ずっとずっと昔のことを昨日のように思い出している夜。
ずいぶんと遠いところに来てしまったのだけれど。 一瞬にして帰っていけるように思えるのが不思議だった。
あの頃には10年後20年後をかんがえる心のゆとりもなかった。 まして30年後のことなどあまりにもはるかに遠いことだったから。
なにも変わらないこと。ひとつくらいはあるのかもしれない。 けれどもいろんなことがめまぐるしく変わってしまったように思う。
それが生きるということだろうか。それが人生というものだろうか。
お誕生日おめでとう。またいつでも帰って来てね。 息子にメールする。もちろん返事など来ないのだけれど。 帰る場所があるというだけで安心してくれるような気がする。
母が母であること。父が父であること。それだけはずっと変わらない。
こどもの成長が親の成長でもある。
そうしてどんな些細なことでも心配するのが親の務めでもある。
心配をしたいのだ。いつだって気遣っていたいのだ。
だってそれが愛だもの。愛しているよって胸をはって言える。
父さんも母さんもちょっとだけ老いました。
でもこれからも長生きするね。いっぱい長生きするからね。
とうとう土手の除草作業が始まった。
チガヤの白い穂も姫女苑の花も。 なんとも無残になぎ倒されていく。
仕方ない事なのだなとわかっていても。 とてもこころが痛んでならなかった。
これが雑草の運命というものだろうか。
そうだとしたらなんと儚い命なのだろう。
けれども根は残る。それだけが救いだった。
雑草はとても強い。ひとが思うよりもずっと強いのだ。
今日もお大師堂で手を合わす。 散歩の道すがら通い始めてかれこれ三年になる。 願いごとはしない。ただただ感謝をする場所であった。
それが最近では願いごとをするようになってしまったのだ。 今日はふっとそれがいけないことのように思えてならなかった。
なんと欲なことをとお大師様もあきれているかもしれない。 けれども願わずにいられない自分もはがゆく思う。
願いとは。いったいなんだろう。
漠然と思った。それが叶うなどとは思ってもいないけれど。
こころのなかでその願いが日々ふくらんでいく感触。
たとえば伝わるかもしれないという期待。
もしかしたら救われるかもしれないという希望。
なによりもこころが澄みわたるようなきもち。
今にも巣立ちそうだと記した子ツバメたち。 今日がその日になった。
今朝は確かに巣にいたのが帰宅したら姿が見えず。 もしかしたらと思っていたら夕方になり帰って来た。
まだ上手く飛べない。ばたばたとにぎやかな羽音。 そんなあどけない様子の子ツバメたちを親鳥たちが見守っている。 ほらほらあぶないよ。気をつけてね。そんな声が聞こえてきそう。
子ツバメたちはしばらく庭のあたりを飛び交っていた。 初めて空を飛んだ日。どんなにか嬉しいことだろうか。
私も嬉しい。なんだか孫みたいに子ツバメのことを思っていたから。
あたりがすっかり暗くなった頃。窓からそっと巣をのぞいてみた。 いるいる。ちゃんといる。三羽が寄り添うようにして眠りじたく。
明日も夜があけたらまた飛ぶんだ。いっぱい練習をするんだ。
そうして今よりもきっと強くなる。たくましくなっていくだろう。
昨日は30℃だった気温が今日は18℃。 肌寒さを感じる雨が一日中降り続いていた。
けれども雨は嫌いではなかった。 リズミカルに歌うような雨音に耳をかたむける。
しとしとぴっちゃんしとぴっちゃん。
大地を潤す雨。植物や作物がどんなにか喜んでいることだろう。
今日も平穏。職場にいても家にいてもなんとも平和だった。
そんな日々をあたえられていることにただただ感謝するばかり。
帰宅するなりツバメの巣を見上げるのが日課となったこの頃。 子ツバメ達がずいぶんと大きくなって今にも巣立ちそうになる。 何羽いるのか確認出来ずにいたけれどそれが三羽であることがわかった。
巣から頭を出してつぶらな瞳がせいぞろいしている姿が可愛くてならない。 あれこれと話しかけてみたりする。みなキョトンとした顔で見つめている。
きっときっと空を飛べる日が来るだろう。
あと少しもう少しがんばれ。精一杯に生きておくれ。
| 2011年06月06日(月) |
今日も生きていました |
穏やかないちにち。
あまりにも平和すぎてこわくなってしまうような。
ある日突然と考えてしまうのは私だけだろうか。
いいえ。失いたくないと誰だってそうおもうことだろう。
日常のなにげないひとこまがとても大切におもえる。
たとえばふれあうひとたちの笑顔だったり。
道端に咲く花のなんとも健気なすがただったり。
なにもかもがかけがえのないものにおもえてならない。
今日も生きていました。それがこんなにもありがたいこと。
梅雨の晴れ間。陽射しはすっかり夏の色だった。
雨の日は雨の日の。晴れの日は晴れの日の。 こころはひとつきりなのだけれどちがって見える。 どちらのこころも穏やかであるのが幸せなことだった。
お昼に友人と待ち合わせてイタリアンのお店に行く。 駐車場にクルマを停めて思わず声をあげてしまったのは。 色とりどりの紫陽花がそれは綺麗にたくさん咲いていたことだ。 国道沿いの賑やかさが嘘のようにそこだけ静けさが漂っていた。
季節の野菜サラダ。カルボナーラ。キノコのピザなど。 友人と語り合いながらとても美味しくいただいたあと。 食後のコーヒーを飲みながら友人の撮った写真を見せてもらった。
前回会ったのは去年の暮。冬から春の写真の数々。 彼女の行動力にはほんとにあたまが下がる思いである。
でもそんな彼女も最近は出掛けるのが億劫になったとのこと。 私ほどではないとしてもそんな年頃になったのかもしれない。
老いることはせつないことだね。そんな話しもした。 出来ていた事が出来なくなる。花がしぼむような感じだった。
それでも雑草のごとく私たちは咲き続けなければいけないのだろう。
もう駄目だとあきらめずに野の花のように力強くあらなければいけない。
今度はいつ会えるのか。約束もせずに別れたけれど。
彼女の夏が彼女の秋が目に見えるように思った。
彼女がうごく。それが何よりの励みになり私も動き出せるかもしれない。
紫陽花の花がずいぶんと色づく。 朝の道で田んぼの畦などにそれが咲いていると。 クルマを停めて降り立ってみたい衝動にかられる。
若い稲の緑とそれはなんともよく似合う。 絵のような風景。こころいっぱいにそれを描きたくなる。
そんな畦道のかたわらに腰をおろし足を休めているお遍路さん。 声をかけたくてたまらなかった。けれどもそれが出来ないもどかしさ。
わたしにはどうしても描き終えることが出来ない絵がある。 けれども自分の目で見たそのままを記憶することは出来た。
そんなつたない絵のようなものをわたしはたいせつに思う。
そうして平穏に一日が暮れる。
これはけっしてあたりまえのことではないのだと。
あの日からずっとそう思い続けている。
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