風もなく穏やかな晴天。つい小春日和と言ってしまいたくなるけれど
それは立冬を過ぎてからの言葉なのでまだ使うわけにはいかない。
日本語はむつかしく時に戸惑ってしまう時もあるものだ。
我が家のすぐ裏側の古い家屋が先日から解体されていて
祭日である今日も重機の音が賑やかであった。
持ち主は老人施設に入居しておりもう帰ることもないのだろう。
大きな地震でもくれば潰れてしまいそうな古い家で
解体も致し方なかったのだろうと察せられる。
今日はとうとう庭にそびえていた大きな柿の木が伐採される。
今年は柿の裏年らしく殆ど実をつけてはいなかったけれど
春から夏にかけてそれは鮮やかな葉の緑がとても美しかった。
柿の実がなれば我が家の二階から手を伸ばしたくなるほど
まるで我が家の柿の木のように思っていつも眺めていたものだった。
そんな愛着のあった木があっという間に無くなってしまったのだ。
寂しさは勿論のことだけれどいささかショックな一日となる。
柿の木だけは残して欲しかったと言える筋合いではないのだけれど。
我が家も築30年となり昔の母屋を解体し新築した家だけれど
その古い母屋があった頃から裏の柿の木があったと記憶している。
家を新築する時に裏の土地を買ってくれないかと話があったけれど
とてもそんな予算はなく諦めざるを得なかった事情がある。
あの時に無理をしてでも手に入れていれば良かったと悔やまれる。
そうすれば柿の木は我が家の木となり守ってあげられた事だろう。
私は木を伐るという行為そのものにかなりの抵抗感があるらしく
邪魔だから伐るというのにはどうしても納得がいかない。
まして美味しい実をつける木になんの罪があるのだろうと思う。
木にも命がある。おそらく百年近く生きていたのではないだろうか。
残念ながら我が家の柿の木ではなかったけれど
我が家の歴史をそっと見守ってくれていた木ではなかったろうか。
おおむね晴れ。夏日に近い気温になりぽかぽかと暖かい一日だった。
金木犀の花が満開になりそよ吹く風の中にその香りが漂う。
職場の庭の片隅にその木があったことをすっかり忘れていて
今日になり思い出す。ずっと昔に母が植えていたのだろう。
まるで「ここにいますよ」とおしえてくれたようだった。
大根の間引き菜。里芋。さつま芋。季節ならではの旬の物を
ご近所さんが届けてくれてありがたく頂いているこの頃。
さつま芋には少し苦い思い出があった。
さっさと忘れてしまえば良いのにいつまでも忘れられない。
確か40年ほど前の初冬の頃ではなかっただろうか。
私達家族が住んでいた離れにも新しい台所が出来て
もう母屋での食事の支度からは解放されていたのだった。
それでも貰い風呂をするからにはお風呂焚きをしなければならず
いつものように4時頃母屋に行った時だったと思う。
姑さんの自転車の籠にそれは沢山のさつま芋を見つけたのだった。
その時「今夜はお芋の天ぷらをしよう」と思ったのだ。
姑さんは留守だったので黙ってその一個を頂いてしまった。
その夜のこと貰い風呂に行ったら姑さんの機嫌が頗る悪く
私に向かって「芋を取ったのはおまえか!」と言うのだった。
正直に頷くと「欲しかったらどうして言わない!」と大きな声で怒鳴る。
まるで私のことを芋泥棒のように言うのであった。
私は一個ぐらいと一瞬思ったのだけれど返す言葉も見つからない。
気がつけば泣きながら謝っていた。それでなんとか赦してもらう。
そのさつま芋は種芋にするのに地区の農家から分けてもらったのだそう。
その時しっかりと数をよんでいたらしい。
だから一個足りない事にすぐに気づいたようだった。
その一個をなんとかして返したいとしばらく悩んでいたけれど
地区に多くある農家を訪ねることも不可能で諦めるしかなかった。
姑さんにとっては「たかが芋」ではなかったのだろう。
もしかしたら一個何円かで分けてもっらていたのかもしれない。
そんな大切な芋を嫁に盗まれるとは思ってもいなかっただろう。
勝ち気で気性の荒い人だった。それ以外には思いつかない。
けれどもなんとなく懐かしい。今はもう亡き人のことだった。
午後7時。室温が24℃もありずいぶんと暖かい夜。
入浴の恐怖心もすっかり薄れ今夜は髪も洗った。
今は給湯ボタンを押すだけで浴槽にお湯が溜まるけれど
私が嫁いだ頃は五右衛門風呂で薪で焚かねばならなかった。
姑さんからその役を任されていたので
毎日4時頃になると慣れない手つきで火を点けるのだけれど
私はそれが苦手で思うようには燃えてくれないのだった。
新聞紙をくしゃくしゃにしてまず最初に小枝を燃やす。
小枝という表現はふさわしくないかもしれない。
それは主にお舅さんが河川敷から拾って来た木の屑であった。
それがやっと燃え始めると徐々に薪を入れていくのだけれど
いきなり大きな薪を入れると一気に炎が弱くなる。
だからなるべく小さな薪から入れて火の様子を見るのだった。
薪が勢いよく燃え始めるとなんともほっとするもので
お舅さんの一番風呂に間に合うだろうと肩の荷を下ろす。
その火は終い風呂まで決して絶やしてはならず
最後には大きな薪を入れてゆっくりと燃やすのだった。
お舅さんは初孫である息子と入浴するのが日課で
まだ一歳にもならないうちから抱いて一緒に入浴していた。
ある日のこと息子がウンチを漏らしてしまった時は大騒ぎ。
お湯を全部抜いてまた一から焚き直したこともある。
それもすぐに笑い話となり今では忘れられない思い出となった。
苦手だったお風呂焚きも慣れて来ると楽しくもあった。
時々ふっと薪を燃やしてしまいたい衝動に駆られる時もある。
今となってはそれも叶わぬ夢となり果てたのだろう。
終い風呂はいつも嫁である私であった。
大きな薪が今にも燃え尽きそうな焚口に
義妹が消えないようにと一本の薪を入れ添えてくれていた。
それがどんなにか有り難かったことだろうか。
雨のち晴れ。快晴ではなかったけれど優しい陽射し。
午後から孫達のダンス発表会があり
土佐清水市の水族館「SATOUMI」まで行っていた。
野外イベントだったので心地よく潮風に吹かれる。
その風がとても懐かしく思えた。
少女の頃の記憶だろうか。ふと胸に熱いものが込み上げて来る。
開演まで一時間程時間があったので
せっかく来たのだからと水族館に入館してみた。
入館料がとても高くて驚く。けっこう痛い出費となった。
けれどもゆったりと泳ぐ魚たちを見ていると
そんな痛みも何処へやら心がほっと癒されていた。
ふと魚になりたいなと思う。水の中で暮らしてみたくなる。
それは思っているよりもずっと厳しい世界なのかもしれないけれど。
午後2時を過ぎて孫達のダンスが始まった。
大勢の観客にどれほど緊張したことだろう。
それなのに二人ともけっこう堂々としていて頼もしい。
あやちゃんはちょっと恥ずかしそうにしていたけれど
めいちゃんは笑顔を見せるほどの余裕でさすがだなと思う。
控えめなあやちゃんに比べて目立ちたがり屋なのだろう。
センターに立って踊っている姿はとても誇らしく見えた。
帰り道の車中でじいちゃんが「比べたらいかんぞ」と。
確かにめいちゃんの方がずっと上手だったけれど
口が裂けてもそれを言ってはいけないと云うこと。
一時間程遅れて娘たちが帰宅しあやちゃんが「ふう」と言いつつ
茶の間に入って来てばたんきゅうと大の字になった。
じいちゃんと二人で労いの言葉をかけるとにっこりと微笑む。
いつもとは違ってとても素直なあやちゃんであった。
大勢の観客の前で精一杯に踊ったことを褒めて欲しかったのだと思う。
「えらかったね、よく頑張ったね」その言葉を待っていたのだ。
それを私達祖父母に求めてくれたのが何よりも嬉しかった。
「ダンスこれからも続けようね」と言うと「うん!」と応える。
どんな未来が待っているのだろう。
私達はなんとしてもそれを見届けなければいけない。
| 2021年10月30日(土) |
明日のことさえ分からない |
晴れのち曇り。今夜遅くには雨が降り出すかもしれない。
日中の気温は20℃を超えていたけれど陽射しがないと肌寒く感じる。
今夜は娘たちが外食に出掛けておりひっそりと静か。
じいちゃんも義妹宅に行っており家には私独りきりである。
なんとなく心細く寂しいけれどたまには良いかなと思っている。
この先いつかは独り暮らしになる時も来るのかもしれない。
それは私がじいちゃんよりも長生きをした場合のことで
「俺よりも先に死ぬなよ」と口癖のように言っているから。
生きてみないと分からない。明日のことさえ分からないのだもの。
午前中に図書館へ。とりあえず2週間分として4冊借りて来る。
東野圭吾の未読本と後は宮尾登美子の随筆集にした。
図書館には文庫本がなく単行本はずっしりと重い。
車の中に保管しておいて少しずつ読み進めて行こう。
図書館を後にしてカーブスへ。
開店と同時に行ったらなんと一番乗りだった。
やはり左足が痛むので今日も軽く筋トレをする。
私てしては激しく頑張りたいのだけれど
ついつい左足を庇ってしまうのだった。
それでも効き目があるのか最後には痛みが薄れていた。
今月いっぱいで辞めるコーチと最後のお別れ。
「今日は泣かないから」と言って手を握り合った。
はっとする程冷たい手をしていた。
手の冷たい人は心が温かいというのは本当の事だと思う。
午後はひたすら読書に耽る。
途中で洗濯物を畳んだだけで家事らしいことは一切せず
夕飯はコンビニで調達。おかげで食器洗いも免れる。
これを書いているうちに娘たちが帰って来た。
あやちゃんに「スシロー?」と聞いたら
「どこでもいいじゃん」となんとそっけないこと。
そうして雨が降り始めた。けっこう本降りのようだ。
このまま雨音を聴きながら眠くなるまでまた本を読もう。
いま、あやちゃんと娘が私の部屋に居て
娘が小学四年生の時の日記を声を出して読んでいる。
それは我が家の「宝箱」に入っていたのを
何を思ったのか娘が蓋を開けてしまって
いきなりタイムマシンに乗ってしまったようだ。
あやちゃんが抑揚をつけて面白おかしく読んでいるのを
傍らで娘が奇声をあげていてなんとも愉快な光景である。
それにしても30年も昔の日記帳をよく残しておいたものだ。
おそらく何度も断捨離をしながら「これだけは」と
捨てられずにいたのは他でもない母親の私だったのだろう
そもそもその「宝箱」はかなり年季の入った物で
スチール製の元は衣装ケースとして使っていたものだ。
記憶を辿ると私が独身時代に使っていた物だと思われる。
プラスチックと違い丈夫で錆びることもなく今もここに在る。
今夜まさか娘がその蓋を開けるなど思ってもいなかった。
「こんなものを取ってあったの」と叱られるかなと思ったけれど
意に反し感動した様子を見てほっと胸を撫で下ろしている。
捨てられずにいたことは捨ててはいけなかったことに等しい。
あやちゃんはどんな思いで読んでいるのだろう。
朝と日中の温度差が15℃程もあったようだ。
暖かな陽射しはほんとうにありがたいものである。
あと10日もすれば立冬。とても貴重な陽射しに思える。
今年の冬は例年よりも厳しい寒さになるのだそうだ。
いつもならもうとっくに海苔の種付けが終わっているのだけれど
今年はどうしたわけか海苔の胞子が出てこないらしい。
やきもきしながら待っているけれど今日も漁協から連絡なし。
とても順調とは思えず先行きが不安でならない。
仕事を終えて「しまむら」へ。お財布は相変わらずの寂しさ。
清水の舞台から飛び降りるような気持ちでATMで年金を引き出す。
11月分の支払いに残しておかなければいけないのだけれど
なんとかなるだろうと我ながら思い切ったことをした。
あやちゃんのパジャマを買い、めいちゃんのパジャマを買う。
そのついでに自分の服まで買ってしまって何という事でしょう。
おそるおそるレジに持って行ったら5千円でおつりがあった。
思わず「やったね」と声が出そうになる。さすが「しまむら」だ。
早く孫たちに見せたくてうきうきしながら家路につく。
あやちゃんもめいちゃんも喜んでくれてすごく嬉しい。
娘も「まあ、ありがとう」と言ってくれて私の顔もほころぶ。
やっぱり私は「パジャマ係」だったのだなと改めて思った。
冬用のパジャマなのでもう少し寒くなったら着てくれるだろう。
冬にはそんな楽しみもある。冬ばんざいの気持ちになる。
今日「しまむら」ではっと気づいた事なのだけれど
レディースのコーナーには私に似合いそうな服が見当たらない。
店内をうろうろしていて初めてミセスコーナーに行ってみた。
そうしたらあるはあるは。少し地味だけれど好きなのが見つかる。
そっか、と改めて自分の歳を思い知った。もうすぐ65歳なのだ。
年相応の服装を選ぶべきだったことに初めて気づく。
明日さっそく着てみようと思う。私の「ミセス」デビューだ。
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