晴れのち曇り。最高気温が20℃に届かず肌寒い一日。
立冬までまだ2週間以上あるけれどもう初冬のように感じる。
早くもヒートショックの不安が襲って来てしまって
入浴がひたすら怖い。緊張してリラックス出来ない。
「大丈夫、だいじょうぶ」と呪文のように唱えながらの入浴になった。
とにかく寒さに慣れるのが第一。なんとしても克服しなければと思う。
朝の山道ではつわぶきの花があちらこちらに咲き始める。
小さな向日葵のような花でなんともこころが和む。
原始の時代、初めて咲いた花は黄色だったと聞いたことがある。
つわぶきの花がいったいいつ頃に生まれたのかは知る由もないけれど
太古の昔から咲いていたのだとしたらとても尊い命に感じる。
手折ることは容易いけれどそっと山影に咲かせてあげたい花だった。
今日はいつもより早めの帰宅。
孫たちも水曜日は学校が早く終わるので先に帰宅していた。
あやちゃんはピアノ教室へ。めいちゃんは一輪車の練習へ。
一輪車は学校にあり放課後の校庭で自由に乗れるようだ。
いつもならじいちゃんが連れて行くのだけれど
今日は娘が休みだったので連れて行ってくれた。
それがあたりが薄暗くなっても帰って来ない。
仕方なく一人で夕食の支度をしていたらやっと帰って来てくれた。
娘の手助けがあってこそで夕食が整うとなんともほっとする。
明日の朝はまたぐんと冷え込むようなので
あやちゃんに長袖のパジャマを着て欲しいのだけれど却下。
風邪を引いてしまいそうではらはらとするばかり。
子供にはまだ序の口の寒さなのだろう。
私はもうすっかり冬の気分になりちゃんちゃんこを羽織っている。
朝の肌寒さもつかの間すぐに暖かくなる。
25℃といえば夏日だけれど身体には優しい温度だと言えよう。
歳のせいでもあるけれど寒いとどうも緊張していけない。
確かに流れているはずの血が固まったように感じる。
まだまだこれからが冬だというのに困ったものである。
今日は従兄弟の一周忌と伯母の一三回忌の法要があった。
私は仕事があり欠席させてもらったけれど
出席していたじいちゃんが言うには「皆夫婦で来ていたぞ」と。
仕事を休んで行くべきだったのだろうかと複雑な気持ちになった。
それでも供養する気持ちは変わらない。天国に伝わっただろうか。
従兄弟は妹と二人暮らしだったので今はその従姉妹の独り暮らし。
ただ小型犬を飼っており寂しくはないのだと言う。
けれども67歳ともなれば不安な事も多いだろうと察する。
私などにはとうてい無理な話でどうして耐えられようかと思う。
跡取りも無い故いずれは絶えてしまう家を守ることも並大抵ではなく
果たして未来などあって無いものと考えずにいられないのではと案ずる。
けれども従姉妹はけっこうあっけらかんとして過ごしているようだ。
もう老犬の愛犬を看取るまではと気も張っている様子である。
人生それぞれ。好きで選んだ人生だとは限らないけれど
まるで宿命のように受け止めて生きることも人生だと思う。
「死んじゃったもんは仕方ないよ」一年前の今日
従姉妹が呟いた言葉を思い出している。
日毎に寒さの更新。昨日よりも今日と冷え込む。
とはいえ季節はまだ秋のこと
つい先日までの暑さがあったからこそだろう。
不安症なものだからなんとなく不調を感じるのだけれど
これは血圧に違いないと恐るおそる測ってみれば正常値。
なあんだ気のせいだったのかと思えば一気に気が楽になる。
病は気からとはよく言ったものである。
お舅さんの命日。もう39年の歳月が流れたようだ。
お墓参りにも行けず仕舞いで仏壇にお線香もあげずにいて
この上なく不義理で薄情なものだと心苦しく思っている。
本来なら長男で跡取りの我が家にあるべき仏壇は
義理の妹の家にあり今日は留守にする旨の連絡があった。
今年は仕方ないとじいちゃん(夫)が言うものだから
留守宅に押し掛ける訳にもいかず諦めてしまったのだった。
お舅さんは私が嫁いで3年目に57歳の若さで亡くなった。
体調不良を訴えた時にはもう肺がんの末期で手の施しようもなく
わずか2ヵ月ほどの療養でほんとうにあっけなくこの世を去る。
初孫の息子をとても可愛がってくれていて死の直前まで
孫の名を呼び一目見るまではと最後の気力で耐えていたのだった。
当時の中村市から高知市まで5時間ほどの長道中だったか
危篤と聞いてからすぐに駆けつけたかいがあって
最後に孫に会わせてあげることが出来て何よりだったと思う。
お舅さんは息子の頬に触れ「じいちゃんはもう最後だぞ」と呟いた。
そうして抱き寄せるように両手を差し伸べながら死んでいった。
まだ3歳だった息子はその時の事を薄っすらと憶えているらしい。
秋が来るたびに思い出す。それが何よりの供養になる気がする。
今朝はこの秋いちばんの冷え込み。
夏蒲団では肌寒く蓑虫のようにして目覚める。
北海道からはもう初雪の便り。つかの間の秋だったことだろう。
気がつけば11日間もに渡り母のことを記していたようだ。
ひと山越えたような達成感はあるけれど
まだ書き足りない思いもありなんとなく落ち着かない。
おそらくもっともっと踏み込んでみたかったのだろう。
書いて良いものかと躊躇する気持ちもありそれが昇華出来ずにいる。
母の事に限らず自分の事も書きたかったのだろうと察する。
恥の上塗りになろうと「書くべきなのだ」という思いが強い。
生きて在るうちにそのすべてを書き終えてしまいたいものだ。
またある日突然に書き出してしまうかもしれない。
けれどもしばらくは穏やかな日常に浸ることにしよう。
一昨日には2ヵ月ぶりに母に会うことが出来た。
とはいえコロナ禍の事、正式な面会とはいかず
リハビリ室に居た母にガラス窓越しに会えたのだった。
母は真っ先にマスクを外し口元には零れんばかりの笑顔。
目は潤みつつ真っ直ぐに私の顔を見ていた。
窓に遮られお互いの言葉は殆ど伝わらなかったけれど
別れ際に手を振る母はまるで少女のようであった。
泣くまいと思っても涙が溢れてくる。
母に涙を見せまいと逃げるように踵を返したことだった。
せめて顔を見るだけでもと計らってくれた職員の方には感謝しかない。
今日は日なが一日読書に夢中になっており
夕方になり孫たちのお昼ご飯を忘れていたことを思い出す。
孫たちも「おなかがすいた」とは一言も言わなかったのだ。
日曜出勤から帰って来た娘にそのことを詫びれば
「かまん、かまん」と笑い飛ばしてくれてほっとする。
宮尾登美子の「仁淀川」を読了。
すぐに東野圭吾の「幻夜」を読み始めて三分の一ほど読み進む。
昨日から市立図書館に通うことに決めその蔵書の多さに興奮している。
インターネットで予約も出来るそうでまるで目から鱗だった。
書くことと読むこと。どちらも私には大切なことであり
残された人生があとどれくらいなのか知る由もないけれど
書き尽くし読み尽くせればもう思い残すことはないのかもしれない。
一番星を仰ぐ夕暮れ時にふっと明日のことに思いを馳せていた。
※方言注釈 「かまん、かまん」は「いいよ、いいよ」と言う意味。
| 2021年10月16日(土) |
追憶のなかの母 完(愛) |
記憶とは時に残酷なものなのだなと思う。
こうして書く場所を与えられ
遠い昔の記憶を辿りながら何度壁にぶつかったことだろう。
母を赦しているのかと問われてもはっきりと頷くことが出来ない。
自分も罪を犯しながら母の罪を責め続けようとする私がいた。
ひとはどうして幼い頃の記憶を失くしてしまうのだろう。
この世に生まれ確かに母に抱かれていただろうに
まるで神様に奪い取られたかのように記憶は消えている。
母の胸のぬくもり。乳房にも触れ乳を思う存分に口に含み
そのまますやすやと眠ったこともあっただろうに。
よちよちと歩き始めば手を叩いて喜ぶ母が居たはずなのだ。
愛情をいっぱいに注がれすくすくと成長していたことだろう。
そんな記憶をどうして残してくれなかったのだろう。
それさえあればと口惜しくてならない。
私が会いたくてならなかったのはきっとそんな母なのだと思う。
叶うはずもない事に苦しむ。とても愚かな事なのだと思い知る。
けれどももし母を失えばどれほどの悲しみが襲って来ることだろう。
私はそれが怖い。失って初めてきづく愛が怖いのだ。
母が選んだ道は間違っていたのかもしれないけれど
母には母の人生がありもはや運命としか言いようがない。
その運命の糸に操られるように私は私の人生を歩み続けて来た。
それが母あってこその道ならば感謝するべきだろう。
判っているけれどどうしても素直になれない自分がいる。
あの日母を頼るしかなかった時から45年の歳月が流れ
母はどうしようもなく老い私もその老いを追っている。
もう罪ほろぼしも終わったのだと母は思っていることだろう。
けれども私の中ではまだ終わっていない。
13歳の少女のままでいることが歯がゆくてならないのだ。
母を救うことが出来た時に私も救われるのだろうか。
心の底から赦すことが出来るのだろうか。
母が歩んだ道と私が歩んだ道が交差している場所にいて
未だ母の愛を求めようとしている私は「こども」に他ならない。
・・・・・・完・・・・・・・・
| 2021年10月15日(金) |
追憶のなかの母その10(逃避) |
私は自分の事を「おとな」だと思っていたけれど
もしかしたらまだ「こども」だったのかもしれない。
20歳の誕生日には夫が袋いっぱいの手羽先の唐揚げを買って来てくれた。
屋台で売っている物で揚げたての熱々は私の大好物であった。
「みかちゃん、これ好きやもんね」と笑顔で手渡してくれて
一気に10本くらい食べた記憶がある。とても美味しかった。
優しい人だったのだと思う。なんの落ち度もなかったはずなのだ。
夫は勤めていた会社を辞めわずかながらも退職金を手に入れ
すぐに新しい仕事を見つけ働き始めたばかりの頃だった。
借金取りはどうやらそのことを嗅ぎつけていたらしい。
ある夜突然やって来てその大切な退職金を奪い去って行ったのだった。
これにはさすがの夫も怒り私の父を散々に罵った。
父を庇いきれない。気がつけば私までもが父を恨み始めていた。
またどん底の暮しが始まる。その日の食費にも困る日々だった。
そのことがきっかけになってしまったのだろう。
夫は荒れる日が多くなり時には暴力も振るうようになる。
「こんなものが食べられるか!」と食事を投げつけることもあった。
すっかり追い詰められてしまった私は夫の親友に相談した。
すぐ近所に住んでいたのでほぼ毎晩のように様子を見に来てくれたのだ。
「大丈夫だから心配するな」その一言にどれほど救われたことだろう。
ある夜、もうかなり遅い時間だったと記憶している。
夫が包丁を振り回すほどの修羅場が訪れてしまい
私はとにかく逃げようと寝間着姿のまま路地を駆け抜けていた。
何処に行こう。何処にも行くあてなどない。
気がつけば夫の親友の家まで来ていたのだった。
彼はすぐに私をかくまってくれた。とにかく押入れの中へと。
ぶるぶる震えていたら夫が来て親友と言い争う声が聞こえる。
もう限界だと思った。けれどもその夜の事はよく憶えていない。
ただ一つだけ憶えているのは親友が言ってくれた言葉だった。
「逃げられるのなら逃げきろ」確かそう言ってくれたのだ。
その時に私は決心する。母の処に行くしかないのだと思った。
翌朝には汽車に乗っていた。夫の親友が駅まで送ってくれる。
そのうえに汽車賃まで出してくれたのだった。
今思えばそれがどれほどの恩義だったことだろう。
夫と彼はもう親友ではいられなくなってしまったかもしれない。
私は大変な罪を犯したのだと思う。果たして逃げて済むことだったのか。
母はまるで修学旅行から帰った娘を迎えるかのように
にこにこしながら出迎えてくれた。
いったい何があったのかも訊きもせず終始笑顔であった。
父から二人の「こども」を取り返したつもりだったのかもしれない。
それでこそ母は救われたのだろうと思う。
母にとって私はまだ「こども」以外の何者でもなかったことだろう。
13歳の私を知らずその後の7年間も知る由もなかった。
私は罪の意識に苛まれていた。いったい何を犠牲にしたのか。
確かに傷ついていたけれど同時にたくさんの人を傷つけていたのだ。
| 2021年10月14日(木) |
追憶のなかの母その9(絆) |
19歳の春私は職場の同僚と結婚する。
猛反対だった父を説得してくれたのは弟だった。
「お姉ちゃんの好きなようにさせてやりなよ」と言ってくれたのだ。
しかし甘いはずの新婚生活はつかの間の事で
ひと月もしないうちに父が大変な事になってしまった。
当時父は再度の転勤で遠く香川県に住んでいたのだけれど
詐欺に遭いそれが汚職に繋がり懲戒免職になってしまったのだった。
当然のごとく官舎を追われしばらく行方不明になってしまう。
弟は父の職場の寮から高校に通っていたのだけれど
早急に出て行って欲しいと言われもはや住む家もないありさま。
今思えば私と夫が弟を引き取ってあげるべきだった。
けれども19歳と23歳の若い夫婦にそんな余裕はなく
最後の頼みで母に頼ることにしたのだった。
弟もそのほうが良いと言う。私達夫婦にも気を遣っていたのだろう。
母はM兄ちゃんと一緒に喜び勇んで駆けつけて来てくれた。
頼られたことがよほど嬉しかったのに違いない。
高校の近くにアパートを見つけ家具まで買い揃えてくれる。
私はこんなカタチで母とまた繋がるのがなんとなく嫌だった。
もう二度と会うまいと心に決めていただけに複雑な思いが募る。
けれども路頭に迷った弟を救うにはこうするしかなかったのだと思う。
父の消息はすぐに分かったけれど母の事を話すと
「そうか・・」と肩を落としていた。きっと悔しかったのだろう。
娘を嫁がせ息子を一人前にするまではと気負っていたのだと思う。
けれどもどうしようもなく落ちぶれてしまった事を自覚していた。
父が憐れでならなかった。母にだけは負けたくなかったのだと思う。
この世には「仕方ない」の一言で済まされることが多い。
どんなにあがいてもそれは仕方ない事なのだ。
ひとは何かに縋らなければ生きてなどいけないのだろう。
もう母ではないと思っていた人がまた母になることもある。
それは微かな絆だろうか。血の繋がりは切っても切れないのだ。
弟は独り暮らしを満喫しながら元気に高校に通っていた。
私達若夫婦の所には身に覚えのない借金取りが訪れるようになった。
まだ未成年だった私が父の保証人になっていたらしい。
だからと言って父を恨むこともせず精一杯の日々の暮らしだった。
きっと乗り越えられるとどれほど信じていたことだろう。
追い詰められる最後の最後まで私は希望を捨てずにいた。
もうすぐ私の20歳の誕生日なのだ。
|