曇り日。陽射しがないとこんなにも肌寒いのか。
気温はさほど低くなかったけれど冬の声を聴いた気がする。
つくづくとおひさまのありがたさを感じた一日だった。
今朝は何気なく開いた新聞の「あけぼの欄」に
先日投稿したばかりの自分の雑文が掲載されていておどろく。
11月19日の日記「人参のきんぴら」であった。
人参は「ニンジン」と書き換えられていたけれど
本文はそのままでまさに日記そのものが活字になっていたのだった。
じいちゃんは気がつかなかった様子で何も言わない。
「秘密にしておこう」そうして「やったあ」と一人ほくそ笑む朝。
それにしても20日にポストに投函したのがもう掲載されるなんて
夢にも思っていなかった。こんなこともあるのだなと驚くばかり。
これからも書き続けられる限りと励みになったのは言うまでもない。
日々の事、日々の想いを大切にしようと改めて思ったことだった。
出勤途中にメール。先日も一番に気づいてくれた友からだった。
すっかり忘れていたけれど彼は「まやちゃん」を知っていたのだった。
同じ高校の同級生で昔「まやちゃん」の事を話したのを思い出す。
もちろん今は結婚していて姓と住んでいる町の名を教えてくる。
それがどれほど思いがけなかったことだろうか。
私の記憶の中のまやちゃんはおさげ髪の小学生のままだったから。
友の計らいで詳しい住所と連絡先を調べてくれることになる。
なんだか一気に話が進んでしまって少し戸惑う自分がいた。
まやちゃんが今日の新聞を読んでくれるだけでいい。
それだけで良いのだ。
晴れたり曇ったり。朝は初冬らしい寒さとなる。
きりりっとした寒さが心地よく窓を開けて星空を仰ぐ夜明け前。
星に願うことはなにもないけれど
ふと希望のようにおもうのだった。
さぞかしみすぼらしいであろう我が身に
羽織る衣が空にあるような気がしてならない。
きらきら。それがふさわしくなくても
きっと生き永らえられるのかもしれない。
仕事でお客さんのお宅を訪ねたら
庭先に純白の山茶花がこぼれんばかりに咲いていた。
それは少し散り始めてもいたけれど蕾もいっぱい
「まだまだ咲くよ」とその花枝を手折ってくれたのだ。
それから「ちょっと待っていて」と今度は紅い山茶花。
「白だけじゃさびしいでしょ」と私は紅白の花を抱く。
山茶花の花を胸に抱いたのは生まれて初めてのことであった。
事務所に帰って早速に花瓶に活ける。気分がぱあっと明るくなる。
散れば花びらを集めよう。蕾が花開くのを楽しみに待とう。
帰宅して夕飯の支度になれば孫たちも加わりそれはにぎやか。
どうやらふたりとも料理に目覚めたらしく頼もしいこと。
あやちゃんはワンタンスープを作り
めいちゃんはブロッコリーを湯がく。
「もっとやりたい」と言い出し娘とふたりてんやわんやだった。
三日坊主になるかもしれないけれどとことんやらせてみようと。
さあて明日の夕飯は何にしましょう。献立に頭を悩ますのも楽しい。
北西の風が吹きやっと冬らしさを感じる。
気温は20℃ほど。たっぷりの陽射しに救われたようだ。
雲ひとつない青空を見あげながらほっこりと過ごす。
水仙の花が咲き始める。まだ一輪二輪とひっそりだけれど
冬を代表するような花でとても誇らしげに見える。
午前中に孫達と近所のお友達も一緒にドッチボールをして遊んだ。
たまには童心に返るのも良いものでとても楽しかった。
途中から娘も加わりだいのおとながきゃあきゃあとはしゃぎまわる。
子供の頃には得意だったドッチボールも今となってはへなちょこで
何度もボールを受けそこなっては鬼役にまわるのだった。
そのたびに「えいやあ」とボールを投げつけるのがとても愉快。
中学時代にはバスケットボールをしていた。
高校ではテニス。大人になってからバドミントンを始めた。
29歳から55歳までだったか思えばながいバド生活であった。
70歳まで出来ると思っていたけれどそうは問屋が卸さず
体力の限界もあり運営していたクラブも廃部にせざる得なかった。
ちょうど東日本大震災の年の事で運営費の残高を寄付し終了した。
今でも時々昔のバド仲間にばったり会うこともあって
同年代の仲間に「また一緒にやろうよ」と誘われることもある。
気持ちはあっても体力がなく自信もない。おまけに10キロも太って。
あああと嘆きながらひたすら現実を受けとめているばかりであった。
老人クラブって何歳になったら入れるのかしら。
ゲートボールとかやってみたいな。
二十四節気の「小雪」木枯らしが吹き始める頃とされ
本格的な冬の始まりを知らせてくれるはずなのだけれど
今日も日中はとても暖かくなりまるで春のような風が吹く。
お隣の山茶花がもう散り始めてしまって花びらがたくさん
我が家の庭にも舞い込んで来ていてなんだかふっとせつない。
掃き掃除もせずそっとそのままにしておくことにした。
掃き集めれば塵になるのが可哀想にも思えたのだった。
朝のうちにお大師堂へ。すっかり日曜日の恒例となる。
お参り仲間のいとこから北海道の青年が数日逗留していたことを聞く。
初めて彼に会ったのは5、6年前だっただろうか。
夏の間にアルバイトをして貯めたお金で四国へやって来る。
自転車を買い求めお遍路をしながら観光も兼ねての気ままな旅だった。
今年もそんな季節になったのかと感慨深く思っていたけれど
あまりの長逗留にどうやらSさんと口論になったらしい。
お大師堂はよほどの事情が無い限り連泊を禁止しており
彼の自由気ままさがどうやら仇になったようだった。
もしかしたら私との再会を待っていてくれたのかもしれない。
それは思い過ごしかもしれないけれどなんとなくそんな気もする。
「おかあさん」といつも呼んでくれた笑顔が懐かしくもあった。
まさか追い出されるとは夢にも思っていなかったことだろう。
申し訳なく気の毒でなんだか胸が締め付けられるように痛む。
お大師ノートに彼の殴り書きが残されていた。
そこにはSさんに対する怒りが爆発したかのような言葉の数々。
それを悪口と言ってしまえばそれまで。けれどもどんなにか
辛い出来事だったのかが読み取れる内容であった。
最後に「死に場所をさがしてやる」と書いてあり目を疑う。
あの陽気で明るい青年がと。いったいどんな重荷を背負っていたのか。
彼にとっては第二の故郷だったのかもしれない四国で
命を粗末にすることだけは決して許さないと思ったのだ。
生き抜くためのお遍路であってほしい。
生きようと思えるような旅であってほしい。
真っ青な海は決してきみの墓場ではないのだから。
もう二度と会うことは叶わないかもしれないけれど
もし会えたならきみをぶん殴ってやる。
これでもかこれでもかとそうしてきみと一緒に泣こう。
| 2020年11月21日(土) |
あの時の苦労があってこそ |
今朝は少し冬らしさが戻って来てなぜかほっとする。
やはり季節に似合った「温度」が必要に思うのだ。
寒さあってこその「ぬくもり」はとてもありがたいもの。
いとこの息子さんから「ツガニ」をたくさんいただく。
別名「モクズガニ」とも言い上海蟹によく似ているのだそう。
卵やカニ味噌が詰まっており今が旬の川の幸である。
今はいただいてはご馳走になってばかりいるけれど
昔は私達夫婦も「ツガニ漁」をしていた頃があった。
じいちゃんが30歳、私が25歳の頃から始めたと記憶している。
お舅さんが亡くなったばかりで後を継いだのだけれど
慣れるまではほんとうに大変で苦労の多い仕事だった。
餌にするお魚のアラ等を街の魚屋さんに貰いに行って
竹で編んだ巻き簾にくるくるっと巻き漁の準備をする。
カニ籠は80個位だったろうか、その分の餌が必要であった。
餌を保存するような特別な冷蔵庫もなかったので
翌朝漁に出掛ける頃には仕方なく異臭が漂っていたりする。
籠と餌を軽トラックに積み込みシートで覆い隠すようにして出掛けた。
四万十川ではなく隣町の山深い小さな川ばかりで
それぞれに縄張りのような場所がありカニ籠を川に浸けて行く。
時には近くに民家がありそこの人に睨み付けられることもあった。
それがいちばん嫌だった。堂々と胸を張れない心苦しさを伴う。
それでもそうして食べていかなければいけない。
幼子ふたりを抱えてのどん底の暮しを余儀なくされていた頃。
大きな蟹は関西方面等に出荷したけれど小さな蟹は食卓にあがる。
姑さんが石臼で細かく砕いて「ふわふわ汁」をよく作ってくれた。
それがとても美味しくて何杯もおかわりをしたことを憶えている。
川漁師だけでは生計が成り立たなくなりじいちゃんは再就職。
毎月のお給料がどんなにありがたかったことだろう。
私も近くの縫製工場に就職しやっと人並みの暮しが出来るようになる。
ツガニを食べるたびに思い出す遠き日の事が今ではとても懐かしい。
あの時の苦労があってこその今である。貴重な体験をさせてもらった。
もう35年以上の歳月が流れてしまった夜にこれを記す。
雨のち晴れ。夕方から北西の風が吹き始める。
西の空はうろこ雲。ほんのりと紅く染まりなんときれいだった。
「夕暮れ時はさびしくて」そんな歌もあったけれど
しんみりとするどころか夕飯の支度へとこころが動くばかり。
若き日のあの涙ぐむようなせつなさは何処に行ってしまったのだろう。
恋をすることはなくなったけれど「愛しさ」はどんどんふくらむ。
老いるということはきっとそういうことなのかもしれない。
夕飯時にまたあやちゃんを怒らせてしまった。
あまりに文句を言うものだから「もう一回言ってみなさい!」と
きつい口調でにらみつけたら怒って子供部屋に閉じ籠ってしまう。
娘が宥めに行ったら「おばあちゃんと一緒に食べたくない」と言う。
今日の私は悲しくはなかった。「ふん勝手にすれば」の気持ち。
「子供相手にムキになるなや」とじいちゃんは笑うばかり。
怒るなら怒ってやる「倍返しだ」「かかってこいや」
あやちゃんはかかっては来なかった。泣いてもいなかった。
私の顔を見ないようにしながら黙々とご飯を口に運んでいたのだった。
愛しさは言葉には出来ず愛しさは時にすがたを変える。
日記に書いたよと言えばまたきっと怒られてしまうだろう。
だからこれはひみつ。あやちゃんには内緒にしていてくださいね。
夜が明けておどろいたのは入道雲だった。
もくもくとそれはまるで生き物であるかのようにゆっくりと動く。
11月も半ばを過ぎて夏の名残だとも思えず
「季節はずれ」としか言いようがない不思議な光景であった。
週末には平年並みの気温に戻るとのこと
寒さは苦手だけれどやはり初冬らしくあってほしいとおもう。
あり合わせのお弁当を食べながらふっと子供の頃を思い出す。
まだ給食もなっかた頃のこと母は毎日お弁当を持たせてくれたけれど
どんなお弁当だったのかまったく憶えておらず
美味しかったと言う子供心さえなんだか失ってしまったようだ。
勤め人だった母にとってどんなにか忙しい朝だったことだろう。
憶えていないなどと言ったらきっと悲しむに違いないと思う。
それなのに仲良しだった「まやちゃん」のお弁当はよく憶えている。
ほぼ毎日のように「人参のきんぴら」が入っていたのだった。
まやちゃんは人参が嫌いだったので「また入ってる」と嘆いた。
残して帰るとお母さんに叱られるといつも泣きそうな顔をする。
ある日のこと良いアイデアが浮かんだ私は「食べてあげる」と。
それがまやちゃんを助ける一番の方法に思えたのだろう。
人参のきんぴらはほんのり甘くてとても美味しかった。
うちのお母さんも作ってくれたら良いなあと思ったくらいに。
学校から帰るといつもまやちゃんの家で遊んでいた。
空っぽのお弁当箱を見てまやちゃんのお母さんがとても喜んだのだ。
「人参食べられるようになってえらいね」とほめてくれた。
「おいしかったでしょ?」と訊くので困ったまやちゃんに
小さな声で「おいしかった」と言うとそのまま伝えたのだった。
ふたりで顔を見合わせて苦笑いしたことをよく憶えている。
それからずっと私は「人参のきんぴら係」になったのだった。
まやちゃんのお母さんを騙している罪悪感が確かにあったと思う。
だから今でも忘れられずにいるのではないだろうか。
半世紀以上の歳月が流れたけれど私はあれ以来食べたことがない。
まやちゃんと同じく人参嫌いのひとと結婚をしたのだった。
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