| 2021年03月24日(水) |
主なき家にも花は咲く |
朝の気温が札幌よりも低くておどろく。
それだけ北の大地では暖かい朝だったことだろう。
少しずつ雪解けも始まっているようでほっとするばかり。
全国的に春らしくなってこそ本物の春なのではないだろうか。
仕事でお客さんのお宅を訪ねたらなんだか様子が変。
家の前の畑が随分と荒れていて「おや?」と思ったのが最初。
声をかけても応答がなく玄関には鍵が掛かっていた。
茶の間のカーテンが少し開いていたので中を覗いてみたら
カレンダーが一月のままだった。咄嗟に何かあったのだと察する。
最後に車庫を覗いたら車が無かった。とても出掛けているとは思えない。
胸騒ぎが静まらずすぐ近所で畑仕事をしていた人に訊いてみたら
今年に入ってすぐに脳梗塞で倒れ救急搬送されたとのこと。
幸い命に別状はなく今は病院でリハビリに励んでいるらしい。
車はおそらく娘さんが処分したのだろうと教えてくれた。
そしてそのまま施設に入居し家に帰ることはもうないだろうと言う。
高齢で腰が曲がっていたけれど運転はとても上手な人だった。
小柄なので座布団を運転席に二枚重ねていたことを思い出す。
2年前の車検の時も「また次も頼むね」と言ってくれたのだった。
もう会うことも叶わないのか。なんとも寂しい帰り道だった。
畑は荒れていたけれど玄関先には紫のスミレがたくさん咲いていた。
主なき家にも花は咲く。それはまるで命そのもののように逞しく。
「蝶子」という名前の人だった。そうそれは蝶々の蝶子。
きっと春に生まれた人なのに違いないと思ったことだった。
| 2021年03月23日(火) |
咲けばあとは散るばかり |
もう忘れかけていたような朝の寒さ。
山間部では氷点下のところもあったようだ。
彼岸が明けて「寒の別れ」ではないかと思われる。
季節がまっぷたつに切り裂かれる時の冬の痛みのようなもの。
日中は穏やかに晴れすっかり春の陽気となる。
あちらこちらの桜がとてもきれい。空も桜色に染まる。
ラジオから「咲けばあとは散るばかり」と声が聴こえる。
なんだか哀しい言葉に聴こえたけれど
潔くて儚い桜のそれがうつくしい姿なのだろう。
仕事を終えて帰り道。県道沿いの桜が見事でしばし車を停める。
ゆっくりと歩いてみたい気持ちを抑えてつかの間のお花見だった。
まだ見納めではないだろうと思いつつもなぜかせつなくてならない。
なんだか失うのがこわいのだ。それは愛しければ愛しいほどに。
後ろ髪を引かれるようにまた車を走らせていた。
「晩ごはんは何にしようかな」と考えながらのこと。
少し冷え込んだ朝。日中もあまり気温が上がらず冷たい風が吹く。
これこそが「花冷え」「弥生つめたい風」という歌もあった。
先週の金曜日にはまだぽつぽつだった桜が一気に咲く。
山里の郵便局の桜もほぼ満開になっていた。
わくわくしながら写真を撮るも風が強く思うように撮れず残念だった。
そのうえ周りに人がいるとどうも気が散ってしまっていけない。
スマホならまだしもガラケーなので恥ずかしい気持ちも確かにある。
「それがどうした」とほんの少しの強気も必要なのかもしれない。
けれどたかが写真。されど写真とこだわるのも程々が良さそう。
午後、隣町の宿毛市まで集金。一番のお得意様なので手土産を。
今日は山里産の烏骨鶏(うこっけい)の卵を持参する。
山里の地場産店で売っていた物で私も初めて見る卵だった。
普通の地鶏の卵よりも小さく殻はウズラの卵に似ていた。
卵かけご飯にしたらきっと美味しいだろうなあと思う。
もちろんそんな高級な卵など一度も食べたことはないのだけれど
真っ白な炊き立てのご飯にぽっこりと浮かぶ黄身が目に浮かんだ。
「まあ珍しいものを」ととても喜んでもらえて嬉しかった。
お客様は神様の気持ちを決して忘れてはいけないと肝に銘ずる。
帰り道のラジオから「弥生つめたい風」が流れてきて
ついつい口ずさまずにいられなかった。
ああ今日はなんて「いい日」なのだろうとすごくすごく思う。
昨日から降り続いていた雨がやっとやむ。
午後には少し陽射しもあり暖かさに拍車をかけていた。
お大師堂の桜がぽつぽつと咲き始める。
枝が川面に手を伸ばすようにありやがて水辺を彩ることだろう。
楽しみなことがあるとこころが浮き立つようだった。
昨日整理した衣類を市の資源ごみ回収所へ持って行く。
孫達のサイズダウンした衣類もたくさんあって
娘が普通ごみに出せば良いのにと言ったのだけれど
焼却炉に放り込まれるのかと思うとなんとも嘆かわしいのだった。
以前は隣町のリサイクルショップで引き取ってもらっていた。
状態の良い子供服はまた何処かの子供が着てくれるのが嬉しくて
懐かしさも思い出も引き継がれるようなロマンがあったのだ。
今回はそれを諦めてしまったけれど資源になるのならと思う。
いったい何に再生されるのだろう。生まれ変わった姿を見てみたい。
昔は知り合いやご近所さんから頂いたお下がりの服ばかりで
息子や娘に新品の洋服を着せてあげることが出来なかった。
暮し向きも楽ではなく今のように格安の子供服を売る店もない時代。
ふたりの子供たちはそれを少しも嫌がらず喜んで着てくれたのだ。
ミシンで手作りの服もよく縫った。スモックやパジャマなど
縫製工場で破棄する布を貰って来ては可愛い服がちゃんと出来た。
娘が保育園に入園する時には私のワンピースに型紙を当てていた。
お気に入りのワンピースだったけれど娘のためならと鋏を入れる。
忘れもしないワインレッドの可愛いワンピースで娘は入園した。
その時の写真が今もアルバムにあり見るたびに胸が熱くなる。
そんな昔の記憶のせいもあり私は子供服に異常なほど愛着がある。
簡単には捨てられない。まして「ごみ」などとは思いたくもない。
今はすぐに新しく買えば良い時代になったのだろう。
気に入らない服には手を通さなくても叱ることも出来なくなった。
娘のワンピースは当然のように今の我が家では見つけられない。
いったい何処に行ってしまったのだろうか。
朝から雨が降り始め今も降り続いている。
幸い小雨でいかにも春らしい優しい雨になった。
桜が咲いていたら「桜雨」まだそうと言えないのが少しもどかしい。
けれどもこの雨で一気に蕾がふくらむことだろう。
週末は川仕事と意気込んでいたけれど
「ゆっくり休めや」とじいちゃんが言ってくれて
ありがたくのんびりと過ごさせてもらった。
たまには真面目に家事をしようと思って
衣替えをしたり毛布を洗濯して乾燥機で乾かしたり
冬物の衣服の断捨離も出来て毛布も押入れにしまった。
けっこう有意義だなと思う。家事はこんなに楽しかったのか。
夕食時、緊急地震速報が流れ東北でまた大きな地震があった。
津波も発生とのことではらはらと心配でならない。
とても他人事ではなく明日は我が身だと思わずにいられないこと。
南海トラフ大地震が今夜起こることもあり得るのだと家族で話す。
平穏無事は決して当たり前の事ではないのだと改めて思った。
孫たちの笑顔がいつも以上に愛しくてならない夜。
今朝は少し肌寒くなり「寒の戻り」というより「花冷え」だろうか。
それも日中の寒さを表す言葉だと思うので間違いかもしれない。
古くからの日本語はとても風情があり好きなのだけれど
私のように無知無学な者は時に使い方を間違ってしまうことがある。
日中は今日も20℃を超えすっかり春の陽気となった。
「桜色」は元々山桜の色を指すのだと初めて知った朝のこと。
葉が緑ではなく茶色を帯びた桃色をしているので
遠くから見ると山がほんのりと桃色に見えるからなのだそう。
それが「桜色」の由来だと朝のラジオで聴き目から鱗だった。
ちょうど山道でのこと。しみじみとその桜色を眺める。
里の染井吉野はまだ蕾だというのに山桜はほぼ満開に見えた。
今週の仕事を順調に終え少し早めに帰宅する。
娘が遅くなると連絡がありめいちゃんをお迎えに保育園へ。
担任の保育士さんに卒園式の詳細を訊ねたところ
人数制限があるものの卒園児の祖父母も出席しても良いとのこと。
思わず「よかったあ」と歓声をあげてしまった。
しかし昨日のこと市内からコロナ感染者が出ていて
もし拡がるようであれば卒園式が中止になる可能性もあるという。
あと一週間ほどなのだ。なんとしても感染が拡がらない事を祈る。
夕方のニュースでまた一人増える。しかも変異株だと聞き驚く。
いったいどんな経緯で感染したのか報道では全くわからなかった。
また大きな不安。ひしひしと恐怖心に苛まれるばかりである。
子供になんの罪があるのだろうと思わずにいられない。
どうかどうか無事に卒園式が出来ますようにとひたすら祈っている。
桜色に染まる春。それはきっと平穏無事の色なのに違いない。
今日も20℃超えの春らしい陽気となる。
南風がそよそよ。いつまでも吹かれていたいような風。
朝の峠道を越え山里の民家が見え始めると
県道沿いにラッパ水仙がたくさん植えられており
その可愛らしい花が一斉に微笑んでいるのだった。
思わず「おはよう」と声をかけたくなる。
こころを和ませてくれるなんとありがたい花だろうか。
お昼時になるとめいちゃんのことを思わずにいられなかった。
今日は保育園最後の「お別れ遠足」の日。
そろそろお弁当を広げている頃かなと目に浮かべてみたり
楽しそうな笑顔がまるで空に映っているような気がする。
来週末には卒園式。保育園生活も残りわずかとなった。
仕事を少し早めに終らせてもらって定期の病院へ。
医師との短い面談で特に変わりはないと告げたかったけれど
このところずっと血圧が高めなのをついつい話してしまう。
特に自覚症状もなく元気なのだけれどたまには嘆いてみたかったのか。
医師の対応の早さには驚く。血圧の薬を強めのものに変えようと言う。
なんだかまな板の上のお魚の気分。上手に捌かれているような。
お薬が変わったおかげで薬局の待ち時間がとても長かった。
もううんざりだと思い始めたところでやっと名前を呼ばれる。
担当の薬剤師さんは私と同年代だと言いとても優しい口調で
自分も同じお薬を飲んでいるのだと。「歳には勝てませんね」
みんな一緒なのかと思うとなんだかやたらと嬉しくなるものだ。
周りを見渡せばあの人もこの人も仲間なのだと思わずにいられない。
薬局を出て近くの河川敷に菜の花を見に行っていた。
ひと月前にはまだ満開ではなかったので一面の菜の花を期待して。
それが時すでに遅く菜の花はすでに菜種になっていたのだった。
少しがっかりとしたけれどふっと目の前が明るくなった。
種さえあればまた咲ける。そのための種に違いないと。
それは少し老いることにも似ている。
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