| 2021年10月11日(月) |
追憶のなかの母その6(青い鳥) |
また海辺の町での暮らしが始まった。
わずか3ヵ月ほどしか住んでいなかったのに不思議と懐かしい。
ただ母のいない現実を受けとめながら私は少し戸惑っていた。
特に母の働いていた魚屋さんに行くのが怖かった。
母の事を訊かれたら何と応えれば良いのだろう。
父はまた転勤願を出していたようだけど
春までは単身赴任を強いられていたようで
父方の祖母がしばらく一緒に暮らしてくれることになった。
祖母は足が悪く家事もままならない様子。
それでも私達に不自由な思いをさせまいと精を尽くしてくれた。
困ったのは生理用品が必要になった時。
仕方なくスーパーに買いに行ったけれど目から火が出るように恥ずかしい。
ブラジャーも必要になり近くの洋品店に買いに行ったけれど
お店のおばさんがなんだかじろじろと私を見てとても嫌だった。
私はもう子供ではいられないと心に誓うようになっていた。
祖母に頼らず出来る家事は自分でしようと思い始める。
春になりやっと父と暮らせるようになり
私も中学2年生。弟は小学5年生になっていた。
その頃学校ではラジオを聴くのが流行り始めていて
NHKの「FMリクエストアワー」という番組が大人気だった。
土曜日の午後の事で公開放送もあり父にせがんで連れて行ってもらった。
その頃の高知放送局にはあの松平定友アナウンサーがいて
私が毎週のように行くものだからすっかり仲良しになる。
私は「青い鳥」というラジオネームだった。
そうしたら生放送中にいきなり松平さんが
「今日はスタジオに青い鳥さんが来てくれています」と言って
私は手招きをされ松平さんと向かい合って座ることになった。
生まれて初めてのマイクにどきどきしながら私はしゃべった。
確かその翌週の事だっと思う。「青い鳥さんへ」と
番組に私宛のお便りが届いたのだった。
その人は高知県西部に住んでいる「ひまわりおばさん」だと言った。
どんな内容だったのか今では思い出せないけれど
優しさであふれている内容だったと思う。とにかく嬉しかった。
私は直感でそれは母ではないかと思ったのだ。
私の声をラジオで聴いて「青い鳥」が私だと分かったのだと。
ずっとそう信じていた。それは昨日まで。
今日になりすっかり自信がなくなってしまったのだ。
記憶を辿っているうちに欠けていたとても辛い事を思い出してしまった。
今さら母には訊けない。今までも確かめたことがないのだから。
ただあの時の「ひまわりおばさん」が母だったなら
どれほど私は救われることだろうと思う。
チルチルミチルは青い鳥を探しに行ったけれど
その童話のラストを私は忘れてしまっている。
| 2021年10月10日(日) |
追憶のなかの母その5(罪) |
母は置手紙も残さずに消えた。
そうしてそのまま行方不明となってしまった。
もし離婚届でも置いて行けば父も覚悟を決めたろうにと今になって思う。
だから私は「家出」とは書かず「失踪」と書いた。
その日のうちに父はすぐ駆けつけて来たけれど
いったいどう対処したのか私の記憶は欠落している。
その日だけに限らず明くる日の事も全く思い出せないのだった。
学校には行ったのだろうか。食事はどうしていたのだろう。
まるでその後の記憶が破られ燃やされてしまったように感じる。
ただすぐに海辺の町に帰ることはなかった。
ひとつだけよく憶えているのは大晦日の日暮れ時のことで
父が「正月くらいはしようや」と言ってくれたことだった。
父の車で高知市の台所「大橋通り」に買物に行った。
お寿司とお餅を買ったことをよく憶えている。
その時に塾帰りの友達に会ったのだ。
自分がとても惨めに思えて逃げるようにその場を去った。
父には父の考えがあり転校の手続きをしてくれていたのだと思う。
冬休みが終わればまた海辺の町の学校へ通えるようだった。
また慌ただしい引っ越しとなり級友達に別れを告げる暇もなかった。
母の消息はまったく掴めず途方に暮れていたけれど
「死んだと思え」と父はすっかり諦めた口調でそう告げていた。
私はどうして私の誕生日でなければいけなかったのだろうと思う。
それは未だに納得のいかない大きな疑問であった。
今さら母を問い詰めることがどうしてできようか。
母にとって娘の誕生日よりも大切なことだったのだろうか。
その日でなければいけない理由があったのだとしても
私は赦せなかった。それが未だに尾を引いている。
その日の事をすっかり忘れている母に私は仕打ちをしている。
いくらでも孤独になれば良いのだと突き放すように。
いったい罪とはなんだろう。
その後母には母の人生があり私には私の人生が待ち受けていた。
| 2021年10月09日(土) |
追憶のなかの母その4(失踪) |
海辺の町に移り住み2ヵ月が過ぎた頃だったろうか。
友達も出来てやっと学校にも慣れて来た頃だった。
夏休みに入ったある夜のこと
母から寝耳に水のようなことを聞かされる。
この町では十分な教育が受けられないから
高知市内の学校へ転校しようと言うのだった。
それは父と母の別居を示していることに違いなかった。
おそらく母が言い出したことで
父は子供達が納得すればと応えたのだろう。
私も弟もどうして逆らうことが出来ようか。
両親が決めたことに従うしかなかった。
転校にはもう慣れている。引っ越しにも慣れている。
けれどもとても複雑な気持ちだったことは記憶している。
高知市内には母の叔母が住んでおりその近所の借家だった。
電車通りに面しており家のすぐ前には電停があった。
ずいぶんと都会的だなとなんだかわくわくしたような気がする。
母はまた早速に仕事を見つけて来ていた。
今度はタオル工場でギフト用の箱詰めなどをする仕事らしい。
電車で通勤していたけれどその会社が何処にあるのかは知らない。
残業はなかったのか午後6時頃には必ず帰って来ていた。
たまには父に会いたかったけれど殆ど叶わず
別居とはそういう事だとはあまり理解が出来ずにいたのだと思う。
新学期が始まりすぐに友達も出来て学校生活は楽しかった。
朝一でパンの注文が出来てお昼にはふかふかのパンが届く。
母に「今日はお弁当要らない」と言う日も多くなった。
高知市内に住むようになり3ヵ月が過ぎた頃だったろうか。
母がもうすぐ私の誕生日だからとレコードを買って来てくれた。
当時大流行していた「黒猫のタンゴ」であった。
嬉しくてならず何度も繰り返し聴いたことだった。
誕生日の朝はその冬いちばんの冷え込みでとても寒い朝だった。
確か日曜日だったと思う。少し寝坊をして目覚めた記憶がある。
母も仕事が休みのはず。「おかあさん」と呼びかけた気がする。
それなのに母が居るはずの部屋に母の姿がなかったのだ。
ストーブも点いていないそこにはただ寒々とした空気が漂っていた。
まだ寝ていた弟を起こして母を探した。
とは言え探す場所など限られている。母は何処にもいなかった。
とにかく父に知らさなくてはいけない。他に何が出来よう。
弟の手を引いて母の叔母の家に向かった。
霜柱を踏みしめながら歩く。その距離がとても遠く感じた。
私も弟も泣いてはいなかった。唇を噛みしめ歯を食いしばっていた。
いったい何が起こったのかその時にはまだよく分からなかったのだ。
13歳の誕生日の朝のことである。
| 2021年10月08日(金) |
追憶のなかの母その3(海鳴り) |
山村での暮らしも3年が経ち私は村の中学校へ通うようになった。
まだまだ子供だったけれど少しだけおとなになったような気がする。
確か5月の中旬頃だったと記憶している。
父からいきなり転勤の話を聞いたのだった。
月末には引っ越しだぞと言われてどれほど戸惑ったことだろう。
そこは村からはとてつもなく遠い県東部の海辺の町だと言う。
後から知ったことだけれど父は転勤願を出していたのだそうだ。
おそらく一日も早く村から遠ざかりたかったのだろう。
3月ならともかく5月の転勤は異例のことだったと思う。
まるで逃げるような引っ越しだったけれど
大勢の人に見送られて別れを惜しんだことだった。
母はいったいどんな気持ちだったのだろう。
もしかしたら悔しくてたまらなかったのかもしれない。
かと言って父の決めた事には逆らえなかったのだ。
7時間ほどの遠路だった。潮の香がする穏やかな町に着く。
今度の家も一軒家でとても庭の広い家だった。
けれどもその庭はかつて官舎のあった跡地だったらしく
コンクリートの基礎だけが残った殺風景な庭だった。
父の事務所は山奥にあるらしく単身赴任になるとのこと。
そんな悪条件を呑んでこそ叶った転勤だったのだろう。
しかし母にとってはそれが救いだったのかもしれない。
なんだか生き生きとして見えたのは気のせいだったろうか。
私と弟の転校手続きが終りそれぞれが新しい学校に通い始めた。
そんなある日母はまた次の仕事を見つけて来る。
それがなんとすぐ近所の魚屋さんだったのでびっくりした。
おそらく父には相談もせずに決めたのだろうと思う。
思い立ったらすぐ行動に移すのが母の長所でもあり短所でもあった。
化粧品の匂いなど何処へやら。母はすぐに魚臭いひとになった。
驚いたのは短期間で調理師免許まで取得していたのだった。
週末には父が帰って来たけれど言い争うこともなかった。
父はあくまでも寛大な人だったのだと思う。
けれどもそれは私が気づかなかっただけなのかもしれない。
新しい学校生活に慣れようと私も必死だったのだ。
嵐が近づいてくると海が荒れ海鳴りが轟く。
それは轟々と怖ろしく私のこころを不安にさせるのだった。
| 2021年10月07日(木) |
追憶のなかの母その2 |
父の転勤で私達一家はまた新たな山村に移り住むことになった。
同じ郡内であってもずいぶんと遠く感じたのは不思議である。
それまでは長屋のような官舎住いだったけれど
今度の家は一軒家で車も停められるほどの広い庭があった。
事務所兼住居と言ったところだろう。電話も2台あっておどろく。
子供心に父が出世したのだなと思ったことだった。
父は早速に「主任さん」と呼ばれていた。
母は主任さんの奥さん、きっと誇らしかったことだろう。
父の部下になる作業員の人達がたくさん手伝いに来てくれて
転居一日目の夜は確か酒盛りをしたのではなかったろうか。
みんな優しくて気さくな人達ばかりで前途が明るかった。
村では狩猟が盛んに行われていて父もすぐに免許を取ったようだ。
狩猟犬を飼うことになり洋犬のセッターが家族に加わる。
確か雄だったと思うのだけれど名前は「ゆう」と付ける。
その頃村一番の美人に「ゆうこ」という女性がいて
母が少しやきもちを焼いていたような記憶もある。
日曜日ともなると仲間たちと狩猟に出掛ける父。
兎を仕留めて帰って来た時は可哀想で涙が出た。
なんて野蛮な事をするのだろうと父が別人になったように思う。
暮し向きは楽だったはずだけれど
母は専業主婦になる気がまったくなかったのか
ある日突然に化粧品のセールスをするようになった。
確か資生堂だったけれどずいぶんと高価な品だったと思う。
まずは自分からとお化粧も濃くなり次第に派手になっていく。
交友関係も広くなり夜も出掛けることが多くなった。
そんなある夜、狩猟仲間のM兄ちゃんが遊びに来ていて
何がきっかけなのか分からなかったけれど父が母に暴力を振るい始めた。
それはこれまでに見たこともないまさに修羅場のようであった。
私は母が殺されると思って父の鉄砲をしっかりと抱きしめると
弟とふたりで押入れに隠れた。怖くてぶるぶると震えながら泣いていた。
押入れの隙間から覗いたらM兄ちゃんが必死になって母を庇っていた。
今思えばそれが悲劇の始まりだったのだろう。
翌朝には平穏が戻って来ていたように感じたけれど
そんな平穏はいつまでも続かなくなっていた。
夜の家事が終わると母がまた出掛けて行く。
父はどうして止めなかったのだろう。
言っても無駄だと諦めていたのだろうか。
父が憐れでなりながら母を守ってあげなければと思う。
家族の歯車がどこかで狂ってしまっていたのだ。
もう幾日真夏日が続いたのだろう。
連日10月とは思えない暑さが続いている。
けれども草花はちゃんと季節を知っていて
秋桜などはまるで秋を演じるように咲き誇っている。
仕事を終えて帰宅すると「純ちゃんの応援歌」を見るのが日課になった。
ずいぶんと昔34年程前のNHKの朝ドラ再放送である。
ヒロインの山口智子のなんと初々しいこと。
鶴瓶さんなどまだ青年の面影を残しながら脇役を演じている。
ヒロイン純子の母親が小学校の用務員をしているのを見て
ふと昔の母のことを思い出した。実は母も用務員だったのだ。
記憶は定かではないが確か私が一年生から三年生の間だったと思う。
もしかしたら保育園の頃から勤めていたのかもしれないけれど
幼い頃の記憶はあいまいでよく憶えていないのだった。
学校へ行けば母が居る。子供心に気恥ずかしかったような気がする。
母は自転車で通勤しており私が登校するともう仕事をしていて
掃除をしたり先生方にお茶を淹れたりしていたのだろうか。
母が仕事をしているのをはっきりと見たのは炊事室での姿だった。
当時はまだ給食はなかったけれどお昼には必ずミルクが出て
それは牛乳ではなく脱脂粉乳という粉ミルクのようなものだった。
白い三角巾を被った母が大きな鉄鍋でミルクを煮ているのを見た。
脱脂粉乳はちょっと癖のある味で決して美味しくはなかったけれど
残せば先生に叱られ何よりも母に申し訳なく思ったことだった。
昼食時、アルマイトのお弁当箱の蓋が開かず困る事が度々あり
お弁当箱を抱えて職員室へ行くこともよくあった。
「おかあさん」と呼んだのろうか。それもよく憶えていない。
担任の先生も居ただろうに蓋を開けてくれるのはいつも母だった。
授業が終わってからもすぐには帰らず校庭で遊ぶことが多かった。
毎日は無理だったけれど母と一緒に帰りたかったのだと思う。
母は自転車を押しながらゆっくりの歩調で私につきあってくれた。
楽しみだったのは夕食の買物をする時だった。
いつも寄る魚屋さんには揚げ物も売っていて私はコロッケが大好きだった。
食べたいと言えば叱りもせずに母はいつも買ってくれたのだ。
そのコロッケを食べながら帰る。私にとっては至福の帰り道だった。
四年生になる前の春休みに父の転勤が決まり引っ越すことになる。
母も当然のように用務員を辞めなくてはいけなくなった。
三年生の時の集合写真には母の姿がちいさく映っている。
新しい土地での暮らしに家族の誰もが胸をふくらませていたことだろう。
いずれ訪れるであろう悲劇など考えることもなかったと思う。
今思えば母にとっては人生の大きな転機だったのだろう。
母はまだ27歳の若さであった。
日が暮れるのがずいぶんと早くなった。
一番星を仰ぎながらこれを記し始める。
ふうと大きなため息。その理由が自分でもよくわからない。
いったい何を書こうとしているのだろう。
きっとつまらないことなのに違いない。
宮尾登美子は「もう一つの出会い」というエッセイ本のなかに
「書くことの浄化作用」なる文章を書いている。
たとえば苦しいこと辛いことがあっても書けばそれが浄化されるのだそう。
幸いと言って良いのか私は平穏な日々を過ごしており
浄化させなければいけないことなど何一つなかった。
あるのは平凡で変わり映えのしない日常のことばかり。
ある意味それが一番の幸せであることは言うまでもない。
過去を辿ればきりがない。もうそれは終わったことなのだ。
いつまでも引き摺っているようでいて吹っ切れているのだろう。
ただ母に対する愛情は?と問われると未だに素直になれずにいる。
それだけ大きな傷を負ったのだろう。その傷口がまだ残っている。
かさぶたを剥がせば血が出る。それが怖くてたまらないのだ。
宮尾登美子のエッセイ本は高知県立図書館の廃棄本だったようだ。
巡り巡って山里の図書室で息をし続けている。
その本を手に取り確かに救われた私がいた。
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