僕らが旅に出る理由
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2003年05月05日(月) My Only London - エマ

ロンドンにいた3年の間、特に差別的な仕打ちをされたという記憶はない。
もちろん、「?」と思ったことくらいはある。通りを歩いていて、どこからともなく卵とか石とか飛んできたときなんかはそうだ。
だけど当たらなかったので怪我はしなかったし、怪我しなかった以上、気にするほどのことではなかった。

彼らの悪意というのは私個人に来たものではない。道を歩いているアジア人を狙っただけだ。私を日本人と見分けたかどうかさえ、怪しい。まして、私の素性など知るはずも無い。そういう曖昧な悪意では傷つかない。

一度だけ、そういうのとは違った悪意に遭ったことがある。
職場で、それを言ったのは同僚の一人だった。彼女の名前はエマと言った。

エマは当時の私と同い年くらいか、少し若いくらい、20代後半から30代前半というところのイギリス人女性だった。きゃしゃな体つきで栗色の髪をベリーショートに切り、それが彼女の小さな頭にとてもよく似合った。
彼女は全世界からやってきたどの学生にも親切で優しかった。

細かい内容は忘れてしまったのだけど、ある時、中近東のどこかの国のお金持ちがうちの学校で英語のコースを申し込んだことがあった。受付で説明をしたり手続きをしたりするのに、私も応対したし、ほかのスタッフも応対した。彼らは何度かに分けてやってきたので、どの時に誰が対応したか、はっきり覚えていなかった。
彼らは横柄で扱いにくかった。順番を守る、ということが彼らには理解できなかった。自分たちのペースで何もかも運ぶことに、あまりに慣れすぎていた。彼らが自分の都合のいいように学校の規則を理解しないよう、何度も繰り返し説明する必要があった。そうすればしたで、彼らは今度は子供扱いされたと受け取って更に苛立った。
確かに私は彼らが嫌いだったし、笑顔も通常より30%減くらいになってたかもしれない。

数日後、彼らの件で、エマが私に直接電話をかけてきた。
エマと私は、普通に仲良くしていた。つまり、プライベートで仲良くするほどではないが、仕事上では友好的にやれていた。
エマは教師の手配やクラスの構成といったアカデミック担当で、私がいた受付とは別の建物で勤務していた。どうやら、彼らがその彼女のところに行って、何か受付のことで文句を言ったらしい。
受付の誰かが、彼らに間違った情報を与えたという言い方だったと思う。でもそれは誰でも知っている当たり前の情報で、いくら忙しくても間違って伝えるような可能性なんかなかった。どういう情報だったのか今では覚えていないが、それを言われたとき、自分が『子供じゃあるまいしそんな勘違いするわけない』と思ったことは覚えている。

エマはしかし彼らの言うことを鵜呑みにして、しかもその間違った情報を与えたのがなぜか私だと思い込んでいた。

「それはほんとに私ですか?」

私は聞いた。

「ええ、申し訳ないけど、あなたよ」

エマは即答した。

なんでそこまで断言できるんだ、その場にいたわけでもないのに、と思ったが、そこまで言い切られると私は自分に自信がなくなった。私も自分の言ったことを全部覚えているわけではない。

エマは続けて、彼らはサウジアラビアだかドバイだかのVIPで(王族に関係あるとか大使の親戚とか、そんなんだ)、

「特に丁重にもてなさなければならない人たちなのに」

と言った。そう言われると、時には自分が受付で苛々した態度を取ってしまうことを知っている私は、なんだか自分がほんとにそれをしたような気分になってしまった。

その場は私が謝ったような謝ってないような、微妙な空気で終わったが、後でいくら考えても、私がそれをやったという記憶は出てこなかった。そのうち、それはほかのスタッフが言ったんだというはっきりした証拠が出た。

そうなると私はエマに猛然と腹が立ってきた。

彼女は私を一方的に非難した。『彼らはこう言っているけど、ほんとなの?』というような簡単な確認さえ取らなかったのだ。
言葉だ、と思った。
私は受付でたぶん、一番英語ができなかった。
まともに英語ができない人間は、相手にいい加減な情報を与えてもおかしくない、と彼女は思っていたに違いない。おそらく、私の仕事全般にわたって、そういう評価をしていたのだろう。

しかしこれからも毎日顔を合わせて一緒に仕事していかなければならない相手だ。そう思うと感情のままをぶつけるわけにも行かず、私はただ数行のメールを送った。

「こちらで調べた結果、どうやら○○がそれを言ったようです。彼もそれを認めています」

というような、事務的な内容にしておいた。

エマから返事はなかった。
彼女はしばらくの間私を避けた。2−3週間して、私もそのショックから立ち直ったころ、何もかも忘れたふりをして受付にやってきた。
そして私にも、以前のとおりフレンドリーに接した。

ほかの男性スタッフからも同じように扱われたことがあり、私は彼にもキレたことがある。彼は、それから態度を改めてくれたが、エマはきっとこれからも変わらないだろうという気がした。いつでも、どこか表面的なのだ。

だけど私はエマを嫌いにはなれなかった。
自分でも不思議なのだが。
まぁ、そうだよね、と思うのだ。
かえって親しみを覚えてしまった。彼女の人間臭さに。

そして私は、人が見せるそういう一瞬の、うわべの親しみを取り去った素顔が見られることを面白いと思うようになった。
そういう顔は、カネが絡んでくると、出てくる。
だから彼らと一緒に仕事をするのは面白い。彼らの本音が見えるからだ。
プライベートで友人として付き合う中にも、もちろん本音が見える場合はある。だけど仕事で絡むほうが早く出てくる。そしてそのほうが、その人をより深く知ることができる気がする。

エマはしばらくして仕事を辞めた。
『ここの仕事はクレイジーよ、やってられないわ』
とあの低い、穏やかな声で、きれいな眉を寄せて言うのを見て、私は相変わらずだなエマ、この上っ面オンリーな感じがたまらない、と思った。

だから私も、うわべだけの、適当な激励の言葉を餞別カードに書いた。こんなに適当に書いて、こんなに心が痛まないのも、たまにはいいものだと思った。


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