ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2020年10月28日(水) あしたに向かう

曇りのち晴れ。気温が25℃まで上がりまさかの夏日となる。


朝の山道につわぶきの花が咲き始めほっこりとこころが和む。

小さな向日葵のような黄色い花が山肌からこぼれているのを

包み込むような木々はそろそろ紅葉のしたくを始めている。


歌を詠みたいと思うだけおもって何もできないもどかしさ。

短歌には季語が必須ではないけれど秋らしい歌が詠みたい。

最近のマンネリ化は自分でも呆れかえってしまうほどひどい。

そう感じるほどにまた自信をなくしてしまうばかりである。

このままでいいのだろうかと不確かな渦にすでに巻き込まれている。

こうなったらもうその不確かさを歌に詠むしかないのだろう。


わたしは歌人でも詩人でもない。それが救いでなくてなんだろう。

無名だからこその自由を逆手にとってみせようとも思う。

生きている限り限界はない。いまいのちをかけなくてどうする。


あしたのことがわからない。だからあしたに向かうのだ。



2020年10月27日(火) 柚子の香りにつつまれて

晴れ時々曇り。それでもおひさまは元気でいてくれて

日中は半袖でも過ごせるほどの暖かさだった。

10月も残りわずかなんだか足踏みをするように過ごしている。

何処に向かっているのだろうとこころに問えば

まるで見知らぬ冬がそこにあるような気がしてならない。




仕事でお客さんのお宅を訪ねたらコンテナいっぱいの柚子をいただく。

丹精込めて育てた柚子だろうに集荷場で返品になったとのこと。

ほんの少しの傷も許されないのだそうだ。なんとも憐れでならない。

果汁にすれば良いものをと素人考えでそう言えば

「そうそううまくはいかないもんさ」と笑い飛ばされてしまった。

決して嘆くことをしないで明日も収穫を頑張るのだと言う。

それは返品覚悟のこと。思わず涙が出そうな出来事であった。


柚子の香りに包まれながら帰宅。お向かいの奥さんにお裾分け。

週末には搾って果汁にしよう。大切に頂かなければいけない。



夕食時。またあやちゃんとひと悶着あり。

今夜は娘が珍しく叱ってくれてしゅんと泣きそうなあやちゃん。

少し可哀想だったけれどたまにはそんな日もあって良いだろう。

じいちゃん曰く「叱るのは親、おばあは何も言うな」


おばあはあやちゃんもめいちゃんも可愛くてならない。

目くじら立てて怒っているおばあには決してなりたくはないのだ。


あれこれいろいろあったけれど今日も「いい日」でした。

こころからありがとうございました。







2020年10月26日(月) 秋桜な日のオムライス

爽やかな秋晴れ。朝の寒さもつかの間の事で日中はぽかぽかと暖かい。

ラジオから山口百恵の「秋桜」が流れるのをうっとりと聴く。

「こんな小春日和の穏やかな日に」とそれは歌っているけれど

小春日和は冬の季語だと聞いたことがあるような気がする。

それが本当なら秋桜の季節ではないことになってしまうのだ。


詩はむつかしい。言葉にするのはむつかしい。

決して自分が納得すれば良いというものでもない。

ひとのこころを打ち共感を誘うことは容易いことではないのだと思う。


それにしても「秋桜」は胸に沁みる。母の面影にふっと胸が熱くなる。

いつか私もそんな詩が書けるようになりたいものだ。




仕事を終えて買い物。無性にオムライスが食べたくてならず

家族も喜んでくれるだろうと思い込んでいたけれど

あやちゃんが「白いご飯がいい」と我儘を言って困らす。

いつものことと笑い飛ばすことが出来ずとても気落ちする。

我儘を叱る気力もなくひたすらあやちゃんの様子を見ていたら

口をゆがめて嫌そうに食べていたのでまたまた悲しくなった。


ふうとため息。どうやら今夜はひどく疲れているようだ。

めいちゃんが「ああおいしかったまんぷく」と言ってくれて

まるで天使が舞い降りて来たように嬉しかった。





2020年10月25日(日) 思い出と約束と

連日の快晴。どこまでも澄み渡った空の青さに風が

「もうなにもいらない」と吹き抜けていくばかり。


私はいったい何を欲しがっていたのだろうとおもう。

足るを知ればこれほどまでに救われると言うのに。

愚かさを思い知る。私も風になれるかもしれない。



あまりの好天に誘われるようにじいちゃんと出掛ける。

ふたり元気なうちにといつもおもう。

先日のかず兄の死からよけいにそう思うようになった。

なんだかふたりして思い出作りをしているようでもある。

「さて何処に行こうか?」私は無性に海が見たくなって

西に向かい大月町から柏島へと車を走らしていた。

燦々と降り注ぐ陽射しにきらきらと光る青い海。


車中談の楽しみもあるけれど昼食がもっと楽しみで

道の駅にある「まあるいお月さま」と言うレストランで

ふたり大好きなラーメンを食べる。それがとても美味しかった。

スープまで飲み干し「また来ようね」と約束をする。

「今度はオムライスが食べたい」と私が言ったら

「おまえは食べることばっかりだな」とくすくすと笑った。


思い出がまたひとつ増える。約束がまたひとつ増える。

それが決して当たり前の事ではないことを知っているからこそ

愛しいものなのだ。失うのがこわいかけがえのないひとがそこにいる。





2020年10月24日(土) ちゃんちゃんこを羽織る

雲ひとつない青空。おかげで日中は暖かくなったけれど

朝晩の冷え込みにはいささか老体が泣き言を言って困らす。

お風呂で温まってもすぐに身体が冷えてしまうので

先ほど押入れからちゃんちゃんこを出して羽織ったところ。

そうして焼酎のお湯割りなど飲めばほこほことやっとぬくもる。



娘夫婦が仕事だったため孫守を引き受けていたけれど

ふたりとももう手が掛からなくなり私が居ても居なくても良い。

それでも孫守と理由を作って仕事を休みたかったのだろう。


午前中は近所のお友達と遊び、午後からは隣の地区のお友達と。

手土産のお菓子や水筒も持参で少しばかり気を遣う。

遊ぶと言うより預かってもらうような気持で申し訳なかった。

おかげでのんびりとお昼寝が出来る。なんとありがたいこと。



夕方同僚から電話があり今週の仕事が無事に完了したとのこと。

「ごくろうさま。ありがとうね」精一杯の労いの言葉だった。



2020年10月23日(金) 爽やかな風

雨のち晴れ。きっと晴れると信じて青空を待つ。

「不確かなこと」が嫌いではない。

それは不安で心細いことだけれど言い換えれば

手さぐりが私の身には合っているのではないだろうか。

それは行ってみないとわからない場所があるように。

だからおそるおそるでも踏み出して行こうとする。



雨があがり告別式が始まる頃には青空が見えていた。

デジタルパネルの遺影には秋桜の花が揺れている。

お通夜の時と同じく親族のみの寂しいお葬式ではあったが

皆の心がひとつとなり心を込めて見送ることが出来た。

やっとその死を受けとめればやはり涙が込み上げてくる。

とうとうお別れ。その時爽やかな風が吹き抜けていく。


みんなみんな明日のことがわからない。

眠ったまま朝が来ないことだってあり得る。

だからと言って生きることをあきらめてはいけないのだ。


あたらしい朝が来れば手を合わせて感謝する。

これからもそんな日々でありたいと心に誓うばかりだった。


残された人生をなんとしても全うしようと思った今日のこと。



2020年10月22日(木) 微笑んでも良いのだろうか

朝から降り始めた雨が今もやまずにいる。

それはとてもリズミカルで陽気な雨に感じる。

歌っても良いのだろうか。微笑んでも良いのだろうか。



昼間のこと職場の柿の木にそぼ降る雨。

たわわに実った柿の実をまるで洗うかのように

しっとりと濡れて水滴ごと落ちてしまいそうだった。

柿が好きだと言うお客さんがちょうど来ていて

「晴れたらもらいにくるよ」と少し残念そうにして帰る。


雨にも関わらず来客の多い日だった。

初めてのお客さんに「奥さん」と呼ばれて嫌だった。

「いえ娘です」と言ったら少し不思議そうな顔をする。

義父とは13歳の歳の差なので娘には見えなかったのだろう。

それとも私がよほど老けて見えたのかしれないのだけれど。

不愉快よりも哀しいことが時にはそうして訪れるものだ。

それでも笑顔を保つ。そうでなければ商売が成り立たない。



仕事を終えて帰宅したらいつものようにじいちゃんが居てくれて

ほっと嬉しかった。「私はこの人の奥さん」ですと心で叫ぶ。

昨夜はさすがに眠れなかったとのことでお疲れ気味だったけれど

けい君のお迎えに行ってくれる。俺の役目だと言わんばかりに。

明日は私が迎えに行こう。けい君の笑顔に会えるのが楽しみだ。



予報通り雨脚が強くなってきた。風もあり横殴りの雨のよう。

降りたいだけ降らせてあげよう。空だって叫びたい日もある。





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