晴れのち曇り。朝の寒さもつかの間のことで日中は暖かくなる。
職場の栴檀の木の実がすっかり色づき青空に映える。
つい先日まではオリーブ色だったのが黄金色に変わり
まるで空に宝石を散りばめたように見えるのだった。
木の実って好きだなとおもう。なんだか木の命のように感じる。
あやちゃんマラソン大会の日。応援に行きたかったけれど行けず。
娘も仕事が休めないそうでじいちゃんも川仕事だった。
「だいじょうぶ、がんばろうね」と送り出した朝のこと。
夕食時にあやちゃんがぽつりと寂しそうに呟く。
「おうえんに来ていないのあやだけだった」と。
でもいっしょうけんめいに最後までがんばって走ったのだそうだ。
そんな健気な言葉にほっと胸を撫で下ろしながら
可哀想な事をしたなととても悔やまれたのだった。
仕事の途中で抜け出すことも可能だったのに
「まあいいか」とあえてそれをしなかったのだから。
来年にはきっと応援に行こう。ゆびきりげんまんしようね。
ふとマラソンが大の苦手だった子供の頃を思い出す。
沿道に母の姿を見た記憶がなかった。
それが当たり前の時代だったのかもしれない。
ただ走り終えた後の「あめ湯」がとても美味しかったことを憶えている。
高校時代には仮病を使ってずる休みをした。
それがバレたのかどうだか後日数人でコースを走らされた。
「おまえらみんな赤点だぞ」と確か教師は竹刀を持っていたような。
あの時の辛かったこと。ほんとうにぶっ倒れそうに苦しかった。
持久力は今もない。ただ生き永らえることだけが私の持久走だ。
今朝はこの冬いちばんの冷え込み。
まだまだこれからの寒さなのだろう。
「かかってこいや」と思うことにしよう。
そう何事も「かかってこいや」なのだ。
「はっけいよいのこった」でもいい。
まだ私にもかすかに勇気のようなものがあるらしい。
あやちゃんのパジャマが小さくなってしまったので
仕事帰りに西松屋に寄って買って来たのだけれど
ジュニアサイズの在庫が少なくやっとの一枚を見つける。
よくよく考えたらもう西松屋の年頃ではないのだった。
来年にはもう大人用のSサイズになっていることだろう。
お財布も寂しかったのでめいちゃんには買わずに帰る。
お姉ちゃんのお下がりばかりで可哀想だなと思ったのだけれど
我慢してくれるだろうと勝手に思い込んでいた。
それが大間違いで娘に泣きついたようだった。
私には一言も言わないでそれがめいちゃんの精一杯の「がまん」
子供心におばあちゃんに言ってはいけないと思ったのだろう。
私の配慮が足らないせいでめいちゃんに悲しい思いをさせてしまった。
ごめんね。めいちゃんおばあちゃんが悪かったね。
夕方になり娘が西松屋へ走る。それでなんとか一件落着となった。
お風呂上がりのふたりをそっとのぞきに行く。
あやちゃんが「めいのパジャマはいっぱいある」と言っていて
それを言ったらいかんよと「シー」と人差し指を口にあてた。
曇り日。日中の気温も上がらずなんとも肌寒い。
そうして霜月もとうとう晦日となる。
明日からはもう師走。なんだか信じられないような早さで
あっという間に年末になってしまいそうだった。
背中を押されたくはない。私は立ち止まりたい。
そうでなければ自分を見失ってしまいそうでこわい。
月末の仕事を終えほっと肩の荷をおろし
帰宅したらポストに友から便りが届いていた。
先日の新聞を読んでくれたらしく思いがけずに嬉しいこと。
ちょっとした感想も添えられてありよけいに嬉しく思う。
「お元気ですか?」その書き出しから
彼女がこの日記を読んでいないのかもしれないと思う。
ずっともしかしたらと思っていたけれど思い違いだったのか。
それなのに私がずっと仕事を続けていることを彼女は知っていた。
ほんとうのことは分からない。訊く勇気などあるはずもなく。
ここにこうして記すことさえにも戸惑っている自分がいた。
明日返事を書こう。もちろん「元気にしていますよ」と。
私はどちらかと言うとメールが苦手で
すぐに返事をしなければいけないのかと強迫観念に陥る。
SNSのコメントも同じで返事を迫られているように感じるのだ。
だから「会話は時々」と言うカタチでなんとか乗り切っている。
その点手紙はとてもありがたい。ゆっくりと返事を書ける。
それくらいの距離を私は求めているのだろう。
| 2020年11月29日(日) |
月うさぎ話を聞いてくれますか |
冬らしく冷え込んだ朝。夜明け前にはきれいな月が空にぽっかり。
ふと「月うさぎ」という言葉が浮かぶ。
月うさぎ話を聞いてくれますか私がどれほど想っているか
そんな歌を詠む。まるで恋をしているような歌になった。
誰かを想う気持ちいこーる恋ではないのだと思う。
とある女優さんだったか死ぬまで恋をしていたいと言っていたような
それはあり得ない。もし恋をするなら相手は「いのち」なのだろう。
今日は無性に美味しいラーメンが食べたくてたまらず
じいちゃんに話したら「俺は別に」と言って興味がなさそう。
お昼までになんとしてもその気にさせようと目論んでいたのだけれど
なんということでしょう。娘が仕事でさっさと出掛けて行ってしまう。
娘むこも早朝から素潜り漁に行っていて留守。じゃあ孫たちは?
まったくの予定外で孫たちと過ごす日曜日になったのだった。
「仕方ないね」とじいちゃんに言ったらなんと嬉しそうな顔。
それでも「来週にするか」と言ってくれてまあ良しとしよう。
孫たちは近所のお友達が呼びに来てくれてお友達のお宅へ。
お昼まで一緒に遊んでくれて午後からもまた呼びに来てくれる。
一日中預かってもらったカタチになりとてもありがたかった。
夕方、娘むこが伊勢海老をお裾分けに持って行ってくれて
しっかりお礼も出来てほっとしたことだった。
「いい肉の日」だそうで今夜は焼肉。
みんなでわいわいいつもより「いい肉」でがっつりと食べた。
| 2020年11月28日(土) |
時間の余裕。こころの余裕 |
冷たい風の一日。やっと冬らしくなったと言うべきだろうか。
それでもおひさまは精一杯に微笑んでくれてありがたいこと。
やわらかな陽射しを浴びているとふと気が遠くなる。
それがまるで夢のように思えてふわりと宙を漂っているような。
何処に向かっているのだろう。空に吸い込まれてしまいそう。
午前中はゆっくりと休ませてもらって午後から職場に向かう。
川仕事でも無い限りそんなことはめったにないのだけれど
自分なりに段取りをして夕方まで仕事をすることにした。
夕陽を仰ぎながら家路を急ぐのもなかなか良いものである。
朝来た山道を帰っていたら外国人女性のお遍路さんと出会う。
それは後ろ姿ではなかったので車を停めて声をかけることが出来た。
笑顔で「ハロー」と言うと思いがけない日本語で「こんばんは」と。
もう夕暮れ近くの事、山里の民宿に泊まるのかもしれないと思う。
詳しくは訊けなかったけれど野宿ではなさそうでほっとする。
「気をつけてグッドラック」と言うと「ありがとうさよなら」と。
ほんのつかの間の事だったけれどなんと清々しい笑顔なのだろう。
気がつけば鼻歌を歌いながら峠路を下っていた。
ささやかな出会いであってもこんなにも嬉しいものなのだと思う。
帰宅すればすぐに夕食の支度。不思議と疲れを感じることもなく
娘と肩を寄せ合ってあれこれとおしゃべりも楽しいもの。
時間の余裕。こころの余裕。今日はとてもいい感じだった。
おおむね晴れ。日中は今日も小春日和となる。
そんな暖かさも今日までのようで明日から冬型の気圧配置になるそう。
いよいよ木枯らしの季節になるのだろうか。
色づいた木の葉も風に舞い木々は裸になりまるで骨のような
枝でいて空に手を伸ばす姿が見えるようだった。
どうやら私は「冬らしさ」を待ち望んでいるらしい。
めいちゃんを保育園に送り届け山里の職場に向かう朝。
お遍路さんがひとりふたり。野宿のお遍路さんは一目で分かる。
なんと重そうな荷物なのだろう。小さなお鍋がぶら下がっていたり。
テントや寝袋が入っているだろう荷物に傘が突き刺さっていたりする。
思うように声をかけられずただただ会釈をしながら追い越して行く。
これからの冬遍路。厳しい寒さも一歩一歩乗り越えねばならない。
仕事が忙しくもう12月の半ばまで予約で埋まる。
この勢いのままあっという間に今年が終わってしまいそうだ。
なんだか無理やり背中を押されているような気がする。
ゆっくりと歩きたい。走りたくはないのだけれど。
忙しいはこころを亡くす。慌ただしいはこころを荒らす。
こころを守れるのは自分自身なのだと肝に銘じておこう。
晴れのち少し曇り。夕方にはきれいな夕焼けが見えた。
雲が多いのにそれを「ほうずき色」に染めながら陽が沈んでいく。
茜色ではなく「ほうずき色」だと教えてくれたのは田村くんだった。
旅先から絵葉書を届けてくれてからもうひと月が経とうとしている。
今は何処に住んでいるのだろう。その葉書には住所がなかった。
今朝は久しぶりにめいちゃんと保育園へ。
半袖を着ていたので長袖に着替えるように言ったら
「寒くないもん」と怒ってしばしトイレに閉じ籠ってしまう。
娘が宥めてくれてやっと桃色のカーディガンを羽織って行く。
ちょっとしたことで気を損ねてしまうのだ。それも成長の証だろう。
職場に着いてからすぐに友に電話する。
昨日の事がとても気になっていた。まやちゃんのこと。
聞けば新聞を読んでくれたらしい。それだけでじゅうぶんだと伝える。
連絡先は敢えて聞かないことにした。「何でよ?」と友は不信がる。
50年以上の歳月が流れてしまいそれぞれの人生模様もあるだろう。
同じ県内とは言え遠く離れた場所に居て再会も叶うはずがない。
子供の頃の面影のままそっと思い出に包まれていたいと思うのだ。
まやちゃんもきっとそれを願っているのではないだろうか。
「気が変わったらいつでも言えよ」と友は言ってくれたけれど
私の気は変わらないと思う。今さら歳月を埋めようとは思えない。
懐かしさと思い出は似ているようで時にはカタチを変えるのだ。
一歩間違えたら壊れてしまうことだってあり得ると思う。
だからそっとしておく。まやちゃんも私もずっと子供のままでいよう。
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