日に日に冬らしくなっていく。今朝もかなり冷え込んでいたけれど 日中は陽射しが降り注ぎ昨日よりもずっと暖かく感じた。
帰り道に県道沿いの栴檀の木を仰ぎ見る。 真っ青な空に黄金色の実が宝石みたいに映ってそれは綺麗だった。
木の実ってすごく好きだなと思う。 冬枯れてしまう前の木々が「いのち」の実を生んだように感じる。 生きているんだなあって。いのちあるものはみんなみんなうつくしい。
体調にはじゅうぶん気を付けていたつもりだったけれど 今日は少し喉が痛くなってしまって風邪の引き始めのようだった。 お風呂上がりに「玉子酒」を作ってみた。なんとも懐かしい味がする。
明日はまた午後から綾菜のお守り、夜は息子のお嫁さんのご両親と忘年会。 風邪など引いている場合ではないと気合で乗り切ろうと思っている。
気がつけば師走も目前、なんと一年の早いことだろう。 このまま押し流されるように今年も終わってしまいそうだった。
いちにちいちにちを大切に、そうして感謝しながら過ごしていきたいものだ。
今朝はいちだんと冷え込み真冬並みの寒さになった。 朝からずっと時雨れていて、今にも雪に変わりそうな空模様。 各地から初雪の便りも届き、遠き地に住む友のことを思った。
仕事を終えて帰宅。風が冷たかったけれど歩いてお大師堂に行く。 以前はあんずと一緒に歩いた道がふっと懐かしく思えてくる。 今は雀色の土手だけれど、彼女はいつもくんくんと草の匂いを嗅いでいた。 お散歩仲間の「ランちゃん」「ピノちゃん」どんなにか会いたいことだろう。
あんずがいてくれなかったらお大師堂に来ることもなかっただろうと思う。 やがて毎日の日課になってしまってもう5年目の冬がやってきた。
ありがたいことにたくさんのお遍路さんと出会うことが出来て あんずも頭を撫でてもらったり一緒に遊んでもらったりして喜んでいたっけ。
もう過ぎ去ったことなのか。そう思うとちょっぴりしんみりとしてしまう。
お大師堂から帰ると今度はあんずとほんの少しの散歩。 日に日に歩けなくなっているけれど、今日も一生懸命に頑張っていた。 ほんの20メートルくらいだろうか。それでも毎日楽しみにしているようだ。 無理して歩かせるなよと夫はいつも言うけれど、決して無理ではなさそうに思う。 彼女が歩きたがるかぎりずっと付き合ってあげようと思っている。
「あんちゃん今日もえらかったね」
夕暮れて晩御飯の時間になるとガツガツと音をたててよく食べてくれるのが嬉しい。
| 2013年11月27日(水) |
まあるく暮らしていきたい |
夜になり雨がぽつぽつと降り始めた。 なんだかぼんやりとしているのだけれど それでいてくつろいでいて焼酎のお湯割りがとても美味しい。
昨夜は伯母のお通夜、今日はお葬式と無事に終わる。 亡くなった伯母には四人のひ孫がいてとても可愛いさかり。 そんな天使たちのおかげでみんなが癒されたように思う。
もっともっと長生きがしたかったことだろう。 ただただ手を合わせて冥福を祈るだけであった。
姑はお葬式にも出られず、気をもんでいるのではないかと思っていたのだけれど、 なんといつも通りにリハビリに行きたいと言い出し私たちを困らせたのだった。
これにはさすがに夫も言葉を荒げて「あんまりではないか」と叱った。 私も姑の気持ちがあまりにも非常識に思えてすごく複雑な気分になってしまった。
何かが掛け違っている。それを正さなければと思うのだけれど 姑を責めるわけにもいかずかと言って何を正せば良いのかよくわからない。
ただただ何とも歯切れが悪く心に泥がついたような気分の出来事になってしまった。
嫌だな・・・と正直思う。そう思っている自分もすごく嫌だなと思うのだ。
みんながまあるく暮らしていきたい。
少しでも角があればちからを合わせてまるくしていきたい。
課題と言うか使命と言うか、なんだか出口の見えないトンネルの中のよう。
さあ気を取り直してもういっぱいおかわりしようかな。
どんなときもあるさ。だってみんなみんな生きているのだもの。
朝から大荒れのお天気となる。まるで嵐のような雨と風だった。 それが「葉散らしの雨」となり色づいた木の葉がはらはらと散ってゆく。
なんだかそれは命のように儚い。裸木はまるで骨のように佇んでいる。
仕事を終えて家路につく頃にはやっと空が明るくなっていた。 いつものように自転車でお大師堂にお参りに行く。 日めくりの暦は昨日のままでちょっと寂しく思う。
お線香が短くなるまでお堂の前の小道を掃き掃除。 たくさんの落ち葉がなんだかせつなくてならなかった。
今日は自分にとっては特別な日。かれこれ10年になるだろうか。 それを過去の事と思えるようになってなんだか救われたように思う。 こだわりたくはないというのが正直な気持ちでもあった。
私は去る。なんとしても去らなければいけないと思うようになった。
夕食後、いつものようにウォーキングに出掛けようとしていたら 夫がくれぐれも用心しろよといつになく真剣な口調で私に告げる。 どうやら最近土手の道に不審者が出没しているらしいのだ。 先日も近所の女性が後をつけられてとても怖い思いをしたとのこと。 いつも行っている喫茶店で今日その話を聞いてきたらしい。
それを聞くとさすがに土手を歩くのが怖くなってしまって 今夜はなるべく人家の近くを歩くことにしてコースを変更する。 こんな田舎町でもそんなことがあるのかと思うと少し嘆きたくなった。
けれどもどこを歩いていても夜空を仰げる。
これからどんどん寒くなるけれどいつも夜空を仰いでいたいなと思った。
| 2013年11月24日(日) |
幸せをかみしめながら |
今日も日中は暖かくなり、孫の綾菜を連れて公園に遊びに行く。 カプセルのような遊具が気に入って出たり入ったり 芝生の上をよちよち歩けば転んでしまって鼻をすりむいてしまったり。
よく遊び、よく食べて、よく寝る。ジジババも一緒に楽しい一日となった。
綾菜のおかげで幸せをかみしめることが出来たのだけれど 今朝は姑の兄嫁にあたる伯母の訃報が舞い込んできた。 ずっと老人ホームに入居していたので、最近は会うこともなかったけれど とても朗らかな人で笑顔ばかりが懐かしく目に浮かんでくるのだった。
今年は6月にも叔母を亡くし、訃報続きの年になってしまったけれど ひとはいつか必ず死ぬのだな・・・と漠然とその事実を受け止めている自分がいた。
悲しいと言うよりせつなくてならない。またひとり旅立ってしまうのかと。
明日は友引なので明後日がお通夜、その翌日が告別式だと報せが来る。 残された者のひとりとしてただただ冥福を祈りたいと思っている。
夕方、綾菜を迎えに来た娘も一緒に夕食を食べて帰ることになった。 大相撲の千秋楽に夢中のジージも綾菜と乾杯をしたりして楽しい夕食となる。
娘たちを見送ったあと。シーンと静かになった我が家で
「綾菜の成人式までは生きたいな」と夫がつぶやく。
日中は風もなくぽかぽかの小春日和になった。 暖かいとほんとうにほっとする。やわらかな時間が愛しくなる。
町では土佐の小京都ならではの大祭があって「一条さん」と呼ばれている。 子供の頃には親からお小遣いをもらって遊びに行ったことなど懐かしい。 たくさんの出店。お参りは二の次でりんご飴などを食べるのが楽しみだった。
我が家も子供たちが小さい頃には家族で出かけたものだった。 玩具もお菓子も欲しがらない子供たちがふと不憫に思ったこともある。 「今日は特別だから良いのよ」って言うと二人とも大喜びしていたっけ。
そんな子供たちもおとなになって巣立って行ってしまうと 我が家にはまるで子供のような夫が「一条さん」を楽しみにしている。
「お母さんがなんでも買ってあげるからね」なんて言うと 普段からよほど我慢しているのだろう。あれもこれもと欲しがるのだった。
神社の出店でとはいかなくて、二人でワークショップに出掛けた。 ズボンやハイネックのシャツ、帽子や靴下まで買って満面の笑顔である。 我が夫ながら帽子が良く似合う。ほめると悦に入っているのが愉快であった。
「おっかちゃんに買ってもろうた」ってみんなに言わんといかんよ。
そんな会話も楽しくてほのぼのと幸せな気持ちが込み上げてくる。
子供みたいなひと。おとうさんでおじいちゃんなんだけど私の可愛いコドモだった。
今朝は今季いちばんの冷え込みだったようだ。 山里では初霜がおりていた。朝陽をあびてきらきらとまぶしい。
ふたり向かい合って朝食を食べているとき テレビから「今日はいい夫婦の日ですね」と声がきこえる。 「また生まれ変わっても夫婦でいたいですか?」と問うので 夫に訊くと「さあどうかな」とちょっと意地悪そうに応えた。
私は迷わず「また一緒にいたいな」って言った。 ちょっと照れくさい、でもそれがほんとうの気持ちだったから。
夫は「ん?」って嬉しいのか不思議なのかわからないような顔をした。
だって夫婦になれなかったら子供たちも生まれなかったんだよ。 孫の綾菜だって生まれなかったんだからね。わかるでしょって言って。
「そうだな・・うんたしかにそうだ。綾菜もいなかったんだな」
だからきっと私たちは生まれ変わってもまた巡り会えるのだと思う。 ソウルメイト、いやツインソウルなのだもの。私はそう確信している。
過ぎ去った過去を振り返ると、夫にはほんとうに苦労をかけてきたと思う。 今だから言うけれど一歩間違えば離婚の危機も乗り越えてきたのだった。 寛大な夫のおかげで今の自分がいる。ほんとうに感謝してもしきれないくらい。
観音様のようなひと。いつしか私は夫のことをそう思うようになった。
寝る前の洗面所で歯磨きの順番を待っているとき、 夫の背中を見ていると後ろからぎゅっと抱きついてみたいなとよく思う。
でもいい年をしてそれはとても出来なくて、「カンチョー」と叫んで 夫のお尻に指を突っ込むのが毎晩の楽しみとなりつつある私であった。
おとうさんと呼んだりおじいちゃんと呼んだり。それもまた幸せのしるし。
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