと記憶している。
家を新築する時に裏の土地を買ってくれないかと話があったけれど
とてもそんな予算はなく諦めざるを得なかった事情がある。
あの時に無理をしてでも手に入れていれば良かったと悔やまれる。
そうすれば柿の木は我が家の木となり守ってあげられた事だろう。
私は木を伐るという行為そのものにかなりの抵抗感があるらしく
邪魔だから伐るというのにはどうしても納得がいかない。
まして美味しい実をつける木になんの罪があるのだろうと思う。
木にも命がある。おそらく百年近く生きていたのではないだろうか。
残念ながら我が家の柿の木ではなかったけれど
我が家の歴史をそっと見守ってくれていた木ではなかったろうか。
おおむね晴れ。夏日に近い気温になりぽかぽかと暖かい一日だった。
金木犀の花が満開になりそよ吹く風の中にその香りが漂う。
職場の庭の片隅にその木があったことをすっかり忘れていて
今日になり思い出す。ずっと昔に母が植えていたのだろう。
まるで「ここにいますよ」とおしえてくれたようだった。
大根の間引き菜。里芋。さつま芋。季節ならではの旬の物を
ご近所さんが届けてくれてありがたく頂いているこの頃。
さつま芋には少し苦い思い出があった。
さっさと忘れてしまえば良いのにいつまでも忘れられない。
確か40年ほど前の初冬の頃ではなかっただろうか。
私達家族が住んでいた離れにも新しい台所が出来て
もう母屋での食事の支度からは解放されていたのだった。
それでも貰い風呂をするからにはお風呂焚きをしなければならず
いつものように4時頃母屋に行った時だったと思う。
姑さんの自転車の籠にそれは沢山のさつま芋を見つけたのだった。
その時「今夜はお芋の天ぷらをしよう」と思ったのだ。
姑さんは留守だったので黙ってその一個を頂いてしまった。
その夜のこと貰い風呂に行ったら姑さんの機嫌が頗る悪く
私に向かって「芋を取ったのはおまえか!」と言うのだった。
正直に頷くと「欲しかったらどうして言わない!」と大きな声で怒鳴る。
まるで私のことを芋泥棒のように言うのであった。
私は一個ぐらいと一瞬思ったのだけれど返す言葉も見つからない。
気がつけば泣きながら謝っていた。それでなんとか赦してもらう。
そのさつま芋は種芋にするのに地区の農家から分けてもらったのだそう。
その時しっかりと数をよんでいたらしい。
だから一個足りない事にすぐに気づいたようだった。
その一個をなんとかして返したいとしばらく悩んでいたけれど
地区に多くある農家を訪ねることも不可能で諦めるしかなかった。
姑さんにとっては「たかが芋」ではなかったのだろう。
もしかしたら一個何円かで分けてもっらていたのかもしれない。
そんな大切な芋を嫁に盗まれるとは思ってもいなかっただろう。
勝ち気で気性の荒い人だった。それ以外には思いつかない。
けれどもなんとなく懐かしい。今はもう亡き人のことだった。
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