ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2021年06月16日(水) 自己暗示術

雨のち曇り。大雨と言うほどでもなかったけれどけっこう降った。

気温もあまり上がらず半袖では肌寒いほど。

「梅雨寒」と言うらしい。今の季節ならではの季節の言葉だ。



昨日コロナワクチンの接種をした同僚が腕の痛みを訴える。

力が思うように入らないらしく仕事も辛そうだった。


山里は県下一の接種率でもう50代の順番が来ているとのこと。

人口が少ないせいもあるだろうけれどとてもスムーズだと感心する。

予約制ではなく村から個別に日時を指定して集団接種をしているようだ。

70代の義父にも連絡が来ていたけれど「どうしても嫌だ」と。

まるで子供のように駄々をこねて結局受けようとはしなかった。


二回目の接種で発熱する人が多いと聞き私も昨日解熱剤をもらってきた。

まだ一回目の接種も終わっていないけれど備えておかないと

とても不安でならず医師に無理を言って処方してもらったのだ。


熱が出るのはそれだけ抗体が出来た証拠でもあるらしい。

そう聞いてもやはり不安で臆病風に吹かれている。


私にはまだ先のことをくよくよと考えてしまう悪い癖があった。

癖と言うより性分なのだろう。とてもあっけらかんとはしていられない。


なるようにしかならないのにそうなったらどうしようとはらはら

いつも悪いことばかり考えてしまうのだった。


この性分は父譲りでどうやら息子にも遺伝しているよう。

だから私と息子が話し出したら喜劇も悲劇になってしまうのだった。


その点じいちゃんは楽天家。娘もその血を受け継いでいるよう。

家族にそんな二人がいてくれて今までどれほど救われたことだろう。


私はお得意の自己暗示術で自分に言い聞かすことが多い。

暗示に掛かりやすい性格を逆に利用する術である。


「なるようになるよ」「だいじょうぶなんとかなるよ」

もはやそれが口癖のようになってしまったこの頃であった。






2021年06月15日(火) ポーカーフェイス

相変わらずの梅雨空。時おりにわか雨がぱらつく。

空になんの罪があるのだろうと思う。

空だってじっと我慢をしているのではないだろうか。



定期の通院日でいろいろあった。

詳しく書けない事もないのだけれど

今はもうすっかり気分が落ち着いているのでよそう。

ただ今日ほど自分の精神力の弱さを思い知らされたことはない。

医師に頼らず薬に依存せずなんとしても強くなりたいと思うのだ。

そのための機会を与えてもらったのだと思って乗り越えようと思う。



病院から薬局へとずいぶんと時間が経ってしまって

母の施設がある病院までは行けなかった。

年金支給日だったので入居料の支払いに行く予定だったけれど

特に今日と決められているわけではないので後日にすることに。


病院へ行っても母に面会することは叶わず

特に会いたいとも思わない薄情な娘でもあった。

そのくせよく母の夢を見るのはどうしたことだろう。

この矛盾の中に本当の私が隠れているのかもしれない。

知っているのなら教えてほしい。私は母が恋しいのですか?




帰宅が遅くなりそうだったので大急ぎで買い物。

お刺身用の鰹と揚げるだけの鶏の唐揚げを買って帰る。

そうしたら思いがけずに娘が居て今日は仕事が休みだったのそう。

洗濯物をたたんでくれていてなんとありがたいことか。


夕食の支度をしている台所でめいちゃんではなくまあちゃんが

騒ぎまわるのがなんとなく嫌だった。いくら親戚でもけじめを

そう思っているのはどうやら私だけのようだった。

子供に嫌な顔をしてはいけないと何度も自分に言い聞かすばかり。


私の感情はとてもやっかい。ポーカーフェイスが下手なのだ。

喜怒哀楽の激しいのも今に始まったことではないけれど

歳を重ねることに「怒」はずいぶんと薄れたような気がする。

ただ「哀」がいちばんの曲者なのだろう。

私にだって泣きたいほどに辛い時があるのだ。



2021年06月14日(月) やまもも

曇り日。時おり霧のような雨が降る。

無風状態で少し蒸し暑さを感じた。


職場のやまももの木が今年もたくさん実をつけ

熟れた順からぽとんぽとんと地面に落ちる。

ひとつ手に取り食べてみたら甘酸っぱくて美味しかった。

子供の頃には木にも登ったものだった。とても懐かしい味がする。


つい先日まで「やまもも」を食べるのは高知県人だけだと思っていた。

無学というか世間知らずというか恥ずかしい話である。

ある方のブログに「やまもも」の事を書いてあるのを読み

その方が何処にお住まいなのか知らないのだけれど

高知ではなさそう。関西だろうか関東だろうかと思いを巡らす。

「甘酸っぱくて美味しい」と書いてありはっとしたことだった。



話は変わるけれど某SNSに「やまもも」さんという方がいて

高知出身で今は関東に住んでいるらしかった。

SNSらしく年齢は不詳。ただ私よりも少しだけ若いようだった。

もうずいぶんと長いおつき合いとなり私のことを「おねさん」と呼ぶ。

「おねえさん」ではなく「おねさん」と呼ばれるのが嬉しかった。


そのやまももさんが一昨日だったか急に休止宣言をしたのだった。

日頃から体調の悪さを訴えていたのでなんとも気がかりでならない。

時々メールのやりとりもしていたけれど今回は躊躇する。

もしかしたらそっとして欲しいのかもしれないと思ったのだった。


ネットの世界では深入りをしてはいけない時がままある。

どんなに気になっても立ち入ってはいけないのだ。

いくら「おねさん」でも本当の姉妹であるわけもなかった。

まして顔も知らない。本名も知らない。それが「距離」である。


私自身もその「距離」を願っている。ささやかな縁であって欲しい。

ここから先は駄目としっかりと線を引いていたいのだ。


「やまもも」と自分を名づけたのには故郷の想いがあってのことか。

今年もやまももの季節になった。どんなにか懐かしいことだろう。


きっと再会できるのだと信じておねさんはずっと待っています。






2021年06月13日(日) 折り鶴

昨夜から今朝にかけて少し雨が降った。

日中は曇り空。どんよりとした空にそよそよと風が吹く。


雨がやんだら何処かに出掛けようと目論んでいたけれど

娘が仕事。娘婿も素潜り漁に出掛けたいと言って

結局孫たちと過ごすことになってしまった。

とは言え幼い頃のように孫守が必要なわけでもなく

ただおばあちゃんもおじいちゃんもちゃんと家に居るからと。


めいちゃんは昨夜からまあちゃんの家にお泊りをしていて

お昼になっても帰らず。気になって様子を見に行ったら

ひたすら「かえりたくない」と言って駄々をこねる。

姪っ子が夕方まで大丈夫よと言ってくれてその言葉に甘えた。


あやちゃんはずっと子供部屋に閉じ籠って独り遊び。

タブレットを見ながら折り鶴を作っていたようだった。

色とりどりの折り紙でそれはたくさんの鶴を上手に作っていた。

学校で習ったのだそう。6年生がもうすぐ修学旅行に行くので

無事を祈ってみんなで少しずつ折っているのだそうだ。

学校へ持って行くのかなと訊けばそうではないと言うので

せっかくの折り鶴が可哀想に思えてきて部屋に飾ることにした。


裁縫箱を部屋に運び針に糸を通す。私の目ではなかなか通らない。

あやちゃんがやってみたけれど初めての事でうまくいかない。

どれどれと私が再度やってみたらやっと針に糸が通った。


鶴の羽根を持ってそっと引っ張るとぷわっとふくらむ。

それに一羽ずつ針を通して行く。にっこりと微笑むあやちゃん。

思えばこんなふうに一緒の時間を過ごすのは久しぶりのことだった。

嬉しそうなあやちゃんの顔が見られて私もとても嬉しかったのだ。


「親ばなれ」という言葉があるのだから「祖母ばなれ」もあるのだろう。

だんだんと甘えることをしなくなり成長するのだと思う。


けれどもいくつになっても甘えて欲しいものだ。

それが親であり祖父母でもあるささやかな願いなのかもしれない。


子供部屋の壁に飾られた折り鶴を見るたびに思い出してくれるだろうか。







2021年06月12日(土) ありのまま

曇り日。今にも雨が降り出しそうな夕暮れ時となった。

めいちゃんがまあちゃんと一緒に夕散歩に出掛けていて

土手の道から手を振ってくれているのが見える。

窓辺から見える風景はいつも絵のように私を和ませてくれる。



昨夜はよけいなことを書いてしまった気がして

もしかしたら気を悪くされた方がいるのではと案じつつ

消してしまおうと思えば一瞬で消えるのだけれど

いつかまた読み返す日の為に残しておこうと思っている。

ありのままを書くことにもっと躊躇するべきなのかもしれない。


むかしお世話になっていた心療内科の先生が

「こころにベールを」と言ってくれたことがあった。

今の私はその助言をすっかり忘れているような気がする。

あの時のベールはもう破けてしまったのか。

それとももう似合わない歳になってしまったのかもしれない。

ブーケを抱いた花嫁さんではあるまいし馬鹿げた話である。






10時の開店を待ちかねて今日もカーヴスへ。

ずいぶんと溌剌としていたように思う。元気なのがとても嬉しい。

今日は数年前まで孫たちがお世話になっていた元保育士さんに会う。

退職されてからすぐに始めたそうでとても生き生きと頑張っていた。

顔なじみの人がいてくれるだけでずいぶんと励みに思う。

私などまだ序の口だけれど継続はチカラだと勇気が湧いて来た。



あやちゃん今夜はすこぶるご機嫌がよろしく嬉しくてならない。

大好物のパスタをたらふく食べて大きなお腹を撫でていた。

「おばあちゃんのお腹みたい」と言ってからかったら

けらけら笑いながらげんこつパンチをくらわしてきた。


今日は参観日で「道徳」の授業だったそう。

最近嬉しかった事はの問いに「新しい自転車を買ってもらったこと」と。

よほど嬉しかったのだろう。私も授業参観に行きたかったなと思う。


悲しかった事。辛かった事もあっただろう。

それをちゃんと言えるような子供であってほしいと願う。

我慢して言わずにいたら心の中に毒のある花が咲き乱れてしまう。

手折れば傷がつきその傷口がどんどん広がって行くのだと思う。


おばあちゃんはたまに「くそババア」と言われているけれど

いつだってあやちゃんの見方でいたい。

「だいきらい」と言われてもいい。だって大好きなあやちゃんだもの。





2021年06月11日(金) ひとそれぞれ

暦の上では「入梅」その通りというように梅雨空が戻って来る。

時おり雨がぱらついたものの曇り空のまま日が暮れようとしている。


山里の星ヶ丘公園では紫陽花と睡蓮が見頃とのこと。

なんとなく「もういいかな」と思っている。

人がたくさん集まるところはどうしても苦手だった。

独り静かなのが良い。やはり私は変わり者なのかもしれない。


「ひとそれぞれ」最近よくそんなことを思う。

SNSでは特にそう感じることが多い。

あまりにもいろんな人がいて途惑ったり複雑な気持ちになってしまう。

苦手だなと思った人には関わらないほうが良いのではないだろうか。

だんだんと好き嫌いがはっきりとしてくる。

一度嫌だなと思ったら気持ちを切り替えるのにとても時間がかかるのだ。

いかにストレスを感じずに慣れるかだとも思う。

ほんとうに「ひとそれぞれ」誰も否定できないことなのだろう。

その人にはその人の生き方があり私には私の生き方がある。






夕方またあやちゃんを怒らせてしまった。

つんつんつんの嵐に私は倒木のように崩れ落ちる。

「おばあちゃんは消えていなくなるから」と言ったら

「もういい!」と言ってどうやら許してくれた様子。

子供相手の事でも真剣に向き合う。それが私のやり方だった。

気が済むまで怒れば良いし私だって涙を流す時もある。


明日はあやちゃんの大好きなパスタにしましょうね。



2021年06月10日(木) 元気にしていますか

暑さの峠を越えたのか今日はずいぶんと涼しかった。

などど書くとまるで立秋の頃の日記のようだ。

まだまだこれから夏本番だというのに何を言っているのだろう。

とにかく暑さに慣れなければいけない。今はそのために必要な時期。



時の記念日。息子の42歳の誕生日であった。

初めて母になった日のことを感慨深く思い出している。

不思議と陣痛の痛みは思い出せない。そんなものなのだろうか。

首にへその緒が巻き付いていて少し難産だったこと。

生まれてすぐに抱くことも出来ず息子は保育器に入れられたこと。

そんなことばかりしっかりと憶えているのだった。

初めて抱いた時の感動は言うまでもない。我が子のぬくもり。

愛しさはとても言葉に出来ない程に尊いものだった。


42年もの歳月が流れほんとうに色んなことがあったけれど

今は一家の主となり父親になった我が子を想う。

程よい距離を保ちながらのこと。そうそう会うことは叶わず。

よほど困ったことが無い限り声を聴くこともなかった。


けれどもいくつになっても私たちの「こども」なのだと思う。

元気にしているか。仕事は辛くないか。そればかり案じている。


恩着せがましく「育てた」という気持ちなど毛頭ない。

むしろ親として育ててもらったのだと思うのだ。

息子にはほんとうに感謝している。どれほど救われたことだろう。


「おかあ」「おとう」と呼ばれることもなくなり

「おばあ」「おじい」と呼んでくれるようになった。


おばあもおじいも長生きします。決して迷惑はかけません。


しんちゃんお誕生日おめでとう。電話もしません。メールもしません。









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