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因果的宇宙の法則 - 2011年08月31日(水)

「君がオヤジになる前に」という本の巻末にホリエモンと福本伸行氏との対談があり猛烈に面白かった。福本先生はやっぱり偉大だ。こういう老人になりたいな。

(記憶を頼りに書くのでまったく原文ママではないが以下対談の一部)

ホリエモン「バンドやっている奴らって不思議ですよね。例えばフロントマンや曲を作る人にせっかく才能があってもなぜか結成当初のヘタクソなメンバーと腐れ縁で続けていることが多い。情が移っているのかもしれないけれどもお荷物になるくらいならばさっさと縁を切って次なるステージに進めばいいのにね」

福本「いや例えばサザンオールスターズは桑田さんの才能で持っているようなバンドだけれども彼のベストパフォーマンスがソロ活動の時に発揮をされているかというとそうではない。桑田さんは自分がサザンのメンバーと一緒にやることで自分の力が最大限に発揮できることを直感的にわかっているのではないか。音楽の質を高める直接的な理由じゃないかもしれないけどバンドメンバーにそれぞれ役割があって雰囲気作りが上手い奴がいるとか。あるいは気心知れあった仲間と一緒にやることでプレッシャーが分散されるとかそういうことで桑田さんが大いに救われているって可能性は大いにある。」

引用(?)以上。

確かにバンドなどの組織に限らず人間関係って目に見えるパワーバランスだけではなくてもっと複雑な人間同士の引力に支配されているものだと思う。自分も今までのことを思い出してみると学生時代からずっとそういう関係ってあった。

一緒に机並べて勉強しているだけなのにそいつがいると非常に勉強がはかどるとか、大勢の人前で話すときにそいつが近くにいるだけでリラックスして話せるとか。理屈抜きの話なので「何故いるだけなのにプラスなのか」や良くわからない。でもそういう「無形の力」っていうのは確かにある。

我々はその人の個性とか才能とかばかりに目が行ってしまうのだけれども、その人の周りにある目に見えない力(守護霊みたいな人間関係)っていうのにも気をつけて見なければと思う。どんな天才でも完全なるアウェイでは力って出せないと思うんだよね。

逆に言えば才能があるってだけでお互いがくっつこうとするととても不幸な結果になることってのもある。お互いの引力が長所を潰しあってしまうとか。そいつは何も悪くないんだけどそいつがいるだけでカラオケを上手く歌えないとか仕事でつまらないケアレスミスが増えるとか。。そういう事って僕はものすごく多くある。あれはなんなんですかね。とてもいい奴なのにイライラするみたいな。ふう。


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ノー自意識 - 2011年08月27日(土)

僕は人に家にお邪魔したときにその人の本棚をチェックするのが好きだ。その本棚が実用書だらけでも趣味的なマニア本だらけでもその人の人生の一部に入り込んだ気になれる。

その本のカビ臭さを感じたり日に焼けた背表紙を眺めるだけでもうひとつ別の人生を追体験した気分というか、その人の歴史をわかった気分になれるというか小さいころから読んでいる本とか当時のベストセラーなんかがあるとなお良い。

本屋や古本屋に行ってもそういう感覚は得られない。趣味が合う合わないの問題じゃないのだよ。


ところで『その人との心的距離×本棚のエグさ=衝撃度』っていう式が成り立つと僕は考えている。

例えば親しい友人の部屋に遊びに行ってつげ義春先生の「ヨシボーの犯罪」の初版本が置いてあっても別に驚かない。
しかし上司の娘さんの部屋に「アウターゾーン」とかが置いてあると「うわぁ、やべえもん見ちゃったなー」っていう気分になる。親しくない人が「めんどくさい一面」ってのを持っていることを発見するとドキドキするって感覚わかりますかね?ゴールデン街の店主がナゴムレコードの手ぬぐいを頭に巻きつけていても違和感無いけど、社員旅行で課長クラスの人がスミスの「ミートイズマーダー」のTシャツ着ていたらショックみたいな(実話)

そういや親戚で大金持ちの一家がいる。5年に1回くらい遊びに行くと母上がイタリア歌曲を歌ったり息子のピアノ伴奏でみんなで合唱したりと自分とは違いすぎる趣味を持っているご家庭。自分には眩しすぎてそのご家庭に対しては小さいころから「なんだかなじめないなー」と思っていた。しかし先日末っ子の娘さんが某私立中高一環のお嬢様校に合格したのでお祝いに行った。

そしたらその子の本棚には「墓場鬼太郎」が全巻コンプリートしているわけですよ。「ゲゲゲ」ではなく「墓場」。良家の12歳女の子が水木しげるイズム・・。衝撃。本人曰く「妖怪好きなんです」。

別に友人の家ならば何一つ驚かないんだけど「よそ行きのテンション」の時にこういうものを見るとドキっとする。

先日義父から「本を処分するんでしょ?車でそちらに行くから捨てる予定の本をブックオフへ持っていってあげる」というお申し出があった。そのときは大いに焦ってすぐにその処分する予定の本の一部をベッドの下に隠した。

捨てるはず本の中には蛭子能収先生や根本敬先生の書籍が大量にあるわけだよ!!いやー義父にはこんなの読んでいるとは思われたくない。ブックオフで引き取ってもらえなかったら何たる羞恥プレイ!

特に根本先生の本って言うのは一般人から見ると非常に下品です。韓国のインテリには「根本先生の本は韓国ならば死刑です」と言われるくらいに酷い内容が多い。しかしよくよく読んでみるとその実ものすごく仏教的。近くで見ると汚らしいけど遠めに見ると曼荼羅になるというか。

しかしきっとそんな言い訳をする間もなく義父に「あ、こいつダメだな」と思われるのがオチなわけで・・・。


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サマーウォーズ - 2011年08月25日(木)

友人がブログで「狼は生きろ、豚は死ね」とか「鉄を喰え!飢えた狼よ!死んでも豚には喰いつくな!」などと過激な発言を繰り返している。

出典はハードボイルド小説とか尾崎豊の言葉とかなのかしら。しかし僕は8:2で豚サイドの人間だと自覚をしている(太っているとかそういうことではなく精神的な意味)ので、上記の発言には肩身が狭い。

「狼は生きろ、豚もなるべく頑張って生きろ」
「鉄を喰え!飢えた狼よ!豚はなるべく野菜を食べろ!」

というのを自分のモットーとして人生を生きたいと思う。

とか書いていると無神経な鈍感キャラかと思われてしまうので少しだけ神経質な話を。

自分が1人部屋を与えられた小学校5年生の頃の話を書こう。今でもその頃のキラキラギラギラ感は忘れない。同級生の多くは自分の部屋など持っていなかったから鼻高々であった。部屋は与えられてすぐに秘密基地みたいになり、カードダスとかカセットテープとか好きな漫画や小説を棚に並べて大人になった気分を満喫していた。

更に母の持っていたレコードプレイヤーを譲ってもらって、部屋でKUWATABANDやフィンガー5のレコードをカルピスを飲みながら聞くという贅沢をしていた。そういや角川映画の主題歌も聞いていた。「紳士同盟」とか「セーラー服と機関銃」のサントラとか。

1人部屋があるということは父親のいびきにガマンしながら家族と雑魚寝もしなくて済むし、母親がせんべい食って姉が光GENJI聞いている横で宿題をやるような状況も回避できるようになる。だからいざちょっとでも嫌なことがあれば部屋に逃げてしまえるような環境も出来上がったのである。

その頃から他人の干渉がシャットダウンできる環境が当たり前になり、他の人が勝手に部屋に入ってくるとイライラすることも多くなった。部屋にズカズカ入ってこられたり勝手に部屋のモノが移動していると一気に気分を害した。

そして親の側も「子供といえどもプライバシーというのは保障されるべき」という世の中の風潮に理解を示し、僕の部屋というのは一種の聖域みたいになっていったのであった。

大人になってもプライバシーを侵害されると腹が立つことは多い。
家族でも勝手に部屋に入ってこられると気分が悪いし、考え事をしている最中にあれこれ話かけられて中断されると本当に疲れる。つい先日も「自分で掃除するから部屋に入ってくるな」と言っているのにその言葉を無視して勝手に部屋に入って掃除をしはじめた妻と大喧嘩になった。

しかし妙なもので『そういう系統』以外のことで僕が他人に腹を立てることはあまりない。レストランで1時間待たされても(結局注文は忘れ去られていた)、電車の中で気分が悪くなったサラリーマンにゲロを靴につけられても相手に文句を言うことはない。誰にだって過ちがあるのだから感情的になるだけ無駄だ。

僕が感情的になるのはやはり自分の部屋を荒らす無神経な足音についてだけだ。そこさえ尊重してくれれば僕と誰かが喧嘩になることは無い。

・・・と、そこまで書いてみて「プライバシー」ってのはそんなに尊重されるべき聖域なのか?と疑問にも思ってみる。もしやプライバシーというのは現代が勝手に作り上げた儚い幻想なのではないかと。

金払っているのに1時間待たされたりゲロをかけられたりするよりも、勝手に部屋の掃除をされる方が腹が立つというのは感情の動きとしてはいささかバランスが悪い。

例えばちょっと前(100年前)の日本住宅にはプライバシーを守るような空間はない(生田緑地の日本民家園を観にいくと良くわかる)1人部屋なんて暖房効率から色々な点で効率が悪いのだから、その存在自体が許されなかったのだろう。しかし現代人からしてみると親と一緒に暮らしている新婚夫婦や年頃の男子などはエロで悶々として爆発するよなー、と思ってしまう。(実際のところはどうだったんでしょうか?)

少なくともプライバシーを守る感覚っていうのは戦後から生まれたもので日本の歴史の中ではほとんど発見されずにいたことだと思う。無ければ無いで済んでいたことが発見されて言語化されてしまったがために人々の頭から離れなくなってしまったことってよくある。その1つが「プライバシー」って言葉だと思う。

プライバシーって昔は無ければ無いで平気だったのに、今は本棚の少年ジャンプの位置が変わっているだけで大喧嘩とか下手すると殺人事件にまで発展することがある。殺された側の母親はたまったもんじゃない。母親はその子供が生まれてくるときには自分のプライバシーなど全て捨てて朝から晩まで一緒に居て面倒を見たというのに。実際に僕の友人たちも子供が生まれてくる時には赤ちゃんのスペースを作るためにバイオレンス漫画を捨てたり個人的な趣味にしか過ぎないもの(家族の財産にはならないもの)は処分するって話を良く聞く。

僕もプライバシーを尊重して欲しい側の人間であるが、もしや世の中のストレスの多くはこの目に見えない「プライバシー」という名の魔物のせいなのではないか、という気にもなってきた。

あー、この話は長くなるのでまた近々続きを。


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梨をむく - 2011年08月24日(水)

最近は職場で近くの青果店で買った梨をむいて食べています。30過ぎの男がお昼くらいになると給湯室で梨を黙々とむいているのって気持ち悪い光景のような気もしますが自分はこの梨をむく時間をとても楽しみにしています。

以前は1日に3本くらいのペットボトルをガブガブと飲んでいたのですが、冷蔵庫でキンキンに冷やした梨を食べるようになってからあまり喉が渇かなくなりました。夏だというのに仕事が終わった後に生ビールを飲みたいという気持ちも特に起きなくなるから不思議です。次の日に疲れが溜まらなくなっているような気がします。

しかし何よりも1日中パソコンばかりしている目や手が「包丁で梨をむく」という作業をすることでスーッと癒されるのを感じるのですよ。精神安定としての仕事。包丁などの道具を使って何か作業をするのって良いですよね。何かが満たされます。

ところで自分は10年以上スーパーやコンビニの弁当や外食でごはんを済ませてきたので「果物を自分で切って食べる」って行為はちょっと特別な感じがします。フルーツを食べる時って高級なフルーツ専門店の喫茶店に行くとかコース料理のデザートにちょっとついてくるとか。そんな感覚。女性はそんなことは無いのでしょうが1人暮らしが長い男性の場合はわざわざ果物を買って食べることをしない人が多いのではないでしょうか。(そんなことは無いのかな?)

でも僕のその感覚はとても貧しいですね。中学生の頃からいろんなオシャレ雑誌で洗脳されていたので「都心に住んでいる若者は1000円くらいするカフェ飯みたいなものを食べるものだ」と思っていました。で、10年くらいそういう生活をしていたわけです。もちろんそういうのが格好いいと思っていたのは最初の数年間であとは惰性なのですが。それでも地元の汚い青果店の奥にある桃や梨が素敵な輝きをしていることに気づかずに、代官山だの恵比寿のオシャレな内装の喫茶店の方が素敵だと思うなんて。典型的な大三病というか田舎者というか。

そういう時期真っ盛りの9年くらい前、渋谷にある某クラブ(ダンスフロアがあるやつ)で、お客さんの女の子が突然タッパーから果物を出して「お1つどうですか?」と勧められたことがあります。中身はマンゴーだったかスターフルーツだったか。
周りがオシャレ女子だらけの空間でその女子はとてももっさい格好をしていたし、唐突に果物を勧められたことに面食らってしまってそのときは「いらない」と断ってしまいました。しかもその子が帰ったあとに「いやー変な女がいてさー。TPO的に果物を勧めてくるとかありえないでしょ」と友達に悪口を言っていました。

その子が素敵かどうかは置いといて、そういう子に対して目くじら立てて悪口をいう自分のダサさってのは今思い返すと赤面しますね。

所帯じみたものや生活感が滲み出ているようなものに狭量だった僕はその子の老女みたいな所作を許せなかったわけです。

あれから僕も大人になり自分で洗い物をしたり果物を切ったり炊き込みご飯を作るようになりました。そしてオシャレスポットみたいな場所には行かなくなってしまいました。今ならばフルーツを勧められたらありがたくお1つ頂いてお礼を言って世間話でもするのでしょうか。

格好をつけていた時期に多くの「所帯じみた人」を馬鹿にしたり仲間はずれにしたりしたことは今思い出しても胸が痛みます。暗黒の20代であるがやり直せるのであればその辺の人間関係だけでもやり直したいと反省する次第なのであります。


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模範解答は解答用紙のサイズに依存する - 2011年08月22日(月)

「トイストーリー3」を観ました。
子供向けのアニメなんて・・・とバカにしていましたが、見終わった後には鼻水を流していました。ズルい!ズルい!さすが大手映画制作会社はわかっていらっしゃる。かつてサブカル好きだったひねくれた中年の涙腺などは簡単に捻ることができる。ネズミの国が誇る名人芸ですよ。

その感動をtwitter140文字で簡単に感想を書くのもアレだからこちらの日記に書こうと思った次第ですが・・・・。

あれ??面倒くさい・・・?!あれ?あれ?感動して誰かにこの思いを伝えたくて伝えたくて仕方がなかったのに。いざカッチリした文章を書こうとすると何を書いていいのかがわからなくなってしまっていました。

twitter以外の場所で文章を全く書かなくなってから、単発ではなく思考の流れがある文章を書くことが面倒になってしまったようなのです。もしやこれが芝浦氏や岡田氏が唱えるtwitter脳ってやつですか?ふう。この日記帳を使って徐々にリハビリができたらいいなと思います。

ところで自分は高校生の時に記述対策の授業を受けていて『字数制限が無い設問の模範解答はその解答用紙のサイズに依存をする』ということを習いました。

それは『解答用紙のサイズに何文字くらい入りそうか考えて、それにあった解答をスマートに書きなさい』ってこと。いくら字数制限が無いといっても解答用紙に対してスカスカでもギッシリビッチリすぎてもでも減点があるって教わりました。ビジュアル的に適切なサイズ。うーむ。

あれから十何年も経ちますが、僕たちは大人になってもいつも解答用紙の大きさを確かめてから答えを出すことに慣れてしまっていますよね。

例えば会社の会議で意見を求められても「意見の正しさ」だけではなく「適切な意見のボリューム」ってのを意識して話をすることが多い気がします。

特に『会議の流れを損なわないサイズの意見』っていうのはとても求められます。もちろん空気を読んで意見を簡潔にまとめることはサラリーマンにはとても大切なのですが、一方で「内容が正しくても長すぎる解答や質問の条件にそぐわない意見はそれだけで×」って感覚を持っている人は多いのではないでしょうか。

そして多くの「優秀なサラリーマン」が「ベストではないけれども適切なサイズの解答を軸に行動する」っていう考え方をしているような気がするのですが。ううむ。

故にtwitterだけで何でもかんでも語るのって難しいですね。要約をする能力というのはとても大切であるけれども「140文字に要約しないでじっくりと考える時間」ってのも大事にしたいです。


そういえば、高校生のころ聞いた小沢健二のアルバムの中にポップスとしてはあまりにも長すぎる13分31秒の曲がありました。あれはどうなんでしょうか。長すぎるんでしょうか。短すぎるんでしょうか。それとも・・。

というわけで、この日記帳をしばらく続けたいと思います。


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はじめました - 2011年08月21日(日)

友人が勧めてくれた「えんぴつ」さんで試しにやってみることにしました。
こういうサイトで日記を書くのは約10年ぶりです。
自分に合いそうならば頑張って更新をしていきたいと思います。よろしくお願いします。




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