自己肯定感について

2010年01月30日(土) 目が疲れる。

初めてインターネットを使い始めた頃、
目が非常に疲れた。
今も一応、画面にフィルタをつけているけれども、目が疲れる。
キンドルとかipadとかもやっぱり目が疲れると思うんだけれども。

外国人の地方参政権のことで、いろんな人の意見を載せているサイトを見たのだけれど。
「税金を払っているという理由で参政権を与えている国は海外にない」
というのがあって、海外にないからなぜダメなのかは書いていなかった。前例踏襲主義を、お役所的と批判するのだけれど、全く同じ論理で他のことを批判をしてしまうことがある。誰でも陥ってしまう。
それと、そのサイトには、強制連行のことが一言も触れられていなかった。それこそ日本固有の問題のはずなのに。
理想論かもしれないけれど、永住権を持てば、参政権を与えても良いと個人的には思う。





2010年01月25日(月) 死生観2

死後の世界のことは死んでから考える、
と言えるのは、強い人なんだと思う。
僕は怖くて、考えざるを得ない。
閻魔様に何をどんな風に裁かれるのか。
或いは、全く無に帰するのか。
その不安を抱えつつ、生きざるを得ない。



2010年01月24日(日) 死生観

死んでしまったらすべてが無になってしまうとしたら、
この今の苦しみに耐える必要があるのだろうか、と思ってしまう。
生活保護でも貰って、怠惰に生きて、と思ってしまう。
神様がいて、死後に裁きがあるということであれば、苦しみに耐える理由もできる。
けれど。
現実には、神様がたくさんいる、という問題もある。
神様という架空の存在を利用して、誰かが得をしているんではないか、という懐疑もある。

生きているこの現実世界だけで物事を考えるとすると、
明日、交通事故で死ぬかもしれないけれども、死なないことを前提として未来の為に今の苦しみに耐えることは、家族なり友人たちなり自分の所属する共同体へのメッセージになるということで、意味があるだろう。
神様の替わりに共同体がある。
自分が死んでも、自分の分身である共同体が残る。
共同体は自分の苦しみを無駄にしない。
今度は、共同体への疑問が出てくる。
共同体、あるいは人類、あるいは地球なり宇宙も、永遠に存在するのかどうか。

僕は生きている。
親がいて、血縁者がいて、友人がいて、他人がいる。
誰も死後の世界を知らない。
宇宙の外に何があるのかも。
この世界そのものが、夢であるという仮説も成り立つ。
誰も解き明かせない謎。
死んでみなければわからないけれど、
死んでしまったら、そもそも、わかるのかわからないのかもわからない。
とても不思議だ。
それでもみんな平然と生きている。
とても不思議だ。

常識は変わる。
科学がいろんな現象を解き明かせば、
存在という謎も解けるのだろうか。
創造主がいるとして、
創造主を創造したのは?

解き明かすことはできるのだろうか。
試みることは良いことなのだと思う。

少なくとも、今、僕は存在している。
夢なのかもしれないけれど。
この共同体の中で。
この共同体の中で生きている。
生きていく。



2010年01月03日(日) 価値観の変化

あっちの世界を気にしながらこっちの世界で生きている。
お天道様はすべてお見通しだから、こっちでやるだけやってみるしかないさ。



2010年01月02日(土) 父は荷造り紐で首を吊った。

他人から見たら、行き詰まっているようでもまだまだ方法がある状況だと思えるのだけれど、本人には究極の選択をするしかないと映るのだと思う。
追い詰められる、というのはそういう状況。
そんな単純なことを理解するのに、どれだけの大きなものを失わなければならなかったか。

うつ病やその他の原因で、自殺する人が毎年約3万人いるという。
地方の小さな市の人口と同じくらいの人が死んでいく。
人生もまた戦場だということ。

人生とはなんなのか、おそらく誰にもわからないだろう。
ただ生まれて、生きて、死んでいく。
もっともらしい理屈のいろんな価値観に振り回されていくうちに、夢のように時間は過ぎ去る。
幸せは、心の内にある。水道の蛇口をひねれば水が出る。こんな幸せなことはないと思う。
わかってはいるけれど、それだけではいけないような洗脳を、僕らは受ける。
家族から、テレビから、社会から。



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猫目 虎三

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