蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 

高崎が風邪を引いたらしい。
らしい、というのは学食で梓がプリンを食べながら言い放ったからだ。
「あず、高崎くんから連絡あったの?」
「ない。さくら一口食べる? おいしいよ」
「じゃあなんで知ってるの」
さくらの小さな口にスプーンをゆっくり入れてやりながら、梓は興味なさそうに「恭二が言ってたんだよね」と言った。
「きょうちゃんが」「うん。でも恭二もどうでもよさそうだった」「そこ、恭ちゃんありきなんだね」「そりゃそうだよ、私にとって、恭二は常識の見本だから」「そうかなあ」
さくらが首を傾げる。瀬名は確かに眉目秀麗の見本みたいな人間だが、倫理観だけで言えば見本にはならなそうだった。
「高崎くん、一人暮らしでしょう? 大丈夫なのかなあ」
「さくらはあいつのリカバリー能力ナメすぎ」
「…あずのその信頼がどこからくるかわかんないなあ」
学食を一人で出たさくらは、背中から「あんまり一人になっちゃダメだよ」という過保護な心配を受け、部室に向かう。部室には瀬名が一人、本を読んでいる。彼は無類のミステリ好きで、どこそこの教授とよく本格ミステリとかいうジャンルについて議論しているほどだ。
「高崎くん、風邪なんだって? ひどいの?」
さくらは自分が取り立てて心配性だとは思っていない。そもそも高崎が風邪で休むということ自体が、珍しいから心配なのだ。
「きょうちゃん?」
返事があるとばかりに待っていたさくらだったが、瀬名が一言も発さないので、なにごとかと彼を見やる。
「さくら、それ誰から聞いたの?」瀬名お目の色が少し冷たくなる。
「え、あずからだけど」「まあ梓からだよね。でも残念ながら、僕は梓にその話はしていないんだ」「え、と?」瀬名の言いたいことがわからなくて、さくらは首を傾けた。「梓が僕の携帯画面を後ろからのぞき込んで見ただけだし」「あーなるほど」とさくらは言ってから「…恭ちゃん怒ってる?」と付け足した。
「携帯画面覗かれて愉快な人はいないよね」「それは人によるとは思うけど、顔が怖いよ、恭ちゃん」「あと、高崎は風邪じゃないよ」「そーなの?」
「うん、二日酔いで起きたら昼だったから、代わりに出席名前書いといてっていう」「風邪って話は」「頭痛いって文面があったから、それかな」
頭が痛い。休む。イコール風邪。
さくらは静かに波立つ瀬名から、そっと離れる。
そのまま部室を出ようとしたところで、「さくら」という普段なら聞き心地の良い声に呼び止められた。
「しばらく隣、いて?」
いつもなら、さくらにとって最高の言葉に違いない。うきうきしながら、隣に座って五月蝿いくらい喋る自信がある。いつもなら。
「えーっと」
ちょっと教授から呼び出しされているの。次の教室が遠い棟だから、もう行かなくちゃ。色々な理由を付けようとしたが、どれもうまくいかずに、さくらは瀬名の隣に座る。大人三人くらいなら悠々に座れるアンティーク調のソファは、庵野教授が譲ってくれたもので、元が良いのか今でも十分な座り心地を

2026年03月10日(火)



 君の話をしよう

「恭ちゃんって綺麗な顔してんなあ」

つい、とか、思わず、といった様相で高崎が言った。
当の瀬名恭二は、苦々しい、といった表情をしている。

二月になった。寒々しさはそのままだ。梅の花に霜が降りている景色は、風情はあるが、低気温を告げるエッセンスにしかならない。
「なんちゅう顔してんの、綺麗な顔が台無しだって」
「台無しで結構」
「おれ、すっごく好みの顔なんだけどなあ」
「おまえ、正気なのか」
瀬名は手元の単行本に視線を落としたまま、顔を上げない。
畳の上で高崎は寝そべり、瀬名は教授が譲ってくれたアンティークソファに緩く腰を掛けている。そのふたりのくだらないやり取りを無視して、さくらはお茶を点てている。
「あれ、いつからウチって茶道部になった? いや、既にあったよな?」
目ざとく高崎が起き上がる。彼は目が良い。否、あちこちが気になって仕方のない性分なのだ。
「だって先生が茶釜くれたんだもの」
「は」
「他も色々、茶筅とか、茶杓とか、茶巾とか」
「茶ばっかつく」
「お茶だからねえ」さくらは柄杓で茶碗にお湯を注ぎながら、けらけらと笑った。
いつもはゆる巻きにしている明るい色の髪を、今日は高い位置にまとめている。
「さくらお前クビほっそいねー」
日に焼けない細いうなじが、きれいだと高崎が騒ぐ。「高崎くん、きれいなもの好きだもんね」さくらは否定しない。自分の価値は自分がよく知っているからだ。
「そう、だから俺は瀬名もさくらも大好きよ」
「わたしも大好きー」
さくらが破顔する。高崎はそれは自分ではないだろうと、本音を胸に押し込んで、缶コーヒーをぐびりと飲んだ。瀬名は聞いてるのかいないのか、顔を上げもしない。
はあ、仕方ねえなあ。寝転んでいた体を起こして、高崎が「恭ちゃん」と呼び、少し遅れて瀬名が
「…んー?」と返した。
さくらは茶筅で丁寧に茶を点てている。唇の端は上がっている。さくらはいつも笑顔だ。
「恭ちゃんも、さくら可愛いと思うよな?」
ぴたり、と止まったのは、さくらだった。
「は?」瀬名が顔を上げた。さらりとした黒髪が、少し目元を隠す様も、絵になっている、と高崎は思った。
「さくらが?」「そう」瀬名がさくらを振り返る。さくらは振り返れない。
「うん、さくらは可愛いと思う」瀬名が何でもないことのように言った。
「すごく」


2026年03月09日(月)
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