VITA HOMOSEXUALIS
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2018年01月29日(月) |
熊本を去る日が近づく |
そうこうするうちに、私の熊本での任期も切れる日が近づいてきた。 延長はできたが、これ以上熊本にとどまる気もなく、私は関東に帰ることにした。
その4年間の熊本生活を通じて、仲良くなったコンビニの店長がいた。
そのコンビニは田んぼの中の不便なところにある。だが私のアパートからは最も近かった。
それでほとんど毎日そこに何かを買いに行った。
そうこうするうちに、ときおり店長や若い店員と言葉を交わすようになった。最初はアルバイトの店員に面白い人がいたので、軽口を叩いていたのだと思う。
コンビニの店員は頻繁に変わってしまうが、そこは面白いことに店長以下二人の若者がずっと同じメンバーだった。それで、買い物のついでに彼らと談笑するようになった。
店長はまだ若い。20代の青年だった。店長の親父さんは近くの寿司屋の職人である。店長は若い女性と結婚し、かわいい盛りの男の子が一人いる。その奥さんとお子さんもときおり店内で見かけた。
そういうとき、店長自身もコンビニをやめて熊本市で公務員になるつもりだと聞いた。しかもそのコンビニ自体が閉店するのだった。
「そうか、おたがい、離れ離れになるたいね〜」という話をした。
寒い晩、私を送り出す宴会があった。
私は同僚が「くるまで送る」というのを制止して、歩いて帰ると言った。
居酒屋からアパートまで、歩くとおよそ30分。その間にあのコンビニの前を通る。
「これで最後だなあ」と思いながら田んぼの中を歩いた。
あのコンビニはいつもと同じように営業していた。私はその中に入った。
もう夜中を過ぎ、店には客も若いアルバイトの子もいなかった。店長ひとりだった。
「いよいよ最後ですたい。お世話になりました」私は声をかけた・・・
2018年01月21日(日) |
熊本地震とゲイの暖かさ(2) |
アパートに帰ってみると部屋の中はめちゃくちゃだった。
あらゆるものがひっくり返り、飛び散り、壊れたり割れたりしていた。
冷蔵庫の扉が開き、中のものが床に散乱していた。
不思議なのはパソコンのプリンターで、上手に上下が反転して床に落ちていた。しかし、それを元通りに戻して接続すると動いた。印刷も正常だった。
電気は止まってなかった。ガスも出た。
問題は水だった。断水していた。外に出てみたが、自動販売機はどこも水だけ売り切れ。コンビニもスーパーも空いておらず、水を手に入れることができなかった。
私は冷蔵庫を動かし、洗面器に霜をかき集め、それを溶かして水を得た。霜のときは量も多いように見えたが、溶かして水にするとわずかしかなかった。ともかくそれを指先につけて口をすすぎ、顔をぬぐい、残りはトイレに使った。
そういう生活が3日続いたとき、大阪のゲイ友を通じて近所のゲイ仲間と連絡がとれた。この大阪のゲイ友は若いけど人柄の良い人で、たまに大阪に出張すると会い、ときにはホテルで抱き合うこともあった。
そしてその、私の近所のゲイ仲間というのは、もともと大阪の彼の友達なのだったが、自転車でほんの数分という、熊本の片田舎にしては信じられないほど近くに住んでいるゲイであり、体の付き合いはなかったが、ときどき酒を飲む、ガテン系で体はでかいが、人当たりの柔らかい、優しい人なのだった。
もちろん、彼のところも水は止まっていた。だが、彼の家の近くには湧き水がある。熊本は阿蘇の地下水のために水が豊富で、至るところから清水が湧き出すのだ。
彼はありったけの容器、それこそ、鍋からヤカンから、ペットボトル、水筒など、自分のウチにあるありとあらゆる容器に湧き水を詰めて、クルマで私のところに運んでくれた。
残念ながら、地震の影響で湧き水はしょうしょう濁っていた。しかし、飲水には無理でも、顔を拭ったりトイレに流したりするには十分である。また、沸騰させてしまえば飲めないわけでもない。
私はその湧き水で不自由なく暮らすことができた。
そのうちに会社が本社から大量のカップ麺や水をトラックで運んでくれ、会社では大きな会議室の机を取り払って床にいくつかテントを張ってテント村のようにし、近隣住民の避難を受け入れ始めた。従業員の中にも自宅が壊れた人はそこで寝泊まるする人がでた。女性がボランティアで炊き出しを始め、夕食を振る舞った。
私のアパートから少し離れたところには、自衛隊が仮設の風呂サービスをやってくれるところもあった。
私たちはこうやって助け合いながら暮らしを再建していった。
私の場合、本当にそれを支えてくれたのは大阪のゲイ友、そして、彼から連絡を受けて駆けつけてくれた地元のゲイ青年だった。この二人にはいくら感謝してもしきれないものを感じている。
2018年01月19日(金) |
熊本地震とゲイの暖かさ(1) |
よく知られる通り、2016年4月14日午後9時26分と、16日午前1時25分に熊本は大きな地震に襲われた。
最初の地震があったとき、私は熊本市内の居酒屋で飲んでいた。その晩は出張から帰ったばかりで、田んぼの中のアパートまで帰るのが面倒だったから、熊本市内のホテルに泊まることにしていた。
また、その翌日は有給休暇を取り、実家の親を老人ホームに入れる算段をすることになっていた。
居酒屋で飲んでいると、上下動が来た。それはぐんぐん大きくなり、棚のグラスや器がバラバラ落ちて割れ始めた。私はカウンターに手をかけて立ち上がったが、立っているのがやっとなほどの大きな揺れが続いた。
しばらくして揺れが収まったとき、壁にかかった絵は傾き、トイレの給水器は壊れ、酒瓶は落ちて割れて芳香を放っていた。
しかし不思議に電気は止まらず、これで私たちはだいぶ助かった。御見舞に二千円だけ置いて帰ろうとするのを店主は断り、エレベーターが動かなかったので私は非常階段で外に出た。
街路にはガラスが散乱していたが、市電は無事に動いていた。
私はホテルまで行った。エレベータは使えない、明日の朝食サービスはない、と申し訳なさそうに言われた。それでも泊まることは出来た。
翌朝私は熊本駅に行ったが、何も動いていなかった。しばらく待っていたら動くかなと思ったが、その気配もなく、そもそも駅が開いていなかった。数人の観光客が不安げに立っていた。
私はタクシーを拾い、とにかく電車が動いているところまで行った。それから何とか郷里に駆けつけ、弟と二人で親の移送を頼んだ。その晩にまた地震があった。
博多までは無事に戻れた。その先はダメだった。
私はただ人々の列について歩いていった。それは大きなリュックを背負った人たちで、ボランテイアなのだった。「もう来てくれたんだ」と思った。ボタンテイアのために臨時バスがあったので、私はそれに潜り込んで、どうやら熊本市内までは帰った。
原が減ったが市内はどの店も開いていなかった。電話しても出ない。
緊急車両が走り回っていた。それは全国から来ていた。「和歌山県」と書いた救急車が走り、「長野県」の腕章をした人が地図を広げてハンディカムで何か協議し、「高知県」と書いたジープが「災害支援」という白い布をはためかせて走った。
中でも私が驚いたのは「福島県」の救急車や、「宮城県」のトラックが走っていたことだった。
ああ、あの地域は東北大震災で大変だろうに。こちらから支援に出かけて行かなければならないところだのに、反対に向こうから駆けつけてきてくれた。
涙が出た。
高級用菓子店が一軒だけ開いており、私はそれから3日ほどそのお菓子を食べて暮らした。
2018年01月18日(木) |
ひとり遊びの耐えられない羞恥 |
私はその彼と途切れた悔しさを抱えてオナニーした。
何度もやった。
そうしてわかったのは、もはや通常のオナニーでは低い満足しか感じられないということであった。
ではどうすれば良いのか?
彼との思い出をひきずっている私には、それは放尿しかなかった。
私は風呂場で寝転んでおしっこを出した。ときにはタオルでおしっこを受けて、暖かい刺激臭を鼻に押し当てて興奮した。
ときには下着をつけたまま、ぐしょぐしょになるまで濡らした。
ときには腰を持ち上げて両足を高くかかげ、ほとんど倒立の姿勢になっておしっこした。そうすると雫が腹から胸に向かって幾筋もの川筋のようになって落ちてくる。興奮しているとそれにガマン汁がまじり、少しぬるぬるする。私はそれを全身に塗りたくった。
また、もっと両足を挙げると、おしっこが顔を直撃する位置にくる。これで顔面におしっこを受けたこともあった。だが、この姿勢はあまりに疲れ、顔で受けてもあまり楽しめないのでやめた。
なべてこういう遊びをやるときに気をつけるのは健康である。だってもし、私がこの遊びの最中に心臓マヒか何かで死んだら、私のこの秘密の趣味が警察にも、家族にもわかってしまう。ことによったらおもしろおかしくマスコミに出るかも知れない。
私はジャージをはいて外に出た。 外は駐車場である。 その向こうは道路で、その道路の向こうは畑である。
私はそこらを歩きながらジャージの中におしっこした。
最初は歩きながらだと出ない。立ち止まって身構えて始めてできる。
だが、ぎりぎりまでおしっこを我慢していると、ジャージをはいたままでも少し出せる。
少し出たらしめたものだ。力を入れていきむとたくさん出る。
ひとたびたくさん出るようになると、止まらないくらい出て困る。
こういう状態でおしっこをすると、なかなか真ん中には出ない。右に偏るか、左に偏るかである。下着やジャージのどちらかが激しく濡れる。
靴の中にもおしっこが入る。歩くとぐちゅ、ぐちゅ、という音がする。
帰ったら全部洗濯するが、靴を洗うのが大変である。そのままにしておくときつい匂いが残る。
本当はこうやって漏らしているところを誰かに見られたいのである。
見られたときの羞恥を思うとそれだけで興奮する。
そのうちに私のオナニーは変わり始めた。前半はおしっこ、後半は手コキと、はっきり別れたのである。
そのうちに後半の手コキもいらなくなった。お漏らしだけで十分満足で、その後を精液で汚す必要はなくなったのである。
ヒトと親しくなる最初のときも難しいが、ヒトと関係が切れていくときも難しい。
どのタイミングでどんな言葉を返すか、さんざんに考える。
彼に「会いたい」と告げた私のメールは唐突な印象を与えたらしい。
「早すぎます」という一言だけの返事が来た。
私は少し焦ったかも知れない。今が早すぎるなら、この先何が起こったら普通になるのだろう。
それから彼のメールは途絶え気味になった。
ときたまやってきても、「冷たい風の吹く晩に自分はひとり」とか「湿ったトランクスの匂いに懐かしさを感じます」とか、ほんの一行、一文の短いメールになった。
私は、交互に出すのを原則にしていた。彼から来たら返事は出す。しかし、返事が来ないのにこちらから立て続けに出すことはしない。
そうして彼からの返事を待った。
しばらく来ないことが増えた。私はそれでも待った。ずっとこないことも増えた。
今でもそうである。いつかやってくるかも知れない。私はアドレスは変えてない。
それでも彼との交信はとだえた。
そうなると、「あれは本物だったのだろうか?」という疑問が起きてきた。あの顔写真は本当に自分のものだろうか? ネットで適当に拾ったものではないだろうか? さらにあの、オシッコの染みが広がっていくトランクスの写真はどうだろうか? あれもどこかで拾った画像かも知れない。そうすると、真正直に自分でオシッコを我慢し、やがてそれを漏らし、そうして下着が濡れるところを撮影し、すっかり興奮してしまってオナニーし、射精するところの写真も撮って送った自分はばかばかしい。
だが、彼の写真が偽物と決まったわけではない。そっくりの写真がネットにあったとしても、それをダウンロードして他人に送るのは面倒なはずだ、そんな面倒なことをするより自分で出して写真を撮った方が簡単にきまっている、だから放尿画像というのはたいてい本物なのだ。
わたしはそんなふうにいろいろ考えた。
確実に言えることは、またもやひとりぼっちになったということであった。
名前も知らない彼とのメールのやりとりは次第に熱を帯びてきた。
私の側としては、他愛もないことを書くのだった。
彼の返事にも、文章の技巧はなく、内容の妙味もなかった。
淡々としたものだった。
だが、お互いに書くのはオシッコ、お漏らし、放尿の妖しい高揚感だった。
彼は北国に住んでいる。寒い晩に下着をつけたまま漏らす。束の間の暖かさに酔う。それからすぐにそれらを脱いで洗濯機に放り込み、熱い風呂に入る。
私は全裸で浴室に横たわる。腰を浮かせ、足を高く持ち上げて勢い良く放尿する。熱い液体が腹から胸をつたい、顔にかかる。私はタオルでそれを受け、甘くせつない匂いに酔う。
私はそのような話を書くたびに興奮した。書きながらガマン汁で下着が濡れた。書いて送った後は必ずオナニーした。
私がそのように書くと、彼もそうだと書いてきた。自分もいまオチンチンを出してこすりながら書いている。ガマン汁が手を濡らすと、そのように書いた。
私たちはオシッコの写真を交換した。
私は浴室で噴水のようにオシッコを噴き上げているところを撮った。防水のない携帯カメラを濡らさないように注意しなければならなかった。
彼は下着が徐々に濡れていくさまを何枚か送ってきた。最後はびしょびしょに濡れていた。だが、私が最も興奮したのは最初の一枚。テントを張ったトランクスに小さな染みが浮かんだ一枚だった。
私は彼に会いに行くことを考えた。
熊本の冬は寒い。熊本で働き始めてから最初の2月、私は毎朝寒さで震えていた。
あるとき、外回りの作業があり、会社からミニバスで行くことになった。運転好きの部長が二種の免許を取っていた。
会社に集合してバスに乗り込んだ。たしかにこのときにはトイレで用を済ませた。
だが、ミニバスの中は寒い。路線バスのようにぬくぬく暖房していない。それに地面の凸凹が大きな振動になってモロに体に響く。ほどなく私は尿意を感じてきた。そのころ車は高速道に入ってしまった。作業刻限の時間は迫っており、「パーキングエリアで停めてトイレに行かせてください」とは言いにくい雰囲気だった。
そういう日に限って私は携帯トイレも持っていなく、万一のときに役立つビニール袋やペットボトルも持ってなかった。
そのときの尿意は全く異様だった。普通は腰のあたりから尿道の真ん中までが尿意を感じるところだが、その日はペニスの先端から太ももの下までに急激な尿意の蓄積を感じた。
「停めて」と何回か言うチャンスはあったと思うのだが、言えなかった。
私は自分で始末することにした。
手袋を持っている。片方の手袋を犠牲にするつもりで、ポケットディッシュを詰め込んだ。
こうして丸いボールのようなものを作った。人に見つからないようにそっとチンチンを出し、手袋の中のティッシュに挿した。その上をカバンで隠した。私はそろそろとおしっこを出した。
最初はスゴイ恥の感覚があった。
そろそろ。そろそろ。私は手袋の中に漏らし始めた。
次第に勢いが強くなった。手袋を持った左手が急に重くなったが、 おしっこの勢いは衰えず、暖かさが感じられ、ほのかな匂いも私の鼻に届いてきた。
そうやく出し終えてほっとした。
ところが、そのとき私の左下のズボンが濡れていることに気づいた。匂いをかいでみると間違いなくオシッコが漏れたものだった。それは手袋から溢れていた。
こちら側ではなく向こう側に溢れたのでわからなかったのだ。かなり大量に流れ、トランクスの半分はぐっしょりだった。私は情けなくて泣きたくなった。じじつ、少し涙も出た。
作業所についてから私は真っ先にトイレに行った。 濡れたトランクスを脱いでゴミ箱に捨てた。 ズボンはさすがに脱ぐ分けてにいかない。 その日私はフリチンで作業した。
とても寒かった。
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