僕らが旅に出る理由
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2009年12月21日(月) 再びの花 (2)

その日の夜、重い気持ちで携帯にかけると、由香里が出て来た。
普通に喋ろうとしているのだが、明らかに疲れて、か細い声だった。
「大丈夫か。家には、いづらいんやろう」
俺は言葉を絞り出した。正直、彼女の体を気遣う心境ではなかった。俺こそが、残業続きですぐにも眠りたかった。だが、それを言う事はできなかった。
「ちょっとね。でも、アパートで1人でおるのは、もっと嫌やから」
「俺のアパートに来たらええやないか。お前一人くらい、何とかしたる」
「そんな迷惑かけられへん」
「迷惑じゃないよ」
由香里は固辞した。それだけはどうしても、受け入れようとしなかった。
「はると暮らすんやったら、私がちゃんと独り立ちできるようになってからや。そうでないと、2人とも不幸になるよ」
いつも、そう言った。

ある日、いつものように帰省して、駅まで迎えに来てくれるはずの由香里が、いなかった。
俺は不審に思い、駅から電話した。
由香里は携帯に出た。ぼうっとして、忘れていたといい、しきりに謝った。時間や待ち合わせに正確な由香里には珍しいことだった。
「もうええから。今、どこにおるねん」
「今?・・・」
「俺がそこへ行くから。どこや」
「眼鏡橋・・・」
由香里は呆然と呟いた。

俺は駅前のタクシーに滑り込んだ。
眼鏡橋と告げる。
呑気そうなタクシーの運転手は暇つぶしにいろいろと喋って来たが、俺はバックミラー越しに目を合わせることすらしなかった。
どうしようもなく不安だった。
なぜまた、眼鏡橋へ行ったのか。彼女はなぜあそこに行きたがるのだろう。
答えはひとつしかないような気がして、たまらない気持ちだった。
眼鏡橋の真下で転がり落ちるようにタクシーを降りると、俺は頭上を見上げた。
「由香里!」
橋の上の黒い小さな影が、俺の声のほうを見た。この距離では、彼女の表情は分からない。
だけど俺は、夢中で叫んだ。
「由香里、飛ばんといてくれ!頼む」
「大丈夫よ、はる」
予想に反して、由香里の声はほがらかだった。しかし、それを信じるわけにはいかない。
「大丈夫やったらそんなとこに行くな。はよ降りてこい。降りて来てくれ。俺のためやと思って、頼むわ」
「はるは心配性やなぁ」
影が動いた。
俺は思わず息をのんだ。
由香里の腕が大きく橋の外に出された。その瞬間、何かが午後の遅い光を受けてひらめき、きらきらと舞いながら、谷底へ落ちて行った。
それは一瞬の事だったはずだが、光の放物線はやけにゆっくりと俺の脳裏に焼きついて行った。
「時計よ、はる」
妙に抑揚のない声で、由香里が言った。
「時計に、代わりに死んでもうたよ」
時計。
それはいつか、2人で一緒に見に行った腕時計だった。
由香里は文字盤がピンクの、小ぶりな時計を選んだ。お気に入りで、俺と居るときはいつも付けていた。大切にしていたもののはずだ。
俺は一気に坂道を駆け上がり、由香里のいるところへ走っていった。
由香里は橋の真ん中で、ぽつんと立ち尽くしていた。
俺の方を振り向きもしない。
彼女だけの、白い、透明な、広い広い世界の真ん中で、由香里はひとりぼっちだった。
俺は、肩で息をしながら話しかけた。
「由香里・・・」
「もういらん」
橋の下を見たまま、由香里は言った。
「もういらん。時計、いらん。時間なんて、どうでもいいわ」
由香里は泣いていた。
俺は訳が分からないまま、由香里を抱きしめた。由香里は小さな女の子のように泣いた。





帰りの道は俺が由香里の車を運転した。
車内には、重い沈黙が流れていた。
俺は、今夜は一緒にいたほうがいいのではないかと思った。
しかし、由香里がどうしても嫌がった。
「迷惑をかけるから」
それはもう、由香里の口癖のようになっていた。
駅に着くと、いつもは車から降りない由香里が、ホームまで俺を見送ると言ってきた。
次の特急が来るまでにまだしばらく時間があった。ホームは吹きさらしで、日が陰ってくると途端に寒くなる。
俺は由香里の手を握った。
すっかり冷たくなっていたので、両手でこすってやりながら、言った。
「由香里、結婚しよう」
由香里は驚いたように目を見張った。
そうだ。俺たちは、およそ普通の恋人らしくない。2人とも傷ついて、へとへとだ。結婚にまつわるハッピーな空気なんか、どこにもない。
だけど、そんな2人が結婚したっていい。
幸せだから結婚する人もいれば、結婚してから幸せになる人だっているだろう。順番はどちらでもいいはずだ。
結婚すれば、由香里だってもっと遠慮せず、俺に寄りかかれる。
夫婦なんだ。運命共同体だ。お互いを頼って当然だと、思ってくれるだろう。
俺は、由香里に甘えてほしかった。
そして、幸せになりたかった。幸せな気持ちで、抱きしめ合いたかった。
出会ったばかりの頃みたいに。

電車がホームに入って来て、俺は乗り込んだ。
「なぁ。俺、本気やで。さっき言うたこと。考えといてくれや」
乗車口に立って、俺はそう言った。
意外にも、結婚の言葉を言ってしまうと、すっと体が軽くなった。そうだ、結婚だ。由香里と家庭を作るのだ。なんというウルトラCだ。我ながら名案じゃないか?
由香里はそんな俺を見て、ほほえんだ。
「はる、私ね」
「何?」
「はるのこと、ずっとずっと前から好きだったんよ。私、小さいころからはるを知ってたの」
「え、そうなん?」
初耳だった。
小さい田舎の事だからどこで俺を見知っていたとしても不思議ではないが、どこで知ったのだろう。
「うん。デパートに勤め始めて、たまに帰省してくるのも、とっくに知ってた。私、計画的にはるに近づいてん」
「なんや。そうやったんか。いつからや」
俺はすっかり驚いて、聞いた。
「ずっとずっと前よ。昔っからよ」
「昔って、小学校とかか。せやけど・・・」
その時ちょうど、出発のベルが鳴って、俺の言葉はかき消された。
「由香里・・・」
「好きやったよ、はる。昔も、今も」
由香里が言った。
目を細め、彼女らしい、透明でなつかしい笑顔だった。





由香里が眼鏡橋から身を投げたのは、それから1ヶ月くらい後だった。
俺たちの田舎には初雪が降り、もう冬が訪れていた。
それを聞いた時の俺の気持ちは、どう言えばいいだろう。
なぜという気持ちと、やっぱりという気持ちが半々だった。
同情に満ちた同僚の目を避けて、俺はデパートの屋上へ上がった。
そこで、ポケットから数週間前に2人で予約した婚約指輪の引換証を取り出し、破った。
指輪を一緒に見に行った時も、由香里ははしゃいでみせながら、それを自分が指に付ける日のことなど考えていなかった。たぶん、そうだろう。それでも、俺のために、精一杯喜んで見せていたのだろう。
びりびりになった紙片は、カッコよく風に流されたりはしなかった。
俺の足元の地面に舞い落ちただけだった。
風もなく、この季節にしては暖かい。穏やかな日なんだな、とぼんやり思った。

数日後、由香里の葬式があり、俺は田舎に帰った。
葬式には、俺の知っている顔もちらほらあった。
しかし、不思議なことがあった。

誰も、由香里に俺の話や、連絡先を教えたやつはいなかった。
由香里が俺の話をしてるところを見たことさえなかったという。
俺と付き合っていたと聞いて、古い知り合いは皆驚いていた。

由香里はどこで、俺のことを知ったのだろう。

葬式の後、俺は1人で眼鏡橋へ行った。
由香里は遺書を残していなかった。
彼女らしいと思った。彼女はいつも、優しすぎて、言葉が足りなかった。
最初にここへ連れて来られた時のことを思い出した。
あのときも、彼女が言いたかったのはきっと、あんなことではなかったのだろう。
「私は死なへんよ」
なんて、きっと、考えていたのは逆の事だったのだ。

あの日由香里がしたように、手すりから乗り出して下を眺めてみた。
左右から冬枯れの枝が幾重にも重なるその下に、水しぶきを上げる急流が垣間見えた。
それは生と死を厳然と切り分ける、つめたい境界線だった。
由香里はとうとう、あの境界線を越えて行ってしまった。

俺はたぶん、由香里の言葉を、もっとちゃんと聞くべきだったのだ。
言葉だけでなく、言葉の裏側まで。
由香里と一緒に苦しみ、由香里と一緒に眼鏡橋の下を覗いてやるべきだったのだ。
そして彼女が覗いた死の淵を、一緒に見てやるべきだったのだろう。

けど由香里、俺は幸せになりたかったんや。お前と。

お前と見るんは死や絶望じゃなく、幸せや喜びであってほしかったよ。

人気(ひとけ)の絶えた冬枯れの眼鏡橋の上で、俺は誰に言うともなく、そう呟いた。
そしてどこかにまだ残るかも知れない由香里の気配をさがして、ただ一心に耳を澄ませた。




俺はそれからも大阪へ戻って仕事を続けたが、その半年くらい後に両親を交通事故でなくした時、自分の中で何かの糸が切れた。
俺はもう二度と、仕事に戻れなかった。
あれほど馴染んだ職場がよそよそしいものになり、同僚や上司が、急に遠い存在に思えるようになった。
その感覚は俺の中でだんだん支配的になってゆき、俺は仕事を辞めざるを得なくなった。
俺はもうぼろぼろだった。
恋人も、両親も、仕事も失い、茫然自失として田舎に帰った。
実家にひとりで住みはじめたが、スーパーで買物をするとかつての仕事をつい思い出してしまい、心が締め付けられるように辛くなる。
それで、できるだけ自分で調達しようと心に決めた。
野菜や米などは、親が残した田んぼや畑を耕して、自分で作ることにした。

土にふれる生活が、だんだん俺を癒していった。
農業は、本気でやり始めると一日中することが山ほどあって忙しい。あっと言う間に日が暮れ、くたくたになってぐっすり眠る。そうするうちに、疲れた心が回復していくのを感じた。
実家に戻ったばかりの頃は、近所の人たちと世間話をすることすら億劫だったが、1年経つ頃には少しずつ心を開けるようになった。
2年経つと、田舎暮らしにも慣れた。有機野菜や卵を地元の人達相手に売ってわずかな収入を得るようにもなった。しかし、それ以上に大きく儲けようという気は起こらなかった。デパートにいた頃は集客が上がることが何より楽しかったのに、そういう欲はもう一切なかった。

ある日、引出しの整理をしていたら、由香里の写真が数枚出て来た。
2人で撮った写真もあった。
デートに出かけた時に撮った、ベンチで2人座っている写真だ。
俺が手前にいて、由香里は遠慮がちに俺の陰に入り、控えめに微笑んでいた。

俺はええカッコしいで、人前で彼女を抱き寄せたりキスしたりするのを極端に嫌がる性格だった。
だから、写真を撮っても彼女の肩を抱いたことさえなかった。

俺、アホやな。
何で、もっとしっかり抱きしめてやらんかったんやろう。
抱きしめられる距離に、由香里がおってくれた時に。

俺はその時、初めて泣いた。
葬式の時でさえ、涙を流さなかったのに。
写真の中の他人行儀な由香里が、あまりにも可哀想だった。
そして俺の迂闊さが、悔しくてしょうがなかった。
照れくさがるなんて。俺はなんてガキやったんやろう。

いつかまた、由香里に会えたら、俺は謝らなければならない。
たくさんの思い違いをしていたことを。
俺は写真を写真立てに入れて、仏壇の近くに置いた。
あの時のアホな俺を、忘れないために。
二度と、そんな淋しい思いを、誰にもさせないように。





俺はひとつ大きく、身震いをした。
今夜は一段と冷える。
短い秋が過ぎて、また冬が巡って来ようとしているのだ。
それはあれから、もうすぐ3年になることを意味していた。
あっという間だったような気もするし、もう遠い昔のような気もする。
夜更けの静寂の中で、石油ストーブのパチパチいう音だけを聞きながら、俺は久しぶりに由香里の事を思い出していた。
そろそろ、仏壇の花を取り替えてやらなければならない。
春を待たずに逝ってしまった由香里のために、できるだけ花は欠かさないようにしていた。
明日にでも、また摘んで来よう。
今の時期は花も少ないからな、どこ行ったら・・・

その時ふと、由香里の声がしたと思った。

俺はびくっとして、辺りを見回した。
空耳か?由香里の声がするはずはない。

「すみません」

また声がした。
空耳ではない。由香里の声でもないようだ。
人の声だ。女の人の。
でも、こんな夜更けに?

なんだか夢の中にいるような、ふわふわした心地だった。
俺は混乱しながら土間に通じる戸を開けた。



「・・・誰?」




<終>


2009年12月20日(日) 再びの花 (1)

別に持っている自分のブログに載せたものですが、ここへも転載しておきます。
『天国はまだ遠く』という映画に触発されて書いた物語です。
映画はほのぼのしたよい作品です。女の子向けかな。

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『再びの花』


俺自身は、これまで死にたいと思ったことがない。
それって呑気なのだろうか。
4年くらい前までは、死ぬことなんて身近でさえなかった。
しかしその後、なぜか立て続けに周りの人間が死んでいった。
それ以来俺はすっかり変わってしまったように思う。

そんな今でも、やはり、死にたいとは思わないし、死んだらどうなるのか、具体的に想像もつかない。
だから、由香里の気持ちは俺には永遠に分からないのかも知れない。



俺が由香里に初めて会ったのは、6年くらい前だ。
俺は26歳で、大阪のデパートの企画部で働いていた。こう言っちゃ何だが、かなりノリノリで仕事をしていた時期だった。初めて、仕事の面白さというものが分かってきたような気がしていた。
そんな頃、就職活動中だった由香里から連絡をもらった。
俺と同郷だということだった。
正直、驚いた。過疎も過疎、数えるくらいしか住人がいない上に、半分以上は年寄りというような田舎なのだ。実家の住所を聞いて、あぁそう言えばそのへんにそんな名字の人いたな、くらいの記憶はあったが、年齢的にも離れていたからか、俺は彼女をあまり知らなかった。
希望していた流通関係に俺が勤めていると地元の誰かから聞いて、連絡先を教えてもらったそうだ。

初めて会った由香里はリクルートスーツに身をつつみ、真面目そうで、いかにも就職活動生といった雰囲気だった。化粧は控えめだが肌が透き通るように白くて、潤んだような目をしていて、かなりかわいかった。
最初の印象では人見知りしそうな、どこか淋しげな感じもあったのだが、話してみるとよく笑う、普通の女の子だと分かった。出しゃばらないが人の話はきちんと聞き、仕事についてはなかなか鋭い質問をしてきて、頭のいい子なんだなとも思った。

付き合うようになったのは自然ななりゆきで、お互い、「付き合おう」と口にする前に、もう分かっていた。空気というか、波長というか、そういうものが似ていた。
就職も無事決まり、由香里は
「男と仕事と、両方手に入れたわ」
と冗談を言って笑っていた。
一人暮らしをするためのアパートを探したり、家具を見に行ったり、その年は楽しかった。クリスマスにイルミネーションを見に行くなんてベタなこともやった。よく笑った。幸せだった。





翌春、由香里はうちのデパートで働き始めた。
俺が思った通り、由香里は優秀だった。他の同期のやつよりよく働いて、上司の評判も上々だった。
しかし、由香里は熱心に働くあまり、無理をしすぎることがあった。
社内はどこも人手不足で、優秀な由香里に仕事が集まってしまうこともたびたびだった。
そのたびに、
「たまにはうまく仕事をかわさんと、全部引き受けてたら潰れるぞ」
と俺は言った。
由香里はその時には頷くのだが、しばらくするとやっぱりたくさんの仕事を抱えてしまっている。
適当にはぐらかすという事が、この子は苦手なのかも知れないと思った。

俺は企画部の仕事を続けていた。
初めての企画展がなかなかの盛況に終わり、次は何をするのかと、周囲も期待していたし、俺もそれを考えるのが楽しかった。
デートの時にそんな話をすると、由香里はいつも自分の事のように喜んでくれた。その笑顔を見ると俺はまた元気が出て、どんどん仕事をこなした。時には、夜遅くまで残業することもあった。そのために2人でせっかく予約したレストランをキャンセルするようなこともあった。
俺が謝ると、由香里はいつも笑って、
「仕事がんばって結果が出てるんやから、ええことよ」
と言って許してくれた。
俺は由香里に、仕事が忙しい自分を見せることが誇らしかった。仕事のできる彼氏になってやることが、由香里にもいいのだと思い込んでいた。
もちろん、デートのキャンセルが続くと由香里もへこんだし、俺もこのままではいけないと思った。
が、ほとぼりが冷めると、俺は結局由香里の優しさに甘えてしまった。つまるところ、当時の俺は仕事が面白くてたまらなくて、ただ夢中になってたんだと思う。


異変は2年目の夏に起こった。
由香里が突然、休職したのだ。
原因は精神的なものらしいと皆が噂していた。
全く予期しなかったことに、俺はうろたえた。いや、全く予期しなかったと言ったら、嘘になるかも知れない。それまでも、ストレスが溜まっているのかなと思う事はあった。由香里が俺に、職場で感じる疑問や矛盾をぶちまけるようなことがあったからだ。
最初の頃はそんなものだと思った。俺も、社会全体に漠然とした苛立ちを覚えた時期がある。でも就職して数年で消えてしまった。だから、由香里も同じだと思った。女性だから、俺の時よりストレスがちょっと強めに出ているのだろうと考え、それほど深刻に捕らえなかった。
しかし、由香里は俺の想像より、ずっと悪くなっていたのだ。
しかも、俺がそれを聞かされたのは由香里本人からではない。
上司の堀江部長からだった。
由香里の上司と親しいそうで、そこから聞いて教えてくれたのだ。
「なんや君。聞いてへんのか、深瀬くんから」
「ええ、ここんとこちょっと、残業やら出張やら忙しくしてましたんで・・・」
俺は相当きまりが悪かった。
「そうやな。立て込んどったで、俺も悪かったな。深瀬くんな、頑張り過ぎて、ちょっと疲れてしもうたみたいやねん。ただ仕事はようでけるし、あっちの部署では無理せんと休んで、また元気になったら戻ってきてもうてええ、言うとるけどな」
部長は独特のおっとりした口調で話してくれたが、少し心配そうだった。

由香里の携帯は電源が切られていたので、その日の仕事が終わってすぐ、彼女のアパートに行ってみた。
アパートには誰もいなかった。長期旅行する前のように、きれいに片付けられていた。
俺は慌てて、彼女の実家に電話をした。
彼女の母親が出て来て、由香里はうちで寝てます、と言った。
今日は具合がよくないので、と言われ、取り次いでもらえなかった。
この母親は、前に一度会ったことはあるが、どういうわけかあまり俺を快く思っていないようだった。
仕方なく電話を切り、ともかく無事は確認できたことに安心して、自分のアパートに戻った。

次の休日が来るまで、俺はひたすら反省した。
田舎から出て来て友だちも少ない由香里にとって、頼れる相手は俺だけだったかも知れないのに、十分に向き合ってやらなかった。俺はそういう病気には詳しくないが、きっと淋しかったのだろう。
1人の部屋で布団に入り、明かりを消すといつも、暗闇の中で由香里の潤んだ瞳を思い出した。由香里は俺の前でたくさん笑ったのに、思い出すときはいつも少し俯き加減の、淋しそうな顔だった。

俺たちの田舎は日本海も近い、京都府の北端にある。
大阪から特急に乗って2、3時間という距離だ。
会いに行くと言うと、由香里は駅まで車で俺を迎えに来てくれた。
数週間ぶりに会った彼女の顔は、少し青白かった。彼女の肌はもともと透明で白いのだが、いつも以上に白い気がした。
助手席に乗り込んだ俺に、由香里はまず謝ることから始めた。
「ごめんね。突然おらんようになって」
「おう。びっくりしたで。俺、そんなに当てにされてへんかったんか」
あれだけ悩んだのに、彼女に言うべき言葉が見つからず、俺はそんなぶっきらぼうなことしか言えなかった。でも由香里は、俺の気持ちを察していた。
「はるが悪いんじゃないんよ。私やから。まだ大したこともできてないのに、2年もせんうちに体壊してしまうなんて、情けなくて言えへんかった。はるは仕事でどんどん成果上げてるのに」
「情けないことなんてあるか。お前、立派にやってるぞ。俺の2年目の時より100倍はええぞ。ほんまに」
何を言えばいいのか分からない。励ませばいいのか、慰めればいいのか。ただ、冗談を言って笑わせていればいいのか。
どれも違う気がした。いつの間に、由香里のことをこれほど分からなくなっていたのだろう。
「はるが気にせんでいいんよ」
「気にするっちゅうねん。させとけや」
由香里は静かに笑った。いつか見たのと同じ、潤んだ目をしていた。彼女はハンドルを握ったまま、どこへ行くとも告げずにアクセルを踏んだ。

車の中で、少し話をした。
はっきりとは言わなかったが、実家はあまり居心地がよくないようだった。田舎のことだから、噂はすぐ広まる。由香里の両親は村の総代をつとめたり、いろいろと顔が広いそうで、余計に具合が悪いのだろう。
医者の話では、由香里の病気は、とにかく無理をせず、体も心も休ませること、しばらく好きなことだけして、元気を取り戻すことが大事なのだそうだ。
「でも好きなことだけって言われてもなぁ、分からへんわ」
由香里は困ったように言った。確かに、由香里の趣味というのは聞いたことがない。
「ほな、とりあえずぼーっとしとけばええんと違うか」
「ぼーっとって。そんなん30分も持たへんよ」
あっさりと笑われた。確かにそうかも知れない。
俺が好きな事だけしてればいいと言われたら、 仲間と草野球をしにいくか、昼間からビールでも飲んでDVDを見るか・・・とにかく、する事に困ったりはしないだろう。しかし由香里はそういう風でもないし・・・
俺が言葉に詰まっていると、由香里は少し悲しそうな顔で笑った。
「はる、ごめんね」
「謝らんでええから」
「はるに迷惑だけはかけたくないねん。それだけは、したないんよ」
「迷惑やないよ」
俺はそう言ったが、自分の言葉が空回りしているのを感じていた。





着いたのは、紅葉が目に美しい眼鏡橋だった。
旧国鉄時代に使われた橋梁だ。今は廃線になって、冬にはもっぱら自殺の名所になる物騒な場所だ。
俺はほとんど来たことがなかった。
由香里は俺の前を、迷いのない足取りで歩いて行った。何度も来ているのだろうか。橋の上に出ると、辺り180度の視界が開けて、怖いくらいだった。
「なんで、こんなとこに来たんや」
俺は聞いた。お世辞にも、デート向きの場所ではない。
「ここ、自殺の名所なんよ」
「知ってるよ、そんなこと」
「ねえ、怖くない?下見てみて」
俺はしぶしぶ、下を覗いた。高所恐怖症ではないが、さすがにゾッとする。
「何十メーターあんねん、これ、下まで。えげつないもん作りよるよな」
そう言いながら、俺は視界の端から由香里を逃さなかった。
由香里は橋の手すりに覆いかぶさるようにもたれて下を覗いている。俺は手すりに垂直にもたれて、横目で下を見ているだけだ。由香里が変な真似をしたら、すぐに捕まえようと思っている。
「なんで飛べるんやろう、人って、こんな高いところから。怖くないんかな」
「さぁ。それは、実際飛んだ人に聞いてみな分からんやろう。それはまぁつまり、聞かれへんちゅうことやけど」
「その瞬間に、怖いって感情は消えてしまうんかな」
「さあ、分からんな」
由香里は何を考えているのだろう。
「ねぇ見て・・・なんか、吸い込まれそうやね」
「やめろや。気色悪い。こっち来いや」
俺は嫌な予感がして、由香里を呼んだ。彼女は軽く笑ったが、谷底から目を離そうとしない。
「こんな風に試されるなんて、俺嫌やぞ」
「何それ。試してへんし」
「ほな、こっち来い」
「はる、もしかして本気で心配してる?私が飛ぶって?」
「ええから、来い」
俺たちの間には、2mくらいの距離があった。
いつもは素直な由香里なのだが、この時はなかなか言うことをきかなかった。その頑さが、妙に俺を不安にさせた。
「はるがこっちに来たらいいやん」
「お前、分かっててじらしてるやろ」
「ねぇ、はる」
由香里は構わず続けた。
「みんな、飛ばずに済むものなら飛びたくなんかないと思うねん。生きてれば辛い事もあるけど、同じくらい良い事もあるんやって、分かってるもん。死んでしまったら、大事な人たちを悲しませることも、分かってるもん。だから・・・」
俺は何も言わなかった。
しばらく、お互い黙ったままで見つめ合った。
「・・・だから、私は死なへんよ、はる」
「なんや。そんなことか。当たり前やないか」
俺は内心ほっとしていたが、わざと怒ったような声を出した。そのまま、心の動揺を悟られないように彼女の腕を乱暴に掴んで引き寄せ、橋を降りた。
由香里はもう、いつもの由香里になり、大人しく俺についてきた。



それから、俺は休みが取れる時は、できるだけ田舎へ帰って、由香里に会った。
仕事は忙しく、自分だけの問題であれば、休み返上で働きたいくらいだった。それくらい集中したい時期だったが、それでも、俺は無理に人並みの休みをとって、それをすべて由香里のために使った。
とにかく、由香里に会い、話をすることが一番の薬だと、信じていたからだ。
疲れ果てて、京都から帰って来る特急の中で前後不覚に眠りこみ、大阪で駅員に叩き起こされることもあった。それでも、俺は京都へ通うことをやめなかった。
由香里は一見、順調に回復しているように見えた。最初は、数ヶ月で職場に戻ってきた。
職場に戻ってからは、彼女を見かけるたび声をかけた。俺のマメマメしさは上司に冷やかされるほどだった。以前はしょっちゅうキャンセルしていたデートの約束もきちんと守った。
由香里は喜んでいるように見えた。
でも、だめだった。由香里はまた休みがちになっていった。
また休職した、今度は退職ということになるかも知れないと堀江部長から聞かされて、俺は脱力感に襲われた。
どうして好転してゆかないのか。
俺の何が悪いのだろう。
仕事ではキャリアを積み重ね、自分なりの方法論も確立しかけていた。だが由香里に関しては、それは何の役にも立たない。
由香里は、少しの雨や風にも耐えきれず倒れてしまう、弱い弱い芽のようだった。俺が傘をさしかけても、手で風よけを作っても、ほんの少し漏れて入る風や雨だけでだめになってしまう。だったらそもそも、傘や風よけの意味なんてあるのだろうか。
どうすればいいのか、分からなかった。よほど考えが行き詰まる時には、一瞬、由香里を疎ましいと思うことさえあった。ほんの一瞬で、すぐにそんな考えは頭から追い出すのだったが。


2009年12月12日(土) 海外へ行かなくなる日

私が子供の時には、まだアメリカに盲目的な憧れを持っている人がたくさんいた。田舎だったということもあるし、外国といえばアメリカのことで、町で外国人を見かければたいていアメリカ人と思われていた。
英語が話せない人は外国にコンプレックスを持っていたし、逆に多少でも覚えがある人はそれを誇示していた。英語とか海外というものを大いに意識していた。

私はひねくれティーンエイジャーだったので、英語が得意だったくせに、そういう風潮が嫌いだった。戦争に負けたからこんな卑屈なことになっちゃってるんだ、と当時は思っていた。

大学を出てからは海外留学の仕事につき、留学していく多くの人と関わった。
見知らぬ国の人々やその言葉に対し、憧れや好奇心や恐れをもって出かけていく彼らは、多くの場合、それによって自らを変えたいという気持ちも持っていた。
私は、海外と自分の変身願望を重ねてしまうのはやり過ぎだと思っていたけれど、そういう流れの中からやがて、もっとフラットな物の見方ができる若い人達が現れて、自然体のままで海外でも活躍してくれるような時代になったらいいと思っていた。下から海外を崇めるようなダサい風潮には、早く死んで欲しかった。
だが、そんな時代が来るのか、また、来たとしてそれはどんな時代なのかは、具体的に想像できなかった。

そこへインターネットがやってきて、世界の勢力図を大胆に書き換えてしまった。ビジネスが否応無しに国際化していき、サブカルチャーから火がついて、日本そのものにも注目が集まるようになった。
私は内心、いい流れだと思った。今や世界が日本を理解しようと努力している素振りさえ見える。いよいよ対等な時代が来るのかと思ったのだ。

ところが最近になって、海外へ出かける日本人がどんどん減っているという話を聞き、そうか、そうなるのかと目からウロコが落ちた。

相手が自分を理解しようと歩み寄ってくると、もう自分から働きかける意欲を失ってしまう。というよりこれからは、自分からも働きかけなければいけないのだという発想自体、出て来なくなるのかも知れない。

人間が人間と対等に付き合うのは、やっぱり難しいことなのだ。
下から見るか、でなければ、いっそ上から見るということになってしまうのだ、大半の人達は。

世界はそんなに簡単に完成しない。ある意味、よくできている。

しかし、海外に興味を失うにつれ、右傾化する人も増えてきそうで、なんだか怖い。アメリカを崇拝していた時代には、私は日本人ほど愛国心の薄い民族はないと言って、もっと自信を持とうぜ、みたいなことをあちこちに書き散らしていたものだけど、いまやそんなことはとても言えなくなった。


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