雨の週末。家事もそこそこにほとんど寝てばかり。 からだがどんどんと重くなっていくのを感じる。
けれどもこころはさっぱりと軽いような気がした。 思い悩むことが何ひとつないということは幸せなことだった。
午後サチコ達が顔を見せてくれて父の日のプレゼントを持って来てくれた。 うれしそうなお父さん。欲しがっていた柄物の涼しそうなステテコだった。
ありがとねサチコ。お父さんが嬉しいとお母さんも嬉しいよ。
いつもなら散歩の時間。今日も雨であきらめるしかなかった。 携帯に着信あり。それは出る暇もなくすぐに途切れてしまう。 先月何度目かの再会をした修行僧のお遍路さんからだった。 電話番号を交換した事を今更ながら少し後悔している。
今までずっと偶然に出会うことが出来たひとだったから。 これからもそのほうがずっと気楽なような気がしたからだ。
折り返し電話をすることをとてもためらってしまった。 けれども無視することも出来ずに一時間ほど間をおき電話をする。
やはりお大師堂で待っているとのこと。なんとも気が重くなる。 こんなはずではなかったのにと。縁さえも心もとなく感じるばかり。
雨のせいにして今回は丁重にお断りをした。 会わなければいけない理由が漠然と不可解なものに変わったように思う。
縁とはいったいなんだろう。どうしても考えずにはいられない。
縁とはやはり手繰り寄せるようなものであってほしい。
今度再会したら素直に正直に自分の気持ちを告げたいと思った。
それがいつになるのか。それくらいの距離がわたしはほしい。
雨上がりの青空が見えたのもつかのま。 午後にはまたうす雲につつまれていく空。
山里ではしきりにウグイスが鳴く。 それがあまりにも透き通った綺麗な声で鳴くものだから。 母が真似をして歌うように鳴いてみせたりしていた。
そんなひとコマが微笑ましくてならない。 平和だなと思う。なんとのどかな午後なのだろうか。
その母が急に思い立ったように庭の桜の枝を切り始めた。 どうして?とはらはらするような気持ちでそれを見守る。 サクランボの実がなるはずの桜の木だったのだけれど。 今年はそれがならなかったから切ってしまうのだと言う。
だからと言って切ってしまうなんて酷いではないか。 そこまで出掛かった言葉をぐっと飲み込むように我慢する。
母というひとは時々そんなふうに衝動的な行動をするひとだった。
切り落とされた緑の艶やかさ。哀しいと思うのは私だけかもしれない。
そうかと思うと今度は蕾をいっぱいにつけたクチナシの木の手入れ。 それが芳香を放ち咲く日をとても楽しみにしているようだった。
日頃から植物を愛してやまない母のこと。 『切る』ということも愛なのかもしれないとふと思う。
私は『切る』ということがとても苦手だった。 どんなに生い茂っていても切ることをためらってしまう。
そうすることで植物が息を吹き返すことがあるのだとしても。
切るということはとても勇気がいるように思えてならない。
それは決して植物だけに限られたことではなかった。
絶え間なく降り続く雨。
やまない雨はないのだからと雨音に耳をかたむけていた。 それはあきらめに少し似ている。けれどもそれは受けとめること。
ありのままの空でいてほしいとおもう。 だってそれはどうしようもできないことだもの。
日課の散歩に行けない日が続いている。 あんずは犬小屋にこもって寝てばかりいる。 一日中雨音を聴きながら何を思っていることだろう。
じっと我慢しているのかもしれないと思ったけれど。 そんな様子にはとても見えない。まるでおさぼりのような。 雨だから行かなくてもいいよと言わんばかりの仕草だった。
犬は飼い主に似ると言うけれど。そういうところが私と似ている。
かと言って雨があがるのを待っているわけではなかった。
雨は降りたいだけ降ればいいのだと思っている。
雨あめふれふれ母さんは。お空の下で生きている。
霧のように雨。音もなく静かに降りそそぐ雨だった。
山里ではホトトギスがしきりに鳴き。 「テッペンカケタカ」と何度も何度も問うのだった。
そんな声を聴いているとなにか応えたくてたまらなくなる。 「カケタヨカケタヨ」とつぶやきながら雨の空をあおいだ。
どこにいるのだろう。その姿は見つけられない。 けれども応えることで通じ合えたような気がした。
人だから鳥だからと隔てることは何もないのかもしれない。
みんな生きている。それがとてもありがたいことなのだと思った。
植物もおなじ。それは姿は見えても声は聴くことが出来ない。 けれども草木はたしかに語らっているのだとわたしはおもう。
ひとはもっともっと耳を澄ましてその命を感じなければいけない。
たとえば雨にしっとりと濡れるばかりの紫陽花の花だったり
午前中久しぶりにバドミントンをしに行く。
仕事を休んでまではと躊躇していたけれど。 無性に身体を動かしたくなって行くことに決めた。
誘ってくれるバド仲間がいてくれることはとてもありがたく。 そうでなかったらどんどんと遠ざかりついに諦めてしまったかもしれない。
好きなこと。大好きだったバドを諦めてしまうこと。 もう年だし仕方ないのかもしれないと思っていた。 25年も続けることが出来てもうじゅうぶんだったから。
でも今日は行ってみてほんとによかったと思う。 最初は以前のように動けないかもしれないと不安だったけれど。 やり始めると自然に身体がついていってくれた。 そうしてどれだけ自分がバドを好きだったかを思い出す。
諦めてはいけないと強く思った。 やってやれないことはないのだと少し自信もわいてくる。
今日を復活の日としよう。
いつかは限界が来るだろうけれど今はまだその時ではない。
がんばれわたし。好きなことずっとずっと忘れないでいよう。
朝。窓をあけると久しぶりの青空が見えた。 雨上がりのなんともいえない爽やかな空気。
しんこきゅうをいっぱいする。私は心呼吸と書く。
山里の職場へと向かう山道で今朝もお遍路さんに出会った。 それがどうしたことか道の真ん中で何かをしているところ。 クルマのスピードを落としゆっくりと近づいてみたところ。 道路には赤い蟹がたくさんいて道を横断しているではないか。
お遍路さんはその蟹を助けようと杖で蟹を誘導しているのだった。 ほらほら急いで。早く渡らないとクルマに轢かれてしまうよ。
私はもちろんクルマを停めた。そうして窓越しに微笑みかける。 そうするとそのお遍路さんもにっこりと微笑みを返してくれた。
声をかけることはできなかったけれど。 互いの思いは伝わったようでなんとも嬉しいきもちになる。
こころ優しいひとなのだろう。ちいさな命を愛しむこころ。
それはとても大切なことだと私は思う。
みんなみんな精一杯生きているのだもの。
おかげでほんわかと優しい気持ちをいただく。
今日はとてもいい日だったなってすごくすごく思った。
ずっとずっと雨。かたつむりのようにして一日を過ごす。 思うようにはすすめない。いくら前を向いていたとしても。
こころのどこかをはげしく打つように雨が降る。 けれども平穏だった。なんと恵まれていることだろうか。
悪夢のような大震災から三ヶ月が経った。 被災地はいったいどうなっているのか。 被災された人達の暮らしはどうなのか。 気掛かりでならないことばかりだというのに。
テレビをつけるたびに政治のことばかりが耳に入る。 そんなことどころではないだろうと怒りさえ覚えた。
どうか一日も早い復旧を。みながそう願っているのではないだろうか。 無力な私はただただ祈ることしか出来ない。これからも祈り続けるだろう。
どうか光を。希望の光がすこしでも届きますように。
震災前には当たり前のように思っていた日々の暮らし。 それが今ではとても尊くかけがえのないことのように思える。
日々をかみしめるように大切に生きていかなければいけない。
生きているということはとても幸せなことなのだから。
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