遺書が、もう3年も前に書いたものだ。 3年前と今とでは言いたいことが微妙に変わっている気がするので、そろそろ書き直したほうがいいのだろう。 でも、めんどくさい。
なんかもう、どうでもいっか。
いまの世の中(特に政治)があまりにもひどいことを嘆いた母親が、「あなたも、早く死ぬことを考えたほうがいいかもね」と言った。
おお、とうとうお墨付きを頂きましたよ!
という独り言が頭の中を駆け巡って、乾いた変な笑いが出そうになった。 お前らが子どもを作って生まなければ死ぬことを考えずに済んだのだから、そんなこと言うなら責任持って、苦しまないように一瞬で殺してくれよ。 「そりゃそうだよ、こんな世の中で長生きしても意味ないもんね」と答えたら、母は黙った。
お前らが子どもを作ったときだって決してパラダイスな世ではなかっただろうに、そんなところへ子どもを生み出して申し訳ないと思わないのかね。
もう何度も何度も書いているが、父親が気持ち悪い。 具体的な言動が、と言うより、存在そのものが気持ち悪くて仕方ない。 リビングで向かい合って、一緒に食事しなければならないのが耐え難い。 視界に入れないようにしているが、完全に視界から締め出すことは不可能だ。
本当に、存在まるごと気持ち悪い。 気持ち悪すぎる。
ドラマ『緊急取調室』が好きで過去作をTVerで観ていたら、主人公(刑事)が殺人の容疑者に「殺された人は、もう痛みを感じることもできない!」と言ったのだが、「え、それの何が悪いの? もう痛みを感じないなんて、良かったじゃん」と思ってしまうのだった。
両親がそれぞれ出掛けて、数時間、独りでいられた。 絶好の機会だった。 今日、数時間独りでいられることは前から分かっていたので、決行するつもりだった。
でも、いざとなったら、炬燵に入ったままずっとスマホでSNSを眺めてしまい、あっという間に時間が過ぎていった。 どうしても体が動かなかった。 さっさと動いててきぱき事を運ばないと、実行できないのに。
これが生存本能というやつなのだろうか。
生存本能は邪魔だ。
炬燵で動けず、ひたすらスマホを眺めていたら、母親が帰ってきた。
今日も決行できなかった。 いつまで生きなきゃいけないのだろう。
どうして眠っている間に死ねないんだろう。
それはそうと、せっかく私の手元にテレビのリモコン(というか、テレビのリモコンは押しても反応しづらいのでDVDのリモコン)があっても、私がリビングを離れてる間に遠くに置かれてしまう。 父親がいる限り、観たいテレビも観れないし音量も変えられない。
死にたい。 早く死にたい。
テレビの音がうるさい。 苛々する。
夕方、母親が「若い人は高市を支持しているらしい。それで自分たちが徴兵されるようなことになってもいいんだろう。それなら仕方ない。仕方ないと思わないとやっていられない」と言った。 それ自体には賛同なのだが、試しに「それは仕方ないけど、でも、そういう人たちは子どもを生まないでほしいよね」と言ってみた。 すると「そうだよね、子どもが迷惑だよ」と返ってきた。 びっくりした。 私だって生まれさせられて迷惑なのだが、母は、自分たちが私に対してそういう迷惑なことをしたと自覚している様子はない。 自分や自分の子どもが徴兵されるかもしれないのに、高市を支持する人たちがいる。そういう人たちが子どもを生むことは子どもにとって迷惑だと分かるのに、自分自身(母自身)が何をしたのかはまるで分っていないのだ。 社会や世界は最近急に悪くなったわけではないのに、なぜ、(誰が首相であれ)この世界に子どもを生むことそのものが子どもへの迷惑(というか害悪)になることに気づかないのだろう。 さっぱり分からない。不思議で仕方ない。
夜のこと。 「頂き女子りりちゃん」は、父親から性的虐待を受けていたらしい。 信田さよ子がツイッターに「父からの性虐待という視点からとらえるとすべてがひっくり返るし「りりちゃん」の言動がきわめて合理的判断に基づいていることがわかる」と書いていた。 そのことを、夕飯のとき、父親の目の前で母親に「〜らしいよ」と話した。りりちゃんへの判決と、実の娘を強姦した父親への判決が著しくバランスを欠いていると思うことも。 父親は私と母の会話には入らず(無視して?)テレビを観ていたが、話は耳に入っていたはずだ。 (強姦ではないが)長らく娘に性的加害をしてきた身として、いったいどういう気持ちで私の話を聞いていたのか。 表面的には無視していても、自分が責められているように感じたり針の筵だったりしたらいいのだが。 まあ、父のことだから、目の前で話していてもまったく耳に入っていなかったという可能性もあるが。
生きていくことは恐怖だ。 生き続けることの恐怖から逃れたい。
この日記で母親に対する不満や怒りをたびたび書いているが、母に関しては愛憎相半ばといった感が正直なところでもある。 ただ、その「愛」も、本当の愛情ではなく、私自身が生きていくのに母が必要だから愛のようなものを感じているだけなのかもしれない、と思うのも否めない。 母が死んだら、生きていけないのではないかと思うことがある。 母がやっている日常的な介助や家事をヘルパーに頼めば、物理的には生きていけないことはない。 だが、週一の居宅介護利用でもすでにストレスが溜まるのに、生活のすべてがヘルパー頼みとなれば、生きているという事態のストレスと怒りと煩わしさが今の比ではなくなるのではないだろうか。
今年こそは死ねますように!
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